↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/142

70 聖女の選択

聖火の礼拝が始まる、少し前のことだった。


ミリエルは、迎賓館の裏口から、白い馬車に乗せられた。


「聖女さまには、別の務めがございます」


ヴィンセントは、柔和な笑みで、そう言った。


「北の森で、祈りを捧げていただきたいのです。和解の夜に、この国の古き魂を、鎮めるための祈りを」


ミリエルは、何も訊かなかった。訊いても、本当のことは、教えてもらえないとわかっていた。


馬車の中には、先客がいた。


白い髪の少年。アベル。それから、フードを目深にかぶった、年老いた従僧。


馬車は、王都の北門を抜けて、夜の街道を、北へ走った。窓の外では、南の空に、色とりどりの花火が咲いていた。王都の中心のほうには、白い光が、ぼんやりと滲んでいた。


ミリエルは、胸元の聖布を、両手で握りしめていた。


――あとで。


屋上で、賢者さまが、唇だけで言った言葉。あれが、何を意味していたのか、ミリエルには、わからなかった。


ただ、この数日、聖布に触れるたびに、指先に、ほんのかすかな温もりを感じるようになっていた。白い布の織り目の奥に、何か、細くて、温かいものが、一本だけ、寄り添っているような。


◇


馬車は、森の入口で、止まった。


鬱蒼とした、黒い森だった。月の光も、梢に遮られて、ほとんど届かない。木々の間を、冷たい霧が、ゆっくりと流れていた。


迷いの森。


一度足を踏み入れたら、二度と出てこられない森。王都の子どもなら、誰でも、そう教えられて育つ。


森の入口には、すでに、何人かの者が待っていた。白い鎧の聖騎士が、二十人ほど。それから、白い法衣の審問官が、四人。四人は、肩に、白い木の棺のような箱を担いでいた。金の象嵌。光の神の聖印。


聖櫃だった。


ミリエルは、その箱を見た瞬間、息が止まった。


箱の中から、何かが、脈を打っていた。


聞こえたのではなかった。感じたのだ。胸の奥で。四年前まで、毎日、毎日、手を当てて、祈らされていた、あれと、同じ鼓動を。


ミリエルの膝が、震えた。


「――思い出しましたか、聖女」


背後から、声がした。


年老いた従僧の声だった。でも、さっきまで、馬車の中で一言も喋らなかった、あの乾いた老人の声ではなかった。もっと、滑らかで、もっと、深みのある。四年前、白い都の大聖堂で、何度も、何度も聞かされた声。


ミリエルは、ゆっくりと、振り返った。


従僧が、フードを、外していた。


銀色の髪。皺ひとつない、整った顔。穏やかな、慈愛に満ちた微笑み。


ガブリエル・ヴァルトハイム。


第八十八代教皇、ガブリエル一世。


「……猊、下」


ミリエルの唇が、震えた。


ガブリエルは、微笑んだまま、ミリエルの胸元の聖布に、そっと指先を触れた。


「あなたには、大切な役目があります。聖女。……あなたが、我らを、導くのです」


◇


アベルが、森の入口の、一番手前の木の幹に、手を当てた。


白い法衣の胸元が、淡く、光った。乳白色の光。


森が、軋んだ。


風が吹いたのではなかった。森そのものが、身をよじったのだ。木々の枝が、一斉に、ざわりと揺れた。足元の霧が、渦を巻いた。


アベルの手のひらの下で、木の幹に、目に見えない何かが、浮かび上がっては、消えていった。網の目のような、細い光の線。森じゅうに張り巡らされた、方向を狂わせる術式。


その術式が、アベルの手のひらへ、吸い込まれていった。


一本ずつ。ほどかれるように。


木々の間に、一本の、まっすぐな道が、現れた。


さっきまで、どこにもなかった道だった。霧が、その道の両脇に、壁のように押しのけられていた。


「――開いたよ」


アベルが、胸元を撫でながら、言った。


「でも、この森の術式、すごく古くて、すごく固い。……全部は、食べきれない。道の、ぶんだけ」

「十分です」


ガブリエルは、微笑んだ。


それから、ミリエルの胸元を、見下ろした。


聖布が、光っていた。


ミリエル自身も、今、初めて、それに気づいた。白い布の織り目の奥で、何かが、淡く光って、震えていた。震えは、ある一方向へ、細く、細く、伸びていた。森の奥へ。アベルが開いた道の、さらにその先へ。


道を、指していた。


「……これ、は」


ミリエルの声が、かすれた。


「その布には、探索の糸を、縫い込んであります」


ガブリエルは、穏やかに言った。


「探しているものに、近づくほど、強く震える。……あなたの体は、四年間、神の心臓の通り道でした。神の匂いを、誰よりも、深く覚えている。その体を通して、糸は、神に最も近しかった者の匂いを、辿るのです」


