68 聖火の夜――ハブられ分館の、表の教師
日が、山の端に沈みかけていた。
王立学園分館の、二階の教室。誰もいない机が、十ほど並んでいる。継ぎの当たった座布団。机の端に彫られた、子どもの落書き。黒板には、昼間の授業の術式が、消されないまま残っていた。
昼過ぎに、子どもたちは、全員、家に帰した。
「えー! なんでー!」「まだ昼じゃん!」「先生、ずるい!」
文句の嵐だった。いつもなら、日が傾くまで帰りたがらない連中だ。家に帰っても、腹を空かせた弟妹の面倒を見るか、畑仕事を手伝わされるかのどちらかだから。ここにいれば、少なくとも、黒板の前で、明日の話ができる。
「先生な、今日は、大事な用事があんだよ」
「デート?」
「ちげぇよ」
「先生、彼女いないもんね」
「うるせぇ。……ほら、帰れ帰れ。宿題、忘れんなよ。さっきの術式、家で三回書いてくること。三回だぞ」
ぶつくさ言いながら、子どもたちは、一人、また一人と、山道を下っていった。
最後の一人の背中が、木々の向こうに見えなくなるまで、アルスは、校舎の入口に立って、見送っていた。
――あいつが表側で、俺が裏側で。
四年前、春の街道で、生意気なガキと交わした約束。
表側ってのは、こういうことだ。誰かが、理不尽に終わらされないように、明日の生き方を、教える場所を守ること。
その場所に、今夜、理不尽が、鎖を担いで登ってくる。
その教卓の上に、アルスは、胡坐をかいて座っていた。
「――来たな」
窓の外を見たまま、ぼそりと呟いた。
分館の建つ山の斜面を、松明の列が、ゆっくりと登ってきていた。数は、三十ほど。白い法衣に、黒い腰帯。ジセリアの審問官の装いだった。
先頭を歩く男の肩には、何かが、担がれていた。
鎖だった。
ただの鎖ではなかった。輪のひとつひとつが、乳白色の石でできている。聖騎士の剣の柄頭に嵌め込まれていたのと同じ、あの石。それが、何百、何千と連なって、夕闇の中で、淡く、脈打つように光っていた。
「……趣味の悪いもん、持ってきやがって」
屋根の上から、声が降ってきた。
「アルス坊や。あの鎖、見覚えあるかい」
クレハだった。分館の屋根の棟に腹ばいになって、機関銃の銃身を、斜面に向けている。
「ねぇよ。……でも、何に使うもんかは、わかる」
アルスは、顎に、手を当てた。
全知の書が、頭の中に、答えを放り込んできた。
あの鎖は、喰らう鎖だ。アベルの胸の欠片と、同じ。周りの魔術を、根こそぎ吸い上げて、喰らう。輪を描いて張り巡らせれば、その輪の内側では、どんな術式も、組み上がる前に、喰われて消える。
――全知の書から引いた術式も、例外じゃない。
「上等だ」
アルスは、教卓から、ひょいと飛び降りた。
◇
審問官たちは、分館を、ぐるりと取り囲んだ。
鎖が、地面に下ろされた。審問官たちが、鎖の端を持って、校舎の周りを、ゆっくりと歩いていく。乳白色の輪が、夕闇の中に、光る線を描いた。線は、校舎を一周して、始まりの場所で、閉じた。
閉じた瞬間、空気が、変わった。
重くなった。耳の奥が、詰まったような感覚。校舎の窓硝子が、内側から、かすかに震えた。
先頭の審問官が、校舎の正面の扉の前に、進み出た。
四十がらみの、痩せた男だった。頬がこけて、目が落ち窪んでいる。典礼院の酒蔵で、ケルナー伯爵と密談していた、あの審問官だった。
「――紅い悪魔、アルス・ノヴァ」
男の声は、乾いていた。
「異端審問院、第三審問官、ドミニク・ヘルツである。教皇猊下の御名において、貴様を拘束する。抵抗は、無意味だ。その鎖の輪の内側では、貴様の悪魔の書は、もはや、何も囁かぬ」
校舎の扉が、内側から、開いた。
アルスが、外套のポケットに両手を突っ込んで、のんびりと、出てきた。
「囁かねぇかどうか、試してみるか」
アルスは、ポケットから右手を出した。
