62 借り物の光と、止まった時間
使節団が学園を訪れたのは、到着から四日目のことだった。
名目は、聖騎士候補生たちの学園見学。実際には、親善試合に向けた下見だろう。白い鎧の候補生たちが、ヴィンセントに引率されて、二列になって校舎の中を練り歩いていく。生徒たちは、廊下の窓から身を乗り出して、物珍しそうにそれを眺めていた。
その日の三限目、三年A組の剣術の授業に、珍しい見学者が加わった。
聖騎士団長、セラフィン・ローエ。
「――突然の申し出、ご容赦願いたい」
訓練場の真ん中で、セラフィンは、白い鎧のまま、深々と頭を下げた。
「剣聖シュベルト・ロード殿。この大陸で最も高名な剣士と、一度、剣を交えてみたいと、ずっと願っておりました。……一手、ご指南いただけませんか」
訓練場を取り囲んでいた三年生たちが、どよめいた。
その輪の中に、レイアーヌと、アイシャ会長と、ミリエルの姿があった。ミリエルは、胸元の聖布を両手で握りしめて、不安そうに、セラフィンの背中を見ていた。
シュベルトは、訓練用の木剣を肩に担いだまま、のんびりと首を傾げた。
「指南、ねぇ。……いいよ。ただし、授業中だから、手短にね」
「感謝いたします」
セラフィンが、腰の長剣を抜いた。
白銀の刃。柄頭には、拳ほどの大きさの、乳白色の石が嵌め込まれている。
シュベルトは、腰の聖剣フェリクスに、手を伸ばさなかった。肩に担いでいた木剣を、ひょいと下ろして、片手で、だらりと構えただけだった。
セラフィンの眉が、ぴくりと動いた。
「……抜かれないのですか」
「授業中だからね。生徒の前で真剣を抜くと、学園長に怒られるんだ」
「――侮辱と、受け取ってよろしいか」
「好きに受け取っていいよ」
シュベルトは、にこりと笑った。
◇
俺は、本校舎の屋上の手すりにもたれて、訓練場を見下ろしていた。
授業は、サボった。一年の教室では、今ごろ、フィアットが俺の空席を見て、ため息をついているはずだ。
訓練場では、セラフィンが、動いた。
速かった。
白い鎧を着ているとは思えない踏み込み。一歩で、十歩分の間合いを詰めた。長剣が、横薙ぎに走る。刃が、陽の光を受けて、白い弧を描いた。
シュベルトの木剣が、その弧の内側に、すっと差し込まれた。
当たったのではなかった。添えられたのだ。走る刃の腹に、木剣の先が、羽根が触れるくらいの軽さで添えられて、それだけで、白い弧が、シュベルトの肩の上を、紙一枚の隙間を残して、通り過ぎていった。
セラフィンは、止まらなかった。返す刃で、逆袈裟。そこから突き。突きを引く勢いのまま、身体を回して、背後からの斬り下ろし。一呼吸のうちに、四つの太刀筋が、シュベルトを四方から囲んだ。
シュベルトは、一歩も動かなかった。
木剣の先が、四回、小さく揺れた。それだけだった。四つの太刀筋が、全部、シュベルトの身体の輪郭をなぞるように、ぎりぎりのところで逸れていった。
訓練場の砂が、セラフィンの踏み込みで、ざっと舞い上がった。
三年生たちは、声も出せずに、それを見ていた。
「――なるほど」
セラフィンが、間合いを取り直して、低く呟いた。
「噂に違わぬ。……ならば」
セラフィンは、長剣を、胸の前で、まっすぐに立てた。
「光の神よ。御身の剣に、御身の威を」
柄頭の、乳白色の石が、光った。
白い光だった。石の内側から滲み出した光が、柄を伝い、鍔を越えて、刃の根元から切っ先へと、這い上がっていく。刃が、白い光に包まれた。光は、刃の先からさらに伸びて、長剣の長さを、倍近くにまで延ばした。
セラフィンの鎧の継ぎ目からも、白い光が、薄く漏れ始めた。
――神威。
四年前、白い都の大階段で、何百人もの聖騎士が纏っていた光。
その光が、四年前より、ずっと濃かった。
セラフィンが、踏み込んだ。
さっきよりも、三倍は速かった。訓練場の砂が、踏み込んだ足元から、円を描いて吹き飛んだ。白い光の刃が、シュベルトの頭上から、真っ直ぐに振り下ろされた。
シュベルトは、そこで初めて、一歩、動いた。
前へ。
光の刃の内側へ。セラフィンの懐の、さらに内側へ。
木剣が、下から、跳ね上がった。
狙ったのは、セラフィンの身体ではなかった。長剣の、柄頭だった。乳白色の石の、ほんの縁を、木剣の先が、かすめるように、ちょんと叩いた。
