59 和解という名の、白い招待状
翌朝の教室は、いつもより、少しだけ騒がしかった。
「――だからさ! 絶対に裏があるんだって!」
窓際の席で、ラインハルトが、机を叩いていた。
「ジセリアだぞ、ジセリア! 四年前の聖火祭で、教皇の心臓だか神様の心臓だかが爆発して、国じゅう大混乱になった、あのジセリア! その筆頭枢機卿が新しい教皇になって、いきなり『和解しましょう』って使節団を寄越すんだぜ? 怪しすぎるだろ!」
「怪しいかどうかはともかく、その『心臓が爆発した』って噂、どこで聞いたんだよ」
前の席のレオンが、呆れた顔で振り返った。
「王都新聞には『聖火祭で原因不明の事故』としか書いてなかったぞ」
「新聞は、真実を書かない! 俺の情報網によればな、あの日、聖都の大階段で、紅い悪魔と碧い小鬼が暴れ回って、神様の心臓を叩き割ったって話だ!」
「紅い悪魔はともかく、碧い小鬼ってなんだよ」
「知らん! でも小鬼だ! ちっさいらしい!」
俺は、窓際の一番後ろの席で、机に突っ伏したまま、その会話を聞いていた。
……ちっさい、は余計だ。
昨日、一日休んだ。ロリババアの昔話を聞いて、森の奥の焼け跡から帰ってきて、三十二個のパンを三人で片付けようとして、五個目で全員が降参した。残りは、セルカが冷気で凍らせて、地下の食糧庫に積み上げた。当分、朝飯には困らない。
眠れたかと言われれば、あまり眠れなかった。
目を閉じると、黒い鉄の柵が浮かんだ。白い傷痕の走る、小さな手のひらが浮かんだ。
「――ハスト様」
隣の席から、小さな声がした。
フィアットだった。蒼い髪を、今日は耳の後ろで編み込んでいる。腰には、柄頭のくぼみが空いたままの、白鋼の剣。
「昨日は、どうされたんですか。先生には、体調不良と伝えておきましたけど」
「ああ。悪い。助かった」
「……顔色、あんまりよくないです」
俺は、突っ伏したまま、片目だけを開けて、フィアットを見た。
蒼い瞳が、まっすぐに、俺を見ていた。心配している顔だった。でも、それ以上は、何も訊いてこなかった。訊いていいことなのかどうか、自分で測っている顔だった。
「……ロリババアの、昔の話を聞いた」
俺は、それだけ言った。
「重たい話だった。全部は、まだ言えない。……悪い」
フィアットは、少しだけ目を丸くして、それから、ふっと、柔らかく笑った。
「謝らないでください。……言えるようになったら、聞かせてください。私、待つのは、得意なので」
「……そうか」
「はい。ハスト様の寝起きを待つのに比べたら、何でもありません」
「おい」
教室の扉が、勢いよく開いた。
担任の教師が、紙の束を抱えて入ってきた。その顔は、いつになく、緊張していた。
「全員、席につけ。今日の一限は中止だ。……全校集会を行う。講堂へ移動しろ」
◇
講堂には、全学年、三百人の生徒が集められていた。
壇上に立ったのは、学園長だった。
眼鏡をかけた、線の細い青年。いつもは、学園長室の長椅子で、毎日王都新聞を広げて紅茶をすすっているか、どこかで余計なことをやらかしてアイシャ会長に殴られているかのどちらかだ。生徒の前に、こうして正式に立つのは、入学式以来かもしれない。
博識王、エトワール・グリース。
「――おはようございます、諸君」
エトワールは、穏やかに微笑んだ。
「突然の集会で、申し訳ない。すでに新聞で読んだ者もいるだろうが、改めて伝えておこう。……十日後、隣国ジセリア神国より、親善使節団が王都を訪れる」
講堂が、ざわめいた。
