66 親善試合――魔女の剣と、騎士の祈り
セラフィンは、特別席の手すりを、ひらりと越えた。
白い鎧が、陽の光を受けて、宙で一度、まぶしく光った。着地の衝撃で、試合場の砂が、セラフィンの足元から、輪を描いて舞い上がった。
レイアーヌの正面、十歩の間合いで、セラフィンは、静かに立ち上がった。
「無理を聞いていただき、感謝いたします。殿下」
「いいえ。……私も、あなたと、剣を交えてみたかったの」
レイアーヌは、王家の剣を抜いた。
細身の、まっすぐな剣だった。刃の根元に、フラハイト家の紋章が、小さく刻まれている。
セラフィンも、腰の長剣を抜いた。柄頭には、昼間シュベルトに削られた、髪の毛一本ほどの欠けのある、乳白色の石。
二人は、剣を構えたまま、しばらく、向き合っていた。
「――四年前」
セラフィンが、口を開いた。
「私は、聖都の大階段の下におりました。まだ、ただの一騎士として。紅い悪魔に、なす術もなく吹き飛ばされた、何百人のうちの、ひとりでした」
レイアーヌの目が、わずかに、細くなった。
「その日、大階段の上の薪の山に、ひとりの少女が、縛りつけられておりました。偽りの神を讃えた、異国の魔女だと。……私は、それを、疑いもしなかった」
セラフィンは、長剣を、まっすぐに立てた。
「殿下。私は、確かめたいのです。あの日、自分たちが焼こうとしたのが、本当に、魔女だったのかどうかを」
競技場が、静まり返っていた。
観客席の生徒たちは、セラフィンの言葉の半分も、理解していなかっただろう。それでも、誰ひとり、声を上げなかった。試合場の真ん中に立つ二人の間に張り詰めたものが、競技場の隅々にまで、伝わっていた。観客席の一番前の列では、ノエルが、フィアットの袖を握りしめたまま、団長の背中を見つめていた。貴賓席の陛下は、肘掛けを指で叩くのを、いつの間にかやめていた。
レイアーヌは、剣を、胸の前に構え直した。
王家剣術の、基本の構え。教本の一頁目に載っているような、誰でも知っている構え。四年前、地下の独房で、古い椅子の脚を握りしめて、毎日、何百回も繰り返した構え。
「――確かめて」
レイアーヌは、言った。
「私の剣で」
エレナが、扇子を、高く掲げた。
「――始め!」
◇
セラフィンの柄頭が、光った。
最初から、全力だった。白い光が、刃を包み、鎧を包み、刃の長さを倍近くにまで延ばした。昼間、シュベルトと打ち合ったときと同じ。いや、昼間よりも、さらに濃い光だった。
踏み込みで、試合場の砂が、爆ぜた。
光の刃が、真上から、レイアーヌの頭上に振り下ろされた。
レイアーヌは、受けなかった。
半歩、横へ。
それだけだった。光の刃は、レイアーヌの肩をかすめて、試合場の砂を、深々と斬り裂いた。斬り裂かれた砂が、白い光の熱で、一瞬、硝子のように光った。
レイアーヌの剣が、その刃の峰を、上から、軽く叩いた。
叩かれた刃が、砂に、さらに深く沈んだ。セラフィンが、刃を引き抜こうとした、その一瞬。
レイアーヌの突きが、走った。
起こりが、なかった。
構えから、突きへ。その間にあるはずの、肩の揺れも、膝の沈みも、腕の引きも、何もなかった。ただ、気がついたときには、もう、王家の剣の切っ先が、セラフィンの喉元の、指一本手前まで、届いていた。
セラフィンが、仰け反った。
鎧の喉当てを、切っ先が、かすめた。白い鎧の表面に、細い、一本の線が走った。
観客席が、どよめいた。
セラフィンは、大きく跳び退って、間合いを取り直した。喉当ての線に、指先で触れて、それから、レイアーヌを見た。
切れ長の目が、驚きに、見開かれていた。
「……今の、突き」
「基本の型よ」
レイアーヌは、剣を、また胸の前に構え直していた。何事もなかったように。
「王家剣術の、一番最初に習う突き。……四年前、地下の牢で、毎日、何百回も練習したの。木切れで。誰も、教えてくれる人がいなかったから」
セラフィンの喉が、ごくりと動いた。
それから、セラフィンは、もう一度、踏み込んだ。
◇
打ち合いは、長く続いた。
