↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/142

73 紅と碧

ロリババアの小さな足が、黒い硝子の檻の、内側の石畳に、音もなく降り立った。


檻の中は、静かだった。


外の音が、ほとんど、聞こえなかった。黒い硝子の柱と格子が、二百年前の紅の記憶を閉じ込めたまま、檻の内と外とを、薄く、隔てていた。


檻の真ん中に、ガブリエルが、立っていた。


根を失って、身体を包む光は、さっきより、ずっと弱くなっていた。それでも、その胸の奥では、心臓が、まだ、脈を打っていた。白い光が、皮膚の下を、ゆっくりと、明滅していた。


ガブリエルは、目の前に降り立った、黒い衣の少女を、見下ろした。


十歳にしか見えない、小さな身体。白い傷痕の走る、小さな手のひら。


ガブリエルの顔に、ゆっくりと、笑みが、広がっていった。


「――ああ」


二重の声だった。


「ようやく、お会いできました。……創成神の、姫君」


ロリババアは、答えなかった。


ただ、ガブリエルの胸の、白く明滅する光を、見つめていた。


その目の奥で、何かが、揺れていた。


「……なぜじゃ」


ロリババアが、ようやく、口を開いた。


「なぜ、そこまでして、あの人の心臓を欲しがる。お主らの教会は、あの人を偽りの神と呼んで、殺したのじゃろう」


ガブリエルは、少しだけ、首を傾げた。


「幼い頃、私には、妹がおりました」


穏やかな声だった。


「外環の、貧しい家でした。妹は、七つの冬に、熱を出しました。銀貨を払えぬ家の子を、診てくれる司祭は、おりませんでした。……ですが、ある日、大聖堂の前で、奇跡が起きたのです。光神の心臓に祈った聖女が、通りすがりの子どもの熱を、ひと撫でで、消してみせた。たまたま、そこにいた、妹の熱を」


ガブリエルは、自分の胸の、白く明滅する光を、見下ろした。


「あとになって、知りました。その奇跡が、地下の牢に繋がれた、何百人もの命で、贖われていたことを」

「……知って、なお」

「知って、なお、です」


ガブリエルの目が、乾いた光を宿した。


「奇跡は、誰かの命で贖われる。それの、何がいけないのです。誰かが払わねば、誰も救われない。ならば、払う者と、救われる者を、選べばいい。……選ぶ者が、神であればいい。私は、そう決めたのです。あの日、妹の熱が引いた、その夜に」


ロリババアは、黙って、ガブリエルを見ていた。


その目に浮かんでいたのは、怒りではなかった。


ひどく、古い、哀しみだった。


「……あの人なら」


ロリババアは、小さく、言った。


「誰も払わずに済む理屈を、一緒に探そうと、言うたじゃろうな」


◇


俺は、檻の外にいた。


黒い硝子の格子に、両手をついて、檻の中を見ていた。


隣に、ラークが、地面に手をついたまま、膝をついていた。檻を作るのに、全身の力を使い果たしたのだろう。額から、汗が、滝のように流れていた。


「……親父。すんません。この檻、一度閉じたら、中の二人のどっちかが倒れるまで、オレにも、開けられねぇッス」

「わかってる」

「博識王の、注文どおりなんスけど。……誰も入れず、誰も出られず」


ラークの声が、かすかに、震えていた。炉の火で焼けた古い火傷の痕が残る腕が、地面についたまま、小刻みに痙攣していた。


広場の端では、レイラさんが、ミリエルとアベルを、銀色の陣で包んで守っていた。アルスとクレハが、氷に縫い止められた聖騎士たちの間に立って、檻を、じっと見ていた。セルカが、俺の隣に来て、黙って、俺の外套の裾を、指先でつまんだ。


「……あの狸」


アルスが、低く、呟いた。


「ババアの、一番柔らけぇとこを、狙ってきやがる」


クレハは、機関銃の引き金に指をかけたまま、奥歯を噛みしめていた。黒い硝子の檻の中には、銃王の弾も、届かない。届いたとしても、撃てる場面ではなかった。


檻の中で、ガブリエルが、一歩、前へ出た。


「姫君。……あなたに、お伝えしたいことがあります」


ガブリエルは、自分の胸に、そっと手を当てた。


「この心臓は、まだ、生きています。二百年前、あの方の胸から取り出された日から、ずっと。教会の地下で。冷たい石の中で。眠りながら、ずっと、待っていた」


ガブリエルの胸の光が、ゆっくりと、強くなった。


「何を、待っていたと思いますか」


ロリババアは、答えなかった。


「――あなたを、ですよ」


ガブリエルの声が、変わった。


二重だった声の、奥のほうの声が。少しずつ、少しずつ、前に出てきた。ガブリエル自身の声を、押しのけるように。


穏やかな、声だった。


少しだけ、困ったような、声だった。


「――サリナ」


ロリババアの肩が、びくりと、跳ねた。


◇


檻の外で、俺の背筋が、凍りついた。


聞いたことのない声だった。でも、わかった。


ロリババアの昔話の中で、何度も、何度も、聞いた気がした声。インクで汚れた指で、黒板に字を書きながら、魔術は才能じゃない、理屈なんだと、誰にでも語りかけていた、あの声。


