↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/142

69 聖火の夜――博識王は、盤上のすべてを見ている

学園長室の灯りは、落とされていた。


暗い部屋の壁一面に、硝子の板が、何十枚も並んでいた。学園中の訓練場を映すための、監視用の魔道具。今夜は、その一枚一枚が、学園ではない場所を映していた。


中央広場。東門。学園そっくりに作られた、幻の校舎。分館。南の夜市。そして、北の、迷いの森の入口。


その硝子の板の前に、エトワールが、ひとりで立っていた。


裸足だった。足元には、裏側をびっしりと書き込まれた毎日王都新聞が、何十枚も敷き詰められている。右手には、伝言の術式を刻んだ、小さな水晶。左手には、冷めきった紅茶のカップ。


カップの底には、角砂糖が、三つ沈んでいた。


エトワールは、それに気づかないまま、一口すすって、顔をしかめた。


「――盤面、開始」


右手の水晶が、淡く光った。


◇


中央広場には、白い炎が、灯っていた。


広場の四隅に据えられた、背の高い銀の燭台。その上で、白い炎が、ゆらゆらと揺れていた。四年前、聖都の大階段で、レイアーヌの足元に這い上がっていったのと同じ、浄めの火。


広場の中央の壇上で、ヴィンセントが、両手を広げていた。


「――光の神よ。和解の夜に、御身の慈悲の炎を。この地の民に、祝福を」


柔らかな声が、広場に響き渡った。


広場は、人で埋め尽くされていた。何千人もの群衆が、白い炎を見上げて、手を組んで、祈っていた。


――少なくとも、ヴィンセントの目には、そう見えていた。


白い炎が、ゆっくりと、大きくなっていった。炎の根元から、細い、白い糸のようなものが、何千本も、群衆へ向かって伸びていく。四年前の聖火祭と、同じだった。祈る者の胸に糸を繋いで、命を、少しずつ、吸い上げる。


糸が、群衆の胸に、触れた。


その瞬間、広場の石畳の下で、何かが、目を覚ました。


銀色の光だった。石畳の継ぎ目という継ぎ目から、細い銀色の光の線が、網の目のように浮かび上がった。広場全体を覆う、巨大な陣。


レイラさんの、逆流の陣だった。


白い糸が、群衆の胸から、命を吸い上げようとした。吸い上げたはずの命が、糸を逆に伝って、白い炎のほうへ、押し返されていった。炎が、自分の吸い上げた力に、内側から、焼かれ始めた。白い炎の色が、濁った。揺らぎが、乱れた。


