69 聖火の夜――博識王は、盤上のすべてを見ている
学園長室の灯りは、落とされていた。
暗い部屋の壁一面に、硝子の板が、何十枚も並んでいた。学園中の訓練場を映すための、監視用の魔道具。今夜は、その一枚一枚が、学園ではない場所を映していた。
中央広場。東門。学園そっくりに作られた、幻の校舎。分館。南の夜市。そして、北の、迷いの森の入口。
その硝子の板の前に、エトワールが、ひとりで立っていた。
裸足だった。足元には、裏側をびっしりと書き込まれた毎日王都新聞が、何十枚も敷き詰められている。右手には、伝言の術式を刻んだ、小さな水晶。左手には、冷めきった紅茶のカップ。
カップの底には、角砂糖が、三つ沈んでいた。
エトワールは、それに気づかないまま、一口すすって、顔をしかめた。
「――盤面、開始」
右手の水晶が、淡く光った。
◇
中央広場には、白い炎が、灯っていた。
広場の四隅に据えられた、背の高い銀の燭台。その上で、白い炎が、ゆらゆらと揺れていた。四年前、聖都の大階段で、レイアーヌの足元に這い上がっていったのと同じ、浄めの火。
広場の中央の壇上で、ヴィンセントが、両手を広げていた。
「――光の神よ。和解の夜に、御身の慈悲の炎を。この地の民に、祝福を」
柔らかな声が、広場に響き渡った。
広場は、人で埋め尽くされていた。何千人もの群衆が、白い炎を見上げて、手を組んで、祈っていた。
――少なくとも、ヴィンセントの目には、そう見えていた。
白い炎が、ゆっくりと、大きくなっていった。炎の根元から、細い、白い糸のようなものが、何千本も、群衆へ向かって伸びていく。四年前の聖火祭と、同じだった。祈る者の胸に糸を繋いで、命を、少しずつ、吸い上げる。
糸が、群衆の胸に、触れた。
その瞬間、広場の石畳の下で、何かが、目を覚ました。
銀色の光だった。石畳の継ぎ目という継ぎ目から、細い銀色の光の線が、網の目のように浮かび上がった。広場全体を覆う、巨大な陣。
レイラさんの、逆流の陣だった。
白い糸が、群衆の胸から、命を吸い上げようとした。吸い上げたはずの命が、糸を逆に伝って、白い炎のほうへ、押し返されていった。炎が、自分の吸い上げた力に、内側から、焼かれ始めた。白い炎の色が、濁った。揺らぎが、乱れた。
ヴィンセントの柔和な笑みが、凍りついた。
「……何だ」
ヴィンセントは、広場を見回した。
祈っている群衆の顔が、ほんの一瞬だけ、ちらついた。蝋燭の炎が揺らぐみたいに。輪郭が、ぼやけて、透けて、また戻った。
「――幻、か」
ヴィンセントの顔から、血の気が引いた。
そのとき、広場を見下ろす時計塔の頂上から、高らかな笑い声が、夜空に響き渡った。
「おーほっほっほ! 皆々さま、ごきげんよう! 今宵の余興は、ワタクシ、弓王エレナ・ヴァイスが務めさせていただきますわ!」
時計塔の文字盤の上に、長い髪をなびかせたエルフが、背丈ほどもある大弓を構えて立っていた。
弓を、引いた。
引いた弦の先に、矢が、つがえられていなかった。
エレナの指先から、光の矢が、何十本も、生まれた。生まれた矢を、エレナは、空に向けて、放った。
狙っていなかった。どこにも。ただ、夜空の、星のあるほうへ。
何十本もの光の矢が、夜空高く、弧を描いて昇っていった。
昇りきって、止まって。
それから、雨のように、降ってきた。
一本目は、広場の北東の燭台の、白い炎の、ちょうど真ん中を、貫いた。
二本目は、南東の燭台の、真ん中を。三本目は、南西の。四本目は、北西の。
残りの何十本は、壇上の周りに散らばっていた審問官たちの、短剣の柄頭の石の、一つ一つの、ちょうど真ん中を。
狙ったものなど、何ひとつ、なかった。
それなのに、一本残らず、何かの真ん中に、突き刺さっていた。
四つの燭台が、同時に、倒れた。
白い炎が、石畳の上に散らばって、銀色の陣に触れた瞬間、音もなく、消えた。
広場が、闇に沈んだ。
『――中央広場、制圧。エレナ嬢、ありがとう』
時計塔の上で、エレナの耳元の水晶から、エトワールの声がした。
「狙ってはおりませんわよ?」
『わかっている。……陛下。広場の北口を、閉じてください』
