76 インクの染みた、最初の頁
表紙をめくると、古い紙の匂いがした。
乾いた革と、褪せたインクと、ほんの少しの、埃の匂い。ロリババアの書斎の、一番奥の棚の匂いに、よく似ていた。
最初の頁には、一行だけ、文字が書かれていた。
古い言葉だった。二百年前の、旧サロバニア王国の宮廷で使われていた、崩した書き文字。今の学園で教わる言葉とは、綴りも、言い回しも、まるで違う。
それでも、俺には、読めた。
七つの頃、退屈しのぎに、ロリババアの書斎の本を片っ端から読んだ。古い言葉で書かれた本も、たくさんあった。辞書と首っ引きで、一冊ずつ。読んだものは、全部、覚えている。
『この書を、必要とする誰かへ』
その下に、小さく、署名があった。
『――アリアーヌ』
俺は、しばらく、その署名を見つめていた。細く、少し右上がりの、丁寧な字だった。最後の一画だけが、ほんの少し、震えていた。
二百年前、灰の降る広場で、煤だらけの顔のまま、焼け焦げた木切れを拾い上げた少女。二度と、誰にも焼かれない書にします、と言った少女。
その少女が、二十五年かけて書いたものが、今、俺の机の上にある。
頁を、めくった。
◇
書記は、思っていたよりも、ずっと静かな書だった。
声高に、誰かを糾弾してはいなかった。教会を呪う言葉も、父王を罵る言葉も、どこにもなかった。ただ、あったことを、あったとおりに、淡々と書き留めてあった。
平民街の、空き地の黒板。
『魔の法律は、己の隣に』
その黒板の前に座っていた、靴屋の徒弟や、洗濯女や、字の読めない農夫たちの名前が、一人一人、書き留められていた。何十人も。何百人も。
それから、あの人のこと。
『あの方は、いつも、少しだけ困ったように笑う人だった。私が術式を書き間違えると、怒るでもなく、褒めるでもなく、ただ、ここをこうすると、もう少し楽になるよ、と、インクで汚れた指で、石板の上をなぞってくださった』
あの人の名前は、どこにも書かれていなかった。
どの頁でも、あの方、とだけ。
二百年前、あの人の名前は、すべての本から削り取られたと、ロリババアは言っていた。アリアーヌは、それでも、名前を書かなかった。書けなかったのか、書かなかったのか。俺には、わからなかった。
頁を、めくった。
『姫君――私の先生は、笑うと、左の頬にだけ、えくぼのできる人だった』
指が、止まった。
『私が門限ぎりぎりまで粘っていると、先生は、いつも、知らないふりをして、もう一問だけ、と言ってくださった。王女だと、知っていらしたのだと思う。知っていて、何も言わずに、字の崩し方を教えてくださった。……私は、先生が、大好きだった』
左の頬にだけ、えくぼ。
俺は、ロリババアが笑うところを、何千回と見てきた。人を食ったような笑み。意地の悪い笑み。呆れたような笑み。
えくぼなんて、見たことがなかった。
二百年前の、十九の娘の笑顔は、あの灰の降る広場に、置いてきてしまったのかもしれない。
頁を、めくった。
『あの方は、ある日、私にだけ、こう仰った』
アリアーヌの字が、そこだけ、少しだけ丁寧になっていた。一画一画を、確かめるように。
『――アリアーヌ。君はね、いつか、たくさんの人の上に立つ人だ。だから、ひとつだけ、覚えておいてほしい。力を持つ者ほど、それを手放す練習をしなさい。握りしめた力は、いつか、握りしめた手のほうを、壊してしまうから』
その下に、アリアーヌ自身の言葉が、続いていた。
『私は、王女として、何ひとつ、手放せなかった。父の手を振りほどくことも。王女の名を捨てることも。……だから、せめて、この筆だけは、最後まで、握り続けようと思う。手放さずに、全部、書き残そうと思う。それが、あの方の教えに背くことになるとしても』
俺は、自分の右手を、見下ろした。
あの雪の夜に生まれた、碧。四年間、手放さずに、ここまで持ってきた力。刑場の跡で、ガブリエルに「これは、俺のだ」と言い切った力。
手放す練習。
ロリババアの、茶の修行を、思い出した。一滴もこぼさずに、注ぎたいところにだけ、注ぐ。あれは、力を出す練習じゃなかった。出した力を、手放す練習だったのかもしれない。
