73 紅と碧
ロリババアの小さな足が、黒い硝子の檻の、内側の石畳に、音もなく降り立った。
檻の中は、静かだった。
外の音が、ほとんど、聞こえなかった。黒い硝子の柱と格子が、二百年前の紅の記憶を閉じ込めたまま、檻の内と外とを、薄く、隔てていた。
檻の真ん中に、ガブリエルが、立っていた。
根を失って、身体を包む光は、さっきより、ずっと弱くなっていた。それでも、その胸の奥では、心臓が、まだ、脈を打っていた。白い光が、皮膚の下を、ゆっくりと、明滅していた。
ガブリエルは、目の前に降り立った、黒い衣の少女を、見下ろした。
十歳にしか見えない、小さな身体。白い傷痕の走る、小さな手のひら。
ガブリエルの顔に、ゆっくりと、笑みが、広がっていった。
「――ああ」
二重の声だった。
「ようやく、お会いできました。……創成神の、姫君」
ロリババアは、答えなかった。
ただ、ガブリエルの胸の、白く明滅する光を、見つめていた。
その目の奥で、何かが、揺れていた。
「……なぜじゃ」
ロリババアが、ようやく、口を開いた。
「なぜ、そこまでして、あの人の心臓を欲しがる。お主らの教会は、あの人を偽りの神と呼んで、殺したのじゃろう」
ガブリエルは、少しだけ、首を傾げた。
「幼い頃、私には、妹がおりました」
穏やかな声だった。
「外環の、貧しい家でした。妹は、七つの冬に、熱を出しました。銀貨を払えぬ家の子を、診てくれる司祭は、おりませんでした。……ですが、ある日、大聖堂の前で、奇跡が起きたのです。光神の心臓に祈った聖女が、通りすがりの子どもの熱を、ひと撫でで、消してみせた。たまたま、そこにいた、妹の熱を」
ガブリエルは、自分の胸の、白く明滅する光を、見下ろした。
「あとになって、知りました。その奇跡が、地下の牢に繋がれた、何百人もの命で、贖われていたことを」
「……知って、なお」
「知って、なお、です」
ガブリエルの目が、乾いた光を宿した。
「奇跡は、誰かの命で贖われる。それの、何がいけないのです。誰かが払わねば、誰も救われない。ならば、払う者と、救われる者を、選べばいい。……選ぶ者が、神であればいい。私は、そう決めたのです。あの日、妹の熱が引いた、その夜に」
ロリババアは、黙って、ガブリエルを見ていた。
その目に浮かんでいたのは、怒りではなかった。
ひどく、古い、哀しみだった。
「……あの人なら」
ロリババアは、小さく、言った。
「誰も払わずに済む理屈を、一緒に探そうと、言うたじゃろうな」
◇
俺は、檻の外にいた。
黒い硝子の格子に、両手をついて、檻の中を見ていた。
隣に、ラークが、地面に手をついたまま、膝をついていた。檻を作るのに、全身の力を使い果たしたのだろう。額から、汗が、滝のように流れていた。
「……親父。すんません。この檻、一度閉じたら、中の二人のどっちかが倒れるまで、オレにも、開けられねぇッス」
「わかってる」
「博識王の、注文どおりなんスけど。……誰も入れず、誰も出られず」
ラークの声が、かすかに、震えていた。炉の火で焼けた古い火傷の痕が残る腕が、地面についたまま、小刻みに痙攣していた。
広場の端では、レイラさんが、ミリエルとアベルを、銀色の陣で包んで守っていた。アルスとクレハが、氷に縫い止められた聖騎士たちの間に立って、檻を、じっと見ていた。セルカが、俺の隣に来て、黙って、俺の外套の裾を、指先でつまんだ。
「……あの狸」
アルスが、低く、呟いた。
「ババアの、一番柔らけぇとこを、狙ってきやがる」
クレハは、機関銃の引き金に指をかけたまま、奥歯を噛みしめていた。黒い硝子の檻の中には、銃王の弾も、届かない。届いたとしても、撃てる場面ではなかった。
檻の中で、ガブリエルが、一歩、前へ出た。
「姫君。……あなたに、お伝えしたいことがあります」
ガブリエルは、自分の胸に、そっと手を当てた。
「この心臓は、まだ、生きています。二百年前、あの方の胸から取り出された日から、ずっと。教会の地下で。冷たい石の中で。眠りながら、ずっと、待っていた」
ガブリエルの胸の光が、ゆっくりと、強くなった。
「何を、待っていたと思いますか」
ロリババアは、答えなかった。
