57 断罪の日
――二百年前。春。
旧サロバニア王国の王都には、鐘の音が満ちていた。
王城の鐘。大聖堂の鐘。街角の小さな礼拝堂の鐘。それらが、朝から一刻おきに、休みなく鳴り続けていた。祝いの鐘ではなかった。弔いの鐘でもなかった。
断罪の鐘だった。
その鐘の音の下を、ひとりの娘が走っていた。
年は、十九。亜麻色の長い髪を、首の後ろで乱暴に束ねている。上等な仕立ての外套は泥にまみれ、裾はところどころが裂けていた。靴は、とうに片方なくしていた。石畳を蹴るたびに、素足の裏が裂けて、赤い跡が残った。
娘の名前は、サリナ・イザベラといった。
四年前、ある人から、イザベラという家名をもらった。身寄りのない孤児だった娘に、その人は、名前と、家と、居場所をくれた。それから四年で、イザベラ家は、王国の四大貴族のひとつに数えられるまでになった。娘の力ではない。その人の教えを慕って、多くの人が集まってきたからだ。
人々は、娘のことを、半分は冗談で、半分は本気で、こう呼んだ。
創成神の姫君、と。
あの人の隣に、いつも、ぴったりと寄り添っていたから。
◇
あの人は、変わった人だった。
神さま、と呼ばれていたけれど、本人はその呼び名を嫌がった。玉座にも、神殿にも座らなかった。いつも、くたびれた灰色の衣を着て、指先をインクで汚して、王都の外れの、平民街の空き地にいた。
空き地には、木の板を立てただけの、黒板があった。
その前に、毎日、たくさんの人が座った。靴屋の徒弟。洗濯女。字の読めない農夫。親のいない子どもたち。あの人は、その一人一人に、魔術を教えた。
「魔術ってのはね、才能じゃないんだ。理屈なんだよ」
あの人は、よくそう言った。
「理屈がわかれば、誰だって、最低限は使える。最低限使えれば、最低限、生き延びられる。……僕が教えたいのは、それだけなんだ」
黒板には、いつも、同じ言葉が書かれていた。
『魔の法律は、己の隣に』
魔術は、選ばれた者だけのものではない。神殿の奥にしまい込まれた、特別な奇跡でもない。いつも、あなたのすぐ隣にある。手を伸ばせば、誰にでも届く。
サリナは、その黒板の横に立って、あの人の手伝いをした。術式を書き写す板を配った。字の読めない子どもに、指で字をなぞらせた。うまくいかなくて泣き出した洗濯女の肩を、抱いた。
あの人は、ときどき、授業の合間に、サリナのほうを振り返って、少しだけ困ったように笑った。
その笑顔が、サリナは、この世の何よりも好きだった。
ある夕暮れのことを、サリナは、今でも覚えている。
授業が終わって、子どもたちが帰っていったあと。あの人は、黒板の前に座り込んで、指先のインクを、ぼんやりと眺めていた。
「ねぇ、サリナ」
「なに」
「もし、僕がいなくなったら、どうする?」
サリナは、手に持っていた板の束を、地面に落とした。
「……縁起でもないこと、言わないで」
「たとえばの話だよ」
「たとえばでも、いや。……もし誰かが、あなたをいなくならせようとしたら、わたしは、その誰かを、絶対に許さない。燃やしてやる。骨も残さない」
あの人は、少しだけ目を丸くして、それから、困ったように笑った。
「それだよ」
「なにが」
「君は、怒ると、全部燃やしてしまうから。……それが、僕は、少しだけ心配なんだ」
あの人は、インクで汚れた指で、サリナの額を、ちょんとつついた。
「怒りってのはね、サリナ。誰かを守るためにあるんだ。誰かを焼くためじゃない。……それだけ、覚えておいてくれると、嬉しいな」
あのとき、サリナは、頬を膨らませて、そっぽを向いた。
ちゃんと、返事をしなかった。
その日の、空き地の隅には、もうひとり、少女が座っていた。粗末な外套のフードを目深にかぶって、膝の上に石板を乗せて、さっき習ったばかりの術式を、何度も何度も書き直していた。
フードの隙間から覗く髪は、平民の娘にしては、ずいぶんと艶やかだった。
サリナは、その少女が誰なのか、知っていた。知っていて、知らないふりをして、毎日、字の崩し方を教えていた。少女は、いつも、門限ぎりぎりまで粘って、それから、「また明日」と小さく手を振って、王城の方角へ、走って帰っていった。
――それが、罪だと言われた。
