75 必要とする者の、机の上に
聖火の夜から、三日が経った。
王城の、国王の執務室。
執務机の上の書類の山は、三日前の三倍の高さになっていた。その山の向こうで、ジャージ姿の陛下が、羽根ペンを鼻の下に挟んで、天井を仰いでいた。
「――夜市の請求書が、来た」
陛下は、書類の山の一番上から、一枚の紙を、指先でつまみ上げた。
「屋台、四百二十軒。花火、千二百発。王都の民、九割。全部、王家の奢り。……エトワール」
「はい」
長椅子で毎日王都新聞を広げていたエトワールが、顔を上げずに返事をした。
「お前の給料、向こう十年、差し引きな」
「承知しました」
エトワールは、新聞をめくった。
「代わりに、陛下。こちらを、ご覧ください」
エトワールは、新聞の一面を、陛下のほうへ向けた。
大きな見出しが、躍っていた。
『ジセリア使節団、和解の席で刃を抜く 王都東門・王立学園・分館を同時襲撃 国王陛下、一兵も失わず全て退ける』
その下に、少し小さな見出しが、続いていた。
『新教皇ガブリエル一世、異国の地にて崩御 死因は「聖遺物の暴走」と、ジセリア聖騎士団長が証言』
「……『聖遺物の暴走』ねぇ」
陛下は、紙を机の上に放り出して、羽根ペンを鼻の下から落とした。
「セラフィンの奴、上手いこと書いたな」
「団長殿のご厚意です。ガブリエルが自ら心臓を胸に入れたことは、事実ですからね。暴走といえば、暴走です」
エトワールは、眼鏡を押し上げた。
「これで、ジセリアには、聖戦の大義名分は、ひとかけらも残りません。残るのは、和解の席で刃を抜いた、自国の不義だけです。……枢機卿団は、しばらく、身内の後始末で手一杯でしょう」
壁際にもたれていた俺は、窓の外を見た。
春の空が、青かった。
◇
セラフィンは、聖火の夜の翌々日、ジセリアへ帰っていった。
石を自ら砕いた聖騎士たちを、ほとんど全員、連れて。ノエルも、その中にいた。フィアットと、別れ際に、長いこと抱き合っていたらしい。
「――国へ帰ったら、聖都の地下を、全部、改めます」
出立の朝、王都の東門の前で、セラフィンは、レイアーヌに、そう言ったそうだ。
「石の種を育てるために、命を吸われている人々が、まだ、どこかにいるはずです。……一人残らず、見つけ出して、首輪を外します。それが、私の、騎士としての、最初の務めです」
ヴィンセントと、ケルナー伯爵と、審問官ドミニクは、王城の地下牢に入れられた。グラウを毒殺したこと。ジセリアと密約を結んでいたこと。全部、陛下の前で、吐かされた。北の塔のグラウが、最後まで口を割らなかった第三皇子派の残党の名前も、ケルナー伯爵の口から、芋づる式に、ずるずると出てきた。
あの雪の夜の、黒い狼と三本の茨。
その根っこが、ようやく、陽の下に、引きずり出された。
俺は、その報告を、陛下の口から聞いたとき、何も言わなかった。
ただ、自分の手のひらを、少しだけ、長く見ていた。
碧は、もう、すっかり、戻っていた。
◇
その日の夕方、学園長室で、ささやかな茶会が開かれた。
主催は、レイラさん。名目は、「みんな、お疲れさまでした会」。
「――はい、シュベルトさんの分です」
「ありがとう、レイラさん。今日で、お茶会、三百七十日目だね」
「だから数えなくていいんですってば!」
長椅子の端では、クレハが、俺の頭を、両腕で抱え込んで、ぐりぐりと撫で回していた。
「アタシのハス坊が! 無事で! よかったよぉぉ!」
「く、くるし……おば……お姉さん……」
部屋の反対側では、ラークが、アルスの背中を、ばんばんと叩いていた。
「アルスさん! あの紅い誓いの術、今度、オレの工房で見せてくださいッス! 剣に刻めないか、試してみたいんス!」
「やなこった。……おい、叩くな。骨が折れる」
一人掛けの椅子の上で、エレナが、扇子で口元を隠して、優雅に笑っていた。
「おーほっほっほ! 皆々さま、ご無事で何よりですわ! ……あら、博識王さま、お紅茶に、お砂糖はいかが?」
エレナは、振り向きもせずに、角砂糖を、後ろ手に、ぽいと放った。
角砂糖は、天井の縁で跳ねて、窓枠で跳ねて、エトワールの紅茶のカップに、ぽちゃりと落ちた。
エトワールは、何も言わなかった。
