67 嵐の前の、作戦会議
親善試合の夜。学園長室の床には、また、毎日王都新聞が敷き詰められていた。
ただ、昨夜とは、少しだけ違っていた。新聞の裏の地図の上に、小さな駒が、いくつも置かれていた。木を削って作った、親指ほどの大きさの駒。白く塗られたものと、黒く塗られたもの。白い駒の頭には、小さな紙片が貼られていて、それぞれに、名前が書かれていた。
シュベルト。レイラ。クレハ。エレナ。ラーク。アイシャ。陛下。アルス。フィアット。レイアーヌ。セルカ。サリナ。
それから、碧く塗られた駒が、ひとつ。
紙片には、『ハスト』と書かれていた。
「……なんで、俺だけ、色が違うんだ」
「目立つほうが、わかりやすいからね」
エトワールは、地図の真ん中に裸足で立ったまま、さらりと言った。
部屋の壁際には、昨夜と同じ顔ぶれが揃っていた。ただ、今夜は、もう三人、増えていた。
フィアット。レイアーヌ。
そして、壁の隅に、白い鎧を脱いで、平服で立っている、白金の髪の男。
セラフィン・ローエ。
「――団長殿には、私から、お願いして来ていただいたの」
レイアーヌが、言った。
「試合のあと、迎賓館の裏で、話をしたわ。……全部、話した。四年前のこと。光神の心臓のこと。石の正体のこと。ガブリエルが、ここにいること」
セラフィンは、壁際で、深く頭を下げた。
「信じがたい話でした。……ですが、今日、自分の剣の石から聞こえた声を、もう、聞こえないふりはできません」
セラフィンは、顔を上げた。
「明日の夜、東門の外の森には、ジセリア聖騎士団の本隊、五百が潜んでいます。その半数は、私の部下です。……私が、止めます。止められなければ、私が、斬られます」
部屋の中の誰も、何も言わなかった。
やがて、シュベルトが、壁から背中を離して、セラフィンの肩を、ぽんと叩いた。
「じゃあ、東門は、僕と君の担当だね」
「……剣聖殿」
「一人で五百人を止めるのは、さすがの僕でも骨が折れる。二人なら、ちょうどいい」
◇
「――では、明日の盤面を、確認する」
エトワールが、手を叩いた。
それだけで、部屋の空気が、引き締まった。
「敵の手は、五つ。こちらの手も、五つだ。順番に行こう」
エトワールは、しゃがみ込んで、地図の真ん中の、中央広場の位置に、白い駒をひとつ、置いた。
『レイラ』。
「一。中央広場。聖火の礼拝。……レイラ。広場の地下に、昨夜のうちに、陣を敷いてもらった」
「はい。逆流の陣です」
レイラさんが、手を挙げた。
「聖火が、集まった人たちの命を吸い上げようとしたら、その流れを、そっくりそのまま、聖火のほうへ押し返します。吸えば吸うほど、聖火が、自分で自分を焼くことになります」
「そもそも、広場に集まる民の数を、減らしておく」
エトワールは、地図の南の端に、白い駒を置いた。
『陛下』。
「明日の夜、南の市場で、陛下主催の『和解記念・夜市』を開いていただく。屋台は全部、王家の奢り。花火も上げる。……王都の民の九割は、聖火の礼拝より、そっちへ行く」
「俺の小遣いが、とんでもないことになるんだが」
陛下が、ジャージの袖で、目元を拭う真似をした。
「国庫からお出しください。それで足りなければ、私の給料から差し引いていただいて結構です」
「言ったな、眼鏡」
「それから、広場に集まる残り一割の大半は、近衛の騎士と、王都警備隊の変装です。陛下の幻術で、何千人もの群衆に見せかけていただく。……聖火に吸わせる命は、ほとんど、ありません」
エトワールは、中央広場の駒の上に、もうひとつ、白い駒を重ねた。
『エレナ』。
「エレナ嬢には、広場を見下ろす、時計塔の上にいていただく」
「おーほっほっほ! 高いところは大好きですわ!」
「聖火は、広場の四隅の、聖なる燭台から灯される。……燭台が倒れれば、儀式は崩れる」
エレナが、扇子を閉じた。
「つまり、燭台を、射抜けと?」
「いいや」
エトワールは、首を振った。
「狙わないでくれ。何も考えずに、好きなだけ、空に向かって、放ってくれ。……それだけでいい」
エレナは、しばらく、エトワールの顔を見つめていた。
それから、扇子で口元を隠して、くすりと笑った。
