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55 白い都から来る、黒い報せ

王立学園の本館から、山をひとつ越えた先に、その校舎はある。


古い木造の、二階建て。壁の漆喰はところどころ剥がれていて、廊下の床板は、歩くたびに軋む。正式な名前は、王立学園分館。けれど、誰もその名前では呼ばない。


ハブられ分館。


貴族優位の時代に、平民の生徒を本館から追い出すために作られた、負の遺産。今では、やらかした生徒が送り込まれたり、地元の子どもたちが通ったりするだけの、山あいの小さな学び舎だ。


その放課後の教室で、ひとりの教師が、黒板に向かって、チョークを走らせていた。


「――いいか、お前ら。魔術ってのは、才能じゃねぇ。理屈だ。理屈がわかれば、誰でも、最低限は使える。最低限使えりゃ、最低限、生き延びられる。それだけ覚えて帰れ」


教室の机には、十人ほどの子どもたちが座っていた。継ぎの当たった服。日に焼けた顔。どの子も、身を乗り出して、黒板を見つめていた。


教師の名前は、アルス・ノヴァ。


教室の後ろの扉にもたれて、俺は、その背中を眺めていた。


四年前、聖都の大階段の下で、何百人もの聖騎士を、ひとりも殺さずに倒した背中。


あの頃より、少しだけ、肩幅が広くなった気がした。


「――よし、今日はここまで! 宿題は、さっきの術式を家で三回書いてくること! 三回だぞ、三回! 二回で済ませた奴は、明日、廊下の雑巾がけな!」


子どもたちが、わっと歓声を上げて、教室を飛び出していった。何人かが、扉の前の俺に気づいて、「誰?」「本館の制服だ」「ちっさ」と囁き合いながら、駆け抜けていく。


ちっさ、と言った子どもの背中を、俺は、黙って見送った。


子ども相手に、覇権は出さない。俺は、大人だ。


「……ちっさ、だってよ」


教壇から、アルスが、にやにやしながらこちらを見ていた。


「聞こえてたのかよ」

「聞こえるように笑ってやろうか?」

「やめろ」


アルスは、チョークを置いて、教卓に腰を預けた。


「で、何の用だ。わざわざ山越えて」

「姫さんが、思い出した」


アルスの顔から、にやにや笑いが消えた。


「……全部か」

「全部。四年前のも、こないだの封印のも。……全部、返した。本人が、もう蓋はするなって」

「そうか」


アルスは、しばらく、窓の外の山並みを眺めていた。


それから、ふっと、口の端を上げた。


「あの姫さんらしいな」

「あぁ」

「木剣、まだ持ってたか」

「持ってた。……柄の擦り跡、そのまま残してた」


アルスは、声を出さずに笑った。それから、俺の顔を、じっと見た。


「――お前の碧も、ずいぶん、透き通ったな」

「……そうか?」

「ああ。四年前の、あの丘の上で、姫さんに見せた炎よりも、ずっとな」


アルスは、教卓から腰を上げて、俺の頭に、ぽんと手を置いた。


四年前より、少しだけ、手の位置が高くなっていた。……いや、俺が伸びたのか。そうだと思いたい。


「――で。本題は、それだけじゃねぇんだろ」

「ああ」


俺は、懐から、紙の鳥を一羽、取り出した。


「陛下から。今夜、城に来いってさ。……お前も、一緒に」


◇


その夜。王城の、国王の執務室。


部屋の中には、いつもとは少し違う顔ぶれが揃っていた。


執務机の向こうに、ジャージ姿の陛下。その脇の長椅子に、毎日王都新聞を広げた、エトワール。窓辺の椅子に、足をぶらぶらさせている、ロリババア。壁にもたれて、腕を組んでいるアルス。


