09 やらかし賢者サマ
翌朝。
俺は家のテレビをつけて、湯呑みに注いだ温かい緑茶をのんびりとすすっていた。ロリババアが森で育てている茶葉だ。苦みの奥に、ほんのり甘さがある。
画面の中では、朝のニュースが流れていた。
『――先日、今世紀最大規模とも予測されていた北方第一前線のスタンピードが、頂天者の活躍により、ついに終息を迎えました。これに対し、最も大きな功績を上げたとされる賢者レイラ・イザベラ様は、「私たちは国民を守るためにやったことですし、実際にあの数を殲滅したのは、私ではありませんから」と、ご謙遜されておりました』
画面に映るレイラさんは、昨日の夜より幾分顔色がよかった。相変わらず表情は硬いけど。
「ふ〜ん。あのレイラさんは、嘘は吐かないんだな。てっきり、丸々自分の功績にするのかと思ったよ。どっかの剣聖みたいに」
誰もいない台所で、ひとりで呟く。
ニュースは次の話題に移った。
『また昨夜、王立学園の敷地内に、ランク20相当と見られる魔物が出現しました。偶然学園を訪れていた剣聖シュベルト・ロード様がこれを討伐。剣聖様の到着まで、一年生の学級委員の女子生徒が、ひとりで魔物の前に立ち、ほかの生徒の避難を助けたとのことです。剣聖様は「彼女がいなければ、被害が出ていた」とコメントしています』
名前は伏せられていた。でも、学園の連中が見れば、誰のことかはすぐにわかる。
俺は湯呑みを置いて、少しだけ画面を眺めた。
……さて。今日も今日とて、サンドイッチでも作ろうかな。
◇
学園に着くと、教室の空気がいつもと違った。
人だかりができていた。その真ん中にいるのは、フィアットだ。
「フィアットさん、ニュース見たよ! ひとりで魔物の前に立ったんだって!?」
「すごい! 怖くなかったの!?」
「剣聖様に褒められたんでしょ!?」
フィアットは困ったように笑いながら、ひとつひとつに丁寧に答えていた。その輪の端で、ラインハルトとレオンが、少し気まずそうに立っている。
「その……昨日は、ありがとな。フィアットさんがいなかったら、俺たち……」
「本当に、ありがとう。俺、足がすくんで動けなかった」
二人が頭を下げると、フィアットは慌てて手を振った。
「いえ、私は時間を稼いだだけで……倒してくださったのは、剣聖様ですから」
そう言いながら、フィアットの目が、一瞬だけ教室の隅に向いた。
俺のほうに。
目が合った。と思ったら、フィアットはぱっと顔を逸らした。耳の先が、ほんのり赤い。
……なんだ、今の。
俺は首を傾げながら、いつもの窓際の席に座った。鞄から本を取り出して、読み始める。周りの喧騒は、俺には関係ない。俺は基本、空気としか見られていないので、誰の気にも留まらない。うん、最高かよ。
だが、残念なことに、この最高の時間はすぐに終わりを迎えた。
教室の扉が、からりと開いた。
「あっ、あのぉ……ハスト君と、フィアット・セルジーネさんは、いますか?」
――何 で 今 こ こ に 来 る ん だ よ ?
