60 白い聖女と、灰色の再会
十日後。
王都の大通りに、鐘の音が響いていた。
サロバニアの鐘ではなかった。もっと高く、澄んだ、硝子を弾いたような音。白い馬車の屋根に吊るされた、小さな銀の鐘が、車輪が石畳を噛むたびに、しゃらん、しゃらんと揺れて鳴っていた。
白い馬車が、十二台。
その前後を、白い鎧の騎士たちが、馬に乗って固めていた。陽の光を受けて、鎧の一枚一枚が、目に痛いほど白く光る。掲げられた旗には、金糸で、光の神の聖印が縫い取られていた。
大通りの両脇は、見物人で埋め尽くされていた。物珍しそうに身を乗り出す子ども。眉をひそめる老人。四年前の聖火祭の噂を、ひそひそと囁き交わす商人たち。
俺は、その人垣のずっと後ろ、大通りに面した宿屋の屋根の上に寝転がって、行列を見下ろしていた。
――白い都の鐘だ。
四年前、聖都ジセリオンの街道で、一日中聞かされ続けた音。
隣で、屋根瓦がかすかに鳴った。
「……ハストさま」
セルカが、いつの間にか、俺の隣に膝を抱えて座っていた。学園の制服の上に、灰色の外套。フードを、目深にかぶっている。
「学校は」
「……早退した。おなか、痛いって言った」
「痛いのか」
「……痛くない」
セルカは、行列から目を離さなかった。淡い水色の目が、白い馬車を、一台ずつ、順番に追っていく。
八台目の馬車の前で、その目が、止まった。
窓に、白い布が下ろされた馬車だった。他の馬車よりも、ひと回り小さい。御者台の隣に、ひとりの少年が、ちょこんと座っていた。
白い髪の少年だった。年は、十四か十五くらい。白い法衣に、白い靴。肌も、唇も、まるで色を抜かれたみたいに白い。その中で、目だけが、硝子玉のように、何の光も映さずに、前を見ていた。
少年が、ふいに、顔を上げた。
大通りの人垣を越えて。宿屋の看板を越えて。
まっすぐに、屋根の上の、俺たちのほうを見た。
俺は、身体を起こさなかった。隠形の術式は、張ったままだ。宿屋の屋根の上には、誰もいないように見えているはずだった。
少年の目は、それでも、こちらから離れなかった。
一息。二息。
それから、少年は、何事もなかったように、前に向き直った。馬車は、しゃらん、しゃらんと鐘を鳴らしながら、王城のほうへ、遠ざかっていった。
「……見えてた」
セルカが、小さく言った。
「……あの子。わたしたちのこと、見えてた」
俺は、黙って、遠ざかる白い馬車の屋根を見つめていた。
随行の少年、アベル。
背中が、ほんの少しだけ、冷たかった。
◇
王城の大広間で、歓迎の式典が開かれた。
天井まで届く窓から、午後の光が斜めに差し込んでいる。磨き抜かれた大理石の床に、赤い絨毯が一本、まっすぐに敷かれていた。絨毯の両脇には、王国の貴族たちが、正装で、ずらりと並んでいる。
玉座には、国王アーク・フォン・フラハイトが座っていた。
ジャージではなかった。深い紺の礼服に、金の肩章。王冠も、ちゃんと頭に乗っている。ただ、俺のいる場所からは、玉座の肘掛けの陰で、陛下の指が、退屈そうに、とんとんと拍子を刻んでいるのが見えた。
俺は、大広間の柱の陰に立っていた。給仕の制服を着て、銀の盆を持って。陛下の幻術で、顔立ちも背丈も、まったくの別人に見えるようにしてもらっている。……背丈を、ほんの少しだけ高くしてもらったのは、陛下には内緒だ。
玉座の右隣には、第一王女レイアーヌが、王家の礼装で立っていた。背筋をまっすぐに伸ばして、絨毯の先の、大広間の扉を見つめている。
玉座の左には、剣聖シュベルト。いつもの軽薄な笑みを消して、腰の聖剣の柄に、そっと手を置いていた。
玉座の背後には、賢者レイラ。魔術師協会のローブを、今日は正装の白で揃えている。
大広間の二階、回廊の手すりには、大弓を背負ったエレナが、優雅に腰掛けていた。にこにこと笑いながら、扇子で口元を隠している。……あの位置からなら、大広間の全員が、射程に入る。もっとも、エレナが狙って当たったことは、一度もないのだが。
そして、大広間の一番後ろの壁際には、クレハが、ものすごく不機嫌な顔で腕を組んでいた。背中が、いつもより軽そうだった。式典に機関銃は持ち込むなと、陛下に言い渡されたらしい。腰の二丁のリボルバーまでは、さすがに取り上げられなかったようだが。
式典の進行役は、典礼長官のケルナー伯爵が務めていた。白髪混じりの、恰幅のいい初老の男だ。よく通る声で、使節団の到着を告げた。
「――ジセリア神国、親善使節団。全権大使、ヴィンセント・アルマ枢機卿猊下、ご入来!」