壇上から、ヴィンセントが、緋色の法衣の裾を翻して、逃げ出していた。広場の北口へ。迷いの森のある方角へ。
北口の手前で、ヴィンセントは、石の壁に、正面から激突した。
ついさっきまで、そこには、確かに、大通りへ続く出口があったはずだった。
『陛下の幻術は、壁を道に見せることもできる。……道を、壁に見せることもね』
ヴィンセントが、鼻を押さえて、よろめいた。
その法衣の裾に、上空から、光の矢が一本、すとんと突き刺さった。法衣ごと、石畳に、縫いつけた。
時計塔の上で、エレナが、扇子で口元を隠して、首を傾げた。
「あら。今のは、本当に、狙っておりませんでしたのに」
◇
東門は、開いていた。
ケルナー伯爵の手の者が、衛兵と入れ替わって、門の閂を外したのだ。重い鉄の扉が、軋みながら、両側へ開いた。
門の外の暗い森から、白い鎧の騎士たちが、雪崩れ込もうとしていた。
五百。
全員の剣の柄頭に、乳白色の石が光っていた。神威の光が、夜の街道を、白く染めていた。
その光の洪水の、正面に。
開いた門の、ちょうど真ん中に。
二人の男が、立っていた。
ひとりは、長身の、金髪の男。腰に、白く輝く聖剣を下げている。
もうひとりは、白金の短い髪の男。白い鎧を、着ていなかった。平服のまま、光を失った、ただの鋼の長剣を、一本だけ、手にしていた。
聖騎士たちの足が、止まった。
先頭の騎士たちの何人かが、平服の男の顔を見て、息を呑んだ。
「……団長?」
「セラフィン団長……?」
セラフィンは、長剣を、地面に突き立てた。
それから、五百の騎士たちに向かって、腹の底から、叫んだ。
「――聞け!! ジセリア聖騎士団の、我が同胞たちよ!!」
夜の街道に、声が、響き渡った。
「その剣の石から、声が聞こえる者は、いるか!! 剣を握るたびに、耳の奥で、誰かが泣いているのが聞こえる者は、いるか!!」
騎士たちが、ざわめいた。
何人かが、自分の剣の柄頭を、見下ろした。
「それは、神の声ではない!! 石の中に塗り込められた、何百人もの、名もなき民の、うめき声だ!! 我らは、民の命を吸って光る剣を、神の威と信じて、振るわされてきたのだ!!」
ざわめきが、どよめきに変わった。
騎士団の後方から、怒声が上がった。副団長の徽章をつけた、壮年の騎士だった。
「黙れ、裏切り者!! 者ども、惑わされるな!! あれは、異国の魔女に誑かされた、背教者だ!! ――突撃!!」
騎士たちの半分が、迷った。半分が、剣を構えて、走り出した。
金髪の男が、一歩、前へ出た。
聖剣の柄に、手をかけた。
「――我が力は、聖なる方へ」
聖剣フェリクスが、抜かれた。
刃が、白く、輝いた。神威の、乳白色の白ではなかった。夜明け前の空のような、透き通った、白だった。
シュベルトは、聖剣を、ひと振りした。
横に、一閃。
それだけだった。
走り出した騎士たちの、先頭の三十人の剣の柄頭の石が。三十個、同時に。真っ二つに、割れた。
騎士たちには、傷ひとつ、なかった。鎧にも、剣の刃にも、かすり傷ひとつ。ただ、柄頭の石だけが、正確に、真ん中から、二つに割れていた。
神威の光が、三十人分、一度に消えた。
割れた石を握ったまま、騎士たちは、走るのをやめた。何人かが、その場に、膝をついた。何人かが、耳を押さえた。
「……静かに、なった」
誰かが、呟いた。
その声が、波のように、騎士団の中に広がっていった。
迷っていた騎士たちが、ひとり、またひとりと、自分の剣の柄頭を、籠手で、殴りつけ始めた。石が、砕けていった。十。五十。百。
副団長は、それでも、残りの騎士たちを率いて、突っ込んできた。
セラフィンが、地面に突き立てていた長剣を、引き抜いた。
シュベルトの隣に、並んだ。
「――剣聖殿。右を」
「じゃあ、君は左だね」
二人の剣が、同時に、閃いた。
副団長の剣の柄頭の石は、セラフィンの、光を持たない鋼の剣に、真正面から叩き割られた。神威を失った副団長は、それでも剣を振り上げ、振り下ろす前に、シュベルトの聖剣の峰で、兜の上から、こつんと叩かれて、白目を剥いた。
東門の内側へは、ただの一人も、足を踏み入れることができなかった。
◇
幻の学園の講堂は、しんと静まり返っていた。
