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71 止まった時間の、その先で

「――四年ぶりですね」


ガブリエルは、広場の入口で、足を止めた。


銀色の髪が、月の光を受けて、白く光っていた。皺ひとつない、整った顔。穏やかな、慈愛に満ちた微笑み。四年前、聖都の大階段の上で、深紅の法衣を纏って、浄めの火を見下ろしていた顔と、何ひとつ変わっていなかった。


ただ、その目の奥だけが、四年前より、ずっと、乾いていた。


「あの日、大階段の上から、私の心臓を砕いた、碧い小鬼。……まさか、こんな森の奥で、再び相見えることになるとは」

「心臓を砕いたのは、悪かったな」


俺は、頭を掻いた。


「あんたのじゃなかったけどな」


ガブリエルの微笑みが、ほんのわずかに、深くなった。


「お退きなさい、少年。あなたに用はありません。……私が会いに来たのは、この森の主です」

「ここの主は、今、昼寝中だ」

「では、起こすまでです」


ガブリエルが、片手を上げた。


聖櫃を囲んでいた聖騎士たちが、一斉に、剣を抜いた。二十人。全員の柄頭に、乳白色の石。神威の光が、二百年前の刑場の跡を、白く照らし出した。


広場の端で、レイラさんが、ミリエルを背中に庇って、片手を前に突き出していた。手のひらに、銀色の陣が、浮かび上がっている。


「ハスト様! こっちは、私が!」

「頼む」


聖騎士たちが、殺到した。


◇


俺は、右手を、横に払った。


碧が、走った。


手のひらから溢れた碧い光が、一振りの剣の形をとった。権。俺の覇権が形をとった、碧い剣。


最初の五人が、俺の間合いに、踏み込んできた。


権を、一閃させた。


五人の剣の柄頭の石が、五つ、同時に、真ん中から割れた。


神威の光が、消えた。五人は、勢いのまま、俺の両脇をすり抜けて、石畳の上に、たたらを踏んで転がった。


次の七人が、左右から、回り込んできた。


権を、二本に増やした。


右手と、左手。二振りの碧い剣が、夜の中に、碧い弧を描いた。七つの石が、割れた。


背後から、三人が、斬りかかってきた。


振り返らなかった。権を、三本目、背中に浮かべた。三本目の権が、勝手に、背後の三つの石を、割った。


二十人の聖騎士は、ほんの十数える間に、全員、石を失って、石畳の上に転がっていた。


広場の入口で、ガブリエルは、微笑んだまま、それを見ていた。


「――お見事」


ガブリエルは、静かに、手を叩いた。


「さすがは、四年前に、私の心臓を砕いた碧です。……ですが、少年。あなたは、ひとつ、勘違いをしている」


ガブリエルは、背後の聖櫃を、振り返りもせずに、指差した。


「その碧が、どこから来たものなのか。……あなたは、知らない」


聖櫃の蓋が、ずれた。


隙間から、乳白色の光が、溢れ出した。


◇


最初は、ほんのかすかな、引っかかりだった。


胸の奥で。碧の、一番深いところで。


誰かに、袖を、つままれたような感覚。


次の瞬間、それは、袖ではなくなった。


胸の奥の碧が、まるごと、引っ張られた。


聖櫃のほうへ。箱の中で脈打つ、何かのほうへ。磁石に吸い寄せられる鉄の粉みたいに、俺の碧が、俺の身体から、勝手に、溢れ出していこうとしていた。


権が、手の中で、揺らいだ。碧い剣の輪郭が、ぼやけて、溶けて、霧のように、聖櫃のほうへ流れていった。


膝が、がくりと、崩れかけた。


「――同じ根から、生まれたものなのですよ」


ガブリエルの声が、どこか遠くから、聞こえた。


「あなたの碧も。あの姫君の紅も。紅い悪魔の悪魔の書も。……すべて、二百年前に断罪された、あの神の、残り滓だ。だから、神の心臓は、それを呼ぶ。自分の一部だったものを。……返せ、と」


