74 二百年前の、続き
最初に動いたのは、ガブリエルだった。
銀の短剣を、高く掲げた。
「――光の神よ。偽りの神の残り滓を、浄めたまえ」
ガブリエルの胸の奥の心臓が、強く、脈を打った。
白い炎が、溢れ出した。
浄めの火だった。四年前、聖都の大階段で、薪の山を這い上がっていった炎。二百年前、この柵の向こうで、あの人の身体を舐めた炎。それが、ガブリエルの足元から、津波のように立ち上がって、檻の中を、端から端まで、白く埋め尽くしながら、ロリババアに押し寄せた。
檻の外で、俺は、息を止めた。
白い炎の津波が、ロリババアの小さな身体を、呑み込んだ。
――呑み込んだように、見えた。
白い炎の津波の、真ん中に、紅い点が、ひとつ、灯っていた。
点は、広がらなかった。燃え上がりもしなかった。ただ、ロリババアの身体の輪郭に沿って、薄く、ぴたりと、張りついていた。
白い炎が、その紅に触れた端から、消えていった。
焼かれたのではなかった。燃え移ったのでもなかった。紅に触れた白い炎は、まるで、最初からそこになかったかのように、すうっと、消えていった。音もなく。煙も、残さずに。
津波が、通り過ぎた。
檻の中の石畳には、焦げ跡ひとつ、なかった。黒い硝子の格子も、何ひとつ、溶けていなかった。
紅が触れたのは、白い炎、それだけだった。
ロリババアは、さっきと同じ場所に、同じ姿勢で、立っていた。黒い衣の裾が、ほんの少しだけ、揺れていた。
「――二百年前」
ロリババアは、言った。
「儂の紅は、目の前のもの、全部を焼いた。都を。人を。石を。空を。……焼きたいものも、焼きたくないものも、区別なく」
ロリババアの手のひらの上で、紅が、静かに、揺れていた。
「今は、違う。……焼くべきものだけを、焼く」
檻の外で、俺は、その紅を見ながら、ひとつの朝を、思い出していた。
七つか、八つの頃だ。森の家の台所で、ロリババアは、俺の目の前に、ティーポットと、空のカップを、ひとつずつ置いた。
――魔力で、ポットを傾けよ。茶を、カップに注げ。一滴もこぼさずにじゃ。
最初の朝は、ポットが割れた。次の朝は、カップが割れた。その次の朝は、テーブルの上が、茶の海になった。一滴もこぼさずに注げるようになるまで、半年かかった。注げるようになったら、今度は、カップを、指先ほどの大きさの杯に替えられた。
なんで、毎朝、毎朝、こんなことをさせられるのか、ずっと、わからなかった。
――力を出すのは、誰にでもできる。出した力を、出したいところにだけ届けるのが、難しいのじゃ。
ロリババアは、そう言って、俺のこぼした茶を、布巾で拭いていた。
今、わかった。
あの修行は、ロリババアが、二百年かけて、自分の紅に叩き込んできたことだったのだ。都を焼いた紅を。何万人を焼いた紅を。一滴もこぼさずに、注ぎたいところにだけ、注げるように。
それを、毎朝、毎朝、俺に、教えていたのだ。
いつか、俺の碧が、俺の手に余ったときのために。
胸元の水晶から、エトワールの声は、聞こえなかった。ただ、向こう側で、誰かが、息を詰めて、耳を澄ませている気配だけが、伝わってきた。
◇
ガブリエルの顔が、歪んだ。
短剣を、振った。
今度は、炎ではなかった。光の槍だった。神威の光を、何百倍にも濃縮したような、白い槍が、何十本も、ガブリエルの周りの宙に生まれて、一斉に、ロリババアへ向かって放たれた。
ロリババアは、動かなかった。
紅が、動いた。
ロリババアの身体の周りに、紅い光の糸が、何十本も、ふわりと浮かび上がった。糸の一本一本が、飛んでくる光の槍の、一本一本に、向かっていった。
糸が、槍に、触れた。
槍が、消えた。
一本残らず。檻の格子にも、石畳にも、何ひとつ、傷をつけないまま。
「――なるほど」
ガブリエルの声が、低くなった。
「二百年、研いだというのは、嘘ではないようだ」
ガブリエルは、短剣を、逆手に持ち替えた。
それから、踏み込んだ。
速かった。人の速さではなかった。心臓の力が、ガブリエルの身体を、内側から押し出していた。檻の端から端まで、ひと息で詰めて、短剣の切っ先が、ロリババアの、小さな手のひらへ、まっすぐに、突き出された。