顎に、親指を、当てた。
――何も、来なかった。
いつもなら、考えるより先に、頭の中に飛び込んでくるはずの、術式が。知識が。答えが。何も、来ない。頭の中が、真っ白だった。白い霧の中に、手を突っ込んで、空っぽの棚を、探っているような感覚。
アルスの眉が、ほんの少しだけ、寄った。
ドミニクの口元が、歪んだ。
「無駄だと言った」
ドミニクが、片手を上げた。
審問官たちが、一斉に、腰の短剣を抜いた。柄頭に、乳白色の石。白い光が、短剣と、審問官たちの法衣を、包んだ。
神威だった。
「――殺すな。生かして、連れて行く。猊下が、お待ちだ」
審問官たちが、殺到した。
◇
最初の三人が、アルスの間合いに踏み込んだ、その瞬間。
屋根の上から、光の筋が、走った。
三本。
三人の審問官の短剣の柄頭の石が、同時に、砕け散った。神威の光が、弾けて消えた。三人は、何が起きたのかわからない顔で、自分の手の中の、ただの短剣を見下ろした。
「――アタシの弾はね、喰えないよ」
屋根の棟の上で、クレハが、機関銃の銃口から立ち昇る煙を、ふっと吹いた。
「鉄と火薬でできてるんだ。魔術じゃない。……喰えるもんなら、喰ってみな」
機関銃が、火を噴いた。
夕闇の中に、光の線が、何十本も、斜面へ向かって走った。一本一本が、審問官たちの足元の地面を抉り、短剣の柄頭を砕き、法衣の裾を地面に縫いつけた。殺してはいなかった。ただの一人も。銃王の弾は、狙ったものにしか、当たらない。
審問官たちが、たたらを踏んだ。
その隙に、アルスは、校舎の壁に立てかけてあった、掃除用の長い箒を、掴んだ。
箒の柄で、審問官の手首を、打った。打った勢いのまま、柄を回して、別の審問官の膝の裏を払った。三人目の鳩尾を、柄の先で、突いた。
魔術は、使えない。
でも、アルスは、十歳の冬から、ずっと、生き延びてきた男だった。魔術が使えなかった頃の喧嘩のやり方を、身体が、覚えていた。
十歳の冬に、両親を貴族に殺されるまで、アルスは、王都の貧民街の、ただの悪ガキだった。腹が減れば、市場の屋台から林檎をくすねた。くすねたのがばれれば、大人の脛を蹴って逃げた。逃げ切れなければ、殴られて、殴り返した。
全知の書なんて、頭の中には、まだ、どこにもなかった頃の話だ。
あの頃の拳が、今、ちょうどいい具合に、役に立っていた。
「……ちっ。箒、高ぇんだぞ、これ」
箒の柄が、三人目を突いたところで、ぽきりと折れた。
アルスは、折れた柄を放り捨てて、四人目の顔面に、拳を叩き込んだ。
◇
数で押されるのは、時間の問題だった。
クレハの弾は、審問官の石を、次々と砕いていった。それでも、鎖の輪は、消えなかった。鎖の輪のひとつひとつが、地面の下で、何かと繋がっていた。王都の方角へ。迎賓館の、心臓へ。砕いても砕いても、鎖そのものは、脈打ち続けていた。
アルスの頬に、短剣がかすめた傷が、一本、走った。
外套の袖が、裂けていた。息が、上がっていた。
それでも、審問官の数は、まだ、半分以上残っていた。
「――終わりだ、紅い悪魔」
ドミニクが、鎖の輪の外側から、冷たく言った。
そのとき。
校舎の裏手から、小さな悲鳴が、聞こえた。
アルスの動きが、止まった。
校舎の角を回って、二人の審問官が、姿を現した。その一人の腕に、小さな男の子が、抱えられていた。
八つか九つくらいの子どもだった。継ぎの当たった服。日に焼けた顔。泣き出しそうな顔で、手足をばたつかせていた。その手に、一枚の紙が、くしゃくしゃに握りしめられていた。
「……トマ」
アルスの声が、かすれた。
「先生……っ」
トマが、しゃくり上げた。
「しゅ、宿題……教室に、忘れて……。さ、三回書かないと……明日、廊下の、雑巾がけって……」
――三回だぞ、三回! 二回で済ませた奴は、明日、廊下の雑巾がけ!