俺は絶句した。
扉の前に立っていたのは、レイラさんだった。それも、魔術師協会の紋章入りのローブに、頂天者の証である金糸の飾り帯まで締めた、正装姿で。
一瞬の沈黙のあと、教室が爆発した。
「あぁっ!! 賢者様だぁ!! 頂天者のローブ羽織ってる!!」
「私、今朝テレビで見ました!!」
「賢者様、ぜひ握手を!!」
「あぁっ、抜け駆けなんてずりぃぞラインハルト!! お前、『覇王』にしか興味なかったんじゃねぇのかよ!!」
「あぁ、そうだとも!! だが今、俺たちの目の前には本物の賢者様がいるんだぜ!? そりゃ行くだろ!!」
フィアットの周りにいた人だかりが、そっくりそのまま扉のほうへ移動した。レイラさんは、押し寄せる生徒たちに囲まれて、目を白黒させている。
俺は、フィアットと目を合わせた。
フィアットの表情は、すでに死んでいた。
「あぁ、皆さん!! 私、今日用事があるのは、さっき言ったお二人だけなんです!!」
レイラさんがそう叫ぶと、生徒たちはぴたりと静まり返った。そして、クラス中の視線が、ゆっくりと、教室の中の二人に向いた。
昨日の英雄である、学級委員の才女。
そして、学年最下位の、窓際の陰キャ。
「……ハスト?」
「なんで賢者様が、ハストを……?」
ひそひそ声が、さざ波のように広がっていく。
俺とフィアットは、一瞬だけ視線を交わした。言葉はいらなかった。
二人同時に立ち上がり、無言のまま扉へ向かう。生徒たちが、なぜか自然と道を空けた。俺たちはレイラさんの両腕をそれぞれ掴み、そのまま廊下へと引きずり出した。
角を曲がって、人目がなくなった瞬間。俺はフィアットとレイラさんの肩に手を置いて、屋上へ転移した。
◇
屋上の風は、今日も気持ちよかった。
俺の心は、ちっとも穏やかじゃなかったけど。
「おい、賢者様(笑)」
俺は指をバキバキと鳴らしながら、レイラさんに一歩近づいた。
「何か、この世に言い残すことはあるか? ……あ?」
「え……? いや、あの……その……」
「あ?」
「……私、何か、間違ってました……?」
本気で首を傾げている。この人、たぶん本当にわかっていない。
昨日の夜、俺は頼んだのだ。フィアットに隠蔽の魔術を教えてやってくれ、と。それでこの人は、張り切って朝一番に、頂天者の正装で、一年生の教室に乗り込んできた。生徒たちの前で、俺とフィアットの名前を、はっきりと呼んで。
隠蔽の魔術を教えに来た人が、一番隠さなきゃいけないものを、全校生徒の前で晒してどうする。
「よし、いい度胸だ。杖を出しな。今からコテンパンにしてやるから」
俺は、黒い眼差しを向けたまま、ゆっくりと右手を掲げた。
「『覇権ソルバート』……フォルムロッド……!!」
碧い炎が渦を巻き、俺の手の中で、実体のない一本の杖を形作った。賢者に、杖で挑む。我ながら、性格が悪いと思う。
隣で、フィアットも静かに剣の柄に手をかけていた。目が、まったく笑っていない。昨日、あれだけ苦労して守った「普通の学級委員」の立場を、朝の数分で吹き飛ばされたのだ。気持ちはわかる。
レイラさんの顔から、さあっと血の気が引いた。
そこへ、一人の邪魔者が入ってきた。
「はいはいはい!! ストーップ!!」
屋上の扉を蹴り開けて現れたのは、例のシュベルトだった。
「はっす〜、権しまって〜!! フィアットちゃんも、その殺気どうにかして!! レイラちゃん、崩れ落ちちゃってるから!!」
言われて見ると、レイラさんは杖を出すどころか、膝から床にへたり込んでいた。
「あ、シュベルトじゃん。今忙しいから、また後でね」
「はい? ……なんだ、シュベルトさんですか」
フィアットが、氷のような声で振り返った。
「今、私たちに、何の躊躇もなく、公衆の面前で話しかけてきた賢者様(笑)がいらっしゃったので、ハスト様にシバいていただいていたところなのですが」
真顔だった。
シュベルトは、若干引いているように見えた。
「えぇ……。何この切羽詰まった状況……。まぁ、フィアットちゃんの言うことが本当だったら、それはかなりまずいけどね」
