58 アリアーヌという娘
目を覚ましたとき、空から、灰が降っていた。
雪のように、静かに。音もなく。白とも黒ともつかない細かな灰が、ひらひらと舞い落ちて、サリナの頬に、髪に、睫毛に、積もっていった。
何も、聞こえなかった。
鐘の音も。罵声も。歓声も。泣き声も。
サリナは、仰向けに倒れたまま、灰色の空を見上げていた。どれくらい、そうしていたのかわからない。一刻かもしれないし、三日かもしれなかった。
やがて、ゆっくりと、右手を持ち上げた。
小さな手だった。
指が、短い。手のひらが、薄い。子どもの手だった。十歳かそこらの、子どもの手。
それなのに、その手のひらには、白い傷痕が、何本も走っていた。柵の横木の角が食い込んで、裂けた跡。ついさっきまで、血を流していた跡。
サリナは、自分の手を、じっと見つめた。
それから、体を起こそうとして、外套の重みに、よろめいた。自分の外套ではなかった。サリナの外套は、とうに燃えて、なくなっていた。肩から掛けられていたのは、上等な紺の天鵞絨に、銀の糸で刺繍を施した、少女ものの外套だった。
「――目が、覚めましたか」
すぐ隣から、声がした。
振り向くと、ひとりの少女が、灰の上に膝を抱えて座っていた。
煤で真っ黒になった顔。焼け焦げて、ところどころが縮れた、艶やかだったはずの髪。王女の着る白い絹の衣は、裾から胸元まで、灰と煤で汚れきっていた。
第二王女、アリアーヌだった。
「……どう、して」
サリナの声は、自分のものとは思えないほど、細く、高かった。子どもの声だった。
「どうして、あなたが、ここに」
アリアーヌは、答えなかった。
ただ、膝を抱えたまま、灰の降る、広場の向こうを見ていた。
サリナも、その視線を追った。
何も、なかった。
広場を見下ろしていた王城も。大聖堂の尖塔も。大通りを埋め尽くしていた家々も。人も。何もかもが、灰と、黒く焼けた石の塊になっていた。ところどころで、溶けて硝子のように固まった石が、灰色の空の光を受けて、鈍く光っていた。
遠くに、塔がひとつだけ、残っていた。上半分を食いちぎられた、黒い塔。
「……バルコニーに、紅いものが、来ました」
アリアーヌが、ぽつりと言った。
「父も、母も、兄たちも、姉も。紅に触れた瞬間に、いなくなりました。叫ぶ暇もなく。……私の手首を掴んでいた父の手が、いつの間にか、なくなっていました」
アリアーヌの声は、平坦だった。泣いてもいなかった。もう、泣くだけの何かが、残っていないみたいだった。
「紅は、私の目の前まで来て、止まりました。ほんの、一息のあいだ。……迷っているみたいに、見えました」
アリアーヌは、サリナを見た。
「それから、私の周りだけを、避けて、通り過ぎていきました」
サリナは、何も言えなかった。
覚えていなかった。あの紅が、何を焼いて、何を焼かなかったのか。紅が空を覆った、その先のことは、何ひとつ、覚えていなかった。
ただ。
胸の奥のどこかで、小さな声が、ずっと言っていた気がした。
――あの子だけは。
空き地の隅で、石板に何度も術式を書き直していた、フードの少女。門限ぎりぎりまで粘って、「また明日」と小さく手を振っていた少女。
「……わたしを」
サリナは、灰の上で、膝を抱えた。小さな膝だった。
「わたしを、憎んで。……あなたの家族を、殺した。この都の人を、全部、殺した。何万人も。泣いて止めようとした人も、ただ見に来てただけの人も、区別なく。……だから、わたしを、憎んで」
アリアーヌは、しばらく、黙っていた。
灰が、二人の肩に、静かに降り積もっていった。
「――憎みます」
アリアーヌは、言った。
「でも、それ以上に、私は、私が憎い」
サリナは、顔を上げた。
アリアーヌは、灰の上に置いた自分の両手を、見下ろしていた。煤で汚れた、細い指。
「私は、あの人に、字を教わりました。術式を教わりました。明日を生き延びるための理屈を、教わりました。……なのに、あの日、私は、何もしませんでした。バルコニーの上で、父に手首を掴まれて、俯いていただけでした。叫ぶことすら、しなかった」
アリアーヌの指が、灰を、ぎゅっと握りしめた。
「あなたは、叫んでいました。手が裂けても。血が石畳に落ちても。石をぶつけられても。……最後まで、ただひとり」
アリアーヌは、顔を上げた。
煤だらけの顔の中で、その目だけが、まっすぐに光っていた。