石畳に、片膝をついた。


両手を、地面についた。指先が、震えていた。碧が、身体から、どんどん抜けていく。抜けていくたびに、身体の芯から、熱が、奪われていく。


――あの人の『能力』による産物。


ロリババアの、紅のことだと思っていた。


俺の碧も、そうだったのか。


「ハスト様!!」


レイラさんの声がした。


視界の端で、レイラさんが、こちらへ駆け出そうとして、銀色の陣を、俺のほうへ伸ばそうとして。


その陣が、ふっと、消えた。


レイラさんの目の前に、白い髪の少年が、立っていた。


アベルだった。胸元の光が、レイラさんの陣を、まるごと、吸い込んでいた。


「賢者さまの魔術、すごく、おいしいね」


アベルは、抑揚のない声で言った。


それから、くるりと、こちらを向いた。


硝子玉の目が、石畳に膝をついた俺を、見た。


「……でも」


アベルの目が、ほんの少しだけ、細くなった。


「あの碧のほうが、もっと、おいしそう」


◇


アベルが、俺の前に、しゃがみ込んだ。


小さな手が、俺の胸に、ぺたりと置かれた。


冷たかった。氷よりも、もっと、温度のない手。


その手のひらの下で、俺の碧が、さらに、ごっそりと、抜けていった。聖櫃のほうへ引っ張られていた碧の、残りの半分を、アベルの胸の欠片が、直接、吸い上げていた。


視界が、暗くなった。


息が、できなくなった。


「――おいしい」


アベルが、恍惚とした声で、呟いた。


「君の碧、すごく、深くて、苦くて、あったかい。……こんなの、初めて」


広場の端で、ミリエルが、何かを叫んでいた。


ガブリエルが、ゆっくりと、こちらへ歩いてきていた。その手に、銀の短剣が、握られていた。


「よくやりました、アベル」


ガブリエルの声が、すぐ近くで、聞こえた。


「その碧を、全部、心臓の糧にしましょう。……それから、ゆっくりと、森の主を、お迎えに上がる」


銀の短剣が、俺の首筋の上に、かざされた。


月の光を受けて、刃が、白く光った。


指先ひとつ、動かなかった。


碧が、もう、ほとんど、残っていなかった。


――間に合わなかった。


二百年前の、あの柵の前で。ロリババアが、手のひらを裂きながら、叫んでいた、あの景色が、頭の中に浮かんだ。


ガブリエルの短剣が、振り下ろされた。


◇


振り下ろされた短剣が、止まった。


俺の首筋の、ほんの指一本手前で。


止まっていた。


短剣だけではなかった。


ガブリエルの、振り下ろしかけた腕が。銀色の髪の、一本一本が。俺の胸に手を置いたアベルの、恍惚とした顔が。広場の端で、こちらへ手を伸ばしかけたミリエルの、指先が。その前で、銀色の陣を張り直そうとしていたレイラさんの、唇の形が。