「新教皇ガブリエル一世猊下の、たってのご希望でね。四年前の不幸な行き違いを水に流し、両国の友好を深めたいとのことだ。使節団は、十日間、王都に滞在する。そのうちの数日を、この王立学園で過ごされる予定だ」
エトワールは、手元の紙を一枚めくった。
「使節団には、ジセリアの聖騎士学院から、聖騎士候補生の諸君も同行される。そこで、滞在の最終日に、我が学園の生徒と、聖騎士候補生との、親善試合を執り行うことになった」
ざわめきが、どよめきに変わった。
「出場者は、先日の順位戦の結果をもとに、各学年から選抜する。選ばれた者には、追って通知を出そう。……以上だ。和解の席だということを、諸君、ゆめゆめ忘れないように」
エトワールは、もう一度、穏やかに微笑んで、壇を降りた。
その瞬間、眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬だけ、すっと冷えたのを、俺は見逃さなかった。
博識王の目だった。
――和解の席だということを、ゆめゆめ忘れないように。
あいつは、和解なんて言葉を、ひとかけらも信じていない。
◇
昼休みの屋上には、いつもの顔ぶれが揃っていた。
手すりの根元に寝転がる俺。その隣で、膝を抱えて氷の花を眺めているセルカ。少し離れた日向で、白鋼の剣の手入れをしているフィアット。
そして、この数日で、すっかり「いつもの顔ぶれ」に加わった人が、もう一人。
「――出場者の名簿よ。生徒会室から、一足先に借りてきたわ」
レイアーヌだった。
三年生の制服。艶やかな髪を、後ろでひとつに束ねている。腰には、王家の剣。そして、制服の内ポケットには、柄に黒い擦り跡の残った、あの小さな木剣が、今も入っているはずだった。
レイアーヌは、俺の頭の横に、一枚の紙を置いた。
「三年からは、私と、アイシャ会長。二年からは、序列上位の三人。一年からは……」
レイアーヌの指が、名簿の一番下をなぞった。
「フィアット・セルジーネさん」
「わ、私ですか!?」
フィアットが、剣を磨く手を止めて、飛び上がった。
「順位戦での戦いぶりを見たら、当然よ。……おめでとう。一緒に戦えて、嬉しいわ」
「は、はい……! が、頑張ります……!」
フィアットは、剣を胸に抱きしめて、ぶんぶんと頷いた。それから、ちらりと、俺のほうを見た。
「ハスト様は……」
「出ねぇよ。最下位だぞ」
「ですよね……」
ちょっと残念そうな顔をされた。なんでだ。
「それと、こっちが本題」
レイアーヌは、名簿をめくった。
二枚目の紙には、ジセリアの使節団の顔ぶれが、記されていた。
全権大使、枢機卿ヴィンセント・アルマ。
聖騎士団長、セラフィン・ローエ。
聖騎士候補生、十二名。
随行の少年、アベル。
そして。
「――聖女、ミリエル」
レイアーヌが、その名前を、小さく読み上げた。
屋上を、風が吹き抜けていった。
「……あの子は、外環で施療院をやってるって、手紙に書いてたわ。教会の石を使わない、本当の治癒魔術で、無償で人を診てるって。もう、聖女なんかじゃないって」
レイアーヌの指が、名簿の端を、ぎゅっと握った。
「それが、どうして、使節団の名簿に、聖女として載ってるの」
俺は、身体を起こした。
名簿を受け取って、その名前を、じっと見た。
四年前。白い衣と面紗に身を包んで、毎日、光神の心臓に手を当てて祈らされていた少女。命を吸われて、奇跡の源にされていた少女。夜中に、こっそり、地下牢へ温かいパンを差し入れていた少女。
――新しい教皇は、奇跡の再興を宣言した。
「……担ぎ出されたんだろうな」
俺は、言った。
