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64 博識王の盤面

使節団の滞在七日目の夜、王城で、晩餐会が開かれた。


名目は、親善試合を二日後に控えた、両国の友好を祝う宴。主催は、国王アーク。招かれたのは、使節団の全員と、王国の主だった貴族たち。


「――いやぁ、猊下! よく来てくれた! 今日は無礼講だ! 好きなだけ食って、好きなだけ飲んでくれ!」


大広間の上座で、陛下は、礼服の襟をだらしなく緩めて、葡萄酒の杯を高々と掲げていた。


もちろん、全部、芝居だ。


陛下の役目は、ひとつ。今夜一晩、使節団の目を、この大広間に釘付けにしておくこと。


「陛下のご厚情、痛み入ります」


ヴィンセントは、柔和な笑みのまま、杯を掲げ返した。


その背後に、年老いた従僧が、影のように控えていた。深くかぶったフード。皺だらけの手。給仕の役目なのか、ヴィンセントの杯が空になるたびに、銀の水差しから、黙って葡萄酒を注いでいる。


大広間の二階、回廊の手すりには、いつものように、エレナが腰掛けていた。扇子で口元を隠して、にこにこと、宴を見下ろしている。


その隣には、エトワールが、手すりにもたれて立っていた。紅茶のカップを片手に。


「――エレナ嬢」


エトワールが、宴を見下ろしたまま、小さな声で言った。


「あの、ヴィンセント枢機卿の背後の従僧。……フードの中が、見たい」

「まぁ。殿方の素顔を覗き見るなんて、はしたないですわ」

「お願いできるかな」

「狙え、と仰るのでしたら、お断りいたしますわよ? ワタクシ、狙うと外れますもの」

「狙わなくていい」


エトワールは、紅茶を一口すすった。


「好きなところに、好きなものを、放ってくれ。……何も、考えずに」


エレナは、扇子の陰で、くすりと笑った。


それから、回廊のテーブルの上の、砂糖壺から、角砂糖をひとつ、摘まんだ。


振り向きもせずに、後ろ手に、ぽいと放った。


角砂糖は、天井のシャンデリアの縁に当たって、跳ね返った。跳ね返った先で、大広間の柱の装飾に当たって、もう一度、跳ねた。三度目に、給仕の盆の縁で跳ねて。


ヴィンセントの背後の、従僧のフードの縁に、ぽすりと、落ちた。


小さな衝撃で、フードが、ほんのわずかに、後ろへずれた。


ほんの一瞬だった。


従僧は、すぐに、皺だらけの手で、フードを引き下ろした。誰も、気づかなかった。ヴィンセントでさえ、杯を掲げたまま、振り返りもしなかった。


でも、二階の回廊から、エトワールは、見ていた。


フードの縁から、こぼれた髪の色を。


――銀色だった。


そして、フードを引き下ろした、その手のひらに。


古い傷痕が、一本、斜めに走っているのを。


「……ありがとう、エレナ嬢」


エトワールの声は、静かだった。


「狙ってはおりませんわよ?」

「わかっている」


エトワールは、紅茶のカップを、手すりの上に置いた。


カップを持っていた指先が、ほんのわずかに、震えていた。


◇


同じ頃。迎賓館の、最上階。


宴に出払って、人の気配の消えた廊下を、二つの影が、音もなく進んでいた。


俺と、レイラさんだった。


「――結界、三重です」


レイラさんが、廊下の突き当たりの扉の前で、足を止めた。


扉には、何の変哲もない、木の板にしか見えなかった。でも、レイラさんが指先をかざすと、扉の表面に、細い光の線が、網の目のように、びっしりと浮かび上がった。


「一枚目は、侵入を知らせる鈴。二枚目は、触れた者の手を焼く罠。三枚目は……」


レイラさんの眉が、寄った。


「……扉の向こうの空間そのものを、少しだけ、ずらしてあります。正しい手順で開けないと、扉の向こうは、ただの壁になる」

「解けるか」

「解けますよー。賢者ですもん」


レイラさんは、にこりと笑った。


それから、両手の指を、扉の上の光の網に、そっと差し込んだ。


指先が、網の目の一本一本を、まるで竪琴の弦を爪弾くみたいに、撫でていった。鈴の術式の糸を、震わせないように、一本ずつ、横へずらしていく。罠の術式の糸を、焼けないように、手のひらの魔素で包んで、ほどいていく。


