78 幻術帝の、二十二年
「――俺には、弟が二人いた」
陛下は、砂糖を四つ放り込んだ紅茶を、ひと口すすって、言った。
「いや、正確には、兄が一人と、弟が一人だな。上が、第一皇子のルドルフ。正妃の子で、生まれたときから、次の王になるって決まってるような男だった。真ん中が、俺。側室の子で、勉強も剣も嫌いな、出来損ないの第二皇子。……で、一番下が」
陛下の目が、壁の小さな額に、また、向いた。
「ゼノン。俺より、九つ下。北の離宮で暮らしてた、身分の低い側室の子だ」
◇
二十二年前のことだと、陛下は言った。
先代の王が、病に倒れた。誰が次の王になるのか、王城じゅうが、ひそひそと囁き合っていた。
本来なら、決まっていたはずだった。正妃の子のルドルフ。誰もが、そう思っていた。
ただ、ひとつだけ、問題があった。
ルドルフは、残酷な男だった。気に入らない侍従を、些細なことで鞭打たせた。逆らった貴族の領地を、言いがかりをつけて取り上げた。先代の王は、病床で、それを知っていた。知っていて、ルドルフを次の王に指名することを、ためらっていた。
そのためらいが、王城に、争いを生んだ。
「――俺は、そんなもん、どうでもよかったんだ」
陛下は、ジャージの袖をいじりながら、言った。
「王なんて面倒くさいもん、ルドルフにくれてやりゃいい。俺は、適当に暮らせりゃそれでよかった。……ただ、ひとつだけ、気がかりがあった」
「ゼノンか」
俺が言うと、陛下は、小さく頷いた。
「あいつは、北の離宮で、母親と、乳姉妹のルチアって子と、三人だけで暮らしてた。王城の連中は、誰も、あいつのことなんか気にかけちゃいなかった。……俺だけが、ときどき、こっそり会いに行ってた」
「こっそり?」
「王城の門番の目を盗んでな」
陛下は、少しだけ、口の端を上げた。
それから、ほんの一瞬だけ、陛下の輪郭が、揺らいだ。
ジャージ姿の男が、そこにいたはずだった。それが、瞬きひとつの間に、黒い、小さな猫になっていた。執務机の上に、ちょこんと座って、金色の目で、俺を見上げていた。
エトワールが、眼鏡を押し上げた。ロリババアは、窓辺の椅子で、身じろぎもしなかった。
次の瞬きで、猫は、また、ジャージ姿の陛下に戻っていた。
身体変化の術。
陛下が、俺とロリババアにしか見せたことのない術だった。幻術ではない。本当に、身体そのものの形を変える術。
「猫になって、塀を越えて、北の離宮まで、走っていった。ゼノンは、それが俺だって、知ってた。猫の俺が窓から入ってくると、あいつは、ルチアと一緒に、手を叩いて喜んだ。……俺は、あいつらに、幻術で光の蝶を飛ばしてやったり、離宮の庭に、雪を降らせてやったりした」
陛下の声が、少しだけ、柔らかくなった。
陛下は、紅茶のカップの縁を、指でなぞった。
「一度、ゼノンに、訊かれたことがある。……兄上は、王様になるの、って」
「なんて答えたんだ」
「なるか、そんな面倒くせぇもん、って」
陛下は、小さく笑った。
「そしたら、あいつ、真面目な顔して言いやがった。じゃあ、ルドルフ兄上が王様になったら、僕が、アーク兄上を守る騎士になる。兄上は、面倒くさがりで、すぐ怒られるから、って。……ルチアが、横で、腹抱えて笑ってたよ。ゼノンさまは、剣を持つと、すぐ転ぶくせに、って」
陛下の声が、そこで、少しだけ途切れた。
窓辺の椅子で、ロリババアが、目を伏せた。
「――あの日、大広間で叫んでおった少年が」
ロリババアは、小さく呟いた。
「そんな顔で笑う子じゃったとは、知らなんだ」