セラフィンの剣は、綺麗だった。シュベルトが言ったとおりだった。何千回、何万回と振ってきた者の剣。踏み込みにも、太刀筋にも、一切の無駄がない。そこに、神威の光が乗る。速さも、重さも、人の剣の域を、はるかに超えていた。
レイアーヌの剣は、それを、受けなかった。
躱した。流した。半歩ずつ、ずらした。試合場の砂に、レイアーヌの靴が描く跡は、どれも、ほんの半歩分の小さな弧ばかりだった。四年前、独房の狭い石の床の上で、身体に染みついた歩幅だった。光の刃が、レイアーヌの髪を、制服の袖を、何度もかすめた。そのたびに、観客席から、悲鳴が上がった。
そして、セラフィンが、大きく振るうたびに。
レイアーヌの、起こりのない突きが、セラフィンの鎧に、一本ずつ、細い線を刻んでいった。
喉当てに、一本。胸当てに、二本。肩当てに、一本。籠手に、一本。
どれも、致命傷には、ほど遠い。でも、どれも、本物の戦場なら、そこで終わっていた一撃だった。
セラフィンの息が、上がり始めていた。
それは、疲れのせいだけではなかった。
俺は、瞼の隙間から、セラフィンの長剣の柄頭を見ていた。
乳白色の石が、脈を打っていた。セラフィンが剣を振るうたびに、石の光が、強くなっていく。強くなるたびに、その光の一部が、柄を伝って、セラフィンの腕へ、腕から胸へと、逆流していた。
――借り物ってのはね、持ち主が貸すのをやめたら、すぐに消える。
違う。
あれは、貸すのをやめるどころか、取り立てを始めている。
セラフィンの頬から、血の気が、引いていった。踏み込みが、ほんのわずかに、遅れ始めた。光の刃を振り上げた腕が、一瞬、震えた。
それでも、セラフィンは、剣を振るった。
渾身の、横薙ぎ。
光の刃が、試合場の端から端までを、白い弧で、薙ぎ払った。
レイアーヌは、その弧の下を、身を沈めて、くぐり抜けた。
くぐり抜けて、セラフィンの懐に、入った。
王家の剣の切っ先が、セラフィンの胸の、鎧の継ぎ目に、向けられた。
突けば、終わる位置だった。
そのとき、セラフィンの柄頭の石が、ひときわ強く、光った。
セラフィンの喉から、短い、うめき声が漏れた。膝が、がくりと崩れかけた。石の光が、セラフィンの腕を、這い上がっていた。まるで、白い蔓が、宿主の身体に、根を張っていくみたいに。
レイアーヌの切っ先が、止まった。
突かなかった。
ただ、セラフィンの目を、まっすぐに見つめていた。
「――団長殿」
レイアーヌは、言った。
「その剣で、私に勝って、嬉しい?」
セラフィンは、答えられなかった。
膝を崩しかけたまま、自分の腕に這い上がってくる、白い光を、見下ろしていた。
その光の中から。
観客席の、誰にも聞こえない声が。セラフィンにだけ、聞こえていたのだろう。
何百人もの、うめき声が。
セラフィンの顔が、ゆっくりと、歪んだ。
「……昼間、剣聖殿に、言われました」
かすれた声だった。
「その光が、いつか、私の剣を、食い潰さないように、と」
セラフィンは、長剣を、両手で握り直した。
それから、柄頭の、乳白色の石を。
自分の籠手で、思いきり、殴りつけた。
一度。二度。三度。
石に、ひびが入った。ひびが、石全体に、蜘蛛の巣のように広がった。四度目で、石は、乾いた音を立てて、砕け散った。
白い光が、消えた。
刃を包んでいた光も。鎧の継ぎ目から漏れていた光も。セラフィンの腕に這い上がっていた、白い蔓も。全部、霧が晴れるように、消えていった。
セラフィンは、肩で、大きく息をついた。
それから、光を失った、ただの鋼の長剣を、もう一度、構えた。
「――これで、私の剣です」
レイアーヌの口元が、ほんの少しだけ、上がった。
「ええ。……やっと、あなたと、戦えるわ」
◇
最後の打ち合いは、ほんの数合だった。
光を失ったセラフィンの剣は、さっきまでより、ずっと遅く、ずっと軽かった。
それでも、さっきまでより、ずっと、まっすぐだった。
レイアーヌは、その剣を、今度は、正面から受けた。受けて、押し返して、また受けた。剣と剣が、ぶつかるたびに、火花が散った。光の剣とぶつかっていたときには、一度も散らなかった、鋼と鋼の火花だった。
観客席が、静まり返っていた。
誰もが、息を詰めて、二人の剣を見ていた。
