77 ぬるくない茶と、北の眼
ロリババアが起きてきたのは、茶葉がちょうど開ききった頃だった。
いつもの、裾の長い黒の衣。寝起きのはずなのに、髪には寝癖ひとつない。食卓の椅子によじ登って、俺が差し出したカップを、両手で受け取った。
一口、すすった。
「……ほう」
ロリババアの眉が、ほんの少しだけ、上がった。
「ぬるくない」
「毎朝ぬるいって言われてりゃ、学習もする」
「ふん。ようやく、か」
ロリババアは、もう一口すすって、それから、カップの縁越しに、俺の顔を見た。
じっと、見た。
「……ハスト。お主、寝ておらんな」
「…………」
「目の下が、青い。……また、パンでも焼いておったか」
「焼いてねぇよ」
俺は、自分のカップを、食卓の上に置いた。
「書記が、来た」
ロリババアの手が、止まった。
カップを、口元に運びかけた、その途中で。
◇
階段が軋んで、セルカが降りてきた。寝間着の上にショールを羽織って、寝癖で髪を少しはねさせたまま、台所の入口で、足を止めた。
食卓の空気が、いつもと違うことに、すぐに気づいたらしい。何も言わずに、とことこと歩いてきて、俺の隣の椅子に、ちょこんと座った。
俺は、話した。言葉を選びながら、ひとつずつ。夜通し、頭の中で何度も並べ直した順番のとおりに。
昨夜、裏庭から戻ったら、机の上に書記があったこと。最初の頁の、アリアーヌの署名のこと。空き地の黒板のこと。断罪の日の頁のこと。
えくぼのことと、灰の中で握った小さな手のことは、話さなかった。
それから、白紙の頁に、インクがひとりでに滲み出してきたこと。
「――四つに、裂けた」
俺は、言った。
「あの人の『能力』は、断罪の夜に、四つに裂けて、四つの怒りに宿る。……そう書いてあった」
ロリババアは、黙って、カップを両手で包んでいた。
「ひとつ。最愛を、目の前で奪われた者の怒りに、紅」
ロリババアの指が、カップの縁を、そっとなぞった。
「ひとつ。理不尽に、親を奪われた子の怒りに、全知」
「……アルスの小僧じゃな」
「ひとつ。偽りに、最愛を奪われた者の怒りに、真眼」
ロリババアの指が、止まった。
「……真眼」
ロリババアが、小さく、繰り返した。
その声に、何かが、混じっていた。驚きではなかった。もっと古い、何かを思い出しかけているような声だった。
「それで、四つ目は」
「白かった」
俺は、自分の手のひらを、見下ろした。
「四行目の、最初の一文字目から先が、白く抜け落ちてた。インクが滲みかけて、滲みきらずに、霧みたいに消えてた。……それで、その下に、一行だけ」
俺は、顔を上げた。
「代償を払いし者の頁は、その者には、読めぬ」
台所が、しんと静まり返った。
かまどの中で、薪が、ひとつ、崩れた。茶葉の香りだけが、何事もなかったように、台所に漂っていた。
ロリババアは、俺を見ていなかった。
手の中のカップの、茶の水面を、じっと見下ろしていた。水面が、ほんのわずかに、揺れていた。
「……ロリババア」
「…………」
「あんた、知ってるのか」
俺は、言った。
「俺が、あの夜、何を払ったのか」
ロリババアは、しばらく、答えなかった。
長いあいだ、答えなかった。
それから、カップを、ゆっくりと、食卓の上に置いた。
「――知っておる」
小さな声だった。
俺の隣で、セルカが、息を止めたのがわかった。
「じゃが、儂の口からは、言えん」
ロリババアは、ようやく、顔を上げて、俺を見た。
古い目だった。森の焼け跡で、二百年前の話をしてくれたときと、同じ目。
「それは、お主が、お主自身の手で、取り戻さねばならんものじゃ。儂が口で教えたところで、お主の中の白い場所は、埋まらん。……むしろ、もっと深く、えぐれるだけじゃ」
「…………」
「書記は、他に、何か書いておったか」
「……されど、払われしものは、消えてはおらぬ、って」
ロリババアの目が、ほんの一瞬だけ、細くなった。
それから、ふっと、息をついた。
「……そうか。あの子は、そこまで書いたか」
あの子。
アリアーヌのことだと、わかった。
「アリアーヌの書記が、そう書いたのなら、そうなのじゃろう。……ハスト。それだけ、覚えておけ。お主が払ったものは、消えてはおらん。いつか、お主が、それを必要とするときが来たら」
