70 聖女の選択
聖火の礼拝が始まる、少し前のことだった。
ミリエルは、迎賓館の裏口から、白い馬車に乗せられた。
「聖女さまには、別の務めがございます」
ヴィンセントは、柔和な笑みで、そう言った。
「北の森で、祈りを捧げていただきたいのです。和解の夜に、この国の古き魂を、鎮めるための祈りを」
ミリエルは、何も訊かなかった。訊いても、本当のことは、教えてもらえないとわかっていた。
馬車の中には、先客がいた。
白い髪の少年。アベル。それから、フードを目深にかぶった、年老いた従僧。
馬車は、王都の北門を抜けて、夜の街道を、北へ走った。窓の外では、南の空に、色とりどりの花火が咲いていた。王都の中心のほうには、白い光が、ぼんやりと滲んでいた。
ミリエルは、胸元の聖布を、両手で握りしめていた。
――あとで。
屋上で、賢者さまが、唇だけで言った言葉。あれが、何を意味していたのか、ミリエルには、わからなかった。
ただ、この数日、聖布に触れるたびに、指先に、ほんのかすかな温もりを感じるようになっていた。白い布の織り目の奥に、何か、細くて、温かいものが、一本だけ、寄り添っているような。
◇
馬車は、森の入口で、止まった。
鬱蒼とした、黒い森だった。月の光も、梢に遮られて、ほとんど届かない。木々の間を、冷たい霧が、ゆっくりと流れていた。
迷いの森。
一度足を踏み入れたら、二度と出てこられない森。王都の子どもなら、誰でも、そう教えられて育つ。
森の入口には、すでに、何人かの者が待っていた。白い鎧の聖騎士が、二十人ほど。それから、白い法衣の審問官が、四人。四人は、肩に、白い木の棺のような箱を担いでいた。金の象嵌。光の神の聖印。
聖櫃だった。
ミリエルは、その箱を見た瞬間、息が止まった。
箱の中から、何かが、脈を打っていた。
聞こえたのではなかった。感じたのだ。胸の奥で。四年前まで、毎日、毎日、手を当てて、祈らされていた、あれと、同じ鼓動を。
ミリエルの膝が、震えた。
「――思い出しましたか、聖女」
背後から、声がした。
年老いた従僧の声だった。でも、さっきまで、馬車の中で一言も喋らなかった、あの乾いた老人の声ではなかった。もっと、滑らかで、もっと、深みのある。四年前、白い都の大聖堂で、何度も、何度も聞かされた声。
ミリエルは、ゆっくりと、振り返った。
従僧が、フードを、外していた。
銀色の髪。皺ひとつない、整った顔。穏やかな、慈愛に満ちた微笑み。
ガブリエル・ヴァルトハイム。
第八十八代教皇、ガブリエル一世。
「……猊、下」
ミリエルの唇が、震えた。
ガブリエルは、微笑んだまま、ミリエルの胸元の聖布に、そっと指先を触れた。
「あなたには、大切な役目があります。聖女。……あなたが、我らを、導くのです」
◇
アベルが、森の入口の、一番手前の木の幹に、手を当てた。
白い法衣の胸元が、淡く、光った。乳白色の光。
森が、軋んだ。
風が吹いたのではなかった。森そのものが、身をよじったのだ。木々の枝が、一斉に、ざわりと揺れた。足元の霧が、渦を巻いた。
アベルの手のひらの下で、木の幹に、目に見えない何かが、浮かび上がっては、消えていった。網の目のような、細い光の線。森じゅうに張り巡らされた、方向を狂わせる術式。
その術式が、アベルの手のひらへ、吸い込まれていった。
一本ずつ。ほどかれるように。
木々の間に、一本の、まっすぐな道が、現れた。
さっきまで、どこにもなかった道だった。霧が、その道の両脇に、壁のように押しのけられていた。
「――開いたよ」
アベルが、胸元を撫でながら、言った。
「でも、この森の術式、すごく古くて、すごく固い。……全部は、食べきれない。道の、ぶんだけ」
「十分です」
ガブリエルは、微笑んだ。
それから、ミリエルの胸元を、見下ろした。
聖布が、光っていた。
ミリエル自身も、今、初めて、それに気づいた。白い布の織り目の奥で、何かが、淡く光って、震えていた。震えは、ある一方向へ、細く、細く、伸びていた。森の奥へ。アベルが開いた道の、さらにその先へ。
道を、指していた。
「……これ、は」
ミリエルの声が、かすれた。
「その布には、探索の糸を、縫い込んであります」
ガブリエルは、穏やかに言った。
