54 おかえりなさい、私の記憶
その夜、レイアーヌは、眠れなかった。
父の執務室を出てから、ずっと、胸の奥がざわついていた。
――四年前、お前を俺のところに連れて帰ってきてくれた奴がいる。
――その人は、碧い炎を、使いますか。
父は、答えなかった。ただ、口の端を、ほんの少しだけ上げた。
寝台の上で、何度も寝返りを打った。目を閉じると、白い都が浮かんだ。鐘の音が聞こえた。足元の炎と、炎の向こうの、碧い光。
レイアーヌは、寝台から起き上がった。
窓の外は、まだ暗かった。
部屋の隅の、古い衣装箪笥の前に立つ。幼い頃から使っている、樫の木の箪笥。その一番下の引き出しを、そっと開けた。
中には、子どもの頃の思い出の品が、しまってあった。初めて馬に乗った日に母からもらったリボン。妹が描いてくれた、下手くそな似顔絵。父がどこかの国から買ってきた、変な形の木彫りの人形。
そして、その一番奥に。
一振りの、木剣があった。
子ども用の、小さな木剣だった。
レイアーヌは、それを、両手で取り出した。
いつから持っているのか、思い出せない木剣だった。気がついたときには、もう、手元にあった。十三の春、ジセリアで病に倒れて、ひと月寝込んで、目が覚めたとき。枕元に、これが置いてあった。
誰にもらったのか、父に訊いても、母に訊いても、誰も知らないと言った。
それでも、なぜか、手放せなかった。十四になっても、十五になっても。夜、怖い夢を見て目が覚めたときは、これを抱いて、もう一度眠った。剣の稽古で、どうしても型が決まらない日は、これを握って、素振りをした。
刃の形は、本物の剣と、寸分違わなかった。刃の反りも、鎬の線も、鍔の膨らみも。木で作られたとは思えないほど、精巧だった。
そして、柄には。
誰かの手が、何日も、何日も、握り続けて擦り減らしたような、黒い跡が残っていた。
レイアーヌは、その黒い跡に、そっと指を重ねた。
指の形が、ぴったりと、重なった。
――私の、手だ。
そう思った瞬間だった。
胸の奥で、何かが、音を立てて、外れた。
◇
冷たい石の床。
鉄格子。
首に食い込む、重たい金属の輪。
木切れを握って、闇に向かって、振り続けた日々。一。振り下ろす。二。返す。三。踏み込んで、突く。
白い衣の、痩せた少女。温かいパン。『ミリエル、と申します』。
鉄格子の向こうの暗がりに立っていた、白い短衣の、小柄な少年。『迎えに来た』。木切れを素手で掴まれて、びくともしなかったこと。『いい剣だな』。
『名乗るほどのもんじゃない』
『聖歌隊のチビ以外なら、なんでもいい』
白い都の大広場。石。罵声。名札のついた何万本もの薪。足元から這い上がってくる、白い炎。
その炎を、喰らい尽くした、碧い炎。
『――待たせたな、姫さん』
国境の丘の上の、焚き火。手のひらの上に灯った、夜明け前の湖みたいな、碧。
『……ハスト』
木切れが、少年の手の中で、木剣に変わっていく光景。
『本物は、無理だった。……悪い』
夜明け。額に当てられた、淡い光の陣。
『お前が、自分で思い出したら。そのときは、また、会える』
『――大丈夫だ、姫さん。……ちょっと、寝てろ』
◇
レイアーヌは、衣装箪笥の前に、座り込んでいた。
木剣を、胸に抱きしめていた。
頬が、濡れていた。いつから泣いていたのか、わからなかった。
全部、思い出した。
白い都のことも。ミリエルのことも。ラザロという名の、火傷の審問卿のことも。
アリアーヌ様の書記に、書かれていたことも。
そして、あの少年のことも。
「……ハスト」
口に出した瞬間、胸が、きゅっと締めつけられた。
ハスト。
その名前を、自分は、今日の放課後、聞いたばかりだった。
王立学園の屋上で。蒼い髪の一年生が、慌てて言い直した名前。『ハスト様……じゃなくて、ハスト君です』。
手すりの根元で、腕を枕にして、寝たふりをしていた、万年最下位の男子生徒。
碧い炎を見たことがあるかと訊いたら、ガスの火の話をして、はぐらかした。
――あの寝息は、深すぎた。
まるで、目を開けたら、何かが溢れてしまうのを、堪えているみたいに。
「……ばか」
レイアーヌは、木剣を抱きしめたまま、小さく笑った。
泣きながら、笑った。