「だから、私は、書きます」
「……書く?」
「あの日、本当は、何があったのか。あの人が、何を教えて、なぜ殺されたのか。教会が、あの人の胸から、何を奪ったのか。王が、何と引き換えに、あの人を売ったのか。……あなたが、柵の前で、何を叫んだのか」
アリアーヌは、灰の中から、一本の焼け焦げた木切れを拾い上げた。
「全部、書きます。二度と、誰にも、焼かれない書にします。誰にも、消させない。……いつか、それを本当に必要とする誰かの前に、必ず、届くように」
◇
「――アリアーヌは、それから二十五年、生きた」
石段の上で、ロリババアが言った。
広場を、森の風が吹き抜けていった。俺は、手の中の、とうに冷めたパンのことを、すっかり忘れていた。隣のセルカも、自分の膝を抱えたまま、身じろぎひとつしなかった。
「旧王家の、ただひとりの生き残りとして。王位を継ぐことを、拒み続けての。…………あの紅はの、あの人を最後まで信じておった者だけは、焼かなんだらしい。鎖に繋がれておった四つの家の当主も。バルコニーの上で、俯いておったアリアーヌも。儂がそれを知ったのは、ずっと後のことじゃった」
ロリババアは、少しだけ、目を伏せた。
「新しい王を立てたのは、生き残った四大貴族の連中じゃ。四つの家が推して、地方の小さな家から、ひとり、王を出した。それが、今のフラハイト家の始まりじゃ。アークの小僧の、ずっとずっと前のご先祖じゃな」
ロリババアは、空を見上げた。
「アリアーヌは、王都から離れた修道院に籠もって、ひたすら、書き続けた。古い言葉で。教会の者が、すぐには読めぬようにな。……そして、死ぬ間際に、儂に、一通の手紙を寄越した」
「手紙?」
「この森にの。あの子は、儂がどこにおるか、ずっと知っておった。知っておって、一度も、訪ねては来なんだ。……最初で最後の、手紙じゃった」
ロリババアは、膝の上で、両手を重ねた。
「書き終えた、と書いてあった。そして、その書に、世界と、約束を結んだと」
「……約束」
「契約じゃよ。魔術というのはな、ハスト。突き詰めれば、世界と結ぶ約束じゃ。儂も、アルスの小僧も、お主も、皆、毎日、世界と小さな約束を交わして、術式を動かしておる。……アリアーヌは、その約束に、自分の残りの命を、全部、差し出した」
俺は、息を呑んだ。
「この書は、真実を必要とする者の前にだけ現れる。そして、二度と、誰にも焼かれない。……そういう約束じゃ。手紙が届いた翌朝、アリアーヌは、修道院の寝台の上で、眠るように死んでおったそうじゃ。枕元にあったはずの書は、どこにもなかった」
ガブリエルが、三度、焼こうとした書。三度とも、翌朝には、何事もなかったように机の上に戻っていた書。
禁書庫の一番奥に、前の日までなかったはずの場所に、突然現れた、古びた革表紙の手帳。
十三歳のレイアーヌは、あの書を、必要としていたのだ。
剣の本を探して、禁書庫を漁っていた、王女。自分の剣が、どこへ向かうべきかを、知りたがっていた、少女。
「……あの手帳には、あんたのことが書いてあったんだな」
「書いてあったじゃろうな。読んだことはないがの」
「読んでないのか」
「読めるわけがなかろう」
ロリババアは、少しだけ、笑った。
「あの子が、二十五年かけて書いたものじゃ。儂を、許すとも、許さぬとも書いておらんじゃろう。ただ、あの日のことを、そのまま書いておるはずじゃ。……儂には、それを読む勇気がない。二百年経っても、まだの」
◇
「――あの人の心臓は」
俺は、訊いた。
「あんたの紅の中でも、燃えなかったのか」
ロリババアの肩が、ほんの少しだけ、強張った。
「……燃えなんだ。あれは、あの人のものじゃからの。儂の紅は、あの人の『能力』から生まれたもの。同じ根から出たものを、焼くことはできん」
ロリババアは、広場の真ん中の、白い石の柱が立っていたはずの場所を見つめた。今では、そこには、苔むした石の台座が、ひとつ残っているだけだった。
「灰の中から、心臓は見つからなんだ。柱の上の、あの人の亡骸も。……儂が目を覚ますまでの三日の間に、誰かが持ち去ったのじゃろう。紅の届かぬところにおった、教会の残党がの」
光神の心臓。
四年前、白い都の地下で、俺が碧で砕いた、あの白く濁った結晶。
――あの心臓、俺の中の全知の書と、同じ匂いがした。
