65 親善試合――狙わない審判と、狙いすました剣
親善試合の日の競技場は、順位戦の決勝のときよりも、人で溢れていた。
すり鉢状の観客席を、全学年の生徒が埋め尽くしている。来賓席には、王国の貴族たち。その向かいの特別席には、白い法衣と白い鎧の、ジセリアの使節団。一番上の貴賓席には、国王アークが、礼服の襟をきっちりと締めて、座っていた。
そして、競技場の真ん中。白線で囲まれた試合場の中央に、ひとりの女性が、大弓を背負って立っていた。
「――おーほっほっほ! 皆々さま、ごきげんよう!」
高らかな笑い声が、競技場いっぱいに響き渡った。
「本日の親善試合の審判は、ワタクシ、弓王エレナ・ヴァイスが務めさせていただきますわ! 公平、公正、そして華麗に! どうぞ、お見知りおきを!」
観客席が、どっと沸いた。
半分は歓声で、半分は笑い声だった。『無能弓姫』の噂を知らない生徒は、この学園にはいない。前の列の一年生が、「あれが、狙うと外れる弓王さまか」と囁いて、隣の友人に、慌てて口を塞がれていた。
俺は、観客席の一番後ろの、一番目立たない隅で、腕を組んで、目を閉じていた。寝ているふりだ。
……もっとも、本当に目を閉じているわけじゃない。瞼に、糸一本ぶんの隙間を残してある。
隣には、セルカが座っていた。膝を抱えて、淡い水色の目で、特別席の白い法衣の一団を、じっと見ていた。その中に、聖布を胸に結んだミリエルが、俯いて座っている。ミリエルの隣には、白い髪の少年。さらにその後ろに、フードをかぶった、年老いた従僧。
「……ハストさま」
「なんだ」
「……あの審判、なんで、弓王さまなの」
「エトワールの人選だ」
俺は、目を閉じたふりをしたまま、言った。
「何も狙わない奴が、一番公平だろ、だってさ」
本当の理由は、それだけじゃない。
エレナが試合場の真ん中に立っている限り、あの特別席は、ずっと、エレナの射程の中にある。エレナが何も狙わずに放った矢は、必ず、何かの真ん中に突き刺さる。……何かが起きたときに、それが、どこに刺さるのか。それを一番よく知っているのは、たぶん、エトワールだけだ。
◇
試合は、全部で六つ組まれていた。
二年生の三人。一年生の代表、フィアット。三年生の、アイシャ会長。そして、大将のレイアーヌ。
二年生の試合は、一勝二敗だった。
ジセリアの聖騎士候補生たちは、強かった。全員の剣の柄頭に、セラフィンのものよりひと回り小さな、乳白色の石が嵌め込まれていた。剣を構えるたびに、その石から白い光が滲み出して、刃と鎧を包む。神威だ。光を纏った候補生の踏み込みは、普通の剣士の倍は速く、倍は重かった。
勝った一人は、二年の序列二位の、槍使いの男子生徒だった。
槍の石突きで、候補生の剣の柄頭を、正確に叩いた。光が揺らいだ一瞬に、槍の穂先を、喉元に突きつけた。
――柄頭の石を、狙え。
エトワールが、出場者全員に、事前に伝えていた助言だった。理由は、話していない。ただ、それだけを。
「――勝者、サロバニア! お見事ですわ!」
エレナが、扇子を掲げて、高らかに宣言した。
特別席で、ヴィンセントの柔和な笑みが、ほんのわずかに、硬くなったのが見えた。
あとで、レイラさんから聞いた話だ。
そのとき、一番上の貴賓席では、陛下が、隣に座ったエトワールに、小声で訊いていたらしい。
「――おい、眼鏡。柄頭を狙えって、あれ、どういう意味だ。勝たせるための助言にしちゃ、ずいぶん回りくどいだろ」
「勝たせるためではありませんよ、陛下」
エトワールは、膝の上の新聞から目を上げずに、答えたそうだ。
「ラークの見立てでは、あの石は、一つ一つが、迎賓館の心臓と根で繋がっている。石を一つ砕くたびに、親玉の根が、一本、枯れる。……聖火の夜までに、一本でも多く、枯らしておきたいのです」
「……試合で、か」
「試合なら、向こうは文句を言えません。親善試合で、たまたま、剣の飾り石が割れただけですから」
陛下は、しばらく、黙っていた。
それから、礼服の襟の中で、くっくっと、喉を鳴らして笑ったそうだ。
「お前、本当に性格が悪いな」
「よく言われます」
