56 昔話
結局、一睡もしなかった。
窓の外が白み始めたころ、俺は、台所の作業台の前で、ようやく手を止めた。
作業台の上には、焼き上がったパンが、山になっていた。丸いの。細長いの。編み込んだの。胡桃を練り込んだの。干した無花果を巻き込んだの。焼いた順に並べていったら、作業台の端から端までが埋まって、それでも足りずに、食卓の上にまで溢れていた。
……三十二個。
数えてから、自分で少し引いた。三人暮らしの家で、焼くような量じゃない。
考えごとをすると、手を動かさずにはいられない。ロリババアに、昔からそう言われてきた。何かを作り始めると、作っているもの以外の音が聞こえなくなる。料理でも、錬成でも、術式の設計でも。気がついたら夜が明けていた、なんてことは、これまでにも何度もあった。
でも、今夜は、いくら手を動かしても、頭の中の音が消えなかった。
――今は、まだじゃ。
扉の前で、振り返らずに言った、あの小さな背中。
紅茶のカップに走った、細いひび。
『断罪の日、ただひとり、最後まで叫び続けた者がいた』
俺は、粉だらけの手を、前掛けで拭った。
階段の軋む音がした。
「……いいにおい」
寝間着の上にショールを羽織ったセルカが、台所の入口に立っていた。銀がかった淡い髪が、寝癖で少しはねている。淡い水色の目が、作業台の上のパンの山を、端から端まで、ゆっくりと眺めていった。
「……ハストさま」
「なんだ」
「……お店、開くの?」
「開かねぇよ」
セルカは、こてんと首を傾げてから、食卓の端の、一番小さな丸パンを、両手でそっと取った。ちぎって、口に入れる。もぐもぐと噛んで、飲み込んで、それから、ほんの少しだけ、目を細めた。
「……おいしい」
「そりゃどうも」
「……ハストさま、寝てない」
「…………」
「……目の下、青い」
セルカは、それ以上は何も言わなかった。ただ、丸パンの残りを両手で持ったまま、俺の隣に来て、じっと立っていた。冷たい指先が、俺の前掛けの裾を、ほんの少しだけ、つまんでいた。
もう一度、階段が軋んだ。
さっきよりも、ずっと軽い足音だった。
ロリババアだった。いつもの、裾の長い黒の衣。寝起きのはずなのに、髪には寝癖ひとつない。台所の入口で足を止めて、パンの山を見上げて、それから、俺の顔を見た。
「……三十個は、あるの」
「三十二個だ」
「阿呆」
ロリババアは、短く言った。
それから、食卓の椅子によじ登るようにして腰掛け、胡桃のパンをひとつ取って、端を小さくかじった。かじりながら、窓の外の、まだ薄暗い森を眺めていた。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
かまどの中で、燃え残った薪が、小さく崩れる音だけがした。
「――ハスト」
ロリババアが、パンを皿に置いた。
「今日は、学園を休め」
「は?」
「休めと言うておる。……ついてこい。見せたいものがある」
ロリババアは、椅子からぴょんと飛び降りた。それから、俺の隣で丸パンを握りしめているセルカを見て、少しだけ考えるような顔をした。
「セルカ。お主も来い」
セルカの肩が、小さく跳ねた。
「……わたしも?」
「お主にも、聞いておいてもらわねばならん。……お主が、これから覚えようとしておる魔術が、何のための魔術なのか。それを、知っておかねばならんからの」
◇
家を出て、北へ向かった。
迷いの森。王都の人間は、この森をそう呼ぶ。一度足を踏み入れたら、同じ場所をぐるぐると回り続けて、二度と出てこられない森。実際には、ロリババアが森じゅうに張り巡らせた方向感覚を狂わせる術式のせいなのだが、それを知っているのは、この家に住む者と、ほんの一握りの人間だけだ。
俺は、七つの頃から、この森を庭にして育った。
木の実の採れる場所も、茸の生える倒木も、春になると鹿が水を飲みに来る小川も、全部知っている。
でも、ひとつだけ、知らない場所があった。
――森の北の、そのまた奥には、行くでないぞ。
物心ついたときから、ロリババアに言われ続けてきたことだった。理由を訊いても、答えは返ってこなかった。一度だけ、言いつけを破って北の奥へ入ろうとしたことがある。八つのときだ。半刻も歩かないうちに、気がついたら家の裏庭に立っていて、縁側で茶をすすっていたロリババアに、「おかえり」とだけ言われた。
その北の奥へ、今、ロリババアは、迷いのない足取りで進んでいた。
小さな背中の後ろを、俺とセルカが、黙ってついていく。
森の様子が、少しずつ、変わっていった。
最初に気づいたのは、木の幹の色だった。家のまわりの木は、どれも明るい茶色をしている。それが、北へ進むにつれて、少しずつ、黒ずんでいった。病気ではない。腐っているわけでもない。枝も葉も、青々と茂っている。ただ、幹の皮の奥のほうに、拭っても落ちない煤を、ずっと抱え込んでいるような色だった。