ロリババアは、言葉を切った。
それから、カップを持ち上げて、もう一口、茶をすすった。
「……今は、それ以上は、言わん」
俺は、ロリババアの顔を、しばらく、見ていた。
いつもの、人を食ったような顔ではなかった。でも、何かを、ぎゅっと握りしめて、手放さないようにしている顔だった。
それ以上、訊けなかった。
◇
「――それと、もうひとつ」
俺は、言った。
「書記の、次の頁に。真眼の持ち主は、北にいる、って。偽りの王を討つために、眼を開いている、って」
ロリババアの手の中で、カップが、かすかに、鳴った。
陶器の縁と、小さな指の爪が、ぶつかった音だった。
「……北」
「ああ」
「偽りの、王」
ロリババアは、窓の外を見た。
森の木々の向こうの、ずっと北のほうを。
「……そうか」
ロリババアの声が、低くなった。
「生きておったか。……あの小僧」
「知ってるのか」
「知っておる。……顔を見たのは、二十年以上も前に、たった一度きりじゃがの」
ロリババアは、カップを、食卓に置いた。
「お主が生まれるよりも、前の話じゃ。この国で、王位を巡って、王子たちが争った。……アークの小僧は、その争いに勝って、王になった。幻術で、勝った。じゃから、今でも、古い連中は、あやつのことを、旧幻術帝と呼ぶ」
それは、知っていた。陛下の、昔の渾名。
「その争いの終わりに、儂は、一度だけ、王城へ呼ばれたことがある。……アークの小僧の父親、先代の王に、頼まれての。王子同士の争いが、手のつけられぬところまで来ておるから、見届けてくれと」
ロリババアは、目を伏せた。
「そこで、一人の少年を見た。十三か、十四くらいの。血まみれの寝間着のまま、大広間の真ん中に立って、兄に向かって、叫んでおった」
「……兄に」
「――お前が、化けさせたんだろう、と」
俺の背中を、冷たいものが、這い上がっていった。
「その少年の目が、色を変えておった。淡い、銀色に。……人の目では、ありえん色じゃった。儂は、あのとき、あの子の目の奥に、あの人の匂いを、ほんのかすかに、嗅いだ気がした。じゃが、確かめる前に、あの子は、王城から消えた」
ロリババアは、俺を見た。
「第三皇子。ゼノン・フォン・フラハイト。……アークの小僧の、腹違いの弟じゃ」
◇
第三皇子。
その言葉が、頭の中で、別の声と、重なった。
――第三皇子殿下に逆らう村の、末路だ。せいぜい、見せしめになれ。
雪の夜。馬の上から、笑っていた男の声。
――あの村か。第三皇子殿下への忠誠を拒んだ、愚かな村だ。
白い都の中庭で、黒い狼と三本の茨の男が、薄く笑った声。
俺の手のひらの上で、碧が、勝手に、灯っていた。
濁った碧だった。この四年で、少しずつ澄んできたはずの碧が、また、底のほうから、暗く、濁り始めていた。
「――ハストさま」
隣で、セルカが、小さな声で言った。
冷たい指先が、俺の手首に、そっと触れていた。
「……碧、こわい色、してる」
俺は、自分の手のひらを、見下ろした。
それから、ゆっくりと、拳を握った。碧が、指の隙間から、すうっと消えていった。
「……悪い」
「……ううん」
セルカは、俺の手首から、指を離さなかった。
淡い水色の目が、窓の外の、北のほうを、じっと見つめていた。
「……北の、人。……ハストさまの、雪の夜の、人?」
「……わからない。でも」
俺は、言った。
「たぶん、そうだ」
セルカは、何も言わなかった。
ただ、俺の手首に触れた指先が、ほんの少しだけ、冷たくなった。
湖の底から、水面を見上げるような目の、その底の、ずっと深いところで、何かが、冷たく、ゆっくりと、渦を巻き始めていた。
◇
ロリババアが、食卓の椅子から、ぴょんと飛び降りた。
「ハスト。支度をせい」
「……どこに」
「王城じゃ。アークの小僧のところへ行く」
ロリババアは、台所の入口で、振り返った。
「ゼノンのことは、儂の口から話すより、あやつの口から聞いたほうがいい。……あやつも、もう、二十年以上、ひとりで抱えてきたのじゃろうからの」
「……わたしも、行く」
セルカが、椅子から立ち上がった。