長椅子の真ん中で、眼鏡をずり落としたまま、腕を組んで、すうすうと、寝息を立てていた。床には、裏側をびっしりと書き込まれた毎日王都新聞が、何十枚も、散らばったままだった。
その肩に、アイシャ会長が、そっと、毛布を掛けた。
殴らなかった。
「……今日だけですからね、エトワール様」
陛下が、窓辺の椅子で、焼き菓子を頬張りながら、くっくっと、喉を鳴らして笑った。
◇
あの夜の、心臓は。
ロリババアが、刑場の跡の、折れた柵の根元に、埋めた。
光を失った乳白色の結晶を、ロリババアは、自分の手で、土の中に置いた。ラークが、その上を、紅の記憶の残った黒い硝子で、覆った。レイラさんが、その硝子の上に、誰にも掘り起こせないよう、封印の陣を、何重にも刻んだ。
ロリババアは、その上に、手のひらを置いて、しばらく、黙っていた。
それから、立ち上がって、俺のほうを振り返った。
「――帰るぞ、ハスト。儂は、眠い」
そして、森の家に帰り着くなり、寝台に倒れ込んで、まる二日、眠り続けた。
二百年分の、眠りだったのかもしれない。
三日目の朝、ロリババアは、何事もなかったような顔で起きてきて、食卓の椅子によじ登り、俺が焼いた胡桃のパンを、端から小さくかじりながら、言った。
「……ハスト。茶が、ぬるい」
いつもの、ロリババアだった。俺は、黙って、茶を淹れ直した。魔力でポットを傾けて、一滴もこぼさずに。
◇
アベルは、分館にいる。
聖火の夜の翌朝、分館の教室の、継ぎの当たった座布団の上で、目を覚ましたそうだ。
アルスが、刑場の跡から、担いで連れ帰ったのだ。
「――鍵の役目、終わっちゃった」
目を覚ましたアベルは、天井を見上げたまま、抑揚のない声で、そう言ったらしい。
「僕、捨てられるの?」
アルスは、教卓に胡坐をかいたまま、鼻を鳴らした。
「ここをどこだと思ってんだ」
「……学校?」
「ハブられ分館だ」
アルスは、窓の外の、山並みを顎で示した。
「貴族の学校から、捨てられた奴が来るとこだ。やらかした奴が、送り込まれてくるとこだ。行くとこのねぇ地元のガキが、勝手に入り浸るとこだ。……捨てられた奴が来る場所で、また捨てられるわけ、ねぇだろ」
アベルの胸の欠片は、無数のひびが入ったまま、もう、何も喰らわなくなっていた。ラークが、分館まで出向いて、手をかざして、確かめた。
「もう、ただの石ッスね。……たぶん、このまま、ゆっくり、ゆっくり、ほどけて消えてくッス。そしたら」
ラークは、アベルの白い頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「お前、また、背が伸びるようになるかもしんねぇぞ」
その日の昼、アベルは、トマに半分分けてもらった黒パンを、生まれて初めてのような顔で、ゆっくりと、噛んだ。
「……おいしい」
それは、魔術を喰らったときとは、まるで違う響きの、「おいしい」だったそうだ。
◇
昼休みの屋上には、いつもの顔ぶれが、揃っていた。
手すりの根元に寝転がる俺。その隣で、膝を抱えて氷の花を眺めているセルカ。少し離れた日向で、白鋼の剣の手入れをしているフィアット。腕を組んで、手すりにもたれているレイアーヌ。
そして、もう一人。
「――今日から、正式に、三年A組の留学生になりました」
ミリエルが、学園の制服の胸元で、両手を組んで、ぺこりと頭を下げた。
胸元には、もう、白い聖布は、結ばれていなかった。
「期間は、一年です。ラザロさまが、ジセリアの聖都で、施療院を開き直してくださって。セラフィンさまが、その護衛を、聖騎士団で引き受けてくださって。……それで、ラザロさまからのお手紙に、『お前は、学んでこい』と」
「学ぶって、何を?」
フィアットが、首を傾げた。
ミリエルは、少しだけ、照れたように笑った。
「治癒魔術を、もっと、ちゃんと。……賢者さまが、教えてくださるって。教会の石も、誰かの命も使わない、本当の理屈を。一年かけて、全部覚えて、ジセリアに持って帰ります」
レイアーヌが、手すりから身体を離して、ミリエルの両手を、ぎゅっと握った。
「一年もいられるのね」
「はい」
「……嬉しい」
レイアーヌの声は、ほんの少しだけ、震えていた。