「――あなたを、ですよ」
ガブリエルの声が、変わった。
二重だった声の、奥のほうの声が。少しずつ、少しずつ、前に出てきた。ガブリエル自身の声を、押しのけるように。
穏やかな、声だった。
少しだけ、困ったような、声だった。
「――サリナ」
ロリババアの肩が、びくりと、跳ねた。
◇
檻の外で、俺の背筋が、凍りついた。
聞いたことのない声だった。でも、わかった。
ロリババアの昔話の中で、何度も、何度も、聞いた気がした声。インクで汚れた指で、黒板に字を書きながら、魔術は才能じゃない、理屈なんだと、誰にでも語りかけていた、あの声。
「サリナ。……久しぶりだね」
ガブリエルの胸の光の中に、何かが、ぼんやりと、浮かび上がっていった。
人の形だった。
くたびれた、灰色の衣。少しだけ癖のある、柔らかそうな髪。顔は、光の中に霞んで、よく見えない。ただ、指先が、インクで、黒く汚れていた。
「……ずっと、会いたかった」
光の中の人影が、言った。
ロリババアの唇が、震えた。
小さな手が、ほんの少しだけ、持ち上がった。白い傷痕の走る、手のひら。
「……あ」
それは、俺が今まで、一度も聞いたことのない、ロリババアの声だった。
儂でも、じゃでもない。十九の娘の、声だった。
「……あなた、なの」
「僕だよ」
光の中の人影が、少しだけ、困ったように、笑った。
「ごめんね、サリナ。あの日、君を置いていって。……ずっと、謝りたかった」
ロリババアの目から、涙が、ひとしずく、こぼれた。
二百年、一度も泣かなかったはずの目から。
「僕は、まだ、ここにいる。……でも、ほんの少しだけなんだ。この人の胸を借りて、やっと、声を出せているだけ。このままじゃ、また、すぐに、消えてしまう」
光の中の人影が、インクで汚れた手を、ロリババアのほうへ、差し伸べた。
「君の血を、一滴だけ、くれないか。……そうしたら、僕は、本当に、目を覚ませる。また、君の隣に、帰れる」
ロリババアの手が、ゆっくりと、前へ、伸びていった。
白い傷痕の走る手のひらが。光の中の、インクで汚れた手のほうへ。
ガブリエルの懐から、銀の短剣が、音もなく、抜かれていた。光の中の人影の、陰に隠れて。ロリババアの手のひらに、刃先が、そっと、近づいていった。
◇
「――ロリババア!!」
俺は、叫んだ。
黒い硝子の格子を、両手で、殴りつけた。格子は、びくともしなかった。紅の記憶でできた檻は、俺の拳くらいでは、ひびひとつ入らなかった。
「ロリババア!! 聞こえるか!! そいつは、あの人じゃねぇ!!」
声が、檻の中に、届いているのかどうかも、わからなかった。
ロリババアの手は、止まらなかった。
光の中のインクで汚れた手に、あと、指一本。
「――あれは、あの人じゃねぇって、言ってんだろうが!!」
約束した。
月の下の、森の家の裏庭で。わからなくなったら、俺が、隣で、怒鳴ってやると。
隣に、いないじゃないか。
檻の、外じゃないか。
「――親父」
足元から、ラークの、かすれた声がした。
「その檻……紅の記憶で、できてるッス。二百年前の、サリナさんの紅の」
「それが、どうした」
「紅と、同じ根っこのもんなら」
ラークは、汗だくの顔を上げて、俺の胸元を見た。
「……通る、かもしれねぇッス。親父の、碧なら」
俺は、自分の右手を見下ろした。
碧は、まだ、半分しか戻っていなかった。さっき、七本目の根を断つのに、さらに、少し使った。
それでも。
俺は、右手を、黒い硝子の格子に、押し当てた。
碧を、灯した。
――同じ根から、生まれたものなのですよ。
ガブリエルの言葉が、今度は、少しだけ、ありがたかった。
碧い炎が、黒い硝子の表面に、触れた。
触れて、染み込んだ。
硝子の中に、碧い光が、細い筋になって、走っていった。二百年前の紅の記憶の中を。檻の格子の、一本一本の中を。まるで、遠い親戚の家の廊下を、迷わずに駆け抜けていくみたいに。
俺の右手が、格子の中に、沈み込んでいった。
手首まで。肘まで。
格子の向こう側に、碧く光る指先が、突き抜けた。
◇
ロリババアの手のひらと、光の中のインクで汚れた手の、ちょうど、その間に。
碧い炎が、割り込んだ。