ロリババアは、首を横に振った。
「お主は、修行部屋じゃ。昨日の続きをせい」
「……でも」
「でも、ではない」
ロリババアは、セルカの前まで戻ってきて、その額を、指先で、ちょんとつついた。
「北の眼の話は、あとで、ハストから聞け。……今のお主は、底の見えん井戸の縁に立っておる。その井戸の深さを、まず、自分で測れるようになれ。そうでなければ、いざというとき、ハストのところへ、跳べぬぞ」
セルカは、つつかれた額を押さえて、しばらく、ロリババアを見上げていた。
それから、小さく、頷いた。
「……はい、サリナさま」
台所を出ていく前に、セルカは、一度だけ振り返った。淡い水色の目が、俺を見て、何か言いたげに揺れて、それから、何も言わずに、階段のほうへ消えていった。
◇
王城へは、ロリババアの転移で跳んだ。
転移の光が消える直前、ロリババアが、俺の袖を、指先で、ほんの少しだけ、つまんだ。
「……ハスト」
「なんだ」
「書記は」
ロリババアは、前を向いたまま、言った。
「お主に、優しかったか」
俺は、少しだけ、考えた。
空き地の黒板。インクで汚れた指。左の頬にだけできる、えくぼ。灰の中で握った、震える小さな手。
「……ああ」
俺は、言った。
「優しかった。……あんたのこと、大好きだったって、書いてあった」
ロリババアの指が、俺の袖を、きゅっと、握った。
転移の光が、消えた。
ロリババアは、何も言わなかった。
ただ、王城の廊下に降り立ってから、執務室の扉の前に着くまで、一度も、俺のほうを見なかった。
◇
王城の、国王の執務室。
陛下は、いつものジャージ姿で、書類の山の向こうに座っていた。夜市の請求書は、まだ、山の一番上に載っていた。長椅子では、エトワールが、毎日王都新聞を広げていた。
俺が、書記のこと。四つの怒りのこと。北の真眼のこと。全部を話し終えたとき、陛下は、羽根ペンを持ったまま、動かなかった。
いつもの、ふざけた顔は、どこにもなかった。
エトワールが、新聞を、静かに畳んだ。
「――繋がりましたね」
エトワールが、眼鏡を押し上げた。
「グラウ伯爵は、第三皇子派だった。四年前の雪の夜、ハストの村を焼いたのは、第三皇子への忠誠を拒んだ村への見せしめだった。そして、三日前、ケルナー伯爵の口から出てきた、第三皇子派の残党の名前。……私たちは、ずっと、それを、主のいない残党だと思っていた。旗頭を失って、それでも諦めきれずに燻っている、亡霊のような連中だと」
エトワールは、新聞の裏に、ペンで、一本の線を引いた。
「違ったんです。旗頭は、生きていた。北で。……残党が勝手に動いていたのではない。第三皇子本人が、ずっと、糸を引いていた」
「……ゼノンが」
陛下の唇が、かすかに、動いた。
「生きてる、のか」
羽根ペンが、陛下の指の間から、ぽとりと、机の上に落ちた。
陛下は、それを拾おうともしなかった。
ただ、窓の外の、北の空を、長いあいだ、見つめていた。
それから、その目が、ゆっくりと、執務室の壁の一点に、移った。
書棚と書棚の間の、狭い壁。そこに、小さな額が、ひとつだけ、掛かっていた。
古い、色の褪せた絵だった。何度も見ているはずなのに、俺は、今まで一度も、ちゃんと見たことがなかった。
二人の少年が、描かれていた。
背の高いほうの少年は、癖のある髪を、面倒くさそうに掻き上げて、退屈そうに、そっぽを向いていた。その隣で、背の低いほうの少年が、兄の袖の端を、そっと握って、こちらをまっすぐに見ていた。
まっすぐな目だった。まだ、銀色に変わる前の。
それから、ジャージの袖で、目元を、乱暴に、ぐいと拭った。
エトワールが、黙って立ち上がり、窓辺の茶器で、新しい紅茶を淹れ始めた。いつもなら、砂糖壺を陛下の手の届かないところに隠すくせに、今日は、何も言わずに、陛下のカップの横に、砂糖壺ごと置いた。
ロリババアは、窓辺の椅子に、ちょこんと腰掛けて、足をぶらぶらさせることもなく、ただ、陛下の横顔を見ていた。
「――長い話に、なる」
陛下は、俺のほうを向いた。
その目は、赤くなっていた。でも、まっすぐだった。
「座れ、はっす〜。……サリナも。エトワールも」