そして、執務机の正面の椅子に、背筋を伸ばして座っている、レイアーヌ。


膝の上には、あの小さな木剣が置かれていた。


「――全員、揃ったな」


陛下が、書類の山を、脇へ押しやった。今日は、池に投げ捨てようとはしなかった。


「エトワール。読んでくれ」

「はい」


エトワールが、眼鏡を押し上げて、新聞を広げた。


「本日付の、毎日王都新聞、外報面です。……『ジセリア神国、新教皇即位。第八十七代教皇セレスティオ八世は、この冬、九十六歳にて崩御。枢機卿団の全会一致により、筆頭枢機卿ガブリエル・ヴァルトハイムが、第八十八代教皇に選出された。新教皇は、ガブリエル一世を名乗る』」


部屋の空気が、ひやりと冷えた。


レイアーヌの手が、膝の上の木剣を、ぎゅっと握りしめた。


「続けます。『新教皇は、即位の演説において、四年前の聖火祭の混乱以来、途絶えていた奇跡の再興を宣言。また、隣国サロバニアとの和解を望むとし、半月後、親善使節団を王都へ派遣すると発表した』」


エトワールは、新聞を畳んだ。


「……以上です。和解、だそうですよ」

「和解、ねぇ」


アルスが、鼻を鳴らした。


「あの銀髪の狸が、和解なんて言葉を口にする日が来るとはな」

「――それだけじゃない」


陛下が、執務机の引き出しから、一通の書状を取り出した。


金の縁取り。光の神の聖印の封蝋。


「今朝、ジセリアの使者が、正式な書状を持ってきた。使節団の受け入れに際して、ふたつ、条件があるそうだ」


陛下は、書状を広げて、読み上げた。


「ひとつ。四年前、サロバニア王家が不当に持ち去った、教会の聖なる文書を、返還すること」

「アリアーヌ様の、書記……」


レイアーヌが、小さく呟いた。


陛下が、書状から目を上げずに、言った。


「……返せと言われてもな。返しようがねぇんだ」

「え?」

「四年前、ハストから受け取ったあの書記は、俺がこの手で、禁書庫の一番奥に戻した。鍵もかけた。封印の術式も、三重に張らせた。……それが、去年の秋に確かめに行ったら、消えてた。鍵も、封印も、ひとつも破られてねぇのにな」


レイアーヌが、息を呑んだ。あの日、禁書庫の一番奥で見た、本一冊分の隙間。


「探しても無駄じゃ」


ロリババアが、紅茶のカップを傾けながら、言った。


「アリアーヌの書記はな、持ち主を選ぶ。それを必要とする者の前にだけ現れて、用が済めば、また、どこかへ行く。……そういう書なのじゃ」

「……なんで、お前がそんなこと知ってんだよ」


俺が訊くと、ロリババアは、カップの縁越しに、ちらりと俺を見ただけだった。


「長く生きておると、いろいろ耳に入るものでの」


レイアーヌが、胸の前で、そっと手を握りしめた。


「だから、四年前、私の前に……」

「お主が、あの時、それを必要としておったからじゃろうな。……お主の剣が、どこへ向かうべきかを、知るために」


陛下が、小さく咳払いをして、書状に目を戻した。


「ふたつ。四年前の聖火祭において、光神の心臓を破壊し、その欠片を持ち去った、サロバニアの『紅い悪魔』の身柄を、教会の審問に委ねること」


全員の視線が、壁際のアルスに集まった。


アルスは、腕を組んだまま、天井を仰いだ。


「……盗んでねぇよ。割っただけだ」

「割ったのは、俺だ」

「お前が割って、俺が目立った。だから、向こうの記録じゃ、俺が全部やったことになってんだろ」


陛下が、書状を机の上に置いた。


「もちろん、どっちの条件も、飲むつもりはない。……ただ、向こうも、飲まれるとは思ってないだろう。断られることを前提に、使節団を送ってくる。断ったという事実を、何かの口実にするために」