「奇跡の再興には、看板が要る。四年前の聖火祭で、心臓が砕けたあとも生き残った聖女。……これ以上ない看板だ」
「自分から来たとは、思えないわ。あの子が、ガブリエルの言いなりになるなんて」
「言いなりにさせる方法なんて、いくらでもある」
施療院。外環の、貧しい人たち。ミリエルが守りたいもの。
レイアーヌも、同じことを考えたのだろう。唇を、きつく噛みしめていた。
「……ハストさま」
ずっと黙っていたセルカが、膝を抱えたまま、口を開いた。
淡い水色の目が、名簿の一行を見つめていた。聖女の名前ではなかった。そのひとつ上の行。
随行の少年、アベル。
「……この子」
「知ってるのか」
セルカは、ゆっくりと首を振った。
「……知らない。でも、名前を見たら、背中が、冷たくなった」
セルカが、自分の背中が冷たいなんて言うのは、初めて聞いた。氷の魔術を使う子だ。寒さには、誰よりも強い。
「……なんだか、わたしと、似たにおいがする」
◇
その夜。学園長室。
扉を開けた瞬間、紅茶と、焼き菓子と、甘ったるい砂糖の匂いが押し寄せてきた。
学園長室の中は、いつもよりずっと狭く感じた。人が多すぎるのだ。
長椅子の真ん中で、エトワールが、紅茶のカップを手に、新聞を広げていた。その背後に、腕を組んだアイシャ会長が、護衛みたいに立っている。
窓辺の椅子には、ジャージ姿の国王陛下――アークが、焼き菓子を頬張っていた。
部屋の隅では、長身で金髪の男が、壁にもたれて、のんびりと手を振っていた。剣聖、シュベルト・ロード。その隣で、長い髪をひとつに束ね、魔術師協会の紋章入りのローブを羽織った女性が、ティーポットを抱えて、せっせと人数分の紅茶を注いでいた。賢者、レイラ・イザベラ。
「ハスト様! いらっしゃいませー! ちょうど今、蒸らし終わったところですよー!」
「なぁレイラさん、今日でお茶会、三百六十一日目だね」
「シュベルトさんは数えなくていいです!」
さらに、部屋の反対側。
「アタシのハス坊ぉぉぉ!!」
視界が、豪快に結い上げた髪と、二本の腕で塞がれた。背中には、機関銃。銃王、クレハ・エヴァンス。抱きしめる力が、相変わらず、格闘王並みだった。
「く、くるし……クレハ、おば……お姉さん……」
「今、おばさんって言いかけたね?」
「言ってない」
「言いかけたね?」
「言ってないです」
クレハの腕から解放されると、今度は、部屋の奥から、地響きのような足音が近づいてきた。
「親父ィィ!! お久しぶりッス!! あ、三日ぶりッス!!」
錬成帝、ラーク・ドルク。作業着のまま来たらしく、袖口から、炉の火で焼けた古い火傷の痕が覗いていた。
そして。
「――おーほっほっほ! ようやく主役のお出ましですわね!」
エトワールの隣の、一人掛けの椅子から、高らかな笑い声が響いた。
長く、まっすぐな髪。その髪の間から突き出した、長く尖った耳。背丈ほどもある大弓を、椅子の背に立てかけている。
弓王、エレナ・ヴァイス。
この国でただひとりの、エルフの頂天者だった。
「覇王さま、ごきげんよう! お砂糖はいくつ入れて差し上げましょう! 三つ? 四つ? それとも、いっそ十?」
「……一個でいい」
「まぁ、謙虚ですこと!」
エレナは、テーブルの上の砂糖壺から、角砂糖をひとつ摘まむと、振り向きもせずに、後ろ手に、ぽいと放った。
角砂糖は、天井近くまで弧を描いて、エトワールの紅茶のカップに、ぽちゃりと落ちた。
「……エレナ嬢」
エトワールが、紅茶のカップを見下ろした。
「私は、砂糖は入れない主義だと、何度申し上げたかな」
「存じ上げませんわ!」