ヴィンセントの柔和な笑みが、凍りついた。


「……何だ」


ヴィンセントは、広場を見回した。


祈っている群衆の顔が、ほんの一瞬だけ、ちらついた。蝋燭の炎が揺らぐみたいに。輪郭が、ぼやけて、透けて、また戻った。


「――幻、か」


ヴィンセントの顔から、血の気が引いた。


そのとき、広場を見下ろす時計塔の頂上から、高らかな笑い声が、夜空に響き渡った。


「おーほっほっほ! 皆々さま、ごきげんよう! 今宵の余興は、ワタクシ、弓王エレナ・ヴァイスが務めさせていただきますわ!」


時計塔の文字盤の上に、長い髪をなびかせたエルフが、背丈ほどもある大弓を構えて立っていた。


弓を、引いた。


引いた弦の先に、矢が、つがえられていなかった。


エレナの指先から、光の矢が、何十本も、生まれた。生まれた矢を、エレナは、空に向けて、放った。


狙っていなかった。どこにも。ただ、夜空の、星のあるほうへ。


何十本もの光の矢が、夜空高く、弧を描いて昇っていった。


昇りきって、止まって。


それから、雨のように、降ってきた。


一本目は、広場の北東の燭台の、白い炎の、ちょうど真ん中を、貫いた。


二本目は、南東の燭台の、真ん中を。三本目は、南西の。四本目は、北西の。


残りの何十本は、壇上の周りに散らばっていた審問官たちの、短剣の柄頭の石の、一つ一つの、ちょうど真ん中を。


狙ったものなど、何ひとつ、なかった。


それなのに、一本残らず、何かの真ん中に、突き刺さっていた。


四つの燭台が、同時に、倒れた。


白い炎が、石畳の上に散らばって、銀色の陣に触れた瞬間、音もなく、消えた。


広場が、闇に沈んだ。


『――中央広場、制圧。エレナ嬢、ありがとう』


時計塔の上で、エレナの耳元の水晶から、エトワールの声がした。


「狙ってはおりませんわよ?」

『わかっている。……陛下。広場の北口を、閉じてください』


壇上から、ヴィンセントが、緋色の法衣の裾を翻して、逃げ出していた。広場の北口へ。迷いの森のある方角へ。


北口の手前で、ヴィンセントは、石の壁に、正面から激突した。


ついさっきまで、そこには、確かに、大通りへ続く出口があったはずだった。


『陛下の幻術は、壁を道に見せることもできる。……道を、壁に見せることもね』


ヴィンセントが、鼻を押さえて、よろめいた。


その法衣の裾に、上空から、光の矢が一本、すとんと突き刺さった。法衣ごと、石畳に、縫いつけた。


時計塔の上で、エレナが、扇子で口元を隠して、首を傾げた。


「あら。今のは、本当に、狙っておりませんでしたのに」


◇


東門は、開いていた。


ケルナー伯爵の手の者が、衛兵と入れ替わって、門の閂を外したのだ。重い鉄の扉が、軋みながら、両側へ開いた。


門の外の暗い森から、白い鎧の騎士たちが、雪崩れ込もうとしていた。


五百。


全員の剣の柄頭に、乳白色の石が光っていた。神威の光が、夜の街道を、白く染めていた。


その光の洪水の、正面に。


開いた門の、ちょうど真ん中に。


二人の男が、立っていた。


ひとりは、長身の、金髪の男。腰に、白く輝く聖剣を下げている。


もうひとりは、白金の短い髪の男。白い鎧を、着ていなかった。平服のまま、光を失った、ただの鋼の長剣を、一本だけ、手にしていた。


聖騎士たちの足が、止まった。


先頭の騎士たちの何人かが、平服の男の顔を見て、息を呑んだ。


「……団長?」

「セラフィン団長……?」


セラフィンは、長剣を、地面に突き立てた。


それから、五百の騎士たちに向かって、腹の底から、叫んだ。


「――聞け!! ジセリア聖騎士団の、我が同胞たちよ!!」


夜の街道に、声が、響き渡った。


「その剣の石から、声が聞こえる者は、いるか!! 剣を握るたびに、耳の奥で、誰かが泣いているのが聞こえる者は、いるか!!」


騎士たちが、ざわめいた。


何人かが、自分の剣の柄頭を、見下ろした。


「それは、神の声ではない!! 石の中に塗り込められた、何百人もの、名もなき民の、うめき声だ!! 我らは、民の命を吸って光る剣を、神の威と信じて、振るわされてきたのだ!!」


ざわめきが、どよめきに変わった。


騎士団の後方から、怒声が上がった。副団長の徽章をつけた、壮年の騎士だった。


「黙れ、裏切り者!! 者ども、惑わされるな!! あれは、異国の魔女に誑かされた、背教者だ!! ――突撃!!」


騎士たちの半分が、迷った。半分が、剣を構えて、走り出した。


金髪の男が、一歩、前へ出た。


聖剣の柄に、手をかけた。


「――我が力は、聖なる方へ」


聖剣フェリクスが、抜かれた。


刃が、白く、輝いた。神威の、乳白色の白ではなかった。夜明け前の空のような、透き通った、白だった。


シュベルトは、聖剣を、ひと振りした。


横に、一閃。


それだけだった。


走り出した騎士たちの、先頭の三十人の剣の柄頭の石が。三十個、同時に。真っ二つに、割れた。


騎士たちには、傷ひとつ、なかった。鎧にも、剣の刃にも、かすり傷ひとつ。ただ、柄頭の石だけが、正確に、真ん中から、二つに割れていた。


神威の光が、三十人分、一度に消えた。


割れた石を握ったまま、騎士たちは、走るのをやめた。何人かが、その場に、膝をついた。何人かが、耳を押さえた。


「……静かに、なった」


誰かが、呟いた。


その声が、波のように、騎士団の中に広がっていった。


迷っていた騎士たちが、ひとり、またひとりと、自分の剣の柄頭を、籠手で、殴りつけ始めた。石が、砕けていった。十。五十。百。


副団長は、それでも、残りの騎士たちを率いて、突っ込んできた。


セラフィンが、地面に突き立てていた長剣を、引き抜いた。


シュベルトの隣に、並んだ。


「――剣聖殿。右を」

「じゃあ、君は左だね」


二人の剣が、同時に、閃いた。


副団長の剣の柄頭の石は、セラフィンの、光を持たない鋼の剣に、真正面から叩き割られた。神威を失った副団長は、それでも剣を振り上げ、振り下ろす前に、シュベルトの聖剣の峰で、兜の上から、こつんと叩かれて、白目を剥いた。


