08 先生(賢者)にお願いをする
時間は、少しだけ巻き戻る。
王都の北、第一前線。
転移で降り立った平原は、見渡す限り魔物で埋め尽くされていた。地を這う獣型、空を舞う飛竜型、ぬめぬめと蠢く不定形の何か。地平線のあたりまで、黒い波が押し寄せては、見えない壁にぶつかって弾き返されている。
その壁の内側、小高い丘の上で、ひとりの女性が杖を掲げていた。
「よっ、レイラちゃん、元気〜?」
シュベルトの第一声は、目の前で必死に魔術を行使している相手を完全に無視した、気軽な挨拶だった。本当に「お〜っす」くらいのテンションだ。
振り返ったその人は、顔を引きつらせていた。長い髪をひとつに束ね、魔術師協会の紋章が入ったローブを羽織っている。今代の賢者、レイラ・イザベラ。入学順位戦のとき、治癒師に化けて一度だけ俺を運んでくれた人だ。エトワールからは、俺のことを「ちょっと変わった生徒」としか聞かされていないはずだった。表情の変化に乏しい人だけど、今は眉間の皺だけで十分に感情が読めた。
「はい〜……元気ですけど。そろそろ、仕事をしてもらえませんか? 剣聖様?」
声が、地を這っていた。
俺はそのやり取りを尻目に、丘のふもとの野営地で、近くの適当な木箱に腰かけた。見張りの憲兵さんが「お疲れ様です」と差し出してくれた、湯気の立つミルクティーをすする。甘い。うまい。
ははっ。シュベルト、ざまぁ。
俺がニヤニヤしながら二人を眺めていると、シュベルトがこちらを振り返って、にやりと笑った。
「あ〜、その仕事をやるの、そこにいるはっす〜だから。僕は今日、はっす〜が暴れ回るところを見守るくらいかな〜」
うぜぇ。
レイラさんは、俺のほうをちらりと見て、困ったように首を傾げた。
「いや、さすがに、まだただの十七歳の少年にやらせるのはよくないですよ〜……。もぅ……」
あ?
今、このアマ、なんつった? 何が「ただの」だ? お? やんのか。おうよ、やってやろうじゃねぇかよ。
そう心の中で即決して、俺はミルクティーのマグカップを、木箱の上にがしゃんと音を立てて置いた。
――その瞬間だった。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
刃物で刺されたような痛みじゃない。心臓のすぐ裏側に結ばれた細い糸を、誰かが向こう側から、思いきり引っ張ったような感覚。
俺は胸元を押さえた。
知っている。この感覚は、知識としてだけ知っている。パートナー契約の書類に、国王の印章と一緒に刻まれていた術式。契約を結んだ二人のあいだに、目に見えない糸を一本だけ通しておく。普段は何も感じない。ただ、片方の命が本当に危うくなったときにだけ、その糸が鳴る。
契約書の文面くらい、ちゃんと読んでおけばよかった。昨日そう思ったばかりだった。
糸が、もう一度、強く引かれた。
「……フィアット」
「はっす〜?」
シュベルトの声が、遠くに聞こえた。
留守番。学園の守護。どうせ何も起きない、と思って渡した任務。花が咲くような笑顔で「必ず果たします」と言った、あいつの顔。
ここ一か月の、王都近郊の異常発生。あれが、学園で起きない保証なんて、どこにもなかった。
「シュベルト」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「三十秒、離れてろ。賢者さんも、全力で結界張っといて」
シュベルトの顔から、笑みが消えた。こいつは、俺のこの声を知っている。
「……了解。レイラちゃん、本気で張って。冗談じゃなくて」
「え? え? どういうこと? 『覇王』様って、アーネットさんだけじゃないの?」
「アーネットはもう、とっくに継承してるんだよね〜。そこの彼に。……じゃ、三十秒後にまた戻ってくるよ」