「探しているものに、近づくほど、強く震える。……あなたの体は、四年間、神の心臓の通り道でした。神の匂いを、誰よりも、深く覚えている。その体を通して、糸は、神に最も近しかった者の匂いを、辿るのです」
ミリエルの頭の中に、ひとつの光景が、よみがえった。
学園の、屋上。
手すりの上に、ふわりと腰掛けた、黒い衣の、小さな少女。
――あの人の匂いが、お主の中に、まだ、ほんの少しだけ残っておる。
麦わら色の髪の上に、そっと置かれた、小さな手。
あたたかかった。泣きたくなるくらい、あたたかかった。
――あの方。
ミリエルの全身から、血の気が、引いていった。
「……私が」
ミリエルは、聖布を、両手で掴んだ。
「私が、あの方を、売るの……?」
◇
ガブリエルは、何も答えなかった。
ただ、慈愛に満ちた微笑みのまま、ミリエルを見下ろしていた。
ミリエルは、聖布を、胸元から、引きちぎった。
結び目が、裂けた。白い布が、ミリエルの手の中で、ひらりと揺れた。
ミリエルは、それを、森の入口の脇を流れる、細い小川に、投げ捨てた。
白い布が、黒い水面に落ちて、ゆっくりと、流されていった。
聖騎士たちが、ざわめいた。
ガブリエルの微笑みは、崩れなかった。
「――聖女」
その声は、どこまでも、柔らかかった。
「外環の施療院の、子どもたちのことを、お忘れですか。あなたが、ここで務めを果たさなければ、あの子たちは、二度と、元の寝台には戻れません。銀貨を払えぬ親の子は、熱を出しても、誰にも診てもらえぬまま」
ミリエルの肩が、震えた。
施療院の、小さな寝台。熱でうなされる子どもの、小さな手。治癒の光を灯すたびに、ほっとしたように笑う、母親たちの顔。
――聖女さま。
――ミリエルせんせい。
ミリエルは、ぎゅっと、目を閉じた。
それから、目を開けた。
鳶色の目が、まっすぐに、ガブリエルを見上げていた。
「――あの子たちなら、きっと、こう言います」
ミリエルの声は、震えていた。でも、少しも、揺れていなかった。
「ミリエルせんせい。自分で、決めて、って」
ミリエルは、踵を返した。
森の中へ。アベルが開いた道ではない、霧の壁の向こうの、暗い木々の間へ。
走った。
白い衣の裾が、枝に引っかかって、裂けた。足元の根に、つまずいた。それでも、走った。どこへ向かえばいいのかもわからないまま。ただ、あの小さな手のひらの温もりから、一歩でも遠くへ、この人たちを連れていかないように。
背後で、ガブリエルの、穏やかな声がした。
「――アベル」
ミリエルの目の前に、白い髪の少年が、立っていた。
いつ、追い越されたのか、わからなかった。
アベルの手が、ミリエルの手首を、掴んだ。冷たい手だった。氷よりも、もっと、温度のない手。
「ごめんね」
アベルは、抑揚のない声で、言った。
「僕、鍵だから。……扉を開けるまでは、捨てられないように、しなきゃいけないんだ」
◇
ミリエルは、聖櫃の前に、引き据えられた。
聖騎士たちが、両腕を、押さえつけていた。
小川から、アベルが、白い布を拾い上げてきた。ずぶ濡れの聖布。織り目の奥の光は、まだ、消えていなかった。
「捨てたら、もったいないよ」
アベルは、そう言って、聖布を、ガブリエルに差し出した。
ガブリエルは、それを受け取って、懐にしまった。
それから、白い法衣の袖口から、銀の短剣を、取り出した。
二百年前、ある大司教が、偽りの神の胸から、心臓を抉り出したという、伝説の短剣。それを模して作られた、儀式用の短剣だった。
「本当は、もう少し、後に取っておくつもりでしたが」
ガブリエルは、短剣の刃を、ミリエルの右の手のひらに、すっと滑らせた。
鋭い痛みが、走った。
手のひらに、赤い線が、一本、浮かび上がった。血が、玉になって、滲み出した。
「心臓を、起こさねばなりません。……神に最も近しかった者の血を受け入れる前に、まず、目を覚ましてもらわねば。あなたの血は、四年間、神の心臓に流れ込んでいた血です。心臓は、あなたの血の味を、覚えている」
審問官たちが、聖櫃の蓋を、少しだけ、ずらした。
隙間から、乳白色の光が、溢れ出した。
聖騎士たちが、ミリエルの血に濡れた右手を、その隙間へ、押し込んだ。