「ずっと、近くに、いたんじゃない」
◇
翌日の昼休み。
本校舎の屋上には、いつもの三人がいた。
手すりの根元に、寝転がっているハスト。その隣で、膝を抱えて、氷の花を眺めているセルカ。少し離れた日向で、白鋼の剣の手入れをしているフィアット。
屋上の扉が、開いた。
ハストは、目を閉じたまま、寝息を立て続けていた。
足音が、近づいてくる。
いつもの、誰かの足音ではなかった。迷いのない、まっすぐな足音。剣士の足運び。
足音が、ハストの頭のすぐ横で、止まった。
ハストは、目を開けなかった。
開けなくても、わかっていた。
「――見つけた」
頭の上から、声が降ってきた。
震えていた。でも、まっすぐな声だった。
「聖歌隊の、チビ」
屋上の空気が、止まった。
フィアットの、剣を磨く手が止まった。セルカの、氷の花を見つめていた目が、ゆっくりと、声のほうへ動いた。
ハストは、長いあいだ、目を閉じたままだった。
それから、ゆっくりと、目を開けた。
青い空を背にして、レイアーヌが、立っていた。
胸に、一振りの、小さな木剣を抱いていた。柄に、黒い擦り跡の残った、あの木剣を。
目が、赤かった。頬に、涙の跡が、まだ残っていた。
ハストは、寝転がったまま、その顔を見上げていた。
それから、ぼそりと言った。
「……チビって、言うな」
レイアーヌの顔が、くしゃりと歪んだ。
木剣を抱いたまま、膝から崩れ落ちるようにして、ハストの傍らにしゃがみ込んだ。
「……約束、守ってくれたね」
「守ったのは、お前だろ。自分で、思い出した」
「うん。……うん」
レイアーヌは、何度も、何度も、頷いた。
涙が、ぽろぽろと、ハストの制服の胸元に落ちた。
ハストは、少しだけ迷ってから、起き上がった。
それから、レイアーヌの頭に、ぽん、と手を置いた。
四年前、白い都の大広場で、薪の山の上から抱きかかえたときと、同じくらいの、軽い力で。
「――おかえり、姫さん」
◇
「……あの、ハスト様」
しばらくして、フィアットが、おずおずと口を開いた。
「こ、これは、その……どういう……?」
フィアットの視線は、ハストと、ハストの腕の中で泣いている第一王女とを、交互に行き来していた。
その背後に、うっすらと、黒い靄が立ち昇り始めていた。
隣では、セルカが、膝を抱えたまま、じっとレイアーヌを見つめていた。表情は、なかった。ただ、その指先から、白い冷気が、ゆらり、ゆらりと立ち昇っていた。屋上の床に、小さな霜の花が、一つ、二つと、咲き始めていた。
――サリナさまとの、約束。
セルカは、自分の指先を見下ろして、それから、ぎゅっと拳を握った。
霜の花が、それ以上、増えることはなかった。
「……ああ、悪い。説明する」
ハストは、レイアーヌの頭から手を離して、頭を掻いた。
「四年前。俺が、まだアルスと一緒に旅してた頃。ジセリアって国で、ちょっとした騒ぎがあってな。……そのとき、この人を、助けた」
「ちょっとした騒ぎ、じゃないでしょう」
レイアーヌが、涙を拭いながら、口を挟んだ。
「大聖堂の地下の心臓を叩き割って、聖騎士団を半壊させて、国の奇跡を全部止めたのを、ちょっとした騒ぎって言うの?」
「……半壊させたのは、アルスだ」
「あなたも、聖騎士団長を倒したでしょう」
フィアットが、目を見開いた。
セルカが、首を、こてんと傾けた。
「それから、あなたは、私の記憶に蓋をした。一枚だけ」
レイアーヌは、ハストの目を、まっすぐに見た。
「蓋が開いた今なら、わかる。……私の中には、まだ、別の蓋がある。何十枚も、重ねて。四年前のとは、比べものにならないくらい、重たいのが」
ハストは、黙っていた。
ほんの数か月前。学園の西廊下で、陛下と、頂天者たちと一緒に、この人の記憶に、何十枚もの封印を重ねた。夜道で熊を斬ったハストの姿と、屋上でハストが『覇王』だと名乗ったときの記憶に。
その封印は、もう、二枚、ひびが入っている。
「……ハスト」
レイアーヌは、木剣を、膝の上に置いた。
「あなたは、何者なの」
屋上を、風が吹き抜けていった。
フィアットが、息を呑んで、ハストを見ていた。セルカも、ハストを見ていた。
ハストは、空を見上げた。
