63 鍛冶屋の怒りと、凍った指先
鍛冶通りの一番奥。一番大きな煙突から、夜になっても白い煙を吐き続けている工房。
錬成帝、ラーク・ドルクの工房の作業台の上に、ひとかけらの石が置かれていた。
小指の爪の、さらに半分ほどの大きさ。乳白色の、半透明な石の欠片。昼間、シュベルトの木剣が、セラフィンの長剣の柄頭から、髪の毛一本分だけ削り取ったものだ。
作業台を囲んでいるのは、四人だった。
工房の主のラーク。欠片を持ち込んだシュベルト。エトワールの使いで来た俺。そして、なぜか、俺にくっついてきたクレハ。
「――で、親父。これを、オレに見てほしいと」
ラークは、作業着の袖をまくり上げた。丸太みたいな腕に、炉の火で焼けた古い火傷の痕が、いくつも走っている。
「ああ。何でできてるのか。どこから来たのか。全部だ」
「任せてくださいッス」
ラークは、作業台の前に座り込むと、分厚い手のひらを、欠片の上に、そっとかざした。
錬成帝の錬成術は、ただ物を作り変えるだけの術ではない。鉄でも、石でも、木でも、手をかざせば、それがどこで生まれて、どんな火にくぐらされて、誰の手に握られてきたのか、全部、読み取れる。素材の、記憶を読むのだ。
ラークの手のひらの下で、欠片が、淡く、光った。
ラークは、目を閉じた。
最初は、いつもの、職人の顔だった。眉間に軽く皺を寄せて、手のひらの感触に、全神経を集めている顔。
それが、少しずつ、変わっていった。
眉間の皺が、深くなった。こめかみに、汗が一筋、伝った。作業台の端を掴んでいたもう片方の手に、ぎり、と力がこもった。
「……ラーク?」
シュベルトが、声をかけた。
ラークは、答えなかった。
かわりに、目を開けた。
その目が、炉の火よりも、赤く燃えていた。
「――ふざけんなよ」
低い声だった。いつもの、「親父ィィ!」と叫ぶ、底抜けに明るい声とは、まるで別人の声だった。
「この石。……人の命で、育ってやがる」
工房の中が、しんと静まり返った。
炉の中で、薪が、ひとつ崩れた。
「最初に、種がある。ちっぽけな、種みたいなもんが。……とんでもなく古くて、とんでもなく強い何かの、ほんのひとかけら。それを、石の真ん中に埋めて、周りから、人の命を、ちょっとずつ、ちょっとずつ、吸わせて、育ててる」
ラークの拳が、作業台を、どん、と叩いた。
「誰の命かまでは、わかんねぇ。でも、わかることもある。……一人や二人じゃねぇ。何百人だ。何百人分の、うめき声が、この石ん中に、層になって、塗り込められてる。泣いてる奴もいる。もう、泣く力も残ってねぇ奴もいる」
四年前の、白い都の地下。
首輪をつけられて、命の糸を吸い上げられていた、何百人もの人々。
あの心臓が砕けて、首輪は全部外れたはずだった。
「……また、やってやがるのか」
俺の声も、低くなっていた。
「ああ。しかも、四年前より、ずっと手が込んでる」
ラークは、欠片を、指先で摘まみ上げた。
「この石、一個一個が、ちっちゃな心臓みたいなもんッス。聖騎士の剣の柄頭に、一個ずつ嵌め込んで。持ち主に、吸い取った命を、神威として流し込む。……で、ここからが、一番胸糞悪いとこなんスけど」
ラークは、欠片を、窓のほうへ向けた。
欠片の中で、淡い光が、ゆらりと揺れた。揺れて、ある一方向へ、細く、細く、伸びた。
窓の外の、ずっと先。王都の中心。迎賓館の方角へ。
「繋がってるんスよ。この石の根っこが。……もっとでかい、親玉に。この欠片の何万倍も濃い、何かに。たぶん、使節団の荷物の中に、持ち込まれてる」
シュベルトが、腕を組んだ。
「親玉、ね。……心臓かい?」
「心臓ッス。四年前に親父が砕いたやつの、何倍もヤバい心臓」
ラークは、欠片を、作業台の上に置いた。
それから、俺のほうを向いた。燃えるような目のままで。
「親父。オレは、鍛冶屋ッス。剣は、持ち主の腕の延長であるべきだって、ずっと思って打ってきた。持ち主が汗かいて、血ぃ流して、何万回も振って、それでようやく、剣は持ち主のもんになる。……他人の命を吸って光る剣なんて、剣じゃねぇ。呪いッス」
ラークの声が、かすかに、震えた。
