72 偽りの神と、七本の根
心臓が、ガブリエルの胸の中に、消えた。
一瞬、何も、起こらなかった。
それから、ガブリエルの身体が、内側から、光り始めた。
白い光だった。神威の乳白色ではなかった。もっと濃く、もっと冷たい、骨のような白。皮膚の下を、無数の光の筋が、血管のように走っていった。銀色の髪が、根元から、白く透けていった。穏やかな顔の輪郭が、光の中に、溶けていった。
ガブリエルの足元の石畳に、亀裂が走った。
亀裂から、光の根が、溢れ出した。
一本ではなかった。何十本、何百本。太いもの。細いもの。白く光る根が、石畳を割り、土を掘り、広場の外へ、森の外へ、四方八方へと、凄まじい速さで、伸びていった。
広場の周りの木々が、根に触れた瞬間、葉を落とした。幹が、みるみるうちに、白く枯れていった。
「――ああ」
ガブリエルの口から、声が漏れた。
二重の声だった。ガブリエル自身の声と、その奥で、何か別のものが、同時に喋っているような。
「満ちていく。……満ちていく」
ガブリエルは、両手を広げた。光の中で、その顔は、恍惚に、歪んでいた。
「聞こえますか、少年。王都中の石の声が。剣を握る聖騎士たちの命が。この森の、木々の命が。……全部、全部、私の中に、流れ込んでくる」
俺の胸の奥で、碧が、また、引っ張られた。
さっきよりも、ずっと強く。
石段の上で、膝が、崩れかけた。隣で、セルカが、俺の腕を掴んだ。
広場の端で、ミリエルが、悲鳴を上げた。右の手のひらの傷口から、白い光の糸が、また、伸び始めていた。ガブリエルの足元の根の一本と、繋がっていた。レイラさんが、銀色の刃で、その糸を断ち切った。断ち切った端から、また、新しい糸が、伸びてきた。
石畳の上で眠っていたアベルの胸元の、ひびだらけの欠片からも、細い根が、伸び始めていた。アベルの寝顔が、苦しげに、歪んだ。
「――姫君」
ガブリエルは、広場を見回した。焼け焦げた塔を。崩れた石段を。折れた柵を。
「おいでなさい。……あなたの神が、お待ちですよ」
◇
『――ハスト。聞こえるか』
胸元の、伝言の水晶から、声がした。
エトワールだった。
『根が、出たな』
「……見えてんのか」
『見えていない。森の中は、遠見が喰われて、真っ暗だ』
エトワールの声は、落ち着いていた。
『だが、何が起きているのかは、わかる。……王都の東門で、まだ石を割っていない聖騎士たちが、一斉に膝をついた。剣聖からの報せだ。分館で捕らえた審問官たちの、懐に隠していた石が、光り始めた。クレハからの報せだ。……ガブリエルが、心臓を、胸に入れたんだろう』
「ああ」
『想定どおりだ』
エトワールは、言った。
『ラーク。聞こえるか』
広場の外側の、崩れた壁の陰から、地響きのような足音が、近づいてきた。
ラークだった。作業着の袖をまくり上げ、丸太みたいな腕に、炉の火で焼けた古い火傷の痕を浮かび上がらせて。
「――聞こえてるッスよ、博識王」
ラークは、広場の端の石畳に、両膝をついた。
それから、分厚い両手のひらを、地面に、叩きつけた。
錬成の光が、ラークの手のひらから、溢れ出した。
光は、石畳の継ぎ目を伝って、広場じゅうに、広がっていった。広がった光が、石畳の下を這う、ガブリエルの白い根の一本一本を、なぞるように、浮かび上がらせていった。
光の、地図だった。
ガブリエルの足元から、四方八方へ伸びる、何百本もの根。その根が、少し先で、より合わさって、太い根になっていた。
七本の、太い根に。
「昨日一日かけて、この広場の石、全部、読んだッス」
ラークが、地面に手をついたまま、言った。
「二百年前のサリナさんの紅で溶けた石は、紅の記憶を、全部、覚えてる。……で、紅と同じ根っこの奴が、この石の上で、根を張ろうとしたら、石が、全部、教えてくれるんスよ。どこに、どう、伸びてるか」
ラークの光の地図の上で、七本の太い根が、それぞれ、別の方角へ、伸びていた。
『――七本だな』
エトワールの声がした。
『一本目。東門の、聖騎士たちの石へ。二本目。王都の中央広場の、燭台の残骸と、審問官たちの石へ。三本目。分館の、審問官たちの石へ。四本目。この森の、木々へ。五本目。アベルの欠片へ。六本目。ミリエル嬢へ』