次に気づいたのは、足元だった。
苔を踏むと、その下の土が、妙に白っぽい。俺は、しゃがんで、苔を少しだけめくってみた。
灰だった。
何百年も、雨に打たれて、踏み固められて、土と混ざり合って、それでもまだ、灰の色を残している土。
「……ハストさま」
セルカが、小さな声で言った。
その指が、前方を指していた。
木々の間に、石が転がっていた。苔に覆われた、四角い石。ひとつではない。点々と、ずっと先まで続いている。角が揃っている。表面が平らに削られている。自然の石ではなかった。人の手で切り出されて、積み上げられて、そして、崩れた石だ。
さらに進むと、石は、形を持ち始めた。
蔦に覆われた、腰の高さほどの壁。半分だけ残った、石造りの門柱。根元から折れて、横倒しになった柱。その柱の表面に、薄く浮き彫りが残っていた。麦の穂と、剣と、王冠の紋様。
木々の向こうに、塔が見えた。
いや、塔だったもの、だ。上半分がない。下半分だけが、森の木々よりも少しだけ高く突き出していて、その頂上の断面は、まるで巨大な獣に食いちぎられたみたいに、ぎざぎざに砕けていた。断面の石は、黒く焼けて、ところどころが、硝子のように溶けて固まっていた。
石が溶けるほどの、熱。
俺は、足を止めた。
「……ロリババア」
ロリババアは、振り返らなかった。
「ここは、何だ」
「都じゃよ」
ロリババアは、歩きながら言った。
「旧サロバニア王国の、王都じゃ。……二百年前までは、の」
◇
森の真ん中に、開けた場所があった。
木が、そこだけ、一本も生えていなかった。まるで、森そのものが、その場所を避けて育ったみたいに。
広場だった。
敷き詰められた石畳は、半分以上が割れて、隙間から草が伸びている。それでも、かつてここに、たくさんの人が集まっていたことは、わかった。石畳の広さが、王都の中央広場よりも、ずっと広い。
広場の中央に、黒い鉄の柵が、残っていた。
ぐるりと、何かを囲むように、立ち並んでいた柵。今では、そのほとんどが、根元から折れたり、飴のように曲がったりしている。それでも、ひと区画だけ。ほんの数本だけ、まっすぐに立ったままの柵があった。
その数本だけは、錆びていなかった。
二百年、雨風にさらされてきたはずの鉄が、まるで昨日磨かれたばかりみたいに、黒く、鈍く、光っていた。
誰かが、ずっと、手入れをしてきたのだ。
ロリババアは、その柵の前で、足を止めた。
小さな手を、伸ばした。
背伸びをしても、柵の一番上の横木には届かない。だから、ロリババアは、自分の胸の高さにある横木を、両手で、そっと握った。
その手のひらを、俺は、見た。
白い、細い線が、何本も走っていた。古い傷痕だった。手のひらの真ん中を、横切るように。指の付け根を、なぞるように。
俺は、その傷痕を、知っていた。物心ついたときから、ずっと見てきた手だ。茶を注ぐ手。俺の頭をはたく手。熱を出した夜に、額に乗せられた手。その手のひらに、白い線が何本も走っていることは、知っていた。
畑仕事でついた傷だと、思っていた。
訊いたことも、なかった。
「――お主の問いに、答えてやろう」
ロリババアは、柵を握ったまま、言った。
その声は、昨夜の執務室で聞いたのと同じ、小さな声だった。でも、昨夜とは違って、少しも揺れていなかった。
「そうじゃ。……儂が、創成神の姫君と呼ばれた女じゃ」
森の奥で、鳥が一羽、鳴いた。
それきり、何の音もしなくなった。
「二百年前、この柵の向こうで、あの人は殺された。罪のない人じゃった。人に魔術を教えた。才能のある者だけでなく、誰にでも使える理屈として、魔術を広めようとした。……それが、罪だと言われた」
ロリババアの指が、柵を、ほんの少しだけ、強く握った。
「儂は、この柵を握って、叫んだ。あの人は罪人ではない、と。手が裂けて、血が柵を伝って、石畳に落ちても、叫ぶのをやめなんだ。……誰も、聞いてはくれなんだがの」
アリアーヌの書記に書かれていた、一節。
地下の牢で、十三歳のレイアーヌが暗唱した言葉。
あれは、伝説でも、比喩でもなかった。
この柵の、この場所で、本当にあったことだったのだ。
「……それで」
俺の声は、自分で思っていたよりも、かすれていた。
「この都は、なんで、こうなった」
ロリババアは、答えなかった。
ただ、柵から片手を離して、その手のひらを、上に向けた。
手のひらの上に、紅いものが、ゆらりと立ち昇った。
覇権だった。ロリババアの、紅い覇権。血の色みたいに紅い、炎とも霧ともつかない、何か。