最後の、空間をずらす術式だけは、少しだけ、時間がかかった。


レイラさんの額に、汗が一筋、伝った。


「――はい、開きました」


扉が、音もなく、内側へ開いた。


部屋の中は、暗かった。


調度品は、ほとんどなかった。寝台がひとつ。小さな机がひとつ。それから、部屋の真ん中の床の上に、白い布をかけられた、何かが置かれていた。


人の背丈ほどの長さの、箱だった。


棺のような形をしていた。白い布の下から、角が覗いている。白い木の板に、金の象嵌。光の神の聖印。


聖櫃。


ジセリアの教会が、最も神聖なものを納めるときにだけ使う、白い棺。


俺は、白い布に、手をかけた。


その瞬間、手のひらの下で、何かが、脈を打った。


箱の中から。白い木の板越しに。ゆっくりと、重たく、規則正しく。一拍ごとに、布越しの指先が、かすかに押し返される。生き物の、心臓の鼓動だった。


俺の胸の奥で、碧が、ざわりと逆立った。


四年前、白い都の地下で砕いた、あの心臓と、同じ感触だった。いや、同じではなかった。もっと、ずっと、濃い。何百もの、何千もの、うめき声が、箱の中で、ひとつの鼓動に押し固められている。


――あの心臓、俺の中の全知の書と、同じ匂いがした。


アルスの声が、よみがえった。


そして、もうひとつ。


ロリババアの、小さな手のひら。白い傷痕。


――あの人の心臓が、もう一度、動く。儂の血で。


「……ハスト様」


レイラさんが、俺の手首を、そっと掴んだ。


「開けないでください。……今、これに触れたら、向こうに、気づかれます」


俺は、白い布から、手を離した。


指先が、まだ、かすかに、痺れていた。


「この部屋の、主は」

「宿泊者の名簿では、ヴィンセント枢機卿付きの、従僧。名前は、書いてありませんでした」


レイラさんは、部屋の隅の、小さな机の上を見た。


机の上には、何も置かれていなかった。書物も、筆記具も、私物の類も。ただ、一枚の、乾いた布が、几帳面に畳まれて、置かれているだけだった。


布の端に、古い血の染みが、ほんの少しだけ、残っていた。


◇


真夜中。学園長室。


床一面に、毎日王都新聞が、敷き詰められていた。


一枚や二枚ではなかった。床の端から端まで、隙間なく。どの新聞も、裏返されて、その裏側に、細かな字と線が、びっしりと書き込まれていた。新聞と新聞の境目を越えて、線が繋がっている。まるで、床そのものが、一枚の巨大な地図になったみたいだった。


その地図の真ん中に、エトワールが、裸足で立っていた。


部屋の壁際には、俺と、レイラさん。陛下。シュベルト。クレハ。エレナ。ラーク。アイシャ会長。そして、今夜は、アルスと、ロリババアも来ていた。


「――全部、揃った」


エトワールは、言った。


その声は、疲れきっていた。目の下には、くっきりと隈が浮いていた。でも、レンズの奥の目だけは、恐ろしいほど、冴えていた。


「結論から言おう。……ヴィンセント枢機卿の背後の従僧。あれは、新教皇、ガブリエル一世だ」


部屋の空気が、凍りついた。


陛下が、口笛を吹きかけて、やめた。クレハが、腰のリボルバーに、無意識に手を伸ばした。


アルスが、壁から背中を離した。


「……あの銀髪の狸が。自分で、来やがったのか」

「来ざるを得なかったんだよ」


エトワールは、床の地図の一点を、つま先で示した。


「ラザロ・クロイツの手紙。新しい心臓を動かすには、神に最も近しかった者の血が要る。……ここで、ひとつ、疑問が出る。血を手に入れたとして、その血を、誰に流し込むのか」


エトワールのつま先が、地図の上を、すっと滑った。


「心臓は、それだけでは、ただの石だ。四年前の光神の心臓も、ミリエル嬢を通り道にして、ようやく動いていた。新しい心臓にも、器が要る。……ガブリエルは、その器に、自分自身を選んだ。だから、自分で、心臓を運んできた。血と心臓と器が、ひとつの場所に揃わなければ、意味がないからだ」


ロリババアは、窓辺の椅子に座って、黙って、それを聞いていた。


表情は、変わらなかった。ただ、膝の上で重ねた小さな手が、ほんの少しだけ、強く握られていた。


「次に、敵の手順だ」


エトワールは、地図の上を、ゆっくりと歩き始めた。


「一。聖火の夜。王都の中央広場で、聖火の礼拝が行われる。……あれは、礼拝ではない。四年前の聖火祭と同じだ。広場に集まった民の命を、聖火を通して、少しずつ吸い上げる。心臓を、目覚めさせるための、燃料だ」