東門の内側へは、ただの一人も、足を踏み入れることができなかった。


◇


幻の学園の講堂は、しんと静まり返っていた。


扉が、乱暴に、蹴破られた。


武装した男たちが、五十人ほど、雪崩れ込んできた。その先頭に、典礼長官、ケルナー伯爵が立っていた。白髪混じりの髪を振り乱して、手には、学園の結界の、予備の鍵を握りしめていた。


「――王女を探せ!! 貴族の子弟どもは、全員、講堂に集めろ!!」


男たちが、講堂の中に散らばった。


散らばって、すぐに、立ち止まった。


講堂には、誰もいなかった。


いや、正確には、三人だけ、いた。


講堂の壇上の、真ん中に。


拳を、ぱきぱきと鳴らしている、生徒会長。


白鋼の剣を、胸の前に構えている、蒼い髪の一年生。


王家の剣を、腰に下げたまま、腕を組んで、こちらを見下ろしている、第一王女。


「――いらっしゃい、伯爵」


レイアーヌが、言った。


「学園へようこそ。……もっとも、ここは、本物の学園じゃないけれど」


ケルナー伯爵の顔が、歪んだ。


「……博識王か。あの若造……!!」


伯爵は、懐から、小さな硝子の瓶を取り出した。典礼院の酒蔵で、審問官から受け取った瓶。


栓を、歯で抜いた。


中身を、一息に、呷った。


伯爵の身体が、内側から、白く、光り始めた。皮膚の下を、乳白色の光が、血管のように走った。肩が、背中が、腕が、ごきごきと音を立てて、膨れ上がっていった。礼服の縫い目が、裂けた。


神の欠片を溶かした、薬だった。


「――殺せ!! 三人とも、殺してしまえ!!」


人の声とは思えないほど、ひび割れた声だった。


アイシャ会長が、壇上から、一歩、踏み出した。


その姿が、ふっと、ぶれた。


「フィアットちゃん。殿下。……雑魚は、任せて」


次の瞬間、講堂のあちこちで、私兵たちの身体が、宙を舞い始めた。


見えなかった。誰にも。幻影体術の、三段目。影打ち。拳の軌道そのものを幻で塗り潰して、打たれた者にさえ、どこから打たれたのかわからせない。五十人の私兵が、何が起きたのかもわからないまま、次々と、講堂の床に転がっていった。


膨れ上がったケルナー伯爵が、壇上に、突進した。


フィアットが、前に出た。


白鋼の剣が、閃いた。一本の太刀筋が、三本に分かれた。


膨れ上がった伯爵の目が、三本の太刀筋を、追った。追いきれずに、宙で、迷った。


その迷った一瞬に。


レイアーヌの、起こりのない突きが、伯爵の胸の真ん中に、走っていた。


剣の切っ先が、伯爵の胸に、触れた。


刺さらなかった。


切っ先は、伯爵の胸の皮膚の、ほんの手前で、止まっていた。止まって、その先の、皮膚の下で光っている、乳白色の光の、一番濃いところだけを、突いていた。


光が、弾けた。


伯爵の膨れ上がった身体が、空気の抜けた革袋みたいに、しぼんでいった。皮膚の下の光が、消えた。伯爵は、元の、白髪混じりの初老の男の姿に戻って、講堂の床に、ぺたりと座り込んだ。


レイアーヌは、剣を、鞘に納めた。


「――グラウ伯爵のことは、お父様の前で、全部、話してもらうわ」


◇


学園長室で、エトワールは、硝子の板を、一枚ずつ、見つめていた。


中央広場。制圧。


東門。剣聖と団長が、残りの騎士を押し返している。半数以上が、自ら石を砕いた。


幻の学園。制圧。


分館。アルスとクレハ、制圧。


『――三つとも、取った』


エトワールは、水晶に向かって、静かに言った。


『分館も、取った。……四つだ』


エトワールの視線が、最後の一枚の硝子の板に、移った。


北の、迷いの森の入口を映す、硝子の板。


その板は、さっきから、ずっと、真っ暗だった。何も、映っていなかった。森の中に入った瞬間、遠見の術式が、喰われて、途切れたのだ。


エトワールの手の中の水晶が、震えた。


レイラさんの声だった。


『――エトワールさん。糸が、引きました』


エトワールの指が、紅茶のカップを、握りしめた。


『ミリエルさんの命が、急に、細くなり始めています。……今から、跳びます』

『頼む』


水晶の光が、消えた。


エトワールは、真っ暗な硝子の板を、見つめたまま、長いあいだ、動かなかった。


それから、冷めきった紅茶を、一口すすった。


角砂糖の甘さに、今度は、顔をしかめなかった。


「――ここから先は」


エトワールは、誰もいない部屋で、ひとりごとのように呟いた。


「盤の、外だ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。