「今、ハストに入れるつもりで放ったのでは?」
「狙ってはおりませんわよ?」
エレナは、胸を張って、言い切った。
アイシャ会長が、ため息をついた。
「……狙うと、外れるんです。あの方は」
知っている。王都新聞は、エレナのことを、ときどき『無能弓姫』と書く。狙った的には、決して当たらない弓王。でも、何も狙わずに放った矢は、なぜか必ず、何かの真ん中に突き刺さる。
国中の誰もが笑うその噂を、頂天者の中で笑う奴は、ひとりもいない。
◇
「――さて」
エトワールが、砂糖入りの紅茶を一口すすって、ほんの少し顔をしかめてから、カップを置いた。
それだけで、部屋の空気が、変わった。
クレハが、俺から腕を離して、壁にもたれた。ラークが、作業着の袖を下ろした。シュベルトが、壁から背中を離した。レイラが、ティーポットを置いた。エレナでさえ、笑うのをやめて、背筋を伸ばした。
格闘王と槍聖は、北方の遠征から、まだ戻っていない。それ以外の頂天者が、この部屋に全員、揃っていた。そして、九人目の俺と、国王と、生徒会長が。
「集まってもらったのは、他でもない。十日後の、使節団の件だ」
エトワールは、毎日王都新聞を裏返した。
紙の裏には、細かな字と線で、何かがびっしりと書き込まれていた。いつもの、こいつの癖だ。作戦を考えるとき、手近な新聞の裏に、全部を書き出す。
「陛下からの情報、ラザロ・クロイツの手紙、四年前の聖火祭の記録、それから、サリナ殿の過去」
エトワールの目が、ちらりと俺を見た。
「……ハスト。サリナ殿の件は、陛下を通じて、昨夜のうちに聞かせてもらった。ここにいる全員に、話してある。許してくれ」
「……ロリババアが、いいって言ったんだろ」
「ああ。『どうせ、あの眼鏡には隠しても無駄じゃ』と仰っていたそうだ」
エトワールは、苦笑した。それから、新聞の裏の一点を、指で叩いた。
「これらを全部並べると、使節団の目的は、少なくとも三つある」
指が、一つ目の線をなぞった。
「一つ。書記の回収。……これは、口実だ。書記は、もう誰の手にもない。向こうもそれは、うすうす気づいているだろう」
二つ目の線。
「二つ。紅い悪魔――アルス・ノヴァの身柄。四年前の報復と、もうひとつ。アルスの中にある『全知の書』。光神の心臓と同じ匂いのするもの。……ガブリエルが神の欠片を集めているなら、アルスは、歩く欠片だ」
三つ目の線。
「三つ。創成神の姫君。……サリナ殿の血。これが、本命だ」
部屋が、静まり返った。
「問題は、向こうが、どうやってサリナ殿の居場所を突き止めるつもりなのか、だ」
エトワールは、眼鏡を押し上げた。
「迷いの森は、サリナ殿の術式に守られている。百人の聖騎士を差し向けても、全員、同じ場所をぐるぐると回り続けるだけだ。それは、向こうも知っているはず。……知っていて、それでも、自信満々に乗り込んでくる」
「……鍵を、持ってきてる」
俺は、言った。
エトワールは、頷いた。
「おそらくね。それが、何なのか。誰なのか」
エトワールの指が、新聞の裏の、一つの名前の上で止まった。
――聖女、ミリエル。
その隣に、もうひとつ。
――随行の少年、アベル。
「作戦立案を生業とする者として、言わせてもらうがな」
エトワールは、いつもの穏やかな笑みを、どこかへ置いてきたような顔で、言った。
「この使節団は、白い招待状を携えた、軍隊だ。……十日後、王都は、戦場になる」
窓の外で、夜の鐘が、ひとつ鳴った。
誰も、紅茶に手を伸ばさなかった。
エレナの放った角砂糖が、エトワールのカップの底で、ゆっくりと、溶け残っていた。