「サリナ。……久しぶりだね」


ガブリエルの胸の光の中に、何かが、ぼんやりと、浮かび上がっていった。


人の形だった。


くたびれた、灰色の衣。少しだけ癖のある、柔らかそうな髪。顔は、光の中に霞んで、よく見えない。ただ、指先が、インクで、黒く汚れていた。


「……ずっと、会いたかった」


光の中の人影が、言った。


ロリババアの唇が、震えた。


小さな手が、ほんの少しだけ、持ち上がった。白い傷痕の走る、手のひら。


「……あ」


それは、俺が今まで、一度も聞いたことのない、ロリババアの声だった。


儂でも、じゃでもない。十九の娘の、声だった。


「……あなた、なの」

「僕だよ」


光の中の人影が、少しだけ、困ったように、笑った。


「ごめんね、サリナ。あの日、君を置いていって。……ずっと、謝りたかった」


ロリババアの目から、涙が、ひとしずく、こぼれた。


二百年、一度も泣かなかったはずの目から。


「僕は、まだ、ここにいる。……でも、ほんの少しだけなんだ。この人の胸を借りて、やっと、声を出せているだけ。このままじゃ、また、すぐに、消えてしまう」


光の中の人影が、インクで汚れた手を、ロリババアのほうへ、差し伸べた。


「君の血を、一滴だけ、くれないか。……そうしたら、僕は、本当に、目を覚ませる。また、君の隣に、帰れる」


ロリババアの手が、ゆっくりと、前へ、伸びていった。


白い傷痕の走る手のひらが。光の中の、インクで汚れた手のほうへ。


ガブリエルの懐から、銀の短剣が、音もなく、抜かれていた。光の中の人影の、陰に隠れて。ロリババアの手のひらに、刃先が、そっと、近づいていった。


◇


「――ロリババア!!」


俺は、叫んだ。


黒い硝子の格子を、両手で、殴りつけた。格子は、びくともしなかった。紅の記憶でできた檻は、俺の拳くらいでは、ひびひとつ入らなかった。


「ロリババア!! 聞こえるか!! そいつは、あの人じゃねぇ!!」


声が、檻の中に、届いているのかどうかも、わからなかった。


ロリババアの手は、止まらなかった。


光の中のインクで汚れた手に、あと、指一本。


「――あれは、あの人じゃねぇって、言ってんだろうが!!」


約束した。


月の下の、森の家の裏庭で。わからなくなったら、俺が、隣で、怒鳴ってやると。


隣に、いないじゃないか。


檻の、外じゃないか。


「――親父」


足元から、ラークの、かすれた声がした。


「その檻……紅の記憶で、できてるッス。二百年前の、サリナさんの紅の」

「それが、どうした」

「紅と、同じ根っこのもんなら」


ラークは、汗だくの顔を上げて、俺の胸元を見た。


「……通る、かもしれねぇッス。親父の、碧なら」


俺は、自分の右手を見下ろした。


碧は、まだ、半分しか戻っていなかった。さっき、七本目の根を断つのに、さらに、少し使った。


それでも。


俺は、右手を、黒い硝子の格子に、押し当てた。


碧を、灯した。


――同じ根から、生まれたものなのですよ。


ガブリエルの言葉が、今度は、少しだけ、ありがたかった。


碧い炎が、黒い硝子の表面に、触れた。


触れて、染み込んだ。


硝子の中に、碧い光が、細い筋になって、走っていった。二百年前の紅の記憶の中を。檻の格子の、一本一本の中を。まるで、遠い親戚の家の廊下を、迷わずに駆け抜けていくみたいに。