扉が、乱暴に、蹴破られた。
武装した男たちが、五十人ほど、雪崩れ込んできた。その先頭に、典礼長官、ケルナー伯爵が立っていた。白髪混じりの髪を振り乱して、手には、学園の結界の、予備の鍵を握りしめていた。
「――王女を探せ!! 貴族の子弟どもは、全員、講堂に集めろ!!」
男たちが、講堂の中に散らばった。
散らばって、すぐに、立ち止まった。
講堂には、誰もいなかった。
いや、正確には、三人だけ、いた。
講堂の壇上の、真ん中に。
拳を、ぱきぱきと鳴らしている、生徒会長。
白鋼の剣を、胸の前に構えている、蒼い髪の一年生。
王家の剣を、腰に下げたまま、腕を組んで、こちらを見下ろしている、第一王女。
「――いらっしゃい、伯爵」
レイアーヌが、言った。
「学園へようこそ。……もっとも、ここは、本物の学園じゃないけれど」
ケルナー伯爵の顔が、歪んだ。
「……博識王か。あの若造……!!」
伯爵は、懐から、小さな硝子の瓶を取り出した。典礼院の酒蔵で、審問官から受け取った瓶。
栓を、歯で抜いた。
中身を、一息に、呷った。
伯爵の身体が、内側から、白く、光り始めた。皮膚の下を、乳白色の光が、血管のように走った。肩が、背中が、腕が、ごきごきと音を立てて、膨れ上がっていった。礼服の縫い目が、裂けた。
神の欠片を溶かした、薬だった。
「――殺せ!! 三人とも、殺してしまえ!!」
人の声とは思えないほど、ひび割れた声だった。
アイシャ会長が、壇上から、一歩、踏み出した。
その姿が、ふっと、ぶれた。
「フィアットちゃん。殿下。……雑魚は、任せて」
次の瞬間、講堂のあちこちで、私兵たちの身体が、宙を舞い始めた。
見えなかった。誰にも。幻影体術の、三段目。影打ち。拳の軌道そのものを幻で塗り潰して、打たれた者にさえ、どこから打たれたのかわからせない。五十人の私兵が、何が起きたのかもわからないまま、次々と、講堂の床に転がっていった。
膨れ上がったケルナー伯爵が、壇上に、突進した。
フィアットが、前に出た。
白鋼の剣が、閃いた。一本の太刀筋が、三本に分かれた。
膨れ上がった伯爵の目が、三本の太刀筋を、追った。追いきれずに、宙で、迷った。
その迷った一瞬に。
レイアーヌの、起こりのない突きが、伯爵の胸の真ん中に、走っていた。
剣の切っ先が、伯爵の胸に、触れた。
刺さらなかった。
切っ先は、伯爵の胸の皮膚の、ほんの手前で、止まっていた。止まって、その先の、皮膚の下で光っている、乳白色の光の、一番濃いところだけを、突いていた。
光が、弾けた。
伯爵の膨れ上がった身体が、空気の抜けた革袋みたいに、しぼんでいった。皮膚の下の光が、消えた。伯爵は、元の、白髪混じりの初老の男の姿に戻って、講堂の床に、ぺたりと座り込んだ。
レイアーヌは、剣を、鞘に納めた。
「――グラウ伯爵のことは、お父様の前で、全部、話してもらうわ」
◇
学園長室で、エトワールは、硝子の板を、一枚ずつ、見つめていた。
中央広場。制圧。
東門。剣聖と団長が、残りの騎士を押し返している。半数以上が、自ら石を砕いた。
幻の学園。制圧。
分館。アルスとクレハ、制圧。
『――三つとも、取った』
エトワールは、水晶に向かって、静かに言った。
『分館も、取った。……四つだ』
エトワールの視線が、最後の一枚の硝子の板に、移った。
北の、迷いの森の入口を映す、硝子の板。
その板は、さっきから、ずっと、真っ暗だった。何も、映っていなかった。森の中に入った瞬間、遠見の術式が、喰われて、途切れたのだ。
エトワールの手の中の水晶が、震えた。
レイラさんの声だった。
『――エトワールさん。糸が、引きました』
エトワールの指が、紅茶のカップを、握りしめた。
『ミリエルさんの命が、急に、細くなり始めています。……今から、跳びます』
『頼む』
水晶の光が、消えた。
エトワールは、真っ暗な硝子の板を、見つめたまま、長いあいだ、動かなかった。
それから、冷めきった紅茶を、一口すすった。
角砂糖の甘さに、今度は、顔をしかめなかった。
「――ここから先は」
エトワールは、誰もいない部屋で、ひとりごとのように呟いた。
「盤の、外だ」