「――博識王さまのそういうところ、ワタクシ、嫌いではありませんわよ」
エトワールは、それには答えず、床に置いてあった紅茶のカップに手を伸ばした。中に、角砂糖が三つ沈んでいるのに気づいて、静かにカップを元の場所に戻した。
◇
エトワールは、地図の東の端へ移った。
東門の位置に、白い駒を二つ、並べて置いた。
『シュベルト』。そして、紙片に新しく名前を書き込んだ、白い駒。『セラフィン』。
「二。東門。ケルナー伯爵の手の者が、衛兵と入れ替わって、門を開ける。……門は、開けさせる。開けた先に、剣聖と、聖騎士団長が、二人だけで立っている」
「随分と、贅沢な門番だね」
「王国で一番の門番です」
エトワールは、地図の北西へ移った。
学園の位置に、白い駒を、三つ。
『アイシャ』。『フィアット』。『レイアーヌ』。
「三。学園。典礼院の予備の鍵で、結界が開けられる。……ここは、ひとつ、仕掛けをしてある」
エトワールは、眼鏡を押し上げた。その奥の目が、ほんの少しだけ、楽しそうに細くなった。
「三週間前。新聞で、使節団の派遣を知った、その日の朝に。典礼院の金庫の、学園の結界の予備の鍵を、そっくり同じ形の、別の鍵に、すり替えておいた」
「……三週間前?」
レイアーヌが、目を丸くした。
「それって、ラザロの手紙が届くより、前じゃない」
「学園の結界の鍵を、学園長以外が持っているのは、昔から気に入らなかったんだ。いい機会だと思ってね」
エトワールは、さらりと言った。
「すり替えた鍵で結界を開けると、学園の中ではなく、陛下の幻術で作った『学園そっくりの空間』に、繋がるようにしてある。……本物の生徒たちは、明日の午後、全員、南の夜市の手伝いに出してある。ケルナー伯爵の私兵が踏み込んだ先にいるのは、生徒会長と、一年の首席と、第一王女の、三人だけだ」
アイシャ会長が、拳を、ぱきりと鳴らした。
「……楽しみ」
フィアットが、白鋼の剣の柄を、ぎゅっと握りしめた。
レイアーヌは、黙って、腰の剣に、そっと手を置いた。
◇
エトワールは、地図の西の、山の向こうへ移った。
分館の位置に、白い駒を、二つ。
『アルス』。『クレハ』。
「四。分館。……ここには、ガブリエル直属の審問官部隊が向かう。ケルナー伯爵との密談に出てきた、あの審問官が率いる部隊だ」
「審問官、ね」
アルスが、壁際で、腕を組んだまま、鼻を鳴らした。
「アベルは、来ねぇのか」
「来ない」
エトワールは、断言した。
「アベルは、鍵だ。鍵は、扉のところへ行く。……分館に向かう審問官部隊は、別の道具を持ってくるはずだ。全知の書を、封じるための道具を。神の欠片を使った、何かを」
「上等だ」
アルスは、にやりと笑った。
「子どもたちは」
「明日は、昼までで帰してくれ。分館の教室には、誰も残さないように」
「わかってる」
アルスは、それから、隣のクレハを、ちらりと見た。
「……で、なんで、俺の相方が、この人なんだ」
「アタシじゃ不満かい、アルス坊や」
「坊やはやめろ」
「アンタが十二で、ハス坊がまだ七つだった頃から知ってんだ。坊やは坊やだよ」
アルスは、心底うんざりした顔をした。
クレハは、背中の機関銃を、どんと床に下ろした。
「アンタの魔術が封じられたら、アタシの弾が、アンタの代わりに喋る。……それだけの話さ」
◇
最後に、エトワールは、地図の北の、一番奥へ移った。
迷いの森。そのさらに奥の、旧王都の刑場の跡。
そこに、白い駒を、三つ置いた。
『サリナ』。『セルカ』。『ラーク』。
それから、碧い駒を、ひとつ。
『ハスト』。
「五。本命。……ガブリエルは、羅針盤と鍵と心臓を携えて、森の奥へ入る。私たちは、それを止めない。通す。刑場の跡まで」
エトワールは、ラークの駒を、刑場の跡の、少し外側に置き直した。
「ラーク。君には、先に、刑場の跡へ入ってもらう。……あそこの石は、二百年前に、サリナ殿の紅で溶けて、硝子のように固まっている。その石を、全部、読んでおいてくれ」
「読んで、どうするんスか」
「檻を作る」
ラークの目が、見開かれた。
「サリナ殿とガブリエルを、二人きりにするための、檻だ。誰も入れず、誰も出られず。……二百年前の紅が溶かした石で、二百年前の続きを、閉じ込める」