足が、地図の東の端へ。


「二。同時刻、ケルナー伯爵の手の者が、王都の東門を開ける。……東門の外の森には、おそらく、ジセリアの聖騎士団の本隊が、すでに潜んでいる。使節団の護衛の、十倍以上の数が」


足が、地図の北西へ。学園の位置へ。


「三。同時刻、学園の結界が、典礼院の鍵で開けられる。……狙いは、学園にいる、第一王女。それから、王国の貴族の子弟たち。人質だ。陛下の手足を縛るための」


足が、地図の西の、山の向こうへ。分館の位置へ。


「四。同時刻、分館が襲われる。狙いは、アルス・ノヴァ。……アルスの中の、全知の書。歩く、神の欠片だ。心臓を完成させるための、最後のひとかけら」


アルスが、鼻で笑った。


「人気者は、つらいねぇ」


エトワールの足が、最後に、地図の北の、一番奥へ向かった。


迷いの森。その、さらに奥。


「五。……本命だ」


エトワールは、そこで、足を止めた。


「すべての騒ぎで、王都中の目が、四方に散らばった、その隙に。ガブリエルは、心臓を抱えて、迷いの森へ入る。羅針盤は、ミリエル嬢の聖布。サリナ殿のいる方角を、指し示す。そして、鍵は、アベル。サリナ殿の結界を、喰らって、こじ開ける」


部屋の中の、誰も、口を開かなかった。


窓の外で、風が、木々を揺らしていた。


「――どうする」


陛下が、低い声で、言った。


いつもの、ふざけた調子は、どこにもなかった。国王の声だった。


「全部、潰すか。今夜のうちに、使節団を全員、拘束して」

「それは、できません」


エトワールは、首を振った。


「拘束した瞬間、ジセリアは、それを『聖戦』の口実にする。和解の使節団を、サロバニアが不当に捕らえた、と。東門の外の本隊が、そのまま、宣戦布告もなしに雪崩れ込んでくる。……それに、ガブリエルを今ここで捕らえても、心臓は残る。器が替わるだけだ。次の教皇が、また、同じことをする」


エトワールは、眼鏡を押し上げた。


「だから、全部、やらせる」

「……は?」


クレハが、目を剥いた。


「全部、やらせて、全部、失敗させる。……聖火の礼拝も。東門も。学園も。分館も。向こうが打ってくる手を、ひとつ残らず、盤上で受け止めて、ひとつ残らず、潰す。そうすれば、向こうに、聖戦の大義名分は残らない。残るのは、和解の席で刃を抜いた、ジセリアの不義だけだ」


エトワールは、床の地図の、北の一番奥。迷いの森の、さらに奥に、しゃがみ込んだ。


そこには、小さな、丸い印が、ひとつ描かれていた。


旧王都の、刑場の跡。


「そして、ガブリエルには、ここまで、来てもらう」


エトワールは、顔を上げて、窓辺のロリババアを見た。


「羅針盤は、外さない。鍵も、止めない。……わざと、通す。サリナ殿の森の、一番奥まで。二百年前に、すべてが始まった、あの柵の前まで」


ロリババアが、ゆっくりと、エトワールを見返した。


「……儂に、あの男と、あそこで向き合えと」

「ええ」


エトワールは、目を逸らさなかった。


「勝ち筋は、ひとつしかありません。民のいない場所で。誰も巻き込まない場所で。ガブリエルを、あなたの前に、ひとりで立たせること。……そこへ至るまでの道は、全部、私たちが作ります」


部屋の中の全員が、ロリババアを見ていた。


ロリババアは、長いあいだ、黙っていた。


それから、ふっと、小さく、笑った。


「――博識王。お主、昔から、性格が悪いと言われんか」

「よく言われます」


エトワールは、立ち上がって、裸足のまま、床の地図の上で、深々と、一礼した。


「作戦立案を生業とする者として、言わせてもらうがな。……盤面は、完成した。あとは、駒を、動かすだけだ」


アイシャ会長が、壁際から、つかつかと歩み出た。


エトワールの頭を、拳で、ごつんと、殴った。


「――エトワール様。三日寝てないでしょう。今すぐ寝てください」

「……アイシャ。今、とても格好いいところだったんだが」

「知りません。寝てください」


部屋の空気が、ほんの少しだけ、緩んだ。


陛下が、吹き出した。シュベルトが、肩を揺らして笑った。エレナが、「おーほっほっほ!」と、高らかに笑った。


ロリババアだけが、窓の外の、北の闇を、じっと見つめていた。


膝の上の小さな手は、まだ、ほどかれていなかった。


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