大広間の扉が、開いた。
◇
先頭を歩いてきたのは、緋色の法衣を纏った男だった。
年は、四十前後。艶のある黒髪を、きっちりと後ろに撫でつけている。柔和な顔立ちに、柔和な笑み。足取りは、まるで散歩でもしているかのように、ゆったりとしていた。
枢機卿、ヴィンセント・アルマ。
その半歩後ろを、白い鎧の騎士が歩いていた。
若い男だった。二十代の半ば。短く刈り込んだ白金の髪。切れ長の目。腰に下げた長剣の柄頭には、拳ほどの大きさの、乳白色の石が嵌め込まれていた。
聖騎士団長、セラフィン・ローエ。
ラザロの後任だ。
セラフィンの目は、玉座ではなく、その左に立つシュベルトに、まっすぐ向けられていた。剣士が剣士を見る目だった。測るような。挑むような。シュベルトは、それに気づいているのかいないのか、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
その後ろに、聖騎士候補生たちが、二列になって続いた。白い鎧の、まだ若い少年少女たち。
さらに、その後ろ。
白い衣の、少女がいた。
頭から、薄い白の面紗をかぶっている。顔は、よく見えない。白い衣の裾が、赤い絨毯の上を、音もなく滑っていく。両手を胸の前で組んで、俯いたまま、静かに、静かに歩いてくる。
聖女、ミリエル。
玉座の隣で、レイアーヌの肩が、ほんのわずかに、強張ったのが見えた。
最後に、白い髪の少年が、聖女の影のように、ぴったりと寄り添って歩いてきた。アベルだった。大広間を、硝子玉の目で、ゆっくりと見回していく。
その目が、柱の陰の、給仕の制服を着た俺の上で、一瞬だけ、止まった。
そして、また、何事もなかったように、通り過ぎていった。
◇
ヴィンセントの挨拶は、見事なものだった。
四年前の聖火祭の「不幸な事故」を悼み、両国の長い友好の歴史を称え、新教皇ガブリエル一世の「慈愛に満ちた御心」を、朗々と語った。言葉のひとつひとつが、柔らかく、温かく、耳に心地よかった。
聞いていた貴族の何人かは、うっとりと目を細めていた。
「――つきましては、陛下」
ヴィンセントは、柔和な笑みのまま、玉座を見上げた。
「先にお送りした書状の、ふたつの件。聖なる文書のご返還と、四年前の不幸な混乱の、責任ある方のお引き渡し。……ご検討いただけましたでしょうか」
大広間が、しんと静まり返った。
陛下は、玉座の肘掛けで、指をとんとんと鳴らした。
それから、にっこりと笑った。
「検討した、検討した。ちゃんと検討したとも。……で、結論から言うとだな、猊下」
陛下は、玉座の上で、ひょいと足を組んだ。
「書記は、ない。うちの禁書庫から、勝手に家出した。紅い悪魔とかいう奴は、知らん。うちの国には、悪魔なんて物騒なもんは住んでない。……以上だ。せっかく遠路はるばる来てもらったんだ、王都の名物でも食って、ゆっくりしていってくれ」
貴族たちが、ざわめいた。
ヴィンセントは、笑みを崩さなかった。
「……左様でございますか。大変、残念です」
「残念がってもらえて、嬉しいよ」
「ですが、我ら使節団は、和解のために参りました。陛下のお心が変わるまで、何度でも、お願いに上がる所存です」
「何度でも来てくれ。茶ぐらいは出す」
二人は、互いに、にこやかに微笑み合った。
大広間の誰もが、息を詰めて、それを見ていた。
俺は、銀の盆を持ったまま、大広間の隅の、もうひとりの男を見ていた。
典礼長官、ケルナー伯爵。
ヴィンセントが「残念です」と言った瞬間。ケルナー伯爵の目が、ほんの一瞬だけ、ヴィンセントのほうへ動いた。そして、ヴィンセントの目も、ほんの一瞬だけ、ケルナー伯爵のほうへ動いた。
目配せと呼ぶには、短すぎる一瞬だった。
でも、二階の回廊の手すりで、扇子で口元を隠したエレナの目が、すっと細くなったのを、俺は見た。
そして、大広間の一番奥の、来賓席の端で、毎日王都新聞を膝に置いたエトワールが、眼鏡を押し上げたのも。
◇
式典が終わったあと、王城の東の回廊は、人の気配がなかった。
使節団の一行は、迎賓館へ移る前の、短い休憩を取っていた。回廊の突き当たりの、小さな控えの間。その扉の前に、ひとりで立っていた白い衣の少女に、レイアーヌは、まっすぐに歩み寄っていった。
俺は、回廊の柱の陰で、給仕の制服のまま、それを見ていた。
少女が、気配に気づいて、顔を上げた。
面紗の向こうで、その目が、大きく見開かれたのがわかった。
「……レイアーヌ、さま」
「ミリエル」
レイアーヌは、ためらわなかった。