全部が、止まっていた。


頭上で、焼け焦げた塔の梢から舞い落ちていた木の葉が、一枚、宙に浮いたまま、くるりとも回らずに、止まっていた。


音が、なかった。


風も、なかった。


自分の心臓の音さえ、聞こえなかった。


それなのに、俺の頬に、何かが、そっと、触れた。


冷たい、小さな手だった。


「――ハストさま」


すぐ耳元で、声がした。


淡い水色の目が、俺の顔を、覗き込んでいた。銀がかった淡い髪が、止まった世界の中で、ただひとつ、ふわりと揺れていた。


セルカだった。


「……間に合った」


セルカの手のひらが、俺の頬に触れた瞬間、止まっていた俺の身体に、ほんの少しだけ、時間が、戻ってきた。


息が、吸えた。


指先が、動いた。


「……セル、カ」

「……しゃべらないで。……ハストさま、碧、ほとんど、ない」


セルカは、俺の胸に置かれたアベルの手を、指先で、ちょんとつまんだ。それから、まるで、壊れ物でも扱うみたいに、そっと、俺の胸から、引き剥がした。


アベルの手は、止まったまま、宙に浮いていた。


セルカは、俺の脇の下に腕を差し込んで、引きずるようにして、銀の短剣の下から、俺の身体を、引っ張り出した。


小さな身体の、どこにそんな力があるのか。いや、力ではないのだろう。止まった世界の中では、たぶん、重さも、止まっているのだ。


セルカは、俺を、広場の端の、崩れた石段の上に、そっと横たえた。


それから、立ち上がって、止まった世界の真ん中へ、とことこと、歩いていった。


◇


セルカは、まず、ガブリエルの前で、足を止めた。


振り下ろしかけたまま止まった、銀の短剣。その切っ先は、ついさっきまで俺の首筋があった場所の、指一本手前の空を、まだ、指していた。


セルカは、その切っ先を、じっと見上げた。


湖の底から、水面を見上げるような目だった。いつもと同じ、穏やかな目。その底の、ずっと深いところで、何かが、冷たく、ゆっくりと、渦を巻いていた。


「……おまえ」


セルカの声は、静かだった。ひどく、静かだった。


「……ハストさまに、何を、向けた……?」


止まった世界の中で、ガブリエルは、答えなかった。答えられるはずもなかった。


セルカは、白い指先で、短剣を握ったガブリエルの手首に、そっと触れた。手首から肘まで、薄い霜が、音もなく這い上がっていった。


「……今は、これだけ」


セルカは、ガブリエルの顔を見上げたまま、小さく、呟いた。


「……ハストさまが、先」


それから、くるりと背を向けて、アベルのほうへ、歩いていった。


セルカは、次に、アベルの前に立った。


止まったままの、白い髪の少年。俺の碧を吸い上げて、恍惚とした顔のまま、凍りついている。


セルカは、その胸元に、そっと、手を当てた。


乳白色の光が、止まったまま、そこにあった。神の欠片。魔術を、喰らう欠片。


「……これ、ハストさまの碧、食べた」


セルカは、小さく、呟いた。


「……返して」


セルカの手のひらから、何かが、アベルの胸元へ、流れ込んでいった。


氷ではなかった。冷気でもなかった。


止まった時間、そのものだった。


アベルの胸の欠片が、それを、喰らおうとした。喰らおうとして。止まった時間の中で、喰らうという動きそのものが、止まった。止まったまま、それでもなお、喰らおうとして。


欠片に、ひびが、走った。


一本。二本。三本。止まった時間の中で、ひびだけが、静かに、静かに、広がっていった。


ひびの隙間から、碧い光が、溢れ出した。


俺の碧だった。アベルが吸い上げた碧が、ひびの隙間から漏れ出して、止まった世界の中を、ゆっくりと、漂って、石段の上の、俺の胸へ、帰ってきた。


身体の芯に、熱が、戻ってきた。


次に、セルカは、聖櫃の前に立った。


蓋の隙間から溢れ出した乳白色の光が、止まったまま、細い糸のように、何十本も、宙に伸びていた。その糸の何本かが、俺のほうへ。何本かが、ミリエルのほうへ。


セルカは、その糸を、一本ずつ、指先で、凍らせていった。


凍った糸は、止まった世界の中で、ぽきり、ぽきりと、折れていった。


それから、セルカは、広場じゅうに転がっている、聖騎士たちの間を、歩いて回った。ひとりずつ、その手足を、薄い氷で、石畳に縫い止めていった。審問官たちも。ガブリエルの足元も。


長い時間が、経っていた。


止まった世界の中で、どれくらいの時間が経ったのかは、わからない。でも、セルカは、ずっと、動き続けていた。ひとつ凍らせて、ひとつ折って、ひとつ縫い止めて。息も切らさずに。


俺は、石段の上で、それを、ぼんやりと見ていた。


おかしい、と思った。


――時を止めるには、代償が要る。お主は、お主自身の時間を払うことになる。


ロリババアは、そう言っていた。


止めている間じゅう、セルカは、自分の時間を、払い続けているはずだった。ほんの一瞬、汗の粒を止めるのがやっとだった子が。これだけの長い時間、世界を止め続けて。


それなのに、セルカは、疲れた様子ひとつ、見せなかった。


全部を終えて、俺のところへ戻ってきたセルカは、首を、こてんと傾げた。


「……へんなの」

「……何がだ」

「……いくらでも、止めていられる。……ぜんぜん、疲れない」


セルカは、自分の手のひらを、不思議そうに見下ろした。


「……サリナさま、代償が要るって、言ってたのに」


それから、少しだけ考えるように、首を傾げて。


ふいに、淡い水色の目を、細めた。


「……これも、ハストさまへの、愛の、けっか、かな……? ……ふふっ」


セルカは、膝を抱えて、小さく笑った。止まった世界の中で、その笑い声だけが、ころころと、転がっていった。


◇


止まった世界の、ずっと外側で。


広場を見下ろす、焼け焦げた塔の、ぎざぎざの頂上に。


小さな人影が、ひとつ、立っていた。


黒い衣。十歳にしか見えない、小さな身体。


サリナだった。


博識王の盤面では、ガブリエルが、ひとりになるまで、姿を見せてはならないことになっていた。だから、サリナは、塔の上から、ずっと、全部を見ていた。ハストが膝をついたのも。短剣が振り下ろされたのも。