競技場の屋根の上には、クレハが、狙撃銃を抱えて寝そべっていた。観客席の真下の通路には、ラークが、作業着のまま、腕を組んで立っていた。試合場の白線の外には、シュベルトが、木剣を肩に担いで、のんびりと試合を眺めていた。
誰も、ただ見物に来ているわけではなかった。
競技場そのものが、エトワールの盤面の、最初の一区画だった。
◇
四試合目。一年生の代表、フィアット・セルジーネ。
試合場に進み出たフィアットは、ひどく緊張していた。白鋼の剣の柄を握る手が、遠目にも、かすかに震えていた。
対するジセリアの候補生は、フィアットと同じくらいの年の、少女だった。栗色の髪を、短く切りそろえている。白い鎧の胸に、候補生の中でも上位の者だけがつけるという、金の徽章が光っていた。
「ジセリア聖騎士学院、候補生首席。ノエル・ヴァルト」
少女は、剣を胸の前に立てて、名乗った。
「よろしくお願いします、フィアット・セルジーネさん。……あなたの剣、きれいですね」
「あ、ありがとうございます……! よろしく、お願いします……!」
フィアットは、ぎこちなく頭を下げた。
「――始め!」
エレナの声と同時に、ノエルの剣の柄頭が、光った。
白い光が、刃を包み、鎧を包んだ。ノエルが、踏み込んだ。速い。二年生の試合の候補生たちよりも、さらに一段、速かった。白い光の尾を引いて、刃が、フィアットの胴を薙ぎにくる。
フィアットの剣が、それを受けた。
白鋼の刃と、光を纏った刃が、ぶつかった。火花が、散った。フィアットの身体が、受けた衝撃で、半歩、後ろへ押し戻された。足元の砂が、ざっと削れる。
ノエルは、止まらなかった。二撃、三撃。光の刃が、上から、横から、斜めから、次々と襲いかかる。フィアットは、それを、受けて、流して、受けた。受けるたびに、半歩ずつ、押し込まれていく。
観客席の、一年生の一角から、悲鳴のような声が上がった。
――違う。
俺は、瞼の隙間から、フィアットの目を見ていた。
フィアットは、押されているんじゃない。見ているんだ。
ノエルの剣を、じゃない。その柄頭の、乳白色の石を。その石から、ノエルの腕へ、ノエルの胸へ、細く、細く伸びている、何かを。
フィアットの目は、昔から、そういう目だった。陛下の幻術を、素の目で見破った。アイシャ会長の幻影体術を、うっすらと捉えた。見えないはずのものの、輪郭を、なぞることができる目。
フィアットが、受けた刃を、横へ流した。
その流れのまま、白鋼の剣が、閃いた。
一本の太刀筋が、三本に分かれた。
幻術だった。錬成帝の工房で、自分の剣を打ち上げた日に、フィアットが初めて見せた、新しい剣の使い方。剣そのものはひと振り。でも、見る者の目には、その軌道が、三本に分かれて見える。右から。左から。真上から。
ノエルの目が、見開かれた。光の刃が、三本の太刀筋のどれを受けるべきか、一瞬、迷って、宙で止まった。
その一瞬で、本物の一本が、ノエルの剣の柄頭を、正確に、打ち抜いた。
乳白色の石が、砕けた。
光が、弾けて、消えた。
ノエルの手から、剣が、離れた。剣は、くるくると宙を舞って、試合場の白線の外の砂に、突き刺さった。
競技場が、一瞬、静まり返った。
それから、ノエルの膝が、かくんと、折れた。
「――え」
ノエルは、砂の上に座り込んだまま、自分の両手を見下ろしていた。
その目から、涙が、ぼろぼろと溢れていた。
「……あれ。……なんで。……私」
フィアットが、剣を下ろして、慌ててノエルに駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!? ど、どこか、怪我を……!」
「……ちがう」
ノエルは、首を振った。涙が、砂の上に、ぱたぱたと落ちた。
「……静かに、なった」
「え……?」
「……あの石を、もらってから、ずっと、誰かが、泣いてる声がしてたの。夜も、昼も。剣を握るたびに、耳の奥で。……みんな、気のせいだって。神さまの声だって、言われて」
ノエルは、両手で、顔を覆った。
「……今、やっと、静かに、なった」
フィアットは、何も言わずに、ノエルの前にしゃがみ込んだ。
それから、白鋼の剣を砂の上に置いて、空いた両手で、ノエルの肩を、そっと抱きしめた。