俺の右手が、格子の中に、沈み込んでいった。


手首まで。肘まで。


格子の向こう側に、碧く光る指先が、突き抜けた。


◇


ロリババアの手のひらと、光の中のインクで汚れた手の、ちょうど、その間に。


碧い炎が、割り込んだ。


俺の指先から伸びた、細い、細い、碧い炎の糸だった。それが、ロリババアの、白い傷痕の走る手のひらに、そっと、触れた。


ロリババアの手が、止まった。


碧い炎が触れた手のひらから、紅いものが、ゆらりと、立ち昇った。


紅と、碧が、触れ合った。


その瞬間、光の中の人影が、揺らいだ。


蝋燭の炎が、風に煽られたみたいに。輪郭が、ぶれて、ほどけて、その向こうに、別の顔が、透けて見えた。


銀色の髪。皺ひとつない、整った顔。


慈愛に満ちた、ガブリエルの微笑み。


光の中の人影の、少しだけ困ったような笑顔が、その上に、重なって、ずれていた。ずれた隙間から、ガブリエルの微笑みが、覗いていた。


ロリババアは、それを、見た。


長いあいだ、見ていた。


それから、伸ばしかけた手を、ゆっくりと、引き戻した。


「――違う」


小さな声だった。


十九の娘の声では、もう、なかった。


「あの人は」


ロリババアは、白い傷痕の走る手のひらを、胸の前で、ぎゅっと、握りしめた。


「――そんな顔で、笑わん」


光の中の人影が、凍りついた。


ガブリエルの手の中の、銀の短剣が、ロリババアの手のひらの、ほんの手前で、止まっていた。


◇


「……ハスト」


ロリババアが、振り返らずに、言った。


檻の格子に、肘まで腕を突っ込んだまま、俺は、その背中を見ていた。


「聞こえておったぞ。……やかましい」

「……聞こえてんなら、さっさと返事しろよ」

「阿呆」


ロリババアの肩が、ほんの少しだけ、揺れた。笑ったのかもしれなかった。


それから、ロリババアは、言った。


「手を、引け」

「……ロリババア」

「ここからは、儂の喧嘩じゃ」


ロリババアの手のひらから立ち昇る紅が、少しずつ、濃くなっていった。


でも、揺れていなかった。


森の焼け跡で見たときのように、わずかに揺らいでいた紅ではなかった。ぴたりと凪いだ湖面のような、静かな紅だった。俺が、物心ついたときから見てきた、ロリババアの紅だった。


「――ありがとうよ、ハスト」


その声は、とても小さくて、とても、優しかった。


俺は、格子の中から、ゆっくりと、腕を引き抜いた。


碧い炎の糸が、ロリババアの手のひらから、すうっと、離れていった。


離れる直前に、紅と碧が、ほんの一瞬だけ、指を絡めるように、重なった。


◇


檻の中で、光の中の人影が、消えた。


残ったのは、ガブリエルだけだった。


胸の奥で明滅する、心臓の光。その光を纏ったまま、ガブリエルは、銀の短剣を握りしめて、ロリババアを見下ろしていた。


慈愛に満ちた微笑みは、もう、どこにもなかった。


「……愚かな」


ガブリエルの声が、ひび割れていた。


「あと、一滴だった。あと一滴で、あなたの神は、戻ってきたのに」

「戻ってはこん」


ロリババアは、言った。


「あの人は、二百年前に、死んだ。この柵の向こうで。儂の目の前で。……死んだ者は、戻らん。心臓を、何度、動かそうとも」


ロリババアは、檻の外の、折れた柵を、ちらりと見た。


それから、ガブリエルに、向き直った。


「ガブリエル。お主に、ひとつ、教えてやろう」


紅が、ロリババアの小さな身体の周りに、静かに、満ちていった。


「二百年前、儂は、この都を焼いた。怒りに任せて。泣いて止めようとした者も、ただ見物に来ておっただけの者も、区別なく。……その罪は、二百年経っても、消えはせん」


ロリババアの目が、ガブリエルを、まっすぐに見据えた。


「じゃがな。あの日から、儂は、二百年、この紅を研いできた」


紅が、檻の中を、満たしていった。


黒い硝子の格子が、紅の光を受けて、内側から、赤く、透けていった。


「二度と、焼くべきでないものを、焼かぬように。……焼くべきものだけを、焼けるように」


檻の外で、俺は、息を詰めて、それを見ていた。


隣で、セルカの指先が、俺の外套の裾を、ぎゅっと、握りしめていた。


「――来い、偽りの神」


ロリババアは、言った。


十歳にしか見えない、小さな背中だった。


でも、その背中は、俺が知っているどんな背中よりも、大きかった。


黒い硝子の格子の、俺の碧が通り抜けた跡に、細い碧の筋が、まだ、かすかに残っていた。檻の外の広場で、誰ひとり、息をする音さえ、立てなかった。


「二百年前の、続きじゃ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。