◇
断罪の日の頁は、長かった。
アリアーヌは、バルコニーの上から見たものを、すべて書いていた。白い石の柱。銀の鎖。浄めの火。大司教の、銀の短剣。
そして、柵の前で、ひとりの娘が叫び続けていたこと。
『断罪の日、ただひとり、最後まで叫び続けた者がいた。創成神の姫君と呼ばれし、その人は、刑場の柵を素手で握り、その手が血に染まるまで、神の無実を叫び続けた』
四年前、地下の牢で、十三歳のレイアーヌが暗唱した一節だった。
その次の行に、俺の知らない一節が、続いていた。
『私は、それを、バルコニーの上から、見ていた。父に手首を掴まれて。俯いて。叫ぶことすら、しなかった。……私は、生涯、そのことを、自分に許さない』
インクが、そこだけ、少しにじんでいた。
紙の上に、何か、水のようなものが落ちて、乾いた跡だった。
二百年前の、涙の跡だった。
俺は、その染みに、指先で、そっと触れた。
乾いて、ざらついていた。
頁を、めくった。
紅が空を覆ったあとのことは、ほんの数行しか、書かれていなかった。
『紅は、バルコニーの上の、父を、母を、兄たちを、姉を、一息に呑んだ。私の目の前まで来て、止まり、迷うように揺れて、それから、私の周りだけを避けて、通り過ぎていった。……あとになって知った。鎖に繋がれていた四つの家の当主たちも、同じように、紅に避けられていたことを。紅は、あの方を、最後まで信じた者だけは、焼かなかった。……では、私は、あの方を信じていたのだろうか。俯いて、何もしなかった、この私が』
その問いに、答えは、書かれていなかった。
頁を、めくった。
『灰の中で、先生の手を、握った。小さな手だった。私よりも、ずっと小さな、子どもの手。その手が、ずっと、震えていた。……私は、先生が、もう二度と、笑わないのではないかと、怖かった』
――二百年経っても、まだの。
森の焼け跡で、ロリババアが、書記を読む勇気がないと言ったときの、小さな声が、よみがえった。
この頁を、ロリババアに見せたら、どんな顔をするだろう。
見せられるわけが、なかった。
◇
断罪の日の頁が終わると、そのあとは、白紙が続いていた。
何頁も、何頁も、白い紙。アリアーヌは、断罪の日のことを書き終えたあと、筆を置いたのだろうか。それとも、書いたものを、自分で消したのだろうか。
白紙を、一枚ずつ、めくっていった。
十枚目くらいで、手が止まった。
白紙の上に、何かが、滲み出していた。
インクだった。
紙の奥から、じわりと、黒い染みが浮かび上がってくる。染みは、紙の上を、ゆっくりと這って、線になって、文字になっていった。崩した、古い書き文字。さっきまで読んでいたのと同じ、アリアーヌの手。
誰も、筆を持っていなかった。
書記が、自分で、書いていた。
――この書は、真実を必要とする者の前にだけ現れる。
ロリババアの声が、頭の中で、響いた。
アリアーヌは、残りの命を全部差し出して、世界と約束を結んだ。必要とする者に、必要な真実を。その約束が、今、俺の目の前で、二百年越しに、動いていた。
俺は、息を詰めて、文字が浮かび上がるのを、見ていた。
『断罪の夜、あの方の『能力』は、四つに裂けた』
一行目が、そう綴られた。
『裂けた『能力』は、世に散り、これより先の世に生まれる、四つの怒りに、宿るであろう。無力を知り、世界を憎んだ、四つの魂に』
二行目。
『ひとつ。最愛を、目の前で奪われし者の怒りに、紅』
――ロリババアだ。
『ひとつ。理不尽に、親を奪われし子の怒りに、全知』
――アルスだ。
十の冬に、両親を貴族に殺された、王都の貧民街の悪ガキ。
文字は、止まらなかった。
『ひとつ。偽りに、最愛を奪われし者の怒りに、真眼。目の前の者が、本物か偽物か、見分けることのできなかった者に。……その眼は、あらゆる偽りを見破り、人の隠すものの、底の底まで、見通すであろう』
真眼。
聞いたことのない言葉だった。
ロリババアの紅。アルスの全知の書。そして、俺の知らない、三つ目。
インクが、四行目へ進んだ。
『ひとつ。――――』
そこで、文字が、途切れた。
途切れたのではなかった。