俺の指先から伸びた、細い、細い、碧い炎の糸だった。それが、ロリババアの、白い傷痕の走る手のひらに、そっと、触れた。
ロリババアの手が、止まった。
碧い炎が触れた手のひらから、紅いものが、ゆらりと、立ち昇った。
紅と、碧が、触れ合った。
その瞬間、光の中の人影が、揺らいだ。
蝋燭の炎が、風に煽られたみたいに。輪郭が、ぶれて、ほどけて、その向こうに、別の顔が、透けて見えた。
銀色の髪。皺ひとつない、整った顔。
慈愛に満ちた、ガブリエルの微笑み。
光の中の人影の、少しだけ困ったような笑顔が、その上に、重なって、ずれていた。ずれた隙間から、ガブリエルの微笑みが、覗いていた。
ロリババアは、それを、見た。
長いあいだ、見ていた。
それから、伸ばしかけた手を、ゆっくりと、引き戻した。
「――違う」
小さな声だった。
十九の娘の声では、もう、なかった。
「あの人は」
ロリババアは、白い傷痕の走る手のひらを、胸の前で、ぎゅっと、握りしめた。
「――そんな顔で、笑わん」
光の中の人影が、凍りついた。
ガブリエルの手の中の、銀の短剣が、ロリババアの手のひらの、ほんの手前で、止まっていた。
◇
「……ハスト」
ロリババアが、振り返らずに、言った。
檻の格子に、肘まで腕を突っ込んだまま、俺は、その背中を見ていた。
「聞こえておったぞ。……やかましい」
「……聞こえてんなら、さっさと返事しろよ」
「阿呆」
ロリババアの肩が、ほんの少しだけ、揺れた。笑ったのかもしれなかった。
それから、ロリババアは、言った。
「手を、引け」
「……ロリババア」
「ここからは、儂の喧嘩じゃ」
ロリババアの手のひらから立ち昇る紅が、少しずつ、濃くなっていった。
でも、揺れていなかった。
森の焼け跡で見たときのように、わずかに揺らいでいた紅ではなかった。ぴたりと凪いだ湖面のような、静かな紅だった。俺が、物心ついたときから見てきた、ロリババアの紅だった。
「――ありがとうよ、ハスト」
その声は、とても小さくて、とても、優しかった。
俺は、格子の中から、ゆっくりと、腕を引き抜いた。
碧い炎の糸が、ロリババアの手のひらから、すうっと、離れていった。
離れる直前に、紅と碧が、ほんの一瞬だけ、指を絡めるように、重なった。
◇
檻の中で、光の中の人影が、消えた。
残ったのは、ガブリエルだけだった。
胸の奥で明滅する、心臓の光。その光を纏ったまま、ガブリエルは、銀の短剣を握りしめて、ロリババアを見下ろしていた。
慈愛に満ちた微笑みは、もう、どこにもなかった。
「……愚かな」
ガブリエルの声が、ひび割れていた。
「あと、一滴だった。あと一滴で、あなたの神は、戻ってきたのに」
「戻ってはこん」
ロリババアは、言った。
「あの人は、二百年前に、死んだ。この柵の向こうで。儂の目の前で。……死んだ者は、戻らん。心臓を、何度、動かそうとも」
ロリババアは、檻の外の、折れた柵を、ちらりと見た。
それから、ガブリエルに、向き直った。
「ガブリエル。お主に、ひとつ、教えてやろう」
紅が、ロリババアの小さな身体の周りに、静かに、満ちていった。
「二百年前、儂は、この都を焼いた。怒りに任せて。泣いて止めようとした者も、ただ見物に来ておっただけの者も、区別なく。……その罪は、二百年経っても、消えはせん」
ロリババアの目が、ガブリエルを、まっすぐに見据えた。
「じゃがな。あの日から、儂は、二百年、この紅を研いできた」
紅が、檻の中を、満たしていった。
黒い硝子の格子が、紅の光を受けて、内側から、赤く、透けていった。
「二度と、焼くべきでないものを、焼かぬように。……焼くべきものだけを、焼けるように」
檻の外で、俺は、息を詰めて、それを見ていた。
隣で、セルカの指先が、俺の外套の裾を、ぎゅっと、握りしめていた。
「――来い、偽りの神」
ロリババアは、言った。
十歳にしか見えない、小さな背中だった。
でも、その背中は、俺が知っているどんな背中よりも、大きかった。
黒い硝子の格子の、俺の碧が通り抜けた跡に、細い碧の筋が、まだ、かすかに残っていた。檻の外の広場で、誰ひとり、息をする音さえ、立てなかった。
「二百年前の、続きじゃ」




