61 屋上の、五人目
ミリエルが三年A組に編入したのは、使節団到着の翌々日のことだった。
レイアーヌは、本当に、学園長室へ直談判に行ったらしい。朝一番に、扉を叩き壊しかねない勢いで。
「――『もちろん、最初からそのつもりだったよ』だって」
昼休みの屋上で、レイアーヌは、ものすごく不満そうな顔で、パンをちぎっていた。
「私が一晩かけて考えた説得の文句、全部、無駄になったわ。あの人、私が部屋に入った瞬間に、もう編入の書類に判子を押してたのよ」
「エトワールらしいな」
俺は、手すりの根元に寝転がったまま、言った。
「聖女さまを、姫さんと会長のいるクラスに置いとく。……一番、目が届く場所だ」
「わかってるわよ。わかってるけど、なんか、腹が立つの」
レイアーヌは、ちぎったパンを、口に放り込んだ。
その隣で、くすくすと、小さな笑い声がした。
ミリエルだった。
王立学園の制服を着ていた。白いシャツに、紺のスカート。肩には、学年章の入った上着。面紗は、外していた。四年前、白い都で初めて会ったときには、顔の半分を覆っていた薄い布。それがないミリエルの顔を、俺は、初めてちゃんと見た気がした。
淡い麦わら色の髪を、肩の上で切りそろえている。目は、薄い鳶色。頬は、まだ少し痩せていたけれど、四年前のような、紙のような白さではなかった。ちゃんと、血の通った色をしていた。
ただ、制服の胸元には、一本の白い布が、リボンのように結ばれていた。聖女の聖布。滞在中、聖女は、片時もこれを身から離してはならない。使節団の決まりだそうだ。
「レイアーヌさまは、昔から、そうでしたね。思い立ったら、まっすぐで」
「昔って、ミリエル、私と一緒にいたの、ほんの何日かでしょう」
「はい。でも、地下の牢で、木切れを振り回して、聖騎士さまを睨みつけていたお姿は、一生、忘れられません」
「……やめて。今思うと、恥ずかしいから」
レイアーヌが、耳まで赤くなった。
少し離れた日向で、白鋼の剣の手入れをしていたフィアットが、目を輝かせて振り向いた。
「その話、詳しく聞きたいです!」
「聞かなくていいの!」
◇
午前中、三年A組は、シュベルトの剣術の授業だったらしい。
「すごかったんです」
ミリエルは、両手を胸の前で組んで、うっとりと言った。
「剣聖さまの剣。ひとつ振るごとに、空気が、すうっと二つに分かれていくみたいで。……ジセリアの聖騎士さまたちの剣とは、まるで違いました」
「どう違うの?」
フィアットが、身を乗り出した。
ミリエルは、少しだけ考えて、言った。
「聖騎士さまたちの剣は、いつも、誰かに見せるための剣です。光の神に。民に。上の方々に。……でも、剣聖さまの剣は、誰にも見せようとしていませんでした。ただ、そこにある、という感じで」
フィアットは、自分の膝の上の白鋼の剣を、じっと見下ろした。
「……ただ、そこにある剣」
「それと、会長さまも、すごかったです」
「アイシャ会長?」
「はい。剣聖さまと、模擬戦をなさって。会長さまの拳が、まったく見えませんでした。気がついたら、剣聖さまの剣が、宙を舞っていて」
「……え、会長、剣聖に勝ったの?」
「いえ。剣聖さまが、宙を舞った剣を、空中で掴み直して、会長さまの額を、柄でこつんと」
「あぁ……」
「会長さま、額を押さえて、『師匠以外に負けたの、久しぶり!』と、なぜか、とても嬉しそうでした」
あの人の性癖は、相変わらずだった。
◇
「――ところで」
ミリエルが、くるりと、俺のほうに向き直った。
「ちゃんと、お礼を言えていませんでした」
「礼?」
ミリエルは、膝立ちになって、俺のそばまで、にじり寄ってきた。
それから、寝転がった俺の右手を、両手で、そっと包んだ。
温かい手だった。四年前、地下牢の鉄格子の隙間から、温かいパンを差し入れてくれた手。
「あの日、白い都の大階段で。私の灯りが消えかけたとき、あなたの声が、聞こえました。糸を、握り返せ、って。……あの声がなかったら、私は、今、ここにいません」
ミリエルは、俺の手を包んだまま、深く、頭を下げた。
「ありがとうございました。聖歌隊の、チビさん」
「……最後のは、余計だ」
「ふふ」
屋上の空気が、すうっと、冷えた。
比喩ではなかった。本当に、冷えたのだ。手すりの鉄に、ぴしり、と白い霜が走った。俺の足元の床石の継ぎ目に、細い氷の線が、音もなく伸びていった。
氷の線の先には、セルカがいた。