四行目の、最初の一文字目から先が、白く、抜け落ちていた。
インクが、滲みかけて、滲みきらずに、紙の上で、ぼやけて、消えていた。霧がかかったみたいに。文字の形をした、白い空白。
俺は、その空白を、見つめた。
胸の奥で、何かが、きしりと、軋んだ。
――あの子の顔も、名前も、どうしても思い出せない。思い出そうとするたびに、そこだけ、霧がかかったみたいに、白く抜け落ちている。
同じだった。
この空白は、俺の中の、あの白い場所と、同じ形をしていた。
四つ目。
俺の、碧だ。
白い空白の下に、もう一行だけ、インクが、ゆっくりと滲み出してきた。
『代償を払いし者の頁は、その者には、読めぬ』
俺は、その一行を、何度も、読み返した。
代償。
何の、代償だ。
俺は、何を、払ったんだ。
頁の上に、手のひらを、押し当てた。白い空白は、冷たかった。雪みたいに。あの夜の、あの子の手みたいに。
インクは、もう、何も答えなかった。
ただ、白い空白の、さらに下に。最後に、ほんのかすかな、消え入りそうな文字が、一行だけ、浮かび上がった。
『されど、払われしものは、消えてはおらぬ』
その一行も、俺が読み終えるのと同時に、紙の奥へ、すうっと、沈んで消えた。
◇
頁を、めくった。
次の頁にも、インクが、滲み出していた。
今度は、ずっと短かった。
『真眼の持ち主は、北にいる』
一行。
『偽りの王を討つために、眼を開いている』
二行。
それきりだった。
それ以上、何も、浮かび上がってこなかった。
俺は、その二行を、長いあいだ、見つめていた。
北。
偽りの王。
――ケルナー伯爵の口から、芋づる式に、ずるずると出てきた、第三皇子派の残党の名前。
――第三皇子殿下に逆らう村の、末路だ。せいぜい、見せしめになれ。
雪の夜に、馬の上から笑っていた男の、声。
背中を、冷たいものが、這い上がっていった。
◇
気がつくと、窓の外が、白み始めていた。
一晩中、書記を読んでいたらしい。蝋燭も灯さずに、月の光だけで。月は、いつの間にか沈んで、東の空が、灰色から、淡い青に変わりかけていた。
俺は、書記を、閉じた。
古びた革表紙。掠れた金文字。
『旧サロバニア王国第二王女 アリアーヌ 書記』
表紙に、手のひらを置いた。
まだ、ほんのりと、温かかった。
――されど、払われしものは、消えてはおらぬ。
最後に浮かんで、すぐに沈んでいった一行が、頭の中で、何度も繰り返されていた。
払ったものが、消えていない。
それは、慰めなのか。それとも、何か、もっと別のことなのか。
あの雪の夜に、俺は、何かを払った。払ったから、碧が生まれた。そこまでは、なんとなく、わかる気がした。胸の奥の白い場所は、たぶん、そのときにできた穴だ。
でも、何を払ったのかが、わからない。
払ったものが、どこで、どうして、消えずに残っているのかも。
考えれば考えるほど、白い霧が、濃くなっていく気がした。手を伸ばせば届きそうなのに、伸ばした指先は、いつも、冷たい空気を掴むだけだった。
「……ありがとな」
誰に言ったのか、自分でも、よくわからなかった。
二百年前の、煤だらけの顔の少女に、だったのかもしれない。
俺は、椅子から立ち上がって、窓を開けた。夜明けの、冷たい森の空気が、部屋の中に流れ込んできた。鳥が、一羽、どこかで鳴いた。
大きく、息を吸って、吐いた。
振り返った。
机の上には、もう、何もなかった。
古びた革表紙の手帳は、どこにもなかった。椅子の上にも、床の上にも、寝台の上にも。ほんの一息、窓の外を見ていたあいだに。
――用が済めば、また、どこかへ行く。……そういう書なのじゃ。
俺は、空っぽの机を、しばらく、見下ろしていた。
それから、部屋を出て、階段を降りた。
台所のかまどに、火を入れた。薪が、ぱちりと爆ぜて、小さな炎が、ゆっくりと大きくなっていった。
ロリババアが起きてくる前に、茶を淹れておかなければならない。ぬるいと、文句を言われるから。
それから、話さなければならないことが、ある。
四つの、怒りのこと。紅と、全知と、真眼と、白い空白。
北にいる、真眼のこと。
それから、俺の中の、白い空白のこと。