誰もが魔術を使えるようになれば、神殿の奇跡は、ありがたみを失う。祈りの代わりに術式を覚えた民は、喜捨を払わなくなる。光の神の教会は、あの人を「偽りの神」と呼んだ。民を惑わし、神の御業を盗んで撒き散らす、悪魔の化身だと。
王は、教会の側についた。
教会は、王に、金と、聖なる王冠を約束した。王は、教会に、あの人の身柄を約束した。
四大貴族は、最後まで、あの人の側に立った。リライト。イザベラ。エスピノーザ。サイファー。四つの家の当主は、王の前に進み出て、あの人の無実を訴え、そして、その場で、鎖に繋がれた。
サリナだけは、捕まらなかった。
あの人が、逃がしたからだ。捕縛の騎士たちが屋敷の門を破る、ほんの一刻前に。転移の術式で、サリナを、王都の外の森へ飛ばした。
「サリナ。少しだけ、遠くへ行っておいで」
最後に聞いた声は、いつもと同じ、穏やかな声だった。
◇
三日かかった。
転移で飛ばされた森から、王都へ戻るのに。あの人の術式は、悔しいくらいに完璧で、サリナがどれだけ道を探しても、森はサリナを外へ出してくれなかった。ようやく術式の綻びを見つけて、森を抜け出したとき、王都の方角から、鐘の音が聞こえていた。
断罪の日の、朝だった。
昨夜のうちに、あの人は、王城の地下牢から、大聖堂へ移されていた。サリナが地下牢の場所を突き止めて、見張りを眠らせて、鉄格子を焼き切ったとき、牢の中には、もう誰もいなかった。
石の床に、インクの染みが、ひとつだけ残っていた。
だから、サリナは、走った。
大聖堂から、刑場へ。刑場は、王都の中央広場だった。広場へ続く大通りは、人で埋め尽くされていた。教会が配った白いパンを握りしめた人々。免罪の札を首から下げた人々。ただ、見物に来ただけの人々。
サリナは、その人の波を、かき分けて進んだ。
肩をぶつけられた。罵声を浴びせられた。誰かの肘が、こめかみに当たった。それでも、止まらなかった。
広場が見えた。
広場の中央に、黒い鉄の柵が、ぐるりと立ち並んでいた。柵の内側には、白い鎧の騎士たちが、二重、三重に壁を作っていた。その壁の真ん中に、白い石の柱が、一本。
あの人が、そこに、縛りつけられていた。
灰色の衣は、剥ぎ取られていた。代わりに、罪人の着る麻の衣を着せられていた。手首にも、足首にも、銀の鎖が、何重にも巻かれていた。銀の鎖には、光の神の聖印が、びっしりと刻まれていた。
それでも、あの人の顔は、いつもと同じだった。
少しだけ、困ったように笑っている顔。
柵の外側の、一番前の列には、四大貴族の当主たちが、鎖に繋がれたまま、跪かされていた。見せしめだった。最後まで偽りの神を信じた者たちに、その神の最期を、目に焼きつけさせるための。
広場を見下ろす王城のバルコニーには、王がいた。金の冠を戴いて、玉座に深く腰掛けていた。その脇に、王妃と、王子たちと、王女たちが並んでいた。
その中に、ひとりだけ、顔を伏せている少女がいた。
第二王女、アリアーヌ。年は、十六。三月前まで、身分を隠して、平民街の空き地に通っていた少女だった。あの人の黒板の前に座って、サリナに字の崩し方を習っていた少女だった。
アリアーヌの手首を、王が、玉座の肘掛けの上で、きつく、掴んでいた。
◇
サリナは、柵に辿り着いた。
人の波に押されて、胸が柵の横木に叩きつけられた。息が詰まった。それでも、両手で、柵を掴んだ。
「――その人は、罪人じゃない!!」
叫んだ。
喉が裂けるほど、叫んだ。
「その人は、誰かを傷つけたことなんて一度もない!! 魔術を、教えただけ!! 字の読めない人に、字を教えて、明日を生き延びる術を教えただけ!! それの、どこが罪なの!!」
近くにいた人々が、サリナを振り返った。
何人かが、眉をひそめた。何人かが、笑った。誰かが、「姫君だ」と囁いた。「偽りの神の、女だ」と。
石が、ひとつ、飛んできた。サリナの額に当たった。血が、目に流れ込んだ。
それでも、サリナは、柵を離さなかった。
「その人を、離して!! 罪を作ってるのは、あなたたちのほうでしょう!! 神さまの名前を借りて、自分たちの都合で、人を殺そうとしてる、あなたたちのほうでしょう!!」