そして、セルカが、世界を止めたのも。


サリナの小さな手が、塔の縁の、溶けて硝子になった石を、ぎゅっと、握りしめていた。


止まった世界の外側からは、何も、見えないはずだった。


でも、サリナには、わかった。時空魔術を、二百年、使い続けてきた者だけにわかる、時の流れの、歪み。


――払っておらん。


サリナの唇が、震えた。


――あの子、時間を、払っておらん。


時を止めておる間は、時は、流れん。流れぬ時の中で払う代償は、いつまでも、払い終わらん。払い終わらぬ借りは、いつまでも、借り続けることができる。


理屈の、矛盾だった。


時を止める術が、時を代償にするという、その仕組みそのものに、最初から、空いておった穴。二百年、誰も、その穴に、気づかなかった。サリナ自身でさえ。


あの子は、その穴の底から、いくらでも、汲み上げておる。


底なしの、力を。


本人は、何ひとつ、気づかぬまま。


「……なんという、子じゃ」


サリナの声は、ひどく、かすれていた。


恐れなのか。喜びなのか。サリナ自身にも、わからなかった。


◇


世界に、音が、戻った。


風が、吹いた。宙に止まっていた木の葉が、くるくると回りながら、石畳に落ちた。


ガブリエルの短剣が、振り下ろされた。


何もない石畳を、斬った。


ガブリエルの目が、見開かれた。


足元が、薄い氷で、石畳に縫い止められていた。周りの聖騎士たちも。審問官たちも。全員が、手足を氷で縫い止められて、身動きひとつ取れずに、呻いていた。


聖櫃から伸びていた乳白色の糸は、一本残らず、凍って、折れていた。


アベルが、石畳の上に、仰向けに倒れていた。


胸元の欠片に、無数のひびが走っていた。硝子玉の目が、ぼんやりと、夜空を見上げていた。


「……おなか、すいた」


アベルは、ぽつりと、呟いた。


「……へんなの。……はじめて。……おなか、すいたって、思った」


神の欠片を埋め込まれてから、一度も感じたことのなかった、空腹。止まっていたアベルの身体の時間が、ひび割れた欠片の隙間から、ほんの少しだけ、動き出したのかもしれなかった。


それきり、目を閉じた。胸が、静かに、上下していた。眠っているだけだった。欠片を埋め込まれてから、一度も眠れなかったはずの少年が。


広場の端で、レイラさんが、ミリエルを抱きしめたまま、呆然と、こちらを見ていた。


俺は、石段の上で、身体を起こした。


碧は、まだ、半分も戻っていなかった。それでも、立てた。


隣に、セルカが、膝を抱えて座っていた。


俺は、その頭に、手を乗せた。


ぽん、と、撫でた。


「……助かった」


セルカは、膝に顔を埋めたまま、小さく、小さく、呟いた。


「……五十三」


◇


ガブリエルは、氷に縫い止められたまま、ゆっくりと、顔を上げた。


慈愛に満ちた微笑みは、もう、どこにもなかった。


代わりに、その顔に浮かんでいたのは、ひどく静かな、乾いた笑みだった。


「――なるほど」


ガブリエルは、言った。


「時を、止めましたか。……羅針盤も、鍵も、使い物にならなくなった。聖騎士は、全員、縫い止められた。王都の騒ぎも、おそらく、すべて、あの眼鏡の博識王に、潰されているのでしょう」


ガブリエルは、懐から、ずぶ濡れの聖布を取り出して、石畳の上に、放り捨てた。


「ならば、器は、今ここで、満たすまでです」


ガブリエルの足元の氷が、内側から、砕けた。


ガブリエルの身体から、乳白色の光が、溢れ出していた。法衣の下で、何かが、光っていた。四年前、胸元に下げていた、拳ほどの石。その何倍もの大きさの光が、ガブリエルの胸の奥で、脈打っていた。


ガブリエルは、聖櫃の蓋に、手をかけた。


蓋を、跳ね上げた。


中には、心臓があった。


人の頭ほどの大きさの、乳白色の、結晶。表面に、無数の細い管が、根のように絡みついている。四年前に砕いた光神の心臓よりも、ずっと小さかった。でも、ずっと、ずっと、濃かった。


その心臓を、ガブリエルは、両手で、抱き上げた。


それから、自分の胸に、押し当てた。


「――二百年前に、引き裂かれた神よ」


ガブリエルの声が、震えていた。恍惚に。


「今宵、我が身を、御身の器と、なさしめたまえ」


心臓が、ガブリエルの胸の中へ、沈み込んでいった。


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