「ゼノンはな、俺のこと、兄上、兄上って、どこに行くにも、後ろをついてきた。……あの絵の、袖を握ってるほうがあいつだ。宮廷画家に描かせたとき、俺が逃げようとしたら、あいつが袖を離さなかったんだ」
◇
争いは、日に日に、ひどくなっていった。
ルドルフの派閥と、ルドルフを王にしたくない貴族たちの派閥。その間で、毒が盛られ、刺客が送られ、何人もの貴族が、夜のうちに、消えた。
そして、ある夜。
王城に、噂が届いた。
――北の離宮に、刺客が向かった。
「ルドルフが、雇ったんだ」
陛下の声が、低くなった。
「貌盗み、と呼ばれる連中だった。他人の姿を、声を、癖まで、丸ごと写し取る。写し身っていう、禁じられた術を使う、暗殺者の一族。……ルドルフは、後になって王位を争うかもしれない芽を、全部、先に摘んでおきたかったんだろう。北の離宮の、母親ごと、ゼノンを」
俺は、黙って、聞いていた。
「俺は、猫になって、走った。王城から、北の離宮まで。一晩中。……間に合わなかった」
陛下は、紅茶のカップを、両手で包んだ。
「離宮に着いたとき、ゼノンの母親は、もう、寝室で死んでた。ゼノンは、背中を刺されて、血まみれで、階段の上に立ってた。……階段の下に、ルチアが、倒れてた」
陛下は、しばらく、黙った。
「あとで、ゼノンの口から、少しだけ聞いた。……母親の姿をした貌盗みに、抱きしめられて、背中を刺された。そのあと、ルチアが駆け込んできた。でも、ゼノンには、それが本物のルチアなのか、また別の偽物なのか、わからなかった。差し伸べられた手を、払いのけて、来るな、偽物、って、突き飛ばした」
カップの中の紅茶が、かすかに、揺れていた。
「ルチアは、本物だった」
◇
「俺は、離宮の窓から、猫のまま、飛び込んだ」
陛下は、言った。
「ゼノンの目の前で、猫から、人の姿に戻った。……兄貴が来たぞ、もう大丈夫だって、言うつもりだった」
陛下の手の中で、カップが、ぴしりと、小さな音を立てた。
「ゼノンの目には、そうは見えなかった」
俺は、息を止めた。
「母親に化けた何かに刺されて。ルチアを、偽物だと思って死なせて。……その直後に、目の前で、猫が、兄の姿に化けたんだ」
陛下は、目を閉じた。
「――お前が、化けさせたんだろう、兄上」
陛下の声が、震えていた。
「あいつは、そう叫んだ。血まみれで、ルチアの亡骸の前で。……その目が、色を変えていった。淡い、銀色に。あいつの銀色の目が、俺を見た。俺の中の、身体変化の術を、見た。誰にも見せたことのなかった術を、あいつの目は、全部、見透かした」
真眼。
あらゆる偽りを見破り、人の隠すものの、底の底まで見通す眼。
「あいつにとっては、それが、答えだった。化ける術を持つ兄が、化ける暗殺者を差し向けて、母とルチアを殺した。……俺が何を言っても、あいつの耳には、届かなかった。化けられる奴が『俺じゃない』って言ったところで、何の証明にもならないからな」
◇
そのあとのことは、陛下は、短く話した。
ルドルフは、王位争いの最後の夜に、死んだ。自分が雇った貌盗みに、近衛騎士の顔で近づかれて、喉を裂かれた。貌盗みは、雇い主ですら、信じていなかったのだ。
陛下は、幻術で、ルドルフの悪事の証拠を、王城の大広間に映し出した。貴族たちは、陛下を、次の王に推した。
「旧幻術帝、って呼ばれ始めたのは、そのあとだ」
陛下は、皮肉っぽく笑った。
「ゼノンは、北の貴族たちを集めて、兵を挙げた。偽りの王を討つ、ってな。……俺は、幻術で、その軍を、ばらばらにした。一滴の血も流さずに。あいつの軍は、存在しない敵と戦って、存在しない崖から落ちて、気がついたら、全員、自分の城に帰ってた」
陛下は、窓の外を見た。