エトワールは、そこで、ほんの少しだけ、言葉を切った。
『七本目。……ハスト。君の碧へ』
俺は、自分の胸元を、見下ろした。
ラークの光の地図の上で、一番太い根の一本が、まっすぐに、俺の足元まで、伸びてきていた。
『根を、全部、同時に断つ』
エトワールは、言った。
『一本でも残れば、ガブリエルは、そこから、命を吸い続ける。……全員、配置につけ』
◇
最初に応えたのは、東門だった。
『――一本目、了解だよ』
シュベルトの声が、水晶から、聞こえた。
『膝をついた騎士たちの石、全部、割ればいいんだね。……団長殿、右から頼むよ』
『承知』
水晶の向こうで、聖剣が、鞘から抜かれる音がした。
次に、時計塔の上から。
『――おーほっほっほ! 二本目、お任せくださいまし!』
エレナの声だった。
『中央広場の残骸は、もう、ワタクシの矢で、片付けておきましたわ! それより、博識王さま』
『何だい』
『森の中の根も、少しくらい、ワタクシが受け持って差し上げてもよろしくてよ?』
エトワールは、一瞬、黙った。
『……エレナ嬢。王都の時計塔から、迷いの森の奥まで、どれだけ離れていると思っている』
『存じ上げませんわ!』
エレナの声は、高らかだった。
『でも、お仲間に何かあったら、ワタクシの矢は、どこへでも飛んでいきますわ。……狙いさえ、しなければ』
水晶の向こうで、弓弦が、引き絞られる音がした。
『――お仲間の皆さま、どうか、ご無事で』
◇
三本目は、分館だった。
広場の真ん中の空間が、ぱくりと裂けた。
裂け目から、二つの影が、飛び出してきた。外套の袖が裂けた、くたびれた灰色の男。それから、機関銃を担いだ、豪快に髪を結い上げた女。
アルスと、クレハだった。
レイラさんが、ミリエルを庇いながら、もう片方の手で、転移の陣を開いていた。
「――分館の石は、来る途中で、全部、片付けてきたよ」
クレハが、機関銃を構えながら、言った。
「審問官どもの懐から、一個残らず、引っぺがして、撃ち抜いてきた」
アルスは、広場の真ん中で光るガブリエルを見て、それから、石段の上で膝をついている俺を見た。
「……ひでぇ顔だな、相棒」
「お互い様だ」
アルスは、鼻を鳴らした。
それから、顎に、親指を当てた。
全知の書が、頭の中に答えを放り込んだのだろう。アルスの目が、ラークの光の地図の、四本目の根を、見下ろした。森の木々へ伸びる、太い根。
「……四本目は、俺だな」
アルスは、右手で、指鉄砲の形を作った。
右腕から、紅い煙が、立ち昇った。
「――俺は、ここに誓う。言の葉よ、ここに刻め」
アルスの声が、低く、広場に響いた。
「この森の木は、一本たりとも、あの狸の餌にはさせねぇ。……あのババアが、二百年かけて育てた墓だ」
紅い光が、指鉄砲の銃口から、地面へと、撃ち込まれた。
◇
五本目の根が、アベルの胸の欠片へ、伸びていた。
眠っているアベルの顔が、苦しげに、歪んでいた。欠片のひびの隙間から、アベルの命が、根に吸い上げられていく。
セルカが、俺の腕から、手を離した。
とことこと、アベルのそばへ歩いていった。
それから、アベルの胸元の欠片に、そっと、手を当てた。
「……この子も」
セルカは、小さく、呟いた。
「……捨てさせない」
アベルの胸元から伸びる根に、薄い霜が、走った。根が、凍って、止まった。止まった根が、セルカの指先で、ぽきりと、折れた。
折れた根の断面で、時間が、止まっていた。
◇
六本目の根は、ミリエルの右手の傷口へ、伸びていた。
レイラさんが、何度、断ち切っても、根は、次から次へと、新しい糸を伸ばしてきた。
「――賢者、さま」
ミリエルが、レイラさんの腕の中で、言った。
「手を、離してください」
「ミリエルさん?」
「切っても、切っても、だめなんです。あの心臓は、私の血の味を、覚えているから。……私の命が、あの心臓のほうへ流れていく限り、何度でも、繋がってしまう」
ミリエルは、血に濡れた右手を、胸の前に、持ち上げた。
傷口から伸びる、白い光の糸を、じっと見つめた。
「四年前、碧い炎の人が、教えてくれました。糸を、握り返せ、って」
ミリエルは、自分の右手で、その糸を、掴んだ。