「四年前と、同じ手口ですね」


エトワールが、静かに言った。


「理不尽な要求を突きつけて、相手が拒めば、それを『聖戦』の大義名分にする。……あの男の、得意な手だ」


◇


「――それと、もうひとつ」


陛下の声が、低くなった。


「グラウのことだ」


ヴェルナー・フォン・グラウ。四年前、俺が国境の関所まで引きずってきた、黒い狼と三本の茨の男。


「あいつは、四年前から、北の塔に幽閉していた。第三皇子派の残党を炙り出すための、生きた証人としてな。……そのグラウが、先週、塔の中で死んだ」


部屋が、静まり返った。


「毒だ。差し入れの葡萄酒に、仕込まれていた。誰が仕込んだのかは、まだ、わかっていない」

「……塔の中まで、手が伸びてる、ってことか」


俺は、呟いた。


陛下は、黙って頷いた。


俺は、膝の上で、拳を握った。


四年前、聖都の中庭で、俺は、あの男を殺さなかった。殺す価値もないと思った。陛下の前で、全部吐かせるために、生かした。


その男が、四年後に、誰かに口を塞がれた。


あの雪の夜の、黒い狼と三本の茨の、最後の証人が。


肩に、手が置かれた。


いつの間にか、アルスが、俺の椅子の後ろに立っていた。何も言わなかった。ただ、肩に、手を置いていた。


四年前と、同じように。


俺は、ゆっくりと、拳をほどいた。


◇


「――お父様」


レイアーヌが、膝の上の木剣を握ったまま、口を開いた。


「私からも、ひとつ、お見せしたいものがあります」


レイアーヌは、制服の胸元から、一通の封筒を取り出した。


粗末な、茶色い紙の封筒だった。封蝋もない。宛名には、たどたどしい字で、『サロバニア王国 王立学園 レイアーヌ様』とだけ書かれていた。


「今朝、学園の門番から、私宛てに届きました。ジセリアの外環から、巡礼者の荷に紛れて運ばれてきたそうです」


レイアーヌは、封筒の裏を、全員に見えるように掲げた。


差出人の欄に、小さな字で、二つの名前が並んでいた。


『ミリエル』

『ラザロ』

「……あの二人か」


アルスが、壁から背中を離した。


「生きてたか」

「はい。ミリエルは、外環で、小さな施療院を開いているそうです。教会の石を使わない、本当の治癒魔術で、外環の人たちを、無償で診ていると。……ラザロは、聖騎士団長も、異端審問卿も辞めて、ただの修道士として、ミリエルの施療院を手伝っていると」


レイアーヌは、封筒の中から、二枚の便箋を取り出した。


「一枚目は、ミリエルからです。元気でいること。私に、いつか会いに来てほしいこと。……それだけ」


レイアーヌの声が、少しだけ、震えた。


それから、二枚目の便箋を、広げた。


「二枚目は、ラザロからです。……読みます」


◇


『サロバニア王女殿下へ。


突然の便り、ご容赦願いたい。四年前、殿下を浄めの火にかけようとした男が、今さら何を、とお思いだろう。だが、どうしても、伝えねばならぬことがある。


新教皇ガブリエル一世は、この四年間、大陸中に密使を放ち、ある物を集め続けてきた。


教会の古文書では、それを「神の欠片」と呼ぶ。


四年前に砕かれた光神の心臓も、そのひとつに過ぎなかった。二百年前、断罪された神の亡骸から取り出され、大陸中に散らばった、無数の欠片。ガブリエルは、それを集め、繋ぎ合わせ、新たな心臓を作ろうとしている。