光が、ふっと、揺らいだ。
ほんの一瞬だった。長剣を包んでいた白い光が、蝋燭の炎が風に煽られたみたいに、揺らいで、薄くなった。
その一瞬で、シュベルトの木剣は、セラフィンの喉元に、ぴたりと止まっていた。
訓練場が、しんと静まり返った。
「――はい、一本」
シュベルトは、にこりと笑って、木剣を引いた。
セラフィンは、長剣を振り下ろした姿勢のまま、動かなかった。白い光が、ゆっくりと、刃から引いていった。
「……なぜ」
セラフィンの声が、かすれていた。
「なぜ、神威が、揺らいだ」
「その石のせいだよ」
シュベルトは、木剣を肩に担ぎ直した。
「君の剣、すごく綺麗だった。踏み込みも、太刀筋も、何千回、何万回と振ってきた人の剣だ。……でも、その光は、君の光じゃない。借り物の光だ。借り物ってのはね、持ち主が貸すのをやめたら、すぐに消える」
「これは、借り物などではない」
セラフィンが、顔を上げた。切れ長の目が、まっすぐに、シュベルトを睨んでいた。
「光の神の、御加護だ。新しき教皇猊下が、我ら聖騎士に、直々に授けてくださった、神の威だ」
シュベルトは、少しだけ、困ったように笑った。
「神様はね、剣の柄に住むほど、暇じゃないと思うよ」
「…………」
「でも、君は、本気でそれを信じてるんだね」
シュベルトは、セラフィンの横を通り過ぎながら、その肩を、ぽんと叩いた。
「いい剣士だよ、君は。……だから、気をつけて。その光が、いつか、君の剣を食い潰さないように」
セラフィンは、何も言わなかった。
ただ、長剣の柄頭の、乳白色の石を、じっと見下ろしていた。
その石の縁に、ほんの、髪の毛一本ほどの、小さな欠けができていた。
シュベルトが、訓練場の端に戻ってきた。生徒たちの拍手に、軽く手を振って応えながら、ズボンのポケットに、さりげなく手を入れた。
ポケットから出てきた手は、空っぽだった。
でも、屋上の俺に向かって、シュベルトは、ほんの一瞬だけ、片目をつぶってみせた。
――あの石の、欠片。
拾ったな、あいつ。
◇
昼休み。
俺は、エトワールに呼び出されて、学園長室にいた。だから、そのとき屋上で何があったのかは、あとになって、セルカから聞いた。
屋上には、セルカがひとりで、手すりの根元の氷の花の前に、膝を抱えて座っていたそうだ。
扉が開く音は、しなかった。
気がついたら、白い髪の少年が、セルカの隣に、立っていた。
「――こんにちは」
アベルだった。
セルカは、膝を抱えたまま、ゆっくりと顔を上げた。硝子玉の目と、淡い水色の目が、正面から、ぶつかった。
「……誰」
「アベル。……君は、セルカだよね。名簿で見た」
アベルは、セルカの隣に、すとんと腰を下ろした。氷の花を、首を傾げて、じっと眺めた。
「きれいだね。溶けない氷」
「……さわらないで」
「さわらないよ」
アベルは、膝を抱えた。セルカと、まったく同じ座り方だった。
しばらく、二人とも、黙っていた。
「君からは、止まった時間の匂いがする」
アベルが、ぽつりと言った。
セルカの肩が、小さく、跳ねた。
「この氷も、そう。溶けないんじゃなくて、時間が、止まってる。……君は、まだ、ほんの少ししか止められないみたいだけど」
「…………」
「僕の中にも、ね。止まってるものが、あるんだ」
アベルは、白い法衣の胸元を、指で、とんとんと叩いた。
「ここに、神さまの欠片が入ってる。新しい教皇さまが、入れてくれた。……入れてもらってから、僕、背が、一寸も伸びないんだ。髪も、爪も、伸びない。おなかも、空かない。眠くもならない」
アベルは、首を傾げて、セルカを見た。
「だから、僕たち、似てるね」
セルカは、立ち上がった。
屋上の空気が、一瞬で、凍りついた。手すりに、床石に、アベルの白い法衣の裾に、真っ白な霜が、音もなく走った。アベルの周りの空気そのものが、白く、硬く、固まっていく。氷の棺みたいに。
セルカの目は、穏やかだった。
いつもと同じ、湖の底から水面を見上げるような目。でも、その底の、もっと深いところで、何かが、冷たく、ゆっくりと渦を巻いていた。
「……ハストさまの、まわりに」
セルカは、小さな声で言った。
「……危ないものは、いらない」