ラークは、しばらく、黙っていた。
それから、炉の火で焼けた古い火傷の痕が残る腕を、ゆっくりと、さすった。
「――うッス。最高の檻、打ってやりますよ」
エトワールは、次に、碧い駒を、指で、とんと叩いた。
「ハスト。君の役目は、ひとつだ」
「……なんだ」
「ガブリエルは、刑場の跡で、心臓を、自分の胸に入れるだろう。器になるために。……そのとき、心臓は、王都中に散らばった石と、根で繋がっている。石を持った聖騎士たちの命と。ミリエル嬢の命と。根がある限り、ガブリエルは、何百人分の命を盾にして戦える」
エトワールは、俺を見た。
「根を、断ってくれ。一本残らず。……ガブリエルを、本当に、ひとりにするために」
俺は、碧い駒を、見下ろした。
それから、隣の、白い駒。『サリナ』。
「……わかった」
◇
「――ひとつ、いいかしら」
レイアーヌが、手を挙げた。
その声は、硬かった。
「ミリエルは、どうなるの。羅針盤を外さないってことは、ミリエルは、明日の夜、ガブリエルと一緒に、森へ連れていかれるのよね」
部屋が、静まり返った。
「……あの子を、囮にするの?」
エトワールは、レイアーヌの目を、まっすぐに見返した。
「囮ではありません」
「同じことでしょう」
「違います、殿下」
エトワールは、レイラさんのほうを見た。
レイラさんが、頷いて、一歩、前へ出た。
「昨日、ミリエルさんの聖布に、もう一本、糸を縫い込みました。……向こうの糸に、気づかれないように、ぴったり寄り添わせて」
レイラさんは、自分の手のひらを、開いて見せた。
手のひらの真ん中に、髪の毛よりも細い、銀色の光の線が、一本、浮かんでいた。
「この糸は、私の手のひらと、繋がっています。ミリエルさんの命が、少しでも危うくなったら、この糸が、私に知らせてくれます。そして、この糸を辿れば、私は、どこにいても、ミリエルさんのところへ、転移できます」
レイラさんは、にこりと笑った。いつもの、ほわほわした笑みではなかった。賢者の笑みだった。
「囮じゃありません。……あの子を、一番近くで守るための、糸です」
レイアーヌは、長いあいだ、レイラさんの手のひらの、銀色の線を見つめていた。
それから、ゆっくりと、手を下ろした。
「……お願いします、賢者さま」
「はい。任されました」
◇
真夜中を過ぎて、森の家に帰ると、ロリババアは、まだ起きていた。
裏庭の、古い切り株の上に座って、月を見上げていた。
俺が隣の切り株に腰を下ろすと、ロリババアは、月から目を離さないまま、言った。
「――決まったか」
「決まった」
「そうか」
それきり、二人とも、黙っていた。
夜の鳥が、ほう、と鳴いた。
「……なぁ、ロリババア」
「なんじゃ」
「明日、あいつは、心臓を、自分の胸に入れる。……あの人の心臓を」
ロリババアの肩が、ほんの少しだけ、強張った。
「そのとき、もし、心臓が。……あの人の声で、あんたを呼んだら」
ロリババアは、答えなかった。
長いあいだ、答えなかった。
それから、膝の上の小さな手を、ゆっくりと開いた。白い傷痕の走る手のひらを、月の光にかざした。
「……わからん」
小さな声だった。
「わからんのじゃ、ハスト。二百年経っても、まだ。……あの人の声で呼ばれたら、儂は、自分が何をするのか、わからん」
俺は、何も言わなかった。
ただ、ロリババアの開いた手のひらの上に、自分の手を、重ねた。
小さな手だった。冷たかった。
「わからなくていい」
俺は、言った。
「わからなくなったら、俺が、隣で、怒鳴ってやる。……あれは、あの人じゃねぇって」
ロリババアは、しばらく、重ねられた手を見下ろしていた。
それから、ふっと、笑った。
「……生意気な」
縁側の陰で、小さな影が、こちらをじっと見ていた。
寝間着の上にショールを羽織ったセルカだった。目が合うと、セルカは、何も言わずに、とことこと歩いてきて、俺とロリババアの、ちょうど真ん中の地面に、膝を抱えて座り込んだ。
三人で、黙って、月を見上げた。
セルカの指先が、俺の外套の裾を、ほんの少しだけ、つまんでいた。冷たかった。でも、昨日ほどではなかった。
明日の夜も、晴れそうだった。