狙いは、手のひらだった。
血だ。
あの男は、まだ、諦めていなかった。
ロリババアの紅が、ガブリエルの腕に、絡みついた。
ガブリエルの右腕が、肘から先、紅に包まれて、消えた。
焼け焦げたのではなかった。消えたのだ。紅に触れた部分だけが、最初からそこになかったかのように。
檻の外で、ミリエルが、悲鳴を呑み込んだ。
ガブリエルは、悲鳴を上げなかった。
ただ、肘から先のなくなった自分の右腕を、見下ろした。
その断面から、白い光が、溢れ出した。
光が、腕の形をとった。骨が生まれ、肉が生まれ、皮膚が生まれた。ほんの瞬きの間に、ガブリエルの右腕は、元通りになっていた。新しい右手が、石畳に落ちていた銀の短剣を、拾い上げた。
「無駄ですよ、姫君」
ガブリエルは、微笑んだ。乾いた微笑みだった。
「この心臓がある限り、私は、何度でも、元に戻る。……そして、あなたの紅は、この心臓を、焼けない。同じ根から、生まれたものだから」
ロリババアは、答えなかった。
ただ、ガブリエルの胸の奥で明滅する、白い光を、見つめていた。
◇
打ち合いは、続いた。
ガブリエルが、白い炎を放つ。ロリババアの紅が、それを消す。ガブリエルが、光の槍を放つ。紅の糸が、それを消す。ガブリエルが、短剣で踏み込む。紅が、腕を、脚を、肩を、消す。消えたところから、白い光が溢れて、また、元に戻る。
何度も。何度も。
広場の端で、レイラさんが、ミリエルを抱きしめたまま、唇を噛んでいた。ミリエルは、両手を胸の前で組んでいた。祈っているのではなかった。ただ、握りしめていた。
アルスは、顎に親指を当てたまま、檻の中から、一瞬も目を離さなかった。全知の書が、いくら頭の中を探っても、あの檻の中に割って入る術式は、ひとつも見つからないのだろう。顎に当てた親指が、白くなるほど、強く押しつけられていた。
檻の外で見ていた俺には、わかった。
ロリババアは、ガブリエルを、まるごと焼くことができない。
ガブリエルの身体のどこを焼いても、その奥には、必ず、心臓がある。心臓と繋がった肉は、心臓の光が、すぐに元に戻してしまう。かといって、心臓ごと焼こうとすれば、紅は、同じ根から生まれた心臓に、弾かれる。
一瞬で、全部を焼かなければならない。
心臓の光が、ガブリエルを元に戻すよりも、速く。心臓だけを残して、それ以外の全部を。
そのためには、ガブリエルの身体と、心臓の繋がりが、ほんの一瞬でいい、緩まなければならない。
「……ロリババア」
俺は、格子に手をついたまま、呟いた。
ロリババアの横顔に、汗が、一筋、伝っていた。
二百年、一度も、汗をかいたところを見たことがなかった顔に。
◇
ガブリエルが、笑い始めた。
乾いた、ひび割れた笑い声だった。
「――あなたこそ、魔女だ」
ガブリエルは、短剣を構えたまま、言った。
「何万人を焼いた、魔女だ。泣いて止めようとした者も、ただ見物に来ていただけの者も、区別なく。……私が、奇跡のために、何百人の命を使ったと、責める資格が、あなたにあるのですか」
ロリババアの紅が、ほんのわずかに、揺れた。
「ない」
ロリババアは、言った。
「儂には、お主を責める資格など、ひとかけらもない」
ガブリエルの目が、細くなった。
「ならば」
「じゃから、責めはせん」
ロリババアは、紅を纏った小さな手を、ゆっくりと、ガブリエルのほうへ、差し出した。
白い傷痕の走る、手のひらを、上に向けて。
「――欲しいのじゃろう。儂の血が」
ガブリエルの動きが、止まった。
檻の外で、俺は、格子を、殴りつけた。
「ロリババア!! 何やって――」
「黙っておれ、ハスト」
ロリババアは、振り返らなかった。
「くれてやる。一滴と言わず、好きなだけ、持っていくがいい。……それで、あの人の心臓が、本当に、お主を、器と認めるのならの」
ガブリエルは、しばらく、ロリババアの差し出した手のひらを、見つめていた。
その目に、渇きが、浮かんでいた。
二十年。三十年。もしかしたら、妹の熱が引いた、あの夜から、ずっと。
ガブリエルが、踏み込んだ。
銀の短剣が、ロリババアの手のひらを、裂いた。
白い傷痕の上に、新しい赤い線が、一本、走った。血が、玉になって、溢れ出した。