「ゼノンだけが、帰らなかった。北の山脈に逃げ込んで、雪崩に呑まれたって、報せが来た。……死体は、見つからなかった」
執務室が、しんと静まり返った。
「――あいつの目には」
陛下は、窓の外を見たまま、言った。
「今でも、俺が、母親とルチアを殺した化け物に見えてるんだろう。幻で、何もかもを奪った、偽りの王に。……身体変化の術を、それから誰にも見せなくなったのは、そのせいだ」
陛下は、俺のほうを振り返った。
赤くなった目で、それでも、まっすぐに。
「それでも、俺は、あいつの兄貴だ」
◇
「――陛下」
エトワールが、静かに口を開いた。
「ひとつ、お伺いしても」
「何だ」
「貌盗みは、その後、どうなったのですか」
陛下は、少しだけ、眉を寄せた。
「ルドルフが死んだ夜に、一族ごと、消えた。……そう、聞いた」
「消えた、ですか」
エトワールは、眼鏡の奥の目を、すっと細めた。
「滅んだ、ではなく」
陛下は、答えなかった。
答えられなかったのだろう。
エトワールは、それ以上、何も言わなかった。ただ、膝の上の毎日王都新聞の裏に、小さく、何かを書きつけた。
◇
俺は、ずっと、黙っていた。
膝の上で、拳を握っていた。
ゼノン。雪の夜に、俺の村を焼かせた男。第三皇子への忠誠を拒んだ村への、見せしめ。
その男の、過去。
母親の姿をした何かに刺されて、目の前で、大事な子を、自分の手で死なせた少年。
同情なんか、したくなかった。
あの夜、雪の上に倒れていた、あの子の手の冷たさを、俺は、覚えている。顔も、名前も、思い出せないのに。冷たさだけは。
それなのに。
――偽りに、最愛を奪われし者の怒りに、真眼。
書記の文字が、頭の中で、浮かんでは消えた。
あいつも、同じだったのか。
無力を知って、世界を憎んで。それで、あの人の『能力』のかけらを、宿した。
俺と、同じように。
「……はっす〜」
陛下が、言った。
「すまん」
俺は、顔を上げた。
「あいつが、お前の村を焼かせたなら。……俺の、弟が」
「あんたが謝ることじゃねぇ」
俺は、言った。思っていたよりも、ずっと、声が低くなった。
「謝るなら、本人に謝らせる。……あの夜のことを、全部、本人の口から、聞く」
窓辺の椅子から、ロリババアが、静かに俺を見ていた。
何も言わなかった。
ただ、その小さな手が、膝の上で、ゆっくりと、開かれていた。白い傷痕の走る手のひらを、上に向けて。
――怒りってのはね、誰かを守るためにあるんだ。誰かを焼くためじゃない。
わかってる。
わかってるよ、ロリババア。
俺は、膝の上の拳を、ゆっくりと、ほどいた。
◇
一週間後。
王立学園の講堂に、全学年の生徒が、集められていた。
壇上に立った学園長は、眼鏡を押し上げて、いつものように、穏やかに微笑んだ。
「――おはようございます、諸君。ジセリアの使節団の件では、色々と騒がせて、すまなかったね。……さて、今日は、明るい話をしよう」
エトワールは、手元の紙を、ひらりと掲げた。
「一か月後。王立学園祭を、開催する」
講堂が、割れんばかりの歓声に包まれた。
窓際の一番後ろで、ラインハルトが、椅子の上に立ち上がって、拳を突き上げていた。隣で、レオンが、その足を払おうとしていた。フィアットが、両手を胸の前で組んで、目をきらきらさせていた。
俺は、講堂の一番後ろの壁にもたれて、壇上のエトワールを見ていた。
エトワールの目は、穏やかに笑っていた。
でも、その眼鏡の奥で、ほんの一瞬だけ、博識王の目が、北のほうを見ていた気がした。
◇
昼休みの屋上は、学園祭の話で持ちきりだった。
「三年A組はね、劇をやるの」