ノエルは、フィアットの肩に額を押しつけて、子どもみたいに、声を上げて泣いた。
競技場の、誰も、何も言わなかった。
「――勝者、サロバニア」
エレナの声が、静かに響いた。さっきまでの、高らかな調子は、どこにもなかった。
「……そして、ふたりとも、お見事でしたわ」
観客席から、ぱらぱらと、拍手が起こった。
それは、やがて、競技場いっぱいに広がっていった。サロバニアの生徒たちだけではなかった。特別席の、白い鎧の聖騎士候補生たちの何人かも、立ち上がって、手を叩いていた。
特別席の中央で、セラフィンが、身じろぎひとつせずに、座っていた。
その目は、砂の上で泣きじゃくる、自分の教え子を、じっと見つめていた。
そして、自分の腰の、長剣の柄頭に、ゆっくりと、手を置いた。
その二つ隣の席で、ミリエルが、両手で口元を覆っていた。
鳶色の目から、涙が、静かに伝っていた。ノエルの泣き声に、何かを思い出しているような顔だった。四年前、地下の祭殿で、何百本もの糸に繋がれていた頃の、自分のことを。
そして、ミリエルの隣で。
アベルが、硝子玉の目で、試合場の砂の上を、じっと見つめていた。
砕けた乳白色の石の、細かな欠片が、砂の上に散らばっていた。その欠片の一粒一粒が、陽の光を受けて、かすかに、光っていた。
光は、ほんのわずかに、揺らいでいた。風もないのに。特別席の、アベルのいる方向へ、なびくように。
アベルは、自分の胸元に、そっと手を当てた。
それから、誰にも聞こえないくらいの声で、ぽつりと呟いた。
「……もったいない」
◇
五試合目。アイシャ会長。
対するのは、候補生の中で一番大柄な、熊みたいな体格の男子だった。光を纏った大剣を、軽々と片手で振り回している。
「――始め!」
エレナの声が響いた、次の瞬間には、もう、終わっていた。
観客席の誰にも、何が起きたのか、見えなかったはずだ。
アイシャ会長の姿が、ふっと、ぶれた。幻影体術の二段目、影渡り。移動の軌跡そのものを、幻で塗り潰す。気がついたときには、アイシャ会長は、大柄な候補生の、懐の内側に立っていた。
拳が、見えなかった。
ただ、大剣の柄頭の石が、ぴしりと、ひび割れて、光を失った。それから、大柄な候補生の身体が、ふわりと宙に浮いて、白線の外まで、すうっと飛んでいって、砂の上に、尻もちをついた。
怪我ひとつ、させていなかった。
「――しょ、勝者、サロバニア……ですわ……!」
さすがのエレナも、扇子を掲げる手が、少しだけ遅れた。
アイシャ会長は、試合場の真ん中で、拳をぷらぷらと振りながら、観客席の一番後ろの隅を、まっすぐに見上げた。
俺と、目が合った。
――瞼の隙間越しに、だったのに。
アイシャ会長は、満面の笑みで、ぶんぶんと手を振った。
「師匠ーっ! 見てましたかーっ!」
「…………」
観客席の生徒たちが、一斉に、アイシャ会長の視線の先を振り返った。
俺は、腕を組んで、目を閉じたまま、微動だにしなかった。寝ている。俺は、寝ている。俺は空気だ。俺は観客席の木目だ。
「……ハストさま」
隣で、セルカが、小さく言った。
「……寝たふり、ばれてる」
知ってる。
◇
五試合を終えて、サロバニアの四勝一敗。
残るは、大将戦だけだった。
試合場に、レイアーヌが進み出た。王家の剣を腰に下げ、背筋をまっすぐに伸ばして。
対するジセリア側の大将の席は、空いていた。
本来なら、候補生の次席が出るはずだった。その候補生は、席に座ったまま、困ったように、特別席のほうを振り返っていた。
特別席から、ひとりの男が、立ち上がった。
白い鎧。白金の短い髪。切れ長の目。
聖騎士団長、セラフィン・ローエ。
「――審判殿」
セラフィンの声が、競技場に響いた。
「大将戦の相手を、私に、務めさせていただきたい」
競技場が、どよめいた。
ヴィンセントが、特別席で、わずかに眉をひそめた。その背後で、フードの従僧は、身じろぎもしなかった。
エレナは、扇子で口元を隠したまま、試合場の真ん中のレイアーヌを見た。
レイアーヌは、まっすぐに、セラフィンを見上げていた。
「――お受けします」
レイアーヌは、言った。
「どうぞ、降りてきてください。団長殿」