ミリエルの頭の中に、ひとつの光景が、よみがえった。


学園の、屋上。


手すりの上に、ふわりと腰掛けた、黒い衣の、小さな少女。


――あの人の匂いが、お主の中に、まだ、ほんの少しだけ残っておる。


麦わら色の髪の上に、そっと置かれた、小さな手。


あたたかかった。泣きたくなるくらい、あたたかかった。


――あの方。


ミリエルの全身から、血の気が、引いていった。


「……私が」


ミリエルは、聖布を、両手で掴んだ。


「私が、あの方を、売るの……?」


◇


ガブリエルは、何も答えなかった。


ただ、慈愛に満ちた微笑みのまま、ミリエルを見下ろしていた。


ミリエルは、聖布を、胸元から、引きちぎった。


結び目が、裂けた。白い布が、ミリエルの手の中で、ひらりと揺れた。


ミリエルは、それを、森の入口の脇を流れる、細い小川に、投げ捨てた。


白い布が、黒い水面に落ちて、ゆっくりと、流されていった。


聖騎士たちが、ざわめいた。


ガブリエルの微笑みは、崩れなかった。


「――聖女」


その声は、どこまでも、柔らかかった。


「外環の施療院の、子どもたちのことを、お忘れですか。あなたが、ここで務めを果たさなければ、あの子たちは、二度と、元の寝台には戻れません。銀貨を払えぬ親の子は、熱を出しても、誰にも診てもらえぬまま」


ミリエルの肩が、震えた。


施療院の、小さな寝台。熱でうなされる子どもの、小さな手。治癒の光を灯すたびに、ほっとしたように笑う、母親たちの顔。


――聖女さま。


――ミリエルせんせい。


ミリエルは、ぎゅっと、目を閉じた。


それから、目を開けた。


鳶色の目が、まっすぐに、ガブリエルを見上げていた。


「――あの子たちなら、きっと、こう言います」


ミリエルの声は、震えていた。でも、少しも、揺れていなかった。


「ミリエルせんせい。自分で、決めて、って」


ミリエルは、踵を返した。


森の中へ。アベルが開いた道ではない、霧の壁の向こうの、暗い木々の間へ。


走った。


白い衣の裾が、枝に引っかかって、裂けた。足元の根に、つまずいた。それでも、走った。どこへ向かえばいいのかもわからないまま。ただ、あの小さな手のひらの温もりから、一歩でも遠くへ、この人たちを連れていかないように。


背後で、ガブリエルの、穏やかな声がした。


「――アベル」


ミリエルの目の前に、白い髪の少年が、立っていた。


いつ、追い越されたのか、わからなかった。


アベルの手が、ミリエルの手首を、掴んだ。冷たい手だった。氷よりも、もっと、温度のない手。


「ごめんね」


アベルは、抑揚のない声で、言った。


「僕、鍵だから。……扉を開けるまでは、捨てられないように、しなきゃいけないんだ」


◇


ミリエルは、聖櫃の前に、引き据えられた。


聖騎士たちが、両腕を、押さえつけていた。


小川から、アベルが、白い布を拾い上げてきた。ずぶ濡れの聖布。織り目の奥の光は、まだ、消えていなかった。


「捨てたら、もったいないよ」


アベルは、そう言って、聖布を、ガブリエルに差し出した。


ガブリエルは、それを受け取って、懐にしまった。


それから、白い法衣の袖口から、銀の短剣を、取り出した。


二百年前、ある大司教が、偽りの神の胸から、心臓を抉り出したという、伝説の短剣。それを模して作られた、儀式用の短剣だった。


「本当は、もう少し、後に取っておくつもりでしたが」


ガブリエルは、短剣の刃を、ミリエルの右の手のひらに、すっと滑らせた。


鋭い痛みが、走った。


手のひらに、赤い線が、一本、浮かび上がった。血が、玉になって、滲み出した。


「心臓を、起こさねばなりません。……神に最も近しかった者の血を受け入れる前に、まず、目を覚ましてもらわねば。あなたの血は、四年間、神の心臓に流れ込んでいた血です。心臓は、あなたの血の味を、覚えている」