レイアーヌが、パンをちぎりながら、言った。
「剣の物語。……主役は、私だって。クラスの子たちが、勝手に決めちゃった」
「レイアーヌさまなら、きっと、素敵です」
ミリエルが、両手を胸の前で組んで、目を輝かせた。
「ミリエルも出るのよ。治癒の聖女の役で」
「えっ」
「アイシャ会長も。……悪役で」
「えっ」
ミリエルが、目を白黒させた。
日向で剣の手入れをしていたフィアットが、顔を上げた。
「一年は、まだ決まってないんです。でも、ラインハルト君が、喫茶店がいいって、すごく張り切ってて」
「……喫茶店」
嫌な予感がした。
フィアットが、なぜか、俺のほうを、じっと見ていた。
「……ハスト様、お料理、お上手ですよね」
「…………」
「セルカさんから、聞きました。パンを、一晩で、三十二個焼いたって」
俺は、隣で膝を抱えているセルカを見た。
セルカは、氷の花を眺めたまま、目を合わせなかった。
「……セルカ」
「……ほんとのこと、言っただけ」
それから、セルカは、ほんの少しだけ、俺のほうに身体を寄せた。
冷たい指先が、俺の制服の袖を、ほんの少しだけ、つまんだ。
「……ハストさま」
小さな声だった。他の誰にも、聞こえないくらいの。
「……北の人のところへ、行くときは」
淡い水色の目が、俺を見上げた。
「……わたしも、行く。……今度は、わたしが、間に合うから」
俺は、セルカの頭に、手を乗せた。
ぽん、と、撫でた。
「……五十五」
春の風が、屋上を吹き抜けていった。
学園祭まで、あと、一か月。
北の空は、今日も、静かだった。
【学園祭編】
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第79話 出し物会議と、碧い小鬼亭
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「――というわけで! 一年は、喫茶店をやるべきだと思います!」
ラインハルトが、教壇の前で、拳を握りしめていた。
学園祭まで、あと、ひと月。その日の最後の授業は、まるまる、クラスの出し物を決めるための話し合いに充てられていた。教壇の横には、学級委員のフィアットが、白墨を持って立っている。黒板には、すでに、いくつかの案が並んでいた。
お化け屋敷。射的。魔術の演武。古本市。
そして、一番下に、ラインハルトの字で、でかでかと。
『喫茶 碧い小鬼亭』
「……なんだ、その名前」
レオンが、前の席から、呆れた声を上げた。
「よくぞ訊いてくれた、レオン!」
ラインハルトは、待ってましたとばかりに、黒板を、ばんと叩いた。
「今、王都で一番熱い噂を知ってるか? 四年前の聖火祭で、ジセリアの神様の心臓を叩き割った碧い小鬼! そして、こないだの聖火の夜にも、迷いの森の奥で、碧い光を見たって奴が何人もいるんだ! 王都新聞にも、ちらっと載ってた!」
「ちらっとって、隅っこの投書欄だろ」
「投書欄だろうと、載ったは載った! つまり! 今、碧い小鬼は、王都の子どもたちの憧れの的なんだよ! それにあやかった喫茶店なら、客がわんさか来るに決まってる!」
教室が、ざわついた。半分は笑い声で、半分は、「意外とありかも」という囁きだった。
俺は、窓際の一番後ろの席で、机に突っ伏していた。
突っ伏したまま、こめかみを、指で押さえた。
……なんで、よりにもよって、それなんだ。
「料理は、どうするんだよ」
レオンが、腕を組んだ。
「喫茶店ってことは、何か出すんだろ。茶と菓子くらいは。このクラスに、まともに料理できる奴、いるのか」
教室が、しんと静まった。