膝を抱えて、手すりの根元の、氷の花の前に座っている。さっきまでと、何も変わらない姿勢。何も変わらない顔。淡い水色の目が、ミリエルの手と、その中に包まれた俺の手を、じっと見ていた。
まばたきを、していなかった。
「……あの」
ミリエルが、氷の線と、セルカを、交互に見た。
セルカは、ゆっくりと立ち上がった。
音もなく、俺とミリエルのあいだに、すとんと腰を下ろした。それから、ミリエルの手の中から、俺の右手を、両手で、するりと引き抜いた。
「……ハストさまの、この手は」
セルカは、俺の右手を、自分の膝の上に置いた。
「……わたしの頭を、撫でる用」
「おい」
「……だから、だめ」
セルカは、ミリエルを見た。
穏やかな目だった。怒っているわけでも、睨んでいるわけでもない。ただ、静かに、まっすぐに。湖の底から、水面に落ちてきた何かを見上げているような目。その目の奥で、何かが、冷たく、ゆっくりと渦を巻いていた。
フィアットが、剣を磨く手を止めて、固まっていた。レイアーヌが、パンを口に運びかけたまま、固まっていた。
ミリエルは、きょとんとした顔で、セルカを見つめ返した。
それから、ふわりと、笑った。
「――冷たいですね」
ミリエルは、手を伸ばした。
セルカの、膝の上に置かれた指先に、そっと触れた。
「指先が、こんなに冷たい。……ずっと、氷の魔術を使い続けているからですね。指の先の、細い血の通り道が、少しだけ、縮こまってしまっています」
ミリエルの指先に、淡い光が灯った。
金色でも、白でもない。春の陽だまりみたいな、柔らかい光。それが、セルカの指先を、包み込んだ。
セルカの肩が、びくりと跳ねた。
「……なに、してるの」
「治しています。……痛くないでしょう?」
「……痛く、ない」
「よかった」
ミリエルは、セルカの指先から手を離して、にっこりと笑った。
「あなたは、この方が、とても大事なんですね。灯りの色で、わかります。……大事なものを守るために、ずっと、指先を冷たくして。えらいですね」
セルカは、何も言わなかった。
自分の指先を、じっと見下ろしていた。それから、ミリエルの顔を見た。それから、また、指先を見た。
床石の上の氷の線が、すうっと、溶けて消えた。
手すりの霜も、消えた。
「……へんな人」
セルカは、ぽつりと言った。
それから、俺の右手を膝の上に置いたまま、ぷいと、そっぽを向いた。耳の先が、ほんの少しだけ、赤かった。
俺は、ため息をついて、その頭に、右手を乗せた。
ぽん、と一度、撫でた。
「……五十一」
セルカが、そっぽを向いたまま、小さく呟いた。
◇
屋上の扉が、軽やかに開いた。
「みなさーん、こんにちはー! 賢者の出張授業ですよー!」
レイラさんだった。今日は、魔術師協会のローブではなく、学園の講師用の外套を羽織っている。片手に、焼き菓子の入った籠を下げていた。
「レイラさん。なんで、屋上に」
「午後の魔術の授業、私が受け持つことになったんです。使節団の滞在中だけ、特別講師として。……エトワールさんに、頼まれちゃって」
レイラさんは、籠を床に置いて、にこにこと笑った。
それから、ミリエルの前に、膝をついた。
「あなたが、ミリエルさんですね。はじめまして。賢者の、レイラ・イザベラです。……四年前のことは、聞いています。よく、生きていてくれましたね」
ミリエルは、ぱちぱちと瞬きをして、それから、慌てて頭を下げた。
「は、はじめまして……! 賢者さま……!」
「レイラでいいですよー」
レイラさんは、ミリエルの頭を、ぽんぽんと撫でた。
その手が、ミリエルの胸元の、白い聖布の上を、ほんの一瞬だけ、かすめた。
レイラさんの笑顔は、変わらなかった。声の調子も、変わらなかった。
ただ、ミリエルの頭越しに、俺と目が合った瞬間。レイラさんの目が、ほんのわずかに、細くなった。
そして、唇だけが、音もなく動いた。
――あとで。
俺は、黙って、頷いた。
◇
焼き菓子の籠を囲んで、五人と一人で、昼休みの残りを過ごしていたときだった。
屋上の手すりの外側に、ふわりと、小さな人影が浮かんだ。
「――ほう。甘い匂いがすると思えば、賢者の菓子か」
ロリババアだった。
いつもの、裾の長い黒の衣。宙に浮いたまま、手すりの上に、ちょこんと腰掛けた。森の家から、転移してきたらしい。昼間に学園へ来るのは、珍しかった。
「ロリババア。なんで、ここに」