「――今度は、握り返すんじゃない」
鳶色の目が、まっすぐに、ガブリエルを見据えた。
「取り返すんです。……私の命は、私のものだから」
ミリエルは、糸を、引いた。
自分の胸のほうへ。
ガブリエルの足元の根から、白い光が、逆流し始めた。ミリエルの命が、根を伝って、ミリエルの胸へと、戻っていった。戻っていくたびに、ミリエルの頬に、血の気が、戻っていった。
最後の一滴まで、引き戻したとき。
白い糸は、ミリエルの手の中で、ぷつりと、ちぎれた。
◇
そして、七本目。
俺の足元へ伸びる、一番太い根。
胸の奥の碧が、まだ、ガブリエルのほうへ、引っ張られていた。
――同じ根から、生まれたものなのですよ。
ガブリエルの言葉が、頭の中で、響いていた。
あなたの碧も。あの姫君の紅も。すべて、二百年前に断罪された、あの神の、残り滓だ。
俺は、石段の上で、ゆっくりと、立ち上がった。
碧は、まだ、半分しか戻っていなかった。足が、震えていた。
それでも、立った。
「――あんたの言う通りなのかもしれねぇ」
俺は、言った。
「この碧が、どこから来たのか。俺は、知らない。……あの人の残り滓なのかもしれない。ロリババアの紅と、同じ根っこから、生えてきたもんなのかもしれない」
右手を、持ち上げた。
手のひらに、碧が、灯った。小さな、碧い炎だった。四年前の、あの雪の夜に生まれたときと同じくらい、小さな炎。
「でも」
俺は、碧い炎を、握りしめた。
「――これは、俺のだ」
ロリババアが、森の焼け跡で、言ってくれた。お主の碧は、お主のものじゃ。儂の紅とは違う。
あの雪の夜に、何かが壊れて、何かが生まれた。その何かを、四年間、抱えて、悩んで、怖がって、それでも、手放さずに、ここまで持ってきた。
誰に返す義理も、ない。
握りしめた碧が、手のひらの中で、一振りの、短い権になった。
俺は、その権を、自分の足元の根に、突き立てた。
◇
七本の根が、同時に、断たれた。
東門で、シュベルトとセラフィンの剣が、最後の石を割った。
迷いの森の上空から、光の矢が、雨のように降ってきた。何十本も。何百本も。王都の時計塔から、狙いもつけずに放たれた矢が、夜空を渡って、森の奥の、根の結び目の一つ一つの、ちょうど真ん中に、突き刺さっていった。
アルスの紅い誓いが、森の木々へ伸びる根を、焼き切った。
セルカの止まった時間が、アベルの欠片へ伸びる根を、折った。
ミリエルが、自分の命を、取り返した。
俺の権が、俺の碧へ伸びる根を、断ち切った。
ガブリエルの足元から伸びていた、何百本もの根が、一斉に、光を失った。白く光っていた根が、灰色に枯れて、土の中で、さらさらと崩れていった。
ガブリエルの身体を包んでいた光が、揺らいだ。
「……なに」
二重の声が、初めて、揺れた。
「根が。……私の、根が」
『――ラーク』
エトワールの声が、水晶から、響いた。
『今だ』
ラークが、地面についた両手のひらに、全身の力を込めた。
「――錬成」
広場の石畳が、震えた。
二百年前、紅に焼かれて、溶けて、硝子のように固まった石が。広場じゅうの、黒く焼けた石の欠片が。ひとりでに、浮かび上がった。浮かび上がって、渦を巻いて、ガブリエルの周りに、集まっていった。
集まった石が、柱になった。
黒い硝子の柱が、ガブリエルを囲んで、何十本も、地面から突き上がった。柱と柱の間を、黒い硝子の格子が、蜘蛛の巣のように、繋いでいった。頭上で、柱の先端が、ひとつに寄り合って、閉じた。
檻だった。
二百年前の紅が溶かした石で作られた、黒い硝子の、巨大な檻。
その檻の中に、ガブリエルが、ひとりで、立っていた。
根を、すべて失って。
『――盤面、終局です』
エトワールの声が、静かに、広場に響いた。
その声は、俺に向けられたものではなかった。
広場を見下ろす、焼け焦げた塔の、ぎざぎざの頂上へ。
『サリナ殿。……あとは、お任せします』
塔の頂上から、小さな人影が、ふわりと、宙へ、踏み出した。
黒い衣の裾が、夜風に、はためいた。
十歳にしか見えない、小さな身体が、月の光を背にして、ゆっくりと、ゆっくりと、黒い硝子の檻の中へ、降りていった。