貴族の子弟が、半分以上を占めるクラスだ。家に帰れば、料理番がいる。茶ひとつ、自分で淹れたことのない奴も、珍しくない。
そのとき、教壇の横で、フィアットが、すっと手を挙げた。
「――あの。心当たりが、あります」
嫌な予感がした。
フィアットは、白墨を持ったまま、まっすぐに、教室の一番後ろを見ていた。
俺を、見ていた。
「ハスト君、お料理が、とても上手なんです」
教室中の視線が、一斉に、俺に集まった。
俺は、机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。俺は空気だ。俺は机の木目だ。
「……え、最下位が?」
「ハストが、料理?」
「寝てばっかりのくせに?」
囁き声が、教室じゅうに広がった。
フィアットは、少しもひるまなかった。
「パンを、一晩で、三十二個も焼いたそうです。丸いのも、細長いのも、編み込んだのも、胡桃入りのも、無花果入りのも。……セルカさんが、教えてくれました」
教室の真ん中の席で、セルカが、膝の上で両手を重ねて、ちょこんと座っていた。
教室中の視線が、今度は、セルカに移った。
セルカは、淡い水色の目で、ぼんやりと前を見たまま、こくりと、ひとつだけ、頷いた。
「……ほんと。……おいしかった」
教室が、どよめいた。
◇
「――待て」
俺は、ようやく、顔を上げた。
全力で、寝ぼけた顔を作った。
「誤解だ。あれは、たまたま、パン生地をこね始めたら止まらなくなっただけで。料理が得意とか、そういうんじゃ」
「三十二個、止まらなくなる人を、料理が得意じゃないとは言いません」
フィアットが、にこにこしながら、言い切った。
蒼い瞳が、ほんの少しだけ、悪戯っぽく光っていた。
……こいつ、わざとだ。
最近、フィアットは、こういうことをするようになった。俺が教室で目立たないようにしているのを知っていて、それでも、ほんの少しだけ、俺を、人の輪の中に引っ張り出そうとする。
「異議あり!」
ラインハルトが、手を挙げた。
「料理長は、ハストで決まりとして! 店名は、碧い小鬼亭で決まりってことでいいか!」
「なんでそっちが先に決まるんだよ」
「多数決だ、多数決!」
俺が止める間もなく、多数決が取られた。
碧い小鬼亭。賛成、二十八。反対、二。
反対したのは、俺と、レオンだけだった。セルカは、俺の顔をちらりと見てから、迷うことなく、賛成のほうに手を挙げていた。
「……レオン」
「なんだよ」
「お前だけが、味方だ」
「別に、お前の味方じゃねぇよ。ラインハルトの案に、乗りたくなかっただけだ」
レオンは、そっぽを向いた。
それから、ぼそりと、付け加えた。
「……まぁ、料理長、頑張れよ」
◇
話し合いは、そのあとも、とんとん拍子に進んだ。
店の内装は、窓際の席の女子たちが、張り切って引き受けた。給仕の衣装は、ラインハルトが「碧い外套に、角の飾り!」と言い出して、全員から却下された。
「――菓子は、どうしますか」
フィアットが、黒板に、白墨で『献立』と書きながら、言った。
「お茶だけだと、寂しいと思うんです」
「……冷たいの」
ぽつりと、声がした。
セルカだった。膝の上で両手を重ねたまま、淡い水色の目で、黒板を見ていた。
「……溶けない氷で、果物を、冷やす。……氷の、器に、盛る。……わたしが、やる」
教室が、一瞬、静まり返った。
それから、窓際の女子たちが、身を乗り出した。
「え、すごい!」「氷の器!?」「溶けないの!?」
セルカは、少しだけ、肩をすくめた。人に囲まれるのは、まだ、慣れていない。それでも、逃げ出さなかった。俺の席のほうを、ちらりと見て、それから、また、黒板に目を戻した。