フィアットが、白鋼の剣を置いて、ぱちぱちと拍手をした。
それから、ふと、俺のほうを向いた。
蒼い瞳が、まっすぐに、俺を見ていた。
「――ハスト様」
「なんだ」
「言えるように、なりましたか」
一瞬、何のことかわからなかった。
それから、思い出した。聖火の夜の、ずっと前。一年の教室で、俺が「全部は、まだ言えない」と言ったときの、フィアットの顔を。
――言えるようになったら、聞かせてください。私、待つのは、得意なので。
俺は、空を見上げた。
春の空が、青かった。
「……少しだけ、な」
俺は、身体を起こした。
それから、ぽつり、ぽつりと、話し始めた。
森の奥の、焼け跡のこと。黒い鉄の柵のこと。インクで指を汚した、優しい人のこと。その人の隣に、いつも寄り添っていた、十九の娘のこと。
全部ではなかった。ロリババアが話していいと言った分だけ。
話しながら、何度か、言葉に詰まった。そのたびに、誰も、急かさなかった。屋上の風だけが、手すりの根元の氷の花の上を、静かに吹き抜けていった。溶けない氷の花びらが、春の陽を受けて、きらきらと光っていた。
それでも、フィアットも、レイアーヌも、ミリエルも、黙って、最後まで、聞いていた。
話し終えたとき、セルカが、膝を抱えたまま、俺の制服の袖を、指先で、ほんの少しだけ、つまんだ。
俺は、その頭に、手を乗せた。
ぽん、と、撫でた。
「……五十四」
セルカが、小さく、呟いた。
ミリエルが、目を丸くした。
「……何を、数えていらっしゃるんですか?」
「……ひみつ」
◇
その夜。森の家の、裏庭。
ロリババアは、いつもの切り株の上に座って、月を見上げていた。
俺が隣の切り株に腰を下ろすと、ロリババアは、月から目を離さないまま、言った。
「――セルカのことじゃがな」
「……ああ」
「今日、修行部屋で、確かめた。……あの子は、時を止めても、何ひとつ、払っておらん。止めている間に払うはずの時間が、止まった時の中で、いつまでも、払い終わらんのじゃ。払い終わらぬ借りを、いくらでも、借りられる」
ロリババアは、小さな手のひらを、月にかざした。
「理屈の、穴じゃ。……二百年、儂でさえ、気づかなんだ穴。あの子は、その穴の底から、底なしに、汲み上げておる。本人は、何ひとつ、わかっておらん」
「……危ないのか」
「わからん」
ロリババアは、首を振った。
「底なしの井戸を、知らずに掘り当てた子じゃ。井戸の水が、あの子を潤すのか、溺れさせるのか。……儂にも、まだ、わからん」
ロリババアは、俺を見た。
「じゃから、ハスト。あの子から、目を離すでないぞ」
「……言われなくても」
「ふん」
ロリババアは、また、月を見上げた。
縁側の陰で、寝間着の上にショールを羽織った小さな影が、こちらをじっと見ていた。目が合うと、セルカは、何も言わずに、とことこと歩いてきて、俺とロリババアの真ん中の地面に、膝を抱えて座り込んだ。
三人で、黙って、月を見上げた。
◇
自分の部屋に戻ったのは、真夜中を過ぎてからだった。
灯りをつけようとして、手が、止まった。
窓から差し込む月の光が、机の上を、白く照らしていた。
机の上に、何かが、置かれていた。
さっき、裏庭に出るときには、確かに、何もなかったはずの場所に。
一冊の、古びた革表紙の手帳だった。
表紙には、掠れた金文字で、こう記されていた。
『旧サロバニア王国第二王女 アリアーヌ 書記』
俺は、しばらく、扉の前に立ったまま、動けなかった。
――この書は、真実を必要とする者の前にだけ現れる。
ロリババアの声が、頭の中で、響いた。
十三歳のレイアーヌは、自分の剣が、どこへ向かうべきかを、知りたがっていた。
じゃあ、俺は。
――その碧が、どこから来たものなのか。あなたは、知らない。
刑場の跡で、ガブリエルが言った言葉。
ロリババアに拾われる前の、自分のこと。俺自身が、何ひとつ覚えていない頃の、自分のこと。
俺は、ゆっくりと、机に近づいた。
椅子を引いて、座った。
古びた革表紙に、指先で、そっと、触れた。
思っていたより、ずっと、温かかった。
「……今度は、俺の番か」
月の光の下で、俺は、表紙を、めくった。