シュベルトの姿が、転移の光の中に消えた。
俺は木箱から立ち上がった。丘の上に、ゆっくりと歩いていく。見えない壁の向こうで、黒い波がうねっている。
「賢者さん、逃げなくていいの? まぁ、逃げないならいいや」
右手を、前に突き出す。
「『覇権ソルバート』……!! フォルムフレア!!」
碧い炎が、俺の足元から、扇状に爆ぜた。
平原を埋め尽くしていた魔物の波を、消し去るように、碧い炎が一瞬で燃え広がっていく。地を這う獣も、蠢く不定形も、悲鳴を上げる暇すらなく灰になる。空を舞っていた飛竜たちも、炎が駆け上がった次の瞬間には、黒い塵となって風に散った。
背後で、レイラさんが必死に結界を張り直していた。張っては碧い炎に呑まれ、また張っては燃やされる。その繰り返しだ。
十秒。
俺は覇権を引っ込めた。
ついさっきまで緑の草原だった平原は、見渡す限り、白い砂に覆われた空っぽの大地に変わっていた。
「終わったぞ」
振り返ってそう告げると、レイラさんはその場にへたり込んだ。……怖がらせすぎたかもしれない。後で謝ろう。今は、それどころじゃない。
糸は、まだ鳴り続けている。さっきより、弱く。
俺は、学園の座標に向けて、転移の式を叩きつけた。
◇
獣の吐く息が、顔にかかりました。
焦げたような、生臭い匂い。三本の尻尾の先で、青白い炎が揺れています。私は噴水の縁に背中を預けたまま、剣を杖にして、どうにか片膝を立てていました。それが、精一杯でした。
獣が、大きく口を開けました。
裂けた口の奥に、青白い光が溜まっていきます。あれを撃たれたら、私の後ろの校舎ごと――
私は、目を閉じました。
怖かった。とても。でも、不思議と後悔はありませんでした。ラインハルト君たちは逃げられた。私は、任された場所に、ちゃんと立っていた。
ごめんなさい、ハスト様。お留守番、最後まではできなかったみたいです。
――音が、しませんでした。
来るはずの熱も、衝撃も、何も来ませんでした。
恐る恐る、目を開けました。
私と獣のあいだに、誰かの背中がありました。
見覚えのある、少しくたびれた制服の背中。その右手に、碧く燃え盛る剣。いいえ、剣の形をした、碧い炎。
獣の巨体が、私の目の前で、音もなく、縦にふたつに分かれていきました。開いた口の中の青白い光ごと。切り口が碧く輝いて、巨体は地面に倒れる前に、黒い霧になってほどけていきました。
夜の中庭に、静けさが戻りました。
「……ハスト、様……?」
掠れた声で呼ぶと、その背中が、ゆっくりと振り返りました。
ハスト様の顔は、見たことのない顔をしていました。いつもの眠たげな目でも、私から逃げ回るときの情けない顔でもない。唇を固く結んで、眉間に深い皺を寄せていました。
それに、手にした碧い炎の色が、いつもと少し違って見えました。碧の縁が、じわりと、何か別の色に滲みかけているような。
ハスト様は、碧い剣を消しました。それから、私の前にしゃがみこみました。
「……悪い。遅くなった」
「いえ……いえ、そんな……」
言葉が、うまく出てきませんでした。
ハスト様の手が、私の肩に触れました。打ちつけた背中、痺れた腕、擦りむいた膝。その手のひらが触れたところから、じんわりと温かいものが流れ込んできて、痛みが溶けるように引いていきます。治癒の魔術。それも、詠唱も何もなしで。
その手が、ほんの少しだけ、震えていました。
「……校舎の中に、まだ人が残ってるな。図書館にも、職員室にも」
ハスト様は、私の後ろの校舎を見上げました。
「お前が、ここに立ってたからだ。お前がここで止めてなかったら、今ごろ、あいつは校舎の中にいた」
「でも、私……全然、歯が立たなくて……」
「歯が立たなくても、立ってた」