「……ハストさまの、お茶と、パンと。……わたしの、氷」
それだけ言って、セルカは、口を閉じた。
耳の先が、ほんの少しだけ、赤かった。
教室の隅の席で、銀髪の男子生徒が、小さく、手を挙げた。
クルトだった。いつも無口で、クールな顔をしているくせに、実はただの人見知りだということを、俺は知っている。
「……俺、皿洗い、やる」
それだけ言って、クルトは、手を下ろした。
ラインハルトが、目を丸くした。
「クルト!? お前が自分から!?」
「……厨房なら、客と喋らなくていいから」
教室が、どっと笑った。
俺は、机に頬杖をついて、その様子を、ぼんやりと眺めていた。
ジセリアの使節団が来ていた頃、このクラスは、どこか、浮き足立っていた。聖騎士たちが校舎を練り歩いて、親善試合があって、そのあとに、あの騒ぎがあった。王都の東門と、学園と、分館が、同時に襲われた夜。学園の生徒たちは、陛下の夜市の手伝いに出されていて、何も知らなかったはずだ。それでも、翌朝の王都新聞を読んで、青い顔をしていた奴は、たくさんいた。
それが、今は、碧い小鬼亭で、笑っている。
……まぁ、いいか。
俺は、頬杖をついたまま、小さく、息をついた。
◇
授業が終わって、教室を出たところで、フィアットが、小走りに追いついてきた。
「――怒ってますか」
「怒ってる」
「ですよね」
フィアットは、少しも悪びれずに、俺の隣に並んで歩き始めた。
廊下の窓から、午後の日差しが、斜めに差し込んでいた。どこかの教室から、学園祭の出し物を決める、にぎやかな声が漏れてくる。
「……なんで、わざわざ」
俺が言うと、フィアットは、少しだけ、前を向いたまま、黙った。
それから、ぽつりと、言った。
「ハスト様が、みんなと笑ってるところ、見てみたかったんです」
「…………」
「教室では、いつも寝たふりで。屋上では、いつも空ばっかり見てて。……誰かを守るときには、すごく、すごく遠くまで行ってしまうのに。すぐ隣の、クラスの輪の中には、絶対に入ってこないじゃないですか」
フィアットは、俺のほうを向いた。
蒼い瞳が、まっすぐだった。
「ちょっとくらい、こっちにいてくれても、いいと思うんです。……碧い小鬼亭の、料理長として」
俺は、何も言い返せなかった。
廊下の角を曲がったところで、ラインハルトとレオンが、すでに献立の話で揉めていた。
「肉だ! 喫茶店でも肉を出せば客は来る!」
「喫茶店で肉を焼くな。煙で内装が台無しになる」
「じゃあ、碧い小鬼にちなんで、碧い色の何か!」
「碧い食いもんなんか、腹壊すだけだろ」
二人の声を聞きながら、俺は、頭の中で、勝手に献立を組み始めていた。
薄焼きの胡桃パンに、森の蜂蜜。干し無花果を練り込んだ焼き菓子。ロリババアの森で育てた茶葉の、冷たい茶。それに、セルカの溶けない氷の器に盛った、季節の果物。
……碧い色の食い物は、出さない。
「ハスト様」
「なんだ」
「今、献立、考えてましたよね」
「……考えてねぇよ」
フィアットは、くすくすと笑った。
◇
放課後。
学園長室に呼び出されて、扉を開けると、エトワールが、長椅子で、毎日王都新聞を広げていた。
「――料理長に、就任したそうだね」
「……なんで、もう知ってんだ」
「学級委員のセルジーネ嬢から、出し物の届け出が来た。店名、碧い小鬼亭。料理長、ハスト・アーネット」
エトワールは、新聞の陰で、くっくっと、喉を鳴らして笑った。
「名前を伏せる気が、まるでないね」
「伏せようとしたら、多数決で負けた」
「民主主義の勝利だ」
俺は、長椅子の向かいに、どかりと腰を下ろした。