その新たな心臓は、すでに、完成に近づいている。


そして、半月後にサロバニアへ向かう使節団の、本当の目的は、聖なる文書でも、紅い悪魔でもない』


レイアーヌは、そこで、一度、言葉を切った。


便箋を持つ手が、かすかに震えていた。


『――創成神の姫君。


二百年前、断罪の刑場で、ただひとり、最後まで神の無実を叫び続けた女。


ガブリエルは、その女が、まだ生きていると確信している。


そして、その女が、今、サロバニアにいると。


新たな心臓を動かすには、神に最も近しかった者の血が要る。それが、ガブリエルの見つけた、古文書の答えだ。


殿下。どうか、お気をつけて。


――元・異端審問卿、ラザロ・クロイツ』


◇


部屋の中で、誰も、口を開かなかった。


窓辺の椅子の上で、何かが、小さく、乾いた音を立てた。


ロリババアの手の中の、紅茶のカップに、細いひびが、一本、走っていた。


ロリババアは、窓の外の夜空を見ていた。


その横顔には、何の表情も浮かんでいなかった。いつもの、人を食ったような笑みも。俺をからかうときの、意地の悪い目つきも。


ただ、ずっと、ずっと、遠くを見ている顔だった。


――四年前。地下の牢で、レイアーヌが暗唱した言葉が、頭の中によみがえった。


『断罪の日、ただひとり、最後まで叫び続けた者がいた。創成神の姫君と呼ばれし、その人は、刑場の柵を素手で握り、その手が血に染まるまで、神の無実を叫び続けた』


紅い覇権。血の色みたいに、紅い。


俺は、四年間、ずっと、その問いを、胸の奥に押し込めてきた。


今、その問いが、喉元まで、せり上がってきていた。


「……なぁ、ロリババア」


ロリババアは、振り向かなかった。


陛下が、ちらりと、ロリババアのほうを見た。その目には、驚きの色はなかった。ただ、古い友人を気遣うような、静かな色だけがあった。


――陛下は、知っている。


「…………ふん」


ロリババアが、ひびの入ったカップを、窓辺の小卓に置いた。


「物好きな坊主も、おったものじゃな。わざわざ、遠い国から、こんな老いぼれに、便りを寄越すとは」


それは、答えではなかった。


でも、答えだった。


ロリババアは、椅子からぴょんと飛び降りると、執務室の扉に向かって、とことこと歩き出した。


「話は、終わりじゃな。儂は帰る。……ハスト、夕飯の支度があるじゃろう。遅れるでないぞ」

「おい、待てよ――」

「ハスト」


ロリババアは、扉の前で、足を止めた。


振り返らないまま、言った。


「――今は、まだじゃ」


その声は、小さかった。


十歳にしか見えない、小さな背中だった。


その背中が、扉の向こうに消えた。


◇


その夜遅く。森の家の、裏庭。


古い切り株の上に、サリナが、ひとりで座っていた。


月が、高く昇っていた。


石畳の小道を、小さな足音が近づいてきた。


「……サリナさま」


セルカだった。


寝間着の上に、ショールを羽織っている。銀がかった淡い髪が、月の光を受けて、白く光っていた。


「起きておったか」

「……ハストさまが、ずっと、台所で、パン生地をこねてる。……もう、三回目」


サリナは、小さく笑った。


「あやつは、考えごとをするとき、手を動かさずにはおれんのじゃ」


セルカは、サリナの隣の、もうひとつの切り株に、ちょこんと座った。


しばらく、二人とも、黙っていた。


夜の鳥が、ほう、と鳴いた。


「……サリナさま」


セルカが、膝を抱えたまま、口を開いた。


「危ないもの、近づいてくる」


サリナさまとの、約束だった。


危ないものが近づいてきたら、儂に言え。


「白い国から。……ハストさまの、まわりに。サリナさまの、まわりに」

「知っておる」


サリナは、月を見上げた。


「二百年、待っておったのかもしれんな。……あの白い都の連中も、儂も」


サリナの手のひらの上に、夜露が、ひとしずく、ふわりと浮かんだ。


浮かんで、止まった。


月の光を受けて、まんまるに光る、小さな水の玉。


「セルカ」

「……はい」

「修行を、急ぐぞ」


サリナは、水の玉を、指でちょんとつついた。水の玉は、草の上に、ぽちゃんと落ちた。


「二百年前、儂は、間に合わなんだ」


その声は、静かだった。


静かで、硬かった。


「――今度は、間に合わせる」


月の光の下で、サリナの小さな手のひらから、紅いものが、ゆらりと、ほんの一瞬だけ、立ち昇って、消えた。


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