「あの白い騎士の兄ちゃん。昼間、親父も見てたんでしょ。いい剣士だった。踏み込みも、太刀筋も、ちゃんと、自分で積み上げてきた奴の剣だった。……あんな奴に、あんな石を持たせてる連中を、オレは、絶対に許さねぇ」
俺は、ラークの肩に、手を置いた。
「わかってる」
「親父」
「その怒り、聖火の夜まで、取っとけ。……お前の槌が、要る」
ラークは、しばらく、俺の顔を見ていた。
それから、ぐっと、拳を握りしめた。
「――うッス」
◇
工房を出たあと、俺とクレハは、王都の屋根の上を走っていた。
エトワールから、もうひとつ、頼まれごとをされていた。
典礼長官、ケルナー伯爵の尾行。
「――いいねぇ、ハス坊と二人で夜遊びなんて、何年ぶりだろうねぇ」
クレハは、屋根から屋根へ、軽々と飛び移りながら、上機嫌だった。背中には、いつもの機関銃ではなく、細長い銃身の狙撃銃を担いでいる。夜目の利く、遠見の照準器つき。銃王の、夜の得物だ。
「夜遊びじゃねぇよ。仕事だ」
「仕事でも、夜遊びでも、ハス坊と一緒なら同じさ」
ケルナー伯爵は、典礼院の裏口から、ひとりで出てきた。供も連れず、外套のフードを目深にかぶって、人通りの絶えた裏通りを、早足で歩いていく。
行き先は、典礼院の古い酒蔵だった。
王家の祭礼に使う葡萄酒を寝かせておくための、半地下の石蔵。北の塔の囚人への差し入れも、確か、ここから出ていたはずだ。
酒蔵の斜向かいの、時計塔の屋根の上に、俺とクレハは、身を伏せた。
クレハが、狙撃銃の照準器を覗いた。俺は、耳に、遠聴の術式を重ねた。
酒蔵の中には、先客がいた。
白い法衣に、黒い腰帯。ジセリアの、審問官の装いだった。
「――遅いぞ、伯爵」
「仕方あるまい。王城では、博識王の目が光っておる。下手に動けば、すぐに嗅ぎつけられる」
ケルナー伯爵の声は、ひどく苛立っていた。
「北の塔の件は、片付いた。グラウは、もう何も喋らん。……それで、そちらの約束は」
「猊下は、約束を違えぬ。聖火の夜、事が成れば、伯爵には、新しき王国の宰相の椅子が用意される」
「新しき王国、か」
伯爵が、喉の奥で笑った。
「あのジャージ姿の道化が玉座から転げ落ちるのを、この目で見られるなら、それで十分だ。……で、手筈は」
「変わらぬ。聖火の夜、王都の東門の衛兵を、伯爵の手の者に入れ替えること。それから、王立学園の結界の、鍵を開けること。……学園長室の結界の鍵は、典礼長官の権限で、解けるのだろう?」
「祭礼の際に、学園の講堂を使うことがあるからな。予備の鍵は、典礼院が預かっておる」
「よろしい。――それで、全部だ」
審問官は、小さな硝子の瓶を、伯爵の手に握らせた。
「念のため、だ。誰かに嗅ぎつけられたら、使え」
伯爵は、瓶を、外套の内側にしまい込んだ。
俺は、時計塔の屋根の上で、息を殺していた。
北の塔の件は、片付いた。グラウは、もう何も喋らん。
――あの雪の夜の、黒い狼と三本の茨の、最後の証人。
その口を、この男が、塞いだ。
拳が、勝手に、握りしめられていた。爪が、手のひらに食い込んでいた。
「……ハス坊」
隣で、クレハが、照準器から目を離さないまま、小さく言った。
「撃っていいかい」
「…………」
「伯爵の頭も、審問官の頭も、今なら、一発ずつで済むよ。アタシは外さない」
「……まだだ」
俺は、拳を、ゆっくりとほどいた。
「今ここで殺したら、こいつの後ろにいる奴まで、手が届かなくなる。……エトワールの盤面も、崩れる」
クレハは、少しだけ、黙っていた。
それから、照準器から目を離して、俺の頭を、くしゃりと撫でた。
「……大人になったねぇ、ハス坊」
大人になったのかどうかは、わからなかった。
四年前の俺なら、たぶん、もう時計塔から飛び降りていた。酒蔵の扉を蹴破って、あの男の胸ぐらを掴んで、碧で、何もかもを焼いていた。
それをしなかったのは、我慢強くなったからじゃない。
森の奥の、焼け跡を見たからだ。溶けて硝子になった石を。折れた柵を。二百年経っても灰の色が抜けない、苔の下の土を。
怒りってのはね、誰かを守るためにあるんだ。誰かを焼くためじゃない。
ロリババアが教えてくれた、あの人の言葉が、まだ、耳の奥に残っていた。