ガブリエルは、その手首を、新しい右手で、掴んだ。
血に濡れた小さな手のひらを、自分の胸の、心臓の真上に、押し当てた。
◇
血が、心臓に、触れた。
ガブリエルの胸の奥で、心臓が、大きく、脈を打った。
一度。
ガブリエルの身体を包む白い光が、爆ぜるように、強くなった。檻の中が、真昼のように、白く染まった。
「――ああ」
ガブリエルの口から、恍惚の声が、漏れた。
「来る。……来る。神が、私の中に――」
二度目の、脈。
光の色が、変わった。
骨のような白から。もっと、柔らかい色へ。
春の陽だまりみたいな、温かい色へ。
ガブリエルの恍惚の顔が、凍りついた。
心臓が、ガブリエルの胸の中で、動いていた。脈を打っていたのではなかった。動いていたのだ。ガブリエルの胸の内側から、ガブリエルの手を、押し返すように。ロリババアの血に濡れた手のひらのほうへ、近づいていくように。
まるで、二百年ぶりに、誰かの手の温もりを、思い出したみたいに。
「……なぜ」
ガブリエルの声が、震えた。
「なぜ、離れる。……私が、器だ。私が、選ばれたのだ。私が――」
心臓と、ガブリエルの身体を繋いでいた白い光が。
ほんの一瞬だけ、緩んだ。
ロリババアは、それを、見逃さなかった。
「――あの人はな」
ロリババアの声は、静かだった。
「誰かの命で贖う奇跡なぞ、一度だって、欲しがりはせなんだ」
紅が、溢れた。
ロリババアの小さな身体から。血に濡れた手のひらから。檻の中を満たしていた紅のすべてが、一点に、集まった。
ガブリエルに。
ガブリエルの、身体だけに。
紅が、ガブリエルを、包んだ。
心臓の光が、ガブリエルを元に戻そうとした。間に合わなかった。紅は、ガブリエルの身体の、髪の一本から、爪の先までを、一瞬で、包み込んで。
焼いた。
声は、なかった。
悲鳴も、断末魔も、なかった。ガブリエルの唇が、最後に、何かの形に動いた。
――神よ。
それきり、ガブリエルの姿は、紅の中に、溶けて、消えた。
灰も、残らなかった。
ただ、檻の中の石畳の、ガブリエルが立っていた場所に、銀の短剣が一本、乾いた音を立てて、落ちた。
その上に、人の頭ほどの大きさの、乳白色の結晶が、ゆっくりと、落ちてきた。
ロリババアの、血に濡れた小さな両手が、それを、受け止めた。
◇
「――神なぞ、おらんかった」
ロリババアは、両手の中の心臓を見下ろして、小さく、呟いた。
「おったのは、インクで指を汚した、ただの、優しい人じゃ」
心臓は、ロリババアの手の中で、もう一度だけ、かすかに、脈を打った。
春の陽だまりみたいな、温かい色で。
それから、静かに、光を失っていった。
ロリババアは、心臓を、自分の額に、そっと押し当てた。
長いあいだ、そうしていた。
黒い硝子の檻が、音もなく、崩れ始めた。中の二人のうち、ひとりが、倒れたから。黒い硝子の柱が、さらさらと、細かな砂になって、夜風に溶けていった。
崩れていく檻の真ん中で、ロリババアは、心臓を額に押し当てたまま、目を閉じていた。
その唇が、動いた。
「……おかえり」
それから、もう一度。
「……そして、今度こそ。……おやすみ」
檻が、すっかり、消えた。
ロリババアの小さな身体が、ぐらりと、傾いた。
俺は、走った。考えるより先に、足が、動いていた。
崩れた硝子の砂を蹴散らして。石畳を蹴って。倒れかけた小さな身体を、両腕で、受け止めた。
軽かった。
驚くほど、軽かった。熱を出した夜に、俺の額に手を乗せてくれた人の身体とは、思えないくらいに。
腕の中で、ロリババアが、ゆっくりと、目を開けた。血に濡れた両手で、光を失った心臓を、胸に抱きしめたまま。
「……ハスト」
「ああ」
「……間に合うたぞ」
ロリババアの顔に、笑みが、浮かんだ。
人を食ったような笑みでも、意地の悪い笑みでもなかった。ずっと、ずっと、遠くを見ていた顔が、やっと、すぐ近くに戻ってきたみたいな、笑みだった。
「今度は、間に合うた。……二百年、かかったがの」
俺は、何も言えなかった。
ただ、腕の中の、軽い身体を、少しだけ、強く抱きしめた。
広場の向こうで、夜が、白み始めていた。