王女の礼装のまま、白い衣の少女を、両腕で、ぎゅっと抱きしめた。
ミリエルの面紗が、ふわりと揺れた。細い肩が、レイアーヌの腕の中で、小さく震え始めた。
「……お会い、したかったです」
「私もよ。手紙、ありがとう。……ずっと、会いに行きたかった」
「……私、四年前、ちゃんと、お別れも、言えなくて」
「いいの。今、言えてるじゃない」
二人は、しばらく、そのまま、抱き合っていた。
回廊の窓から、午後の光が、二人の足元に、細長く落ちていた。
やがて、ミリエルが、レイアーヌの肩越しに、回廊の柱のほうを見た。
給仕の制服を着た、見知らぬ顔の男。陛下の幻術で、俺は、まったくの別人に見えているはずだった。
それなのに、ミリエルは、俺を見て、目を細めた。
「――聖歌隊の、チビさん?」
……なんで、わかるんだ。
俺は、ため息をついて、柱の陰から出た。幻術の一部を、ほどく。背丈が、ほんの少しだけ、縮んだ。
「チビは、余計だ」
「やっぱり」
ミリエルは、面紗の下で、くしゃりと笑った。笑いながら、目の端から、ひとしずく、涙がこぼれた。
「……灯りの、色で、わかります。あなたの灯りは、碧くて、とても深いから。四年前より、ずっと、澄んでいますけれど」
心臓の通り道にされていた少女。何年も、何千という人の命の糸に、触れ続けてきた少女。その手のひらは、今でも、人の灯りの色を覚えているのだろう。
「……元気そうで、よかった」
俺が言うと、ミリエルは、少しだけ、目を伏せた。
それから、回廊の左右を、素早く見回した。誰もいないことを確かめて、声をひそめた。
「……元気では、ありません」
レイアーヌが、ミリエルの手を握った。
「施療院、閉められてしまいました。……新しい教皇猊下のご命令で。教会の石を使わない治癒は、神の御業を盗む行いだと。患者さんたちは、外環の教会の、施療所に移されました。そこでは、また、銀貨を払わないと、診てもらえません」
ミリエルの声は、細かった。
「ラザロさまは、審問院の監視下に置かれています。……私が、使節団で、聖女として、きちんと務めを果たせば、施療院を開き直してもいいと。患者さんたちも、元の場所に戻すと。……そう、言われました」
やっぱりか。
俺は、拳を握った。
「それと、もうひとつ」
ミリエルは、困ったように、眉を下げた。
「滞在中、私は、王立学園で、留学生として学ばせていただくことになりました。……教皇猊下の、ご意向だそうです。両国の友好の、証として」
「留学生?」
レイアーヌが、目を丸くした。
「何年生として?」
「ええと……年齢に合わせて、三年生、と伺いました」
レイアーヌは、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、ミリエルの両手を、ぎゅっと握り直した。
「――同じクラスよ」
「え」
「三年A組。私のクラス。……絶対に、同じクラスにしてもらうわ。学園長に、直談判してでも」
ミリエルは、しばらく、ぽかんとしていた。
それから、面紗の下で、また、くしゃりと顔を歪めた。今度は、泣き笑いだった。
「……はい」
控えの間の扉が、内側から、開いた。
白い髪の少年が、立っていた。アベルだった。硝子玉の目で、ミリエルと、レイアーヌと、俺を、順番に見た。
「――聖女さま。お時間です」
抑揚のない声だった。
ミリエルは、レイアーヌの手を、名残惜しそうに離した。それから、俺に、小さく頭を下げて、アベルの後について、控えの間の中へ消えていった。
扉が閉まる直前。
アベルが、振り返った。
俺を見ていた。いや、俺ではなかった。俺の足元の、影を見ていた。
それから、ぽつりと、言った。
「――あなたの中にも、ある」
扉が、閉まった。
◇
その夜。迎賓館の、最上階の一室。
窓の外には、王都の夜景が、星を撒いたように広がっていた。
部屋の中には、二人の男がいた。
ひとりは、ヴィンセント。緋色の法衣を脱いで、黒い平服に着替えている。もうひとりは、使節団の荷物持ちとして同行してきた、年老いた従僧だった。深くフードをかぶっていて、顔は、よく見えない。
ヴィンセントは、銀のポットから、紅茶を注いだ。
最初の一杯を、従僧の前に置いた。
二杯目を、自分の前に置いた。
「――種は、蒔きました」
ヴィンセントが、言った。
従僧は、答えなかった。皺だらけの手で、紅茶のカップを持ち上げた。
カップを持つ手のひらに、古い傷痕が、一本、斜めに走っていた。
何か硬いものの破片で、深く裂かれたような傷だった。