アベルを包んでいた白い霜が、ぴしり、ぴしりと、厚みを増していった。
アベルは、身じろぎひとつ、しなかった。
ただ、胸元に、そっと手を当てた。
その手の下で、何かが、淡く、光った。乳白色の光。セラフィンの剣の柄頭の石と、同じ色の光。
アベルの周りの霜が、溶けたのではなかった。
吸い込まれていった。
白い霜が、氷の棺が、渦を巻いて、アベルの胸元の光の中へと、すうっと、吸い込まれていった。まるで、乾ききった砂が、水を吸うみたいに。
セルカが、一歩、後ずさった。
「――おいしい」
アベルが、胸元を撫でながら、言った。
硝子玉の目が、ほんの少しだけ、細くなった。笑っているのかもしれなかった。
「君の魔術、冷たくて、おいしいね。……でも、止まった時間の味は、しなかった。まだ、ちょっとしか止められないから」
アベルは、立ち上がった。法衣の裾についていた霜は、一粒も残っていなかった。
屋上の扉のほうへ、とことこと歩いていく。
扉の前で、立ち止まった。
振り返らずに、言った。
「僕はね、『鍵』なんだって」
「……かぎ」
「うん。どんな扉でも、開けられる鍵。……でもさ」
アベルの声は、ずっと、抑揚がなかった。
なのに、最後のひと言だけ、ほんの少しだけ、揺れた気がした。
「鍵って、扉を開けたら、捨てられるんだよね」
扉が、開いて、閉じた。
セルカは、長いあいだ、その扉を見つめていたそうだ。
◇
放課後、屋上に戻ると、セルカは、いつもの場所に、膝を抱えて座っていた。
俺が隣に寝転がると、セルカは、膝に顔を埋めたまま、さっきあったことを、ぽつり、ぽつりと話した。
全部、話し終えてから、言った。
「……あの子、こわい」
「ああ」
「……でも」
セルカは、少しだけ、顔を上げた。
「……かわいそう」
俺は、空を見上げた。
神さまの欠片を、胸に埋め込まれた少年。背も伸びず、腹も空かず、眠りもしない。魔術を、喰らう。どんな扉でも、開けられる鍵。
――迷いの森は、サリナ殿の術式に守られている。
エトワールの声が、頭の中で、響いた。
――向こうは、鍵を、持ってきている。
「……セルカ」
「……なに」
「今日のこと、エトワールに話す。いいな」
セルカは、小さく、頷いた。
それから、俺の制服の袖を、指先で、ほんの少しだけ、つまんだ。
いつもより、ずっと、冷たい指先だった。
◇
その夜。迎賓館の、廊下の突き当たり。
「――猊下。ひとつ、お伺いしたいことがあります」
セラフィンは、ヴィンセントの部屋の扉の前で、白い鎧のまま、直立していた。
扉の隙間から、ヴィンセントが、柔和な笑みを覗かせた。
「何でしょう、団長」
「今日、剣聖殿に言われました。この石の光は、借り物だと。……神は、剣の柄に住むほど暇ではない、と」
セラフィンは、腰の長剣の柄頭を、指で示した。乳白色の石の縁の、髪の毛一本ほどの欠けを。
「この石は、何なのですか。新しき教皇猊下は、これを、光の神の御心の結晶だと仰いました。私は、それを信じて、この四年、剣を振ってまいりました。……ですが、今日、この石の光が揺らいだとき。ほんの一瞬、聞こえた気がしたのです」
「何が、ですか」
「――誰かの、うめき声が」
ヴィンセントの笑みは、崩れなかった。
「お疲れなのですよ、団長。異国の地で、慣れぬ剣士と剣を交えれば、心も揺らぎましょう」
「それと、もうひとつ」
セラフィンは、声を落とした。
「聖女さまの、あの聖布。片時も外してはならぬと、聖女さまご本人に命じておられますね。……聖女さまは、学園から戻られるたびに、ひどくお疲れのご様子です。何のために、あれを」
ヴィンセントは、しばらく、黙っていた。
それから、扉を、もう少しだけ開けた。部屋の灯りが、セラフィンの白い鎧を、橙色に染めた。
「団長」
ヴィンセントの声は、どこまでも、柔らかかった。
「あなたは、信仰の篤い、立派な騎士です。だからこそ、あなたを団長に推しました。……聖火の夜、あなたは、命じられたとおりに、剣を振ればいい。それが、光の神の御心です」
扉が、静かに閉まった。
セラフィンは、閉ざされた扉の前に、長いあいだ、立ち尽くしていた。
廊下の窓の外で、王都の夜の鐘が、ひとつ、鳴った。