審問官たちが、聖櫃の蓋を、少しだけ、ずらした。


隙間から、乳白色の光が、溢れ出した。


聖騎士たちが、ミリエルの血に濡れた右手を、その隙間へ、押し込んだ。


ミリエルの指先が、何かに、触れた。


温かかった。脈を打っていた。


その瞬間、何十本もの、細い光の糸が、ミリエルの手のひらの傷口から、腕へ、肩へ、胸へと、這い上がってきた。


四年前と、同じだった。


命の糸が、引かれていく。ミリエルの胸の奥の灯りが、細い管を通って、少しずつ、少しずつ、箱の中の何かへ、吸い上げられていく。


息が、苦しくなった。視界の端が、白く、霞んでいった。


――糸を、握り返せ。


四年前、白い都の大階段で、碧い炎の少年が、叫んだ言葉。


ミリエルは、霞んでいく意識の中で、自分の胸から伸びる糸を、必死に、握り返そうとした。


握り返せなかった。


四年前よりも、ずっと、ずっと、強かった。箱の中の何かが、ミリエルの命を、貪るように、飲み込んでいった。


聖櫃の中から、鼓動が、大きくなっていった。


一拍ごとに、森の木々が、震えるほどに。


「――目覚めた」


ガブリエルが、恍惚とした声で、呟いた。


◇


その瞬間、ミリエルの右手の、手首のあたりで、何かが、ふっと、光った。


銀色の光だった。


細い、細い、髪の毛よりも細い、銀色の光の糸。ミリエルの手首から、聖布のしまわれたガブリエルの懐へ、そして、そこから、どこか遠くへ。夜空の向こうへ。


その糸の、遠い先から。


声が、聞こえた。


「――はい、そこまでですよー」


ミリエルの目の前の空間が、ぱくりと、裂けた。


裂け目から、ひとりの女性が、飛び出してきた。長い髪をひとつに束ね、魔術師協会の白いローブを、夜風になびかせて。


賢者、レイラ・イザベラ。


レイラさんの手のひらから、銀色の刃が、一閃した。


ミリエルの腕を這い上がっていた、何十本もの光の糸が、根元から、断ち切られた。ミリエルの右手が、聖櫃の隙間から、引き抜かれた。押さえつけていた聖騎士たちが、銀色の衝撃に弾かれて、四方へ吹き飛んだ。


ミリエルの身体が、ぐらりと傾いた。


レイラさんの腕が、それを、受け止めた。


「よく頑張りましたね、ミリエルさん」


レイラさんは、ミリエルの耳元で、優しく言った。


「自分で、決めたんですね。……えらいです」


ミリエルは、何か言おうとして、言えなかった。


ただ、レイラさんのローブの胸元を、血に濡れた手で、ぎゅっと、握りしめた。


◇


聖櫃の鼓動は、止まらなかった。


むしろ、さっきよりも、大きくなっていた。


ミリエルの血で目を覚ました心臓は、もう、羅針盤を必要としていなかった。聖櫃の蓋の隙間から溢れ出す乳白色の光が、ゆっくりと、ひとつの方向へ、なびいていた。


森の奥へ。


迷いの森の、さらに、その奥へ。


「――賢者殿」


ガブリエルは、微笑んだまま、言った。


「お見事な転移でした。……ですが、もう、遅い。心臓が、自ら、匂いを辿り始めた」


レイラさんは、ミリエルを抱えたまま、ガブリエルを睨みつけた。


ミリエルは、レイラさんの腕の中で、ゆっくりと、顔を上げた。


霞んでいた視界が、少しずつ、戻ってきていた。


「……賢者、さま」

「はい」

「私を、連れていってください」


レイラさんの目が、見開かれた。


「あの心臓の、ことは」


ミリエルは、血に濡れた右手を、胸の前で、握りしめた。


「この国で、私が、一番よく、知っています。……あの心臓の糸が、どこに、どう伸びているのか。どこを、切ればいいのか。私の体が、覚えているんです」


レイラさんは、しばらく、ミリエルの顔を見つめていた。


それから、ふっと、笑った。


「……ハスト様の周りの女の子は、みんな、頑固ですねー」


◇


森の奥へ。


アベルが開いた道を、白い行列が、進んでいった。聖櫃を担いだ審問官。それを囲む聖騎士。先頭を歩く、銀色の髪の教皇。


その後ろを、少し離れて、レイラさんとミリエルが、追っていった。


木々の幹が、少しずつ、黒ずんでいった。苔の下の土が、灰の色に変わっていった。崩れた石。蔦に覆われた壁。半分だけ残った門柱。


そして、森が、開けた。


二百年前、ひとつの都が、紅に焼かれた場所。


刑場の、跡。


広場の真ん中の、黒い鉄の柵の前に。


ひとりの少年が、立っていた。


小柄な体。眠たげな半目。ぼさぼさの寝癖。王立学園の、くたびれた制服。


その少年が、聖櫃を担いだ行列を見て、面倒くさそうに、頭を掻いた。


「――待ってたぜ、狸」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。