シュベルトは、レイラさんのほうをちらりと見た。
それから、ぱん、と手を打った。
「よし、一発やろうか!!」
あっさり、こっち側についた。
その様子を見て、レイラさんの顔が絶望に染まった。シュベルトにだけは味方してほしかった、という顔だった。……なんでシュベルトにだけ、そんな顔をするんだろう。
「ひぇぇ……」
レイラさんは、ついに耐えきれなくなったらしい。床に額をこすりつけ、全力で叫んだ。
「ごめんなさいごめんなさい!! あんな公共の場で名前を呼んでしまってごめんなさい、お願いですから許してくださいぃぃ!!」
賢者が、してはいけない土下座だった。
しかも、かなりの大声だった。
屋上へ続く階段のほうから、足音が聞こえてきた。誰かが、今の叫び声を聞きつけて、上がってくる。
「うおっ、マジかよ、人来んの!? あぁ、もぉ!!」
俺はとっさに、片手でフィアットの背中に触れた。無詠唱で転移の式を流し込み、保健室の奥のベッドへ飛ばす。同時に、もう片方の手でアイテムボックスからローブを引っ張り出し、羽織ってフードを深くかぶった。覇権の杖は、一瞬で消した。
扉が開いた。
「誰だ!! ……って、あぁ、これはこれは、剣聖様と、賢者様と……?」
現れたのは、学園長のエトワールではなかった。眼鏡をかけた、几帳面そうな中年の男性。この学園の教頭先生だ。
俺は、とっさにシュベルトの背中に隠れるように立った。ローブの認識阻害のおかげで、教頭先生の目には、俺の顔はぼんやりとしか映っていないはずだ。
シュベルトが、にこやかに一歩前に出た。
「あぁ、これは僕の弟子です。まだ表には出せない、秘蔵っ子でして。この子、かなり強いですよ?」
おい。
「これはこれは、お弟子様でしたか」
教頭先生は、ずれた眼鏡を押し上げて、俺のほうをしげしげと眺めた。
「先ほどから屋上で物凄い魔力の気配がしておりましたが、なるほど、剣聖様のお弟子様でしたら納得です。……こう申しては何ですが、お弟子様もお強いと今伺いました。ぜひ、本校で特別講師をお願いしても?」
やめろ。やめろやめろやめろ。
俺はフードの奥から、全力でシュベルトに視線を送った。
それは虚しく空を切り、シュベルトは、満面の笑みで言い放った。
「ぜひとも。……ほら、お前もご挨拶しなさい。……ぷくっ」
笑いを堪えきれていなかった。
シュベルトォォォォ!! あいつ、後で絶対ぶちのめしてやらぁ!!
床では、レイラさんがまだ額をこすりつけたまま、ぷるぷると震えていた。
俺は仕方なく、フードの奥で小さく頷いた。そして、上機嫌の教頭先生に腕を引かれて、屋上から連れ出されていったのだった。
◇
気がつくと、私は保健室の一番奥のベッドの上に座っていました。
カーテンに囲まれた、白い小さな空間。消毒液の匂い。窓の外から、遠く運動場の掛け声が聞こえてきます。
「……また、置いていかれました」
ひとりごとが、ぽつりとこぼれました。
ハスト様は、人が来ると気づいた瞬間に、迷わず私をここへ飛ばしました。私の背中に、片手で触れて。たぶん、私の立場を守るために。賢者様と剣聖様と一緒に屋上にいるところを見られたら、昨日の英雄の学級委員は、また別の噂の的になってしまうから。
わかっています。正しい判断です。
でも、背中に触れた手の感触が、まだ残っていました。
昨日の夜、噴水の前で、私の肩に触れた手と同じ。少しだけ震えていた、温かい手。
私は、自分の背中に、そっと手を回してみました。そこにはもう、何もありません。
「……どうしてでしょう」
朝、教室で目が合ったときもそうでした。昨日の夜のことを思い出した途端に、顔が熱くなって、まともに見ていられなくなった。今までは、サボり魔の陰キャを追いかけ回す学級委員でしかなかったのに。
胸の奥が、またとくん、と小さく鳴りました。
私は、それが何なのかわからないまま、膝を抱えて、カーテンの向こうの遠い掛け声に耳を澄ませていました。