アルスの言葉が、よみがえった。
「ガブリエルは、その心臓を、もう一度、作ろうとしてる」
「そうじゃな」
「動かすには、神に一番近かった者の血が要る、って。……ラザロの手紙に、そう書いてあった」
ロリババアは、答えなかった。
ただ、膝の上で重ねた手のひらを、ほんの少しだけ、開いた。
白い傷痕の走る、小さな手のひら。
その手のひらを、ロリババアは、長いあいだ、じっと見つめていた。
「――あの人の心臓が、もう一度、動く」
ロリババアは、ひとりごとのように、呟いた。
「儂の血で。……もう一度」
その声に、俺は、ぞくりとした。
怖れではなかった。怒りでもなかった。
焦がれる声だった。
二百年、ずっと、胸の奥に押し込めてきた何かが、ほんの一瞬だけ、蓋の隙間から、滲み出したような声だった。
「……ロリババア」
俺が呼ぶと、ロリババアは、はっとしたように、手のひらを閉じた。
「わかっておる」
ロリババアは、首を振った。
「動いたところで、それは、あの人ではない。ただの、器じゃ。あの人の心臓の形をした、教会の道具じゃ。……わかっておる」
わかっておる、と、もう一度、繰り返した。
自分に言い聞かせるみたいに。
◇
「――サリナさま」
セルカが、膝を抱えたまま、口を開いた。
「……昨日、言ってた。二百年前は、間に合わなかった、って」
「言うたの」
「……サリナさまが、わたしに教えてくれてる魔術。時空魔術。……あれは、間に合うための魔術」
ロリババアは、セルカを見た。
「そうじゃ。……届くための魔術じゃ。遠くにおる大事な者のところへ。間に合わぬはずの、一瞬へ。儂は、あの日のあとで、それを覚えた。三日かけて、あの人の森を抜け出した儂がの。……二度と、間に合わぬことがないようにと」
ロリババアの声が、少しだけ、低くなった。
「じゃが、セルカ。前にも言うたな。時を止めるには、代償が要る。お主は、お主自身の時間を払うことになる」
「……うん」
「儂のようになるでないぞ」
ロリババアは、自分の小さな手を、セルカのほうへ掲げて見せた。
「紅に、都と一緒に焼かれた儂の時は、二百年、止まったままじゃ。……一日も、歳をとらん。お主に、そうなってほしくはない」
セルカは、ロリババアの手を、じっと見ていた。
それから、ゆっくりと、首を振った。
「……サリナさまが、間に合わなかったぶん」
セルカは、言った。
「……わたしが、間に合う。……ハストさまのところにも。サリナさまのところにも」
淡い水色の目が、まっすぐに、ロリババアを見ていた。湖の底から、水面を見上げているような、静かで、底の知れない目。
ロリババアは、しばらく、何も言わなかった。
やがて、ふう、と、小さく息をついた。
「……頑固な弟子を持ったものじゃ」
◇
俺は、立ち上がった。
石段の上で、ロリババアとセルカが、俺を見上げた。
俺は、広場の真ん中の、折れた柵のほうを見た。二百年前、ひとりの娘が、手のひらを裂きながら握りしめた柵。誰も、その声を聞かなかった柵。
「二百年前のあんたには」
俺は、言った。
「誰も、いなかったんだろ。柵の前で、一緒に叫んでくれる奴も。止めてくれる奴も。……間に合ってくれる奴も」
ロリババアは、黙っていた。
「今は、違う」
俺は、振り返った。
「俺がいる。セルカもいる。アルスも、陛下も、フィアットも、姫さんも。……ガブリエルが何を企んでようが、あんたの血は、一滴だって、渡さねぇ」
ロリババアは、俺の顔を、しばらく、じっと見ていた。
それから、ぷっと、吹き出した。
「……生意気な」
小さな手が、俺の手を、掴んだ。
指が短くて、手のひらが薄くて、白い傷痕が何本も走った、子どもの手だった。でも、握る力は、俺が知っているどんな大人よりも、強かった。
「帰るぞ、ハスト。パンが、山ほどあるからの」
ロリババアは、石段から、ぴょんと飛び降りた。俺の手を、引っ張るようにして。
もう片方の手を、セルカが、そっと握った。
三人で、森の中を、南へ歩いた。
黒ずんだ木々が、少しずつ、明るい茶色に戻っていった。苔の下の土が、灰の色から、普通の土の色に戻っていった。
振り返ると、もう、あの広場は、木々の向こうに隠れて、見えなくなっていた。
ロリババアは、一度も、振り返らなかった。
ただ、俺の手を握る小さな手が、家に着くまで、ずっと、少しだけ、震えていた。