昼間、アルスが、黒板の前で言った言葉だった。
ドミニクが、ゆっくりと、口の端を上げた。
「……運がいい」
ドミニクは、トマを抱えた審問官に、顎で合図をした。審問官が、トマの喉元に、短剣を当てた。神威の白い光が、刃の上で、ちらちらと揺れた。
「紅い悪魔。膝をつけ。……さもなくば、この子どもの喉を、裂く」
屋根の上で、クレハが、息を止めた。
照準器の向こうで、トマの頭と、審問官の頭が、重なっていた。撃てば、当たる。でも、撃った瞬間、審問官の手が、反射で動く。
クレハの指が、引き金の上で、凍りついた。
◇
アルスは、膝をつかなかった。
ただ、ゆっくりと、右手を持ち上げた。
親指で、顎に、触れなかった。
全知の書は、何も、囁かない。
それでいい、と、アルスは思った。
――魔術ってのはね、才能じゃないんだ。理屈なんだよ。
あのババアから、昔、聞かされた言葉。あのババアが、二百年前に、あの人から聞いた言葉。
そして、もうひとつ。あのババアが、アルスに魔術を叩き込んでいた頃に、ぽつりと言った言葉。
――じゃがな、小僧。理屈の、そのまた奥に、火種がある。魔術の火種は、身にあらず。……想いじゃ。
アルスの右腕から、紅い煙が、立ち昇った。
鎖の輪の内側で。全知の書の術式が、ひとつ残らず喰われてしまう、その場所で。
紅い煙は、喰われなかった。
アルスは、右手で、指鉄砲の形をつくった。
その銃口を、まっすぐに、トマを抱えた審問官に向けた。
「――俺は、ここに誓う」
低い声だった。
紅い煙が、アルスの口元からも、細く、立ち昇った。
「言の葉よ、ここに刻め。……この教室の子どもには、誰ひとり。指一本、触れさせねぇ」
紅い光が、アルスの足元から、地面を這うように広がった。
円を描いた。
鎖の輪の、さらに内側に。校舎を、まるごと包み込むように。紅い光の線が、地面に焼きついて、そこに、文字が浮かび上がった。誰も読めない、古い文字。アルス自身にも、読めない文字。
誓いの、文字だった。
ドミニクが、目を見開いた。
「……馬鹿な。鎖の内側で、術式が――」
「術式じゃねぇよ」
アルスの中指が、引き金のように、くいと曲がった。
紅い円の内側にいた審問官たちの身体が、一斉に、宙に浮いた。
トマを抱えていた審問官の腕が、見えない手に掴まれたように、トマから引き剥がされた。トマの身体が、ふわりと宙を漂って、アルスの腕の中に、すとんと収まった。
審問官たちは、紅い円の外へ。鎖の輪の、さらに外へ。木の葉が風に吹き払われるみたいに、斜面の下まで、まとめて押し流されていった。
紅い円の縁に触れた鎖の輪が、端から、ひとつずつ、砕けていった。
乳白色の石が、喰おうとして、喰えずに。
喉に詰まらせたみたいに、内側から、ひび割れていった。
◇
全部が終わるまで、ほんの、十数える間もなかった。
斜面の下で、審問官たちが、折り重なるように倒れて、呻いていた。誰も、死んではいなかった。鎖は、一本残らず、乳白色の砂になって、夜風に散っていた。
ドミニクだけが、鎖の輪の外側で、立ち尽くしていた。
その足元に、屋根の上から、一発、弾丸が撃ち込まれた。
「動くんじゃないよ」
クレハの声だった。
「アンタは、陛下の前で、全部吐いてもらう。……グラウって男と、同じ道を辿りたくなけりゃね」
ドミニクの膝が、がくりと、地面についた。落ち窪んだ目が、砂になって散っていく鎖の残骸を、信じられないものを見るように、見つめていた。
アルスは、腕の中のトマを、そっと地面に下ろした。
トマは、まだ、しゃくり上げていた。くしゃくしゃの紙を、両手で、握りしめたまま。
アルスは、しゃがみ込んで、トマと目の高さを合わせた。
「――宿題、何回書いた」
トマは、鼻をすすりながら、紙を広げた。
術式が、二回、書かれていた。
「……に、二回」
「明日、廊下の雑巾がけな」
「……うん」
アルスは、トマの頭を、くしゃくしゃと撫でた。
トマは、鼻をすすりながら、それでも、少しだけ笑った。前歯が、一本、抜けていた。先週、自分で抜いたのだと、得意げに見せびらかしていた歯だ。
それから、立ち上がって、北の空を見上げた。
南の空では、陛下の夜市の花火が、ぱっ、ぱっと、色とりどりに咲いていた。王都の中心のほうからは、白い光が、ぼんやりと、空に滲んでいた。聖火の礼拝の、光だった。
そして、北の、ずっと奥。
迷いの森の、さらに向こうの夜空が、ほんのわずかに、乳白色に、濁っていた。
屋根の上から、クレハが、ひらりと飛び降りてきた。
「……坊やも、たまには、やるじゃないか」
「坊やはやめろ」
アルスは、北の空から、目を離さなかった。
顎に、親指を当てた。全知の書が、ようやく、頭の中に戻ってきていた。遠くの森の奥で、何かが、ゆっくりと、目を覚ましかけていることを、静かに、告げていた。
「――頼んだぜ、相棒」