「で。用は、それだけじゃねぇんだろ」
エトワールは、笑うのをやめた。
新聞を、くるりと裏返して、俺のほうへ、差し出した。
裏の白い面ではなかった。表の、紙面のほうだった。社会面の、隅のほう。小さな囲み記事。
『新連載 碧い小鬼を追え!――聖火の夜、王都を救ったのは誰か 文・ペトラ・リンクス』
「毎日王都新聞の、新人記者だ」
エトワールは、眼鏡を押し上げた。
「入社一年目。下町の、パン屋の娘。……鼻が利く。四年前の聖火祭と、こないだの聖火の夜を、碧い光という一点で、繋げてきた。今のところ、根拠は、ほとんど噂話だけだがね」
「……で」
エトワールは、新聞の束の中から、もう一部、古い号を抜き出して、俺の前に置いた。
三か月ほど前の日付だった。社会面の、やはり隅のほうに、小さな記事が載っていた。
『西区の商人組合長、孤児院への寄付金を横領か ――組合の帳簿、二重に 文・ペトラ・リンクス』
「入社して、半年目の記事だ」
エトワールは、言った。
「誰も相手にしなかった噂話を、ひとりで、三か月かけて追いかけた。組合の倉庫の裏口で、三晩、張り込んで、帳簿を運び出す荷車を見つけた。……組合長は、先月、王都警備隊に捕まったよ。新聞社の上の連中は、彼女の手柄を、ほとんど自分たちのものにしたがね」
俺は、その小さな記事を、しばらく、見ていた。
孤児院への寄付金。下町の、パン屋の娘。
「……真っ当な記者だな」
「真っ当すぎるくらいにね」
エトワールは、少しだけ、苦い顔をした。
「だから、困っている。……真っ当な人間ほど、闇に踏み込んだとき、引き返し方を知らない」
「彼女から、学園祭の取材の申し込みが来た」
エトワールは、にこりと笑った。
「許可した」
「……は?」
「学園祭の三日間、彼女は、この学園に、自由に出入りできる。各クラスの出し物も、生徒への聞き取りも、すべて、ご自由に、と」
俺は、エトワールの顔を、じっと見た。
眼鏡の奥の目は、穏やかに笑っていた。でも、その奥で、博識王の目が、すうっと冷えていた。
「……餌か」
「察しがいいね」
エトワールは、新聞を畳んだ。
「北に、真眼の持ち主がいる。その持ち主は、二十二年間、死んだふりをしながら、ずっと、この王都を見ていた。……ならば、今、この王都で一番、北の目が欲しがっている情報は、何だと思う」
「……碧い小鬼の、正体」
「そう」
エトワールは、窓の外を見た。
「ガブリエルを倒したのが、誰なのか。九人目の頂天者が、本当にいるのか。いるなら、それは、どこの誰なのか。……北の目は、必ず、それを確かめに来る。この学園に。学園祭の、人混みに紛れて」
エトワールは、俺に向き直った。
「新人記者が、碧い小鬼を追って、学園の中を嗅ぎ回る。北の目にとって、これほど、都合のいい隠れ蓑はない」
俺は、黙って、エトワールを見返した。
「……そのペトラって記者は、知ってんのか。自分が、餌にされてること」
「知らない」
エトワールは、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「だから、ハスト。君に、頼みたい」
エトワールは、眼鏡をかけ直した。
「料理長の仕事の合間に、彼女から、目を離さないでくれ。……彼女が、餌のまま、喰われてしまわないように」
窓の外で、夕暮れの鐘が、ひとつ、鳴った。
俺は、長椅子から立ち上がった。
「……わかった。ただし、料理長の仕事は、手を抜かねぇからな」
「頼もしいね」
エトワールは、また新聞を広げた。その陰で、小さく、ありがとう、と言ったのが、聞こえた気がした。