セラフィンが、最後の一歩を、踏み込んだ。
全身の重さを乗せた、真っ向からの、斬り下ろし。
レイアーヌは、それを、受けなかった。
起こりのない、突き。
王家の剣の切っ先が、セラフィンの剣の鍔元を、正確に、打ち抜いた。
セラフィンの手から、長剣が、離れた。長剣は、くるくると宙を舞って、試合場の白線の外の砂に、突き刺さった。
さっき、ノエルの剣が突き刺さったのと、ちょうど、同じ場所だった。
「――勝負あり!」
エレナの声が、競技場に響き渡った。
「勝者、サロバニア! 第一王女、レイアーヌ・フォン・フラハイト殿下!」
一瞬の静寂。
それから、競技場が、割れんばかりの歓声に包まれた。
◇
セラフィンは、試合場の真ん中に、膝をついていた。
空っぽの両手を、見下ろしていた。
レイアーヌが、剣を鞘に納めて、その前に立った。
セラフィンは、顔を上げた。
「……魔女では、ありませんでした」
セラフィンの声は、震えていた。
「あなたの剣には、何の奇跡もなかった。神威も、加護も。ただ、毎日、何百回も、木切れを振り続けた手の、剣でした。……そんな剣を振るう人を、私たちは、魔女と呼んで、焼こうとした」
セラフィンは、深く、頭を下げた。額が、砂につくほどに。
「申し訳、ありませんでした」
レイアーヌは、しばらく、黙って、その白金の頭を見下ろしていた。
それから、膝をついて、セラフィンと、目の高さを合わせた。
「あなたの剣には、祈りがあったわ」
セラフィンが、顔を上げた。
「最初は、誰かに捧げるための祈りだった。光の神に。教皇に。……でも、最後の一太刀は、違った。あれは、自分の足で立つための祈りだった」
レイアーヌは、手を差し出した。
「私、そっちの祈りのほうが、好きよ」
セラフィンは、差し出された手を、長いあいだ、見つめていた。
それから、震える手で、その手を、握った。
レイアーヌの手を借りて立ち上がったセラフィンは、まっすぐに、試合場の端へ歩いていった。
そこには、フィアットに付き添われて、ノエルが座り込んでいた。泣き腫らした目で、近づいてくる団長を見上げて、慌てて立ち上がろうとした。
セラフィンは、それを、手で制した。
それから、白い鎧のまま、ノエルの前に、片膝をついた。
「ノエル」
「は、はい……団長……」
「声が、していたのだな。剣を握るたびに。……ずっと」
ノエルの肩が、びくりと震えた。
それから、小さく、頷いた。
「……申し訳、ありません。団長に、言えなくて。神さまの声を、疑うなんて、騎士失格だって、思って」
「謝るのは、私のほうだ」
セラフィンは、ノエルの頭に、大きな手を、そっと置いた。
「私にも、聞こえていた。……聞こえていて、聞こえないふりをしていた。神の声だと、自分に言い聞かせて。お前たちに、あの石を持たせたまま」
ノエルの目から、また、涙がこぼれた。
フィアットが、ノエルの背中を、黙って、さすっていた。
特別席から、その様子を見下ろしていたヴィンセントの目が、ほんの一瞬だけ、柔和な笑みの奥で、ひどく冷たく、光った。
◇
試合が終わって、競技場の熱気が、まだ冷めやらない中。
特別席で、ヴィンセントが、柔和な笑みを顔に貼りつけたまま、ゆっくりと立ち上がった。
「――素晴らしい試合でした。両国の若き剣士たちに、光の神の祝福を」
ヴィンセントの声は、少しも、揺れていなかった。
「明日の夜は、王都の中央広場にて、聖火の礼拝を執り行います。和解の証として、どなたでも、ご参列ください。……光の神の、慈悲の炎のもとに」
観客席から、まばらな拍手が起こった。
ヴィンセントの背後で、フードをかぶった年老いた従僧が、身じろぎもせずに、座っていた。
膝の上に置かれた、皺だらけの手。
その手のひらの、古い傷痕の上で、指が、ゆっくりと、握りしめられていくのが見えた。
一番上の貴賓席で、エトワールが、眼鏡を押し上げた。
陛下が、礼服の襟を、ほんの少しだけ、緩めた。
競技場の屋根の上で、クレハが、狙撃銃の照準器から、目を離した。
俺は、観客席の一番後ろの隅で、ようやく、瞼の隙間を、少しだけ、広げた。
――明日の夜。
聖火の夜だ。