◇
そのとき、背中が、すうっと冷えた。
夜風のせいではなかった。
時計塔の屋根瓦に、白い霜が、走っていた。俺の足元から、クレハの足元へ。そして、屋根の縁を越えて、真下の裏通りへ、細い氷の線が、音もなく伸びていた。
氷の線の先。酒蔵の、裏手の暗がりに。
小さな人影が、立っていた。
灰色の外套に、目深にかぶったフード。その手に、細く、長く、透き通った、氷の針が、一本、握られていた。針の先は、酒蔵の換気窓の隙間から、中のケルナー伯爵の、うなじに向けられていた。
――セルカ。
いつから、ついてきていたのか。
俺は、屋根を蹴った。
時計塔から、裏通りへ。音を消して、着地する。セルカの背後に立って、氷の針を握った細い手首を、そっと、掴んだ。
氷のように、冷たい手首だった。
「――セルカ」
セルカは、振り返らなかった。
氷の針の先は、換気窓の隙間から、ぴくりとも動かなかった。
「……この人」
セルカの声は、静かだった。ひどく、静かだった。
「……グラウって人を、殺した。……ハストさまの、雪の夜の、最後の人を、消した」
「……聞いてたのか」
「……ハストさまの、大事なもの。……また、ひとつ、取った」
セルカの手首の中で、何かが、ぎしりと軋んだ。氷の針が、ほんのわずかに、伸びた。
「……だから、いらない」
「セルカ」
俺は、掴んだ手首を、ゆっくりと、自分のほうへ引いた。
「今、こいつを殺したら、こいつの後ろにいる奴まで、届かなくなる。……ロリババアを狙ってる連中まで」
セルカの肩が、小さく揺れた。
「それに」
俺は、言った。
「お前の手を、こんな奴の血で、汚させたくない」
セルカが、ようやく、振り返った。
フードの奥で、淡い水色の目が、俺を見上げていた。湖の底みたいな目。その底で、冷たく渦を巻いていたものが、ほんの少しだけ、揺らいでいた。
「……わたしの手」
セルカは、ぽつりと言った。
「……もう、きれいじゃ、ない」
俺は、その意味を、深くは考えなかった。
この子が、王都の裏通りで、どんなふうに生きてきたのか。氷の女ボスと呼ばれていた頃に、何をしてきたのか。全部は知らない。でも、きれいなだけの道じゃなかったことくらいは、わかっていた。
「それでもだ」
俺は、セルカの手から、氷の針を、そっと抜き取った。
針は、俺の手のひらの上で、さらさらと、霜の粉になって、夜風に散っていった。
それから、空いた手で、フードの上から、セルカの頭を、ぽんと撫でた。
セルカは、しばらく、動かなかった。
やがて、フードの奥で、小さく、小さく、呟いた。
「……五十二」
時計塔の屋根の上から、クレハの、長いため息が聞こえた。
「……モテるねぇ、ハス坊」
◇
学園長室に戻ったのは、真夜中を過ぎてからだった。
エトワールは、灯りもつけずに、窓辺に立っていた。足元には、裏側をびっしりと書き込まれた毎日王都新聞が、十何枚も、散らばっていた。
俺の報告を、エトワールは、黙って聞いていた。
ラークの見立て。石の正体。迎賓館に持ち込まれた、心臓。ケルナー伯爵と審問官の密談。東門。学園の結界の鍵。そして、アベルが、セルカの魔術を喰らったこと。
全部、聞き終えてから、エトワールは、窓の外の闇を見つめたまま、言った。
「――聖火の夜、か」
「ああ」
「使節団は、親善試合の翌日の夜に、王都の中央広場で、聖火の礼拝を執り行いたいと申し入れてきている。陛下は、和解の証として、許可を出した。……正確には、私が、許可を出すよう、陛下にお願いした」
俺は、エトワールの横顔を見た。
「わざとか」
「わざとだよ」
エトワールは、眼鏡を外して、目頭を指で押さえた。
それから、眼鏡をかけ直して、振り返った。
レンズの奥の目は、冷えきっていた。博識王の目だった。
「ハスト。もうひとつだけ、駒が足りない。……迎賓館の、心臓。それが、どこに、どうやって隠されているのか。誰が、それを運んできたのか。それがわかれば」
エトワールは、床に散らばった新聞の一枚を、つま先で、そっと裏返した。
その裏に書かれた線と文字が、窓から差し込む月の光に、白く浮かび上がった。
「盤面が、完成する」