ハスト様は、私の目をまっすぐに見ました。いつもは、すぐに逸らしてしまう目で。
「よく守ったな、フィアット」
――フィアット、さん、ではなく。
胸の奥が、どくん、と大きく鳴りました。
理由は、わかりませんでした。助かったことに安心したからなのか。治癒の魔術の温かさのせいなのか。それとも、初めて「さん」を付けずに名前を呼ばれたからなのか。
わからないまま、私はただ、目の前の人の顔を見つめていました。
◇
「はっす〜!!」
転移の光とともに、シュベルトが中庭に飛び込んできた。その腕に、真っ青な顔のレイラさんを抱えている。
「何があったのさ、急に飛んでっちゃうから――って、うわ、ランク20クラスの残骸じゃん。学園に出たの?」
「ああ。もう終わった」
「……フィアットちゃんは?」
「無事だ」
シュベルトは、俺の後ろで噴水の縁に座り込んでいるフィアットを見て、それから俺の顔を見て、何も言わずに小さく息を吐いた。
校舎のほうから、ばたばたと足音が近づいてくる。レオンとラインハルトが、教師たちを呼んできたのだろう。
「シュベルト。いつものやつ、頼む」
「……はいはい。剣聖様が、たまたま学園に寄ったところ、魔物に遭遇し、これを一刀のもとに斬り伏せた。勇敢な学級委員の生徒が、到着まで時間を稼いでいた。……こんなところかな?」
「上出来だ」
俺はローブを羽織って、フードを深くかぶった。認識阻害が、俺の姿を夜の闇に溶かしていく。
レイラさんが、シュベルトの腕から下りて、ふらふらと俺の前に立った。さっきまで青ざめていた顔に、少しだけ色が戻っている。
「あの……あなたが、二代目の……」
「さっきは、すいませんでした。怖がらせるつもりはなかったんです」
俺は、頭を下げた。
「それで、レイラさん。今日は本当は、シンプルにお願いがあって前線まで行ったんです」
「お、お願い……? あの、もしかして私、サンドバッグの対象に……?」
「は? 何言ってるんですか」
俺は、噴水の縁に座ったままのフィアットを振り返った。まだ剣を握りしめたままの手。傷は治したけど、制服のあちこちが破れて、土で汚れている。それでもあいつは、最後まで、校舎の前から動かなかった。
「単刀直入に言います。俺のパートナーに、隠蔽の魔術と、幻術を教えてやってはくれませんか」
「え?」
レイラさんが、目を丸くした。
もう一度、言ったほうがよさそうだ。
俺は、今度は深く頭を下げた。
「あいつ、旧幻術帝の幻術を、自力で見破ったんです。たぶん、才能があります。それに、今日、ひとりでこの学園を守り抜きました。……俺のパートナーに、教えてやってください!!」
レイラさんは、しばらく黙っていた。
それから、フィアットのほうを見た。土で汚れた顔。破れた制服。それでも離さない剣。
「……もちろんだとも」
レイラさんは、あまり表情の変わらない顔で、ぎこちなく微笑んだ。
「二代目『覇王』様が選んだパートナーが、どんな子なのか。私も、見てみたいからね」
「……ありがとうございます」
「ほんと、はっす〜ってば、こういうときだけ素直なんだから〜。どうして普段はあんなにアーネットに似ちゃったんだろうね〜」
「あのロリババアと一緒にすんなや!! んなこと言うお前は、どっかの無能弓姫と一緒だな!!」
「おいこら! 誰が命中率三パーセント未満だって!?」
「あ、あのぉ……二人とも、ケンカしないで……!!」
「「あ゛ぁ!?」」
「ひぃっ!!」
教師たちの足音が、すぐそこまで迫っていた。
俺は、フードの奥からもう一度だけ、フィアットのほうを見た。
あいつは、ぽかんとした顔で、こっちを見ていた。それから、俺と目が合うと、なぜか慌てたように顔を伏せた。
夜の暗さで、その頬の色までは、わからなかった。