柵の内側から、騎士が一人、近づいてきた。槍の石突きで、柵を握るサリナの指を、打った。
指が、柵から外れかけた。
サリナは、もう一度、握り直した。
騎士が、もう一度、打った。
握り直した。
鉄の柵の、横木の角が、手のひらに食い込んだ。皮膚が裂けて、血が、柵を伝って、石畳に落ちた。ぽたり、ぽたりと、赤い染みが、足元に広がっていった。
それでも、握り直した。
叫び続けた。
――柱に縛りつけられた、あの人が、こちらを見た。
騎士の壁の、隙間から。
ほんの一瞬、目が合った。
あの人の唇が、動いた。声は、届かなかった。広場を埋め尽くす罵声と、鐘の音にかき消されて。
でも、サリナには、わかった。
――サリナ。怒るな。
あの人は、そう言っていた。
――君は、怒ると、全部燃やしてしまうから。
◇
大司教が、柱の前に進み出た。
白い法衣。金の聖印。皺だらけの手に、銀の短剣を握っていた。
大司教が、何かを読み上げた。罪状だった。偽りの神。民を惑わした罪。神の御業を盗んだ罪。広場を埋め尽くす人々が、一文ごとに、歓声を上げた。
それから、白い炎が、灯された。
浄めの火。光の神の名において、穢れを焼き尽くす、白い炎。柱の足元に積み上げられた薪に、白い炎が、這い上がっていった。
炎が、あの人を包んだ。
あの人は、声を上げなかった。身じろぎひとつ、しなかった。
その気になれば、銀の鎖など、一瞬で千切れたはずだった。騎士の壁など、指先ひとつで吹き飛ばせたはずだった。広場の全員を、眠らせることも。この都ごと、遠くへ飛ばすことも。
あの人は、何もしなかった。
暴れれば、この広場に集まった何万という人が、巻き込まれるから。
自分を殺そうとしている人たちを、あの人は、最後まで、傷つけようとしなかった。
炎が、少しずつ、小さくなっていった。
あの人の体は、焼けていなかった。白い炎は、あの人の肌を、ただ舐めるように撫でただけで、髪の毛一本、焦がすことができなかった。
広場が、ざわめいた。
大司教が、顔を歪めた。
それから、銀の短剣を、高く掲げた。
「――見よ!! 偽りの神の、穢れた心臓を!! 光の神の御前に、これを、捧げる!!」
短剣が、振り下ろされた。
サリナは、目を逸らさなかった。
逸らせなかった。
大司教の手の中に、何かが、握られていた。淡く光る、拳ほどの大きさの、何か。まだ、脈を打っていた。
広場が、割れんばかりの歓声に包まれた。
鐘が、鳴った。
柱の上で、あの人の頭が、ゆっくりと、傾いた。
その目が、最後に、もう一度だけ、サリナを見た。
少しだけ、困ったように、笑っていた。
――ごめんね。
その瞬間、サリナの胸の中に、何かが、落ちてきた。
小さな、灯りのようなものだった。温かくて、懐かしくて、あの人の匂いがした。それが、胸の奥の、一番深いところに、すとんと落ちて、そこで、静かに灯った。
あの人の目から、光が、消えた。
そして、胸の中の灯りが、燃え上がった。
◇
最初に変わったのは、柵だった。
サリナが握りしめていた鉄の柵が、手のひらの中で、赤く光り始めた。熱ではなかった。もっと別の、何か。サリナの手のひらから流れ出た血が、柵を伝って、石畳の上の赤い染みに届いた瞬間、その染みから、紅いものが、立ち昇った。
炎ではない。霧でもない。
空気そのものが、怒りで焼け焦げていくような、紅。
紅は、サリナの足元から、広場の石畳を這うように広がっていった。跪かされていた四大貴族の当主たちの鎖が、紅に触れた瞬間、音もなく砕けた。柵の内側の騎士たちの鎧が、紅に触れた瞬間、内側から、赤く、光り始めた。
誰かが、悲鳴を上げた。
歓声が、途切れた。
鐘の音だけが、まだ、鳴り続けていた。
サリナは、顔を上げた。
額から流れた血で、視界の半分が赤かった。もう半分も、赤かった。世界の全部が、赤かった。
王城のバルコニーが見えた。玉座から腰を浮かせた王が見えた。銀の短剣を握ったまま、立ち尽くす大司教が見えた。白いパンを握りしめて、こちらを指差している人々が見えた。
――怒るな、サリナ。
あの人の声が、聞こえた気がした。
ごめんなさい、と、サリナは思った。
――無理だよ。
紅が、空を覆った。
その日。
旧サロバニア王国の王都は、地図から、消えた。