――そのときは、はっす〜の口から、ちゃんと話してやってくれ。
陛下の、走り書きの字が、頭に浮かんだ。
「……二代目、『覇王』だ」
ハストは、言った。
「この国の裏側で、理不尽を潰して回ってる。……四年前、アルスと決めた。あいつが表側で、俺が裏側で、この国を変えるって」
レイアーヌは、しばらく、何も言わなかった。
それから、ふっと、笑った。
「……そう。やっぱり」
「驚かないのか」
「驚いてるわよ。でも」
レイアーヌは、膝の上の木剣の、黒い擦り跡を、指でなぞった。
「あなたの剣は、四年前から、ずっと、まっすぐだった。地下の牢で、私の木切れを素手で掴んだときから。……『覇王』って言われたら、ああ、そうなんだ、って。不思議と、すとんと、腑に落ちたの」
◇
「――ひとつだけ、お願いがあるの」
レイアーヌは、居住まいを正して、ハストに向き直った。
「もう、私の記憶に、蓋をしないで」
ハストは、レイアーヌの目を見た。
まっすぐな目だった。四年前、地下の牢で、木切れを構えて、ハストを睨みつけてきたときと、同じ目。
「怖い思い出も、つらい思い出も。全部、私のものよ。誰かに守ってもらうために、なくしていいものじゃない。……私、強くなったの。あなたの隣に立てるくらいに、は、まだかもしれないけど。少なくとも、自分の記憶くらいは、自分で背負えるくらいには」
ハストは、長いあいだ、黙っていた。
それから、小さく、息をついた。
「……陛下には、俺から話す」
「ハスト」
「わかってる」
ハストは、右手を、レイアーヌの額の前に、そっとかざした。
レイアーヌの身体が、一瞬、強張った。
「――蓋をするんじゃない」
ハストの手のひらに、淡い光の陣が浮かんだ。四年前の夜明けに、丘の上で見たのと同じ光。でも、今度は、その陣の中に、碧い炎が、細い糸のように、何十本も編み込まれていた。
「返すんだ。全部」
陣が、レイアーヌの額に触れた。
レイアーヌの頭の中で、何十枚もの重たい蓋が、一枚、また一枚と、音もなく、持ち上がっていった。
夜道。巨大な熊。一閃で両断される黒い巨体。碧い炎の、実体のない剣。『……覇王様の前に出ちゃったら、終了だぜ?』
学園の屋上。ローブを羽織った、筆談の少年。打ち直された、宝石のない剣。
西廊下。窓の多い、扉のない廊下。父の幻術。賢者の転移。剣聖の剣。蒼い髪の少女の分身。
そして、眠りに落ちる直前、自分の指がつまんだ、ローブの袖の感触。
『あなたの剣を、もう一度見られてよかった』
――ああ。
あのときも、私は、この人の袖を、つまんでいたのだ。
四年前と、同じように。
陣が、消えた。
レイアーヌは、目を閉じたまま、しばらく、動かなかった。
それから、ゆっくりと目を開けて、ハストの顔を見た。
「……二回も、忘れさせたのね」
「……悪かった」
「許さない」
レイアーヌは、そう言って、笑った。
涙を流しながら、心の底から、笑った。
「――おかえりなさい、私の記憶」
◇
「……あの」
フィアットが、膝の上の白鋼の剣を、ぎゅっと握りしめていた。
背後の黒い靄が、さっきよりも、二回りほど大きくなっていた。
「殿下……いえ、レイアーヌ先輩」
フィアットは、にっこりと微笑んだ。目は、まったく笑っていなかった。
「ハスト様のことは、よーく、わかりました。四年前のことも、まぁ、なんとなく、わかりました。……でも、これだけは、言わせてください」
フィアットは、立ち上がって、レイアーヌの前に、まっすぐに立った。
「ハスト様の隣は。……そう簡単には、譲りませんよ」
レイアーヌは、木剣を抱いたまま、フィアットを見上げた。
それから、ゆっくりと立ち上がって、フィアットと、目の高さを合わせた。
「――ふふ。望むところよ、セルジーネさん」
二人の間に、目には見えない火花が、ぱちぱちと散っていた。
手すりの根元で、セルカが、膝を抱えたまま、ぽつりと呟いた。
「……三番目?」
その指先から、また、霜の花が、ひとつ、咲いた。
ハストは、寝転がって、空を見上げた。
「……なんで、俺の周りは、こうなんだ」
青い空を、白い雲が、ゆっくりと流れていった。
四年前の、あの白い都の空よりも、ずっと、ずっと、高く見えた。