「菓子の匂いがしたからじゃ」
「森から、どうやって嗅ぎつけたんだよ」
「長く生きておると、いろいろ鼻が利くものでの」
ロリババアは、レイラさんの籠から、焼き菓子をひとつ、ひょいと摘まんだ。
レイラさんが、「どうぞどうぞ」と、籠ごと差し出した。
ロリババアは、焼き菓子を口に放り込みながら、屋上をぐるりと見回した。俺。セルカ。フィアット。レイアーヌ。レイラさん。
そして、ミリエルの上で、目が止まった。
ミリエルは、焼き菓子を手に持ったまま、固まっていた。
鳶色の目が、大きく見開かれていた。ロリババアを、じっと見つめていた。まるで、遠い昔に失くした何かを、思いがけない場所で見つけたみたいな顔だった。
「……あ」
ミリエルの唇が、震えた。
「……あったかい」
鳶色の目から、涙が、ひとしずく、こぼれた。
ミリエル自身が、一番驚いた顔をしていた。慌てて、頬を拭う。でも、拭っても拭っても、涙は、あとからあとから溢れてきた。
「ご、ごめんなさい……! わ、私、なんで……! 悲しくなんて、ないのに……!」
「ミリエル?」
レイアーヌが、その肩を抱いた。
ロリババアは、手すりの上から、静かに、ミリエルを見下ろしていた。
その目から、いつもの、人を食ったような色が消えていた。
「――お主」
ロリババアは、手すりから、ふわりと降りた。
ミリエルの前に立った。座ったミリエルと、立ったロリババアの目の高さが、ちょうど同じだった。
「あの心臓に、繋がれておった娘か」
ミリエルが、涙に濡れた目で、ロリババアを見上げた。
「……はい」
「そうか」
ロリババアは、小さな手を伸ばして、ミリエルの麦わら色の髪に、そっと置いた。
「あの人の匂いが、お主の中に、まだ、ほんの少しだけ残っておる。……何年も、あの心臓と一緒に、祈らされておったのじゃろう。つらかったの」
ミリエルは、何も言えずに、ただ、首を横に振った。
涙が、ぽろぽろと、制服の膝に落ちた。
ロリババアの手は、しばらく、ミリエルの髪の上から、動かなかった。
その手の下で、ミリエルの胸元の、白い聖布が。
風もないのに、ほんのわずかに、ふるりと、震えた。
レイラさんだけが、それを見ていた。
◇
放課後。誰もいなくなった、魔術の講義室。
レイラさんは、教卓に腰を預けて、窓の外の夕焼けを眺めていた。俺が扉を閉めると、振り返らないまま、言った。
「――糸が、縫い込まれていました」
「聖布にか」
「はい。髪の毛よりも、ずっと細い術式の糸。白い布の織り目に沿って、一本だけ。普通の魔術師なら、まず気づきません。私も、手で触れるまで、わかりませんでした」
レイラさんは、ようやく振り返った。いつもの、にこにこした顔ではなかった。賢者の顔だった。
「何かを探すための糸です。探しているものに近づくと、震える。……そして、お昼に、震えました」
「ロリババアが、ミリエルの頭に手を置いたとき」
「はい」
俺は、拳を握った。
ミリエル本人は、何も知らないはずだ。あの涙は、作り物じゃなかった。心臓に繋がれていた体が、あの人の匂いを覚えていて、勝手に泣いたのだ。
その体ごと、羅針盤にされている。
「……外せるか」
「外せます。今すぐにでも」
レイラさんは、そう言ってから、首を横に振った。
「でも、エトワールさんに、止められました。『見つけても、外さないでくれ』って。……外したら、こちらが気づいたことを、向こうに教えることになるから、と」
「……あの眼鏡」
「怒らないであげてください、ハスト様。あの人、今朝から一睡もしないで、新聞の裏に、ずっと何か書いてるんです。もう、十枚目でした」
レイラさんは、困ったように笑った。
「たぶん、あの人の頭の中では、もう、戦いが始まってるんだと思います」
◇
その日の昼。迎賓館の、最上階。
ヴィンセントは、窓辺の机の上に置かれた、拳ほどの大きさの硝子の球を、見つめていた。
球の中には、一本の白い針が、水に浮かべたように、ゆらゆらと漂っていた。この十日間、針は、ずっと、ゆらゆらと揺れるばかりで、どこも指さなかった。
その針が、今。
ぴたりと、止まっていた。
窓の外の、ずっと先。小高い丘の上に建つ、王立学園の本校舎の方角を、まっすぐに指して。
ヴィンセントは、柔和な笑みを浮かべて、背後の暗がりを振り返った。
フードをかぶった年老いた従僧が、黙って、椅子に腰掛けていた。
「――見つけました」