ミリエルの指先が、何かに、触れた。
温かかった。脈を打っていた。
その瞬間、何十本もの、細い光の糸が、ミリエルの手のひらの傷口から、腕へ、肩へ、胸へと、這い上がってきた。
四年前と、同じだった。
命の糸が、引かれていく。ミリエルの胸の奥の灯りが、細い管を通って、少しずつ、少しずつ、箱の中の何かへ、吸い上げられていく。
息が、苦しくなった。視界の端が、白く、霞んでいった。
――糸を、握り返せ。
四年前、白い都の大階段で、碧い炎の少年が、叫んだ言葉。
ミリエルは、霞んでいく意識の中で、自分の胸から伸びる糸を、必死に、握り返そうとした。
握り返せなかった。
四年前よりも、ずっと、ずっと、強かった。箱の中の何かが、ミリエルの命を、貪るように、飲み込んでいった。
聖櫃の中から、鼓動が、大きくなっていった。
一拍ごとに、森の木々が、震えるほどに。
「――目覚めた」
ガブリエルが、恍惚とした声で、呟いた。
◇
その瞬間、ミリエルの右手の、手首のあたりで、何かが、ふっと、光った。
銀色の光だった。
細い、細い、髪の毛よりも細い、銀色の光の糸。ミリエルの手首から、聖布のしまわれたガブリエルの懐へ、そして、そこから、どこか遠くへ。夜空の向こうへ。
その糸の、遠い先から。
声が、聞こえた。
「――はい、そこまでですよー」
ミリエルの目の前の空間が、ぱくりと、裂けた。
裂け目から、ひとりの女性が、飛び出してきた。長い髪をひとつに束ね、魔術師協会の白いローブを、夜風になびかせて。
賢者、レイラ・イザベラ。
レイラさんの手のひらから、銀色の刃が、一閃した。
ミリエルの腕を這い上がっていた、何十本もの光の糸が、根元から、断ち切られた。ミリエルの右手が、聖櫃の隙間から、引き抜かれた。押さえつけていた聖騎士たちが、銀色の衝撃に弾かれて、四方へ吹き飛んだ。
ミリエルの身体が、ぐらりと傾いた。
レイラさんの腕が、それを、受け止めた。
「よく頑張りましたね、ミリエルさん」
レイラさんは、ミリエルの耳元で、優しく言った。
「自分で、決めたんですね。……えらいです」
ミリエルは、何か言おうとして、言えなかった。
ただ、レイラさんのローブの胸元を、血に濡れた手で、ぎゅっと、握りしめた。
◇
聖櫃の鼓動は、止まらなかった。
むしろ、さっきよりも、大きくなっていた。
ミリエルの血で目を覚ました心臓は、もう、羅針盤を必要としていなかった。聖櫃の蓋の隙間から溢れ出す乳白色の光が、ゆっくりと、ひとつの方向へ、なびいていた。
森の奥へ。
迷いの森の、さらに、その奥へ。
「――賢者殿」
ガブリエルは、微笑んだまま、言った。
「お見事な転移でした。……ですが、もう、遅い。心臓が、自ら、匂いを辿り始めた」
レイラさんは、ミリエルを抱えたまま、ガブリエルを睨みつけた。
ミリエルは、レイラさんの腕の中で、ゆっくりと、顔を上げた。
霞んでいた視界が、少しずつ、戻ってきていた。
「……賢者、さま」
「はい」
「私を、連れていってください」
レイラさんの目が、見開かれた。
「あの心臓の、ことは」
ミリエルは、血に濡れた右手を、胸の前で、握りしめた。
「この国で、私が、一番よく、知っています。……あの心臓の糸が、どこに、どう伸びているのか。どこを、切ればいいのか。私の体が、覚えているんです」
レイラさんは、しばらく、ミリエルの顔を見つめていた。
それから、ふっと、笑った。
「……ハスト様の周りの女の子は、みんな、頑固ですねー」
◇
森の奥へ。
アベルが開いた道を、白い行列が、進んでいった。聖櫃を担いだ審問官。それを囲む聖騎士。先頭を歩く、銀色の髪の教皇。
その後ろを、少し離れて、レイラさんとミリエルが、追っていった。
木々の幹が、少しずつ、黒ずんでいった。苔の下の土が、灰の色に変わっていった。崩れた石。蔦に覆われた壁。半分だけ残った門柱。
そして、森が、開けた。
二百年前、ひとつの都が、紅に焼かれた場所。
刑場の、跡。
広場の真ん中の、黒い鉄の柵の前に。
ひとりの少年が、立っていた。
小柄な体。眠たげな半目。ぼさぼさの寝癖。王立学園の、くたびれた制服。
その少年が、聖櫃を担いだ行列を見て、面倒くさそうに、頭を掻いた。
「――待ってたぜ、狸」