物心ついたときから、何度も見てきた紅だった。俺に覇権の扱い方を叩き込んだとき。森に迷い込んだ魔物の群れを、一瞥で消し飛ばしたとき。いつも、ロリババアの紅は、静かだった。ぴたりと凪いだ湖面みたいに、一滴の揺らぎもなく、制御されていた。
その紅が、今、ほんのわずかに、揺れていた。
「――儂が、焼いた」
ロリババアは、言った。
「この都を。王を。刑場を囲んでおった騎士を。神官を。広場を埋めておった、何万という民を。……泣いて止めようとした者も、ただ見物に来ておっただけの者も、区別なく。一人残らず」
セルカが、息を呑む音がした。
俺は、何も言えなかった。
「この紅はな、ハスト。お主の碧とは、生まれ方が違う」
ロリババアは、手のひらの上の紅を、じっと見つめていた。
「あの人が、最後に残していったものじゃ。あの人の『能力』による産物――とでも言うかの。あの人が息を引き取る、その間際に、儂の胸の中に、ひとつ、灯りのようなものが落ちてきた。そして、あの人の命が消えた瞬間、その灯りが、儂の怒りに火をつけた」
紅が、ふっと、手のひらの上で消えた。
「目の前で、一番大事な人を、殺された。国に、殺された。……その怒りから生まれたのが、この紅じゃ」
ロリババアは、ゆっくりと、柵から手を離した。
それから、振り返った。
小さな顔だった。十歳にしか見えない顔。でも、その目は、俺が今まで見たどんな大人の目よりも、ずっと、ずっと、古かった。
「儂の名は、サリナ・イザベラ。……イザベラ家の、当主じゃった」
イザベラ。
賢者レイラの家名でもあり、四大貴族のひとつに数えられた、古い家の名前。
「その名は、あの日、ここで捨てた」
ロリババアは、少しだけ、笑った。笑ったけれど、ちっとも、楽しそうではなかった。
「名を捨てて、都を焼いて、山の奥へ逃げ込んだ。……それが、創成神の姫君の、成れの果てじゃよ」
◇
広場の端に、崩れた石段があった。
ロリババアは、その一番下の段に、ちょこんと腰を下ろした。ちょうど、昨夜の森の家の裏庭で、切り株に座っていたのと同じように。
俺とセルカは、立ったまま、それを見ていた。
「……なんで、今まで、黙ってた」
ようやく、それだけ言えた。
ロリババアは、膝の上で、両手を重ねた。白い傷痕の走る手のひらを、隠すように。
「四年前のことを、覚えておるか」
「……四年前?」
「あの雪の夜のあと、お主が、紋章の家を焼きに行きかねなんだことじゃ」
俺は、息を止めた。
忘れるわけがなかった。
あの冬が明けた日、アルスは、何も言わずに俺の手を引いて、国境を越えた。あのまま国にいたら、俺はたぶん、あの紋章の家を、一軒残らず燃やしに行っていた。
「あのとき、お主を国の外へ連れ出したのは、アルスの小僧じゃ。儂ではない。儂には、止められなんだ。……止める資格が、なかったからの」
ロリババアの声は、静かだった。
「お主の碧が、あの夜、生まれたのを見たとき。儂は、怖かった。二百年ぶりに、心の底から、怖かった。……お主が、儂と同じものになってしまうのではないかと」
森の風が、広場を吹き抜けていった。
折れた柵の隙間を抜けて、細く、笛のような音を立てた。
「だから、黙っておった。……お主に、紅の話をしたら、お主は、きっと、いつか、自分の碧のことを、紅と同じものだと思ってしまう。怒りに任せて振るえば、都ひとつが消える力だと。そう思って、自分を怖がるようになる。……それが、嫌じゃった」
ロリババアは、俺を見上げた。
「お主の碧は、お主のものじゃ。儂の紅とは違う。……今なら、それが、はっきりとわかる」
俺は、何か言おうとして、口を開いて、閉じた。
代わりに、ロリババアの隣に、どかりと腰を下ろした。
石段は、冷たかった。
しばらくして、反対側に、もうひとつ、小さな重みが加わった。セルカだった。何も言わずに、ロリババアの隣に、膝を抱えて座っていた。
三人で、黙って、広場を眺めた。
折れた柵。割れた石畳。焼け焦げた塔の、ぎざぎざの断面。それらを、森の木々が、ぐるりと、静かに取り囲んでいた。
この森は、墓なのだと、俺は思った。
二百年かけて、ロリババアが育てた、ひとつの都の、墓なのだ。
「……サリナさま」
セルカが、膝を抱えたまま、小さな声で言った。
「……昨日、言ってた。二百年前、間に合わなかった、って」
「言うたの」
「……それって」
「話してやる」
ロリババアは、目を閉じた。
「長い話になるぞ。……ハスト。パンは、持ってきたじゃろうな」
「……三つ」
「足りんな」
ロリババアは、目を閉じたまま、少しだけ、口の端を上げた。
それから、ゆっくりと目を開けて、広場の真ん中の、折れた柵を見つめた。
その目の奥に、俺の知らない景色が映っているのが、わかった。
「――二百年前の、春の話じゃ」




