06 記憶は残さないようにして
私は、見てしまいました。
先日、私のご挨拶を無視なさった、珍しいお方を。私たちはもちろん、熟練の冒険者からも「恐怖の権化」と呼ばれるランク18以上と思しきモンスターを、そのお方が、ただの一閃で真っ二つにしてしまうところを。
◇
その日は、たまたま王宮からの迎えの車が来られない日でした。
私は護衛も断って、ひとりで歩いて帰ることにしました。王族といえど、学園の中ではただの一生徒。たまには自分の足で、王都の街を歩いてみたかったのです。お父様に知られたら、きっとお説教でしょうけれど。
夕暮れの裏通りを歩いていると、少し先の、人気のない道の真ん中に、見覚えのある背中が立ち止まっているのが見えました。
ハストさん。
私が「様」付けでお呼びしたら、お腹が痛いと言って教室を飛び出していった、あのお方です。
白状しましょう。あのとき「ハスト様」とお呼びしたのは、ちょっとした意地悪でした。私が話しかけても、窓の外ばかり見て、一言も返してくださらなかった。生まれてこのかた、私の言葉を真正面から無視なさった方は、初めてだったのです。だから少しだけ、驚かせてみたくなった。それだけのことでした。
その方が、なぜこんな裏道に、と思いながら、私は気配を消して様子を窺いました。
ハストさんの目の前に、黒い魔素が渦を巻いて集まっていきました。
危ない。私は「逃げてください」と声をかけようとしました。
けれど、ハストさんは逃げなかった。それどころか、渦の中から現れた巨大な熊を見上げて――笑っておられたのです。
背筋が、ひどく冷えました。
なぜ、そこまで余裕なのか。なぜ、逃げないのか。まさか、死ぬおつもりなのか。疑問が次々に頭に浮かんで、足が地面に縫いつけられたように動きませんでした。
そのとき、ハストさんが、ぽつりと呟きました。私がぎりぎり聞き取れるくらいの声で。
「……『覇王』様の前に出ちゃったら、終了だぜ?」
私は、その場にへたり込んでしまいました。
『覇王』。
なぜ、あの方がその名を知っているのでしょう。この国の、最重要機密を。
私ですら、お父様に見せていただけなかったものです。私がそれを知っているのは――これも白状いたしますが――夜中にこっそり、王立図書室の禁書庫に忍び込んで、勝手に読んでしまったからです。頂天者の八人の上に、もうひとり、秘匿された九人目がいる、と記された古い資料を。
……ええ。先日、ラインハルトさんに「どこでそのような資料をご覧になったのですか?」と詰め寄ったのは、どの口が、という話です。わかっております。あれは半分、自分を棚に上げた八つ当たりでした。ごめんなさい、ラインハルトさん。
私は、そのまま見続けました。
ハストさんが何かを唱えると、その右手に、碧く燃え盛る剣が現れました。見たこともない、どの流派の型にも当てはまらない構え。
私が、一度だけ瞬きをしました。
目を開けたとき、あの巨大な熊の胴体は、すでに真っ二つになっていました。
声すら、出ませんでした。
その夜、私は一睡もできませんでした。あのハストという方は、いったい何者なのだろう。そればかりが、頭の中をぐるぐると回り続けていました。
結局、空が白み始める前に、私は寝台を抜け出しました。
寝間着の上に外套を羽織り、王宮の裏手にある小さな訓練場へ向かいます。夜明け前のこの時間なら、衛兵の交代の隙間で、誰にも見つからずに剣を振ることができるのです。
木剣を構えて、振る。また構えて、振る。
考えごとがあるときは、こうするのが一番でした。お父様は私に魔術を学ばせたがりましたが、私の手は、杖よりも剣の柄のほうに馴染みました。式を組むのは苦手でも、剣筋なら、身体が勝手に覚えてくれる。周りからは「お淑やかな王女様」だと思われているようですが、本当の私は、朝から晩まで剣のことばかり考えている、残念な王女なのです。
百本、二百本。汗が額を伝います。
振りながら、私は昨夜の光景を何度も思い返していました。あの碧い剣。どの流派にも当てはまらない、だらりと切っ先を下げた、隙だらけにしか見えない構え。
試しに、真似してみました。
木剣の切っ先を下げて、肩の力を抜いて、相手の姿を思い浮かべて――踏み込む。
……駄目でした。踏み込んだ瞬間に重心がぶれて、たたらを踏んでしまいました。隙だらけに見えたあの構えは、隙だらけの構えではなかったのです。どこからでも、どの方向へでも斬り込める。そのために、あえてどこにも力を入れていない。そういう構えでした。
真似できない、ということだけが、よくわかりました。
五百本を振り終えたころ、東の空がすっかり明るくなっていました。私は木剣を棚に戻し、汗を拭いて、着替えに戻りました。
今日、あの方に、直接お話を聞こう。そう決めて。
◇
そして、翌朝。
私は始業前の資料室で、生徒名簿をめくっていました。
ハスト。姓、なし。出身、山奥の平民の家。性格、物静か。
それだけでした。
普通の生徒であれば、出身地の正確な地名や、身長、体重、魔力量の測定値、入学試験の成績などが細かく記載されているはずです。けれど、ハストさんの頁だけは、それらがすっぽりと空白になっていました。空白の欄の隅には、小さく、学園長の承認印だけが押されていました。
「やはり、直接お話ししなければ、わかりませんね」
私はそう呟いて、資料室を後にしました。
一年生の教室の前を通りかかると、ハストさんの姿はありませんでした。少しだけ、肩を落としました。
そのとき、校舎の外で、どぉぉぉん、と轟音が鳴り響きました。
私は急いで、音のするほうへ駆けつけました。校舎裏の、広い空き地です。
そこには、何もありませんでした。
誰もいない。何も見えない。それなのに、轟音と、剣と剣が激しく打ち合わさる甲高い音だけが、空き地いっぱいに響き渡っているのです。土埃も舞っていない。草も揺れていない。ただ、音だけが。
私は、混乱しました。
棒立ちのまま耳を澄ませているうちに、いつの間にか、音は止んでいました。
よく考えてみれば、私は昨日から驚きっぱなしですね。あはは。
校舎へ戻ろうとしたとき、向こうから、深刻な顔をした女子生徒が駆けてきました。一年生の徽章。サイドテールの、とても整った顔立ちの方です。
その方は、私に向かって尋ねました。
「あのっ、すみません! ハスト様がどちらにいらっしゃるか、ご存じありませんか?」
――今、確かに、この子は「ハストさん」ではなく、「ハスト様」と呼びました。
これで、確信しました。ハストさんには、何か隠していることがある。そして、この子もそれを知っている。
私がマークしておかなければならない人物が、ひとり増えました。あとで調べたところ、この方のお名前は、フィアット・セルジーネさん。名門セルジーネ家のご長女だそうです。
私は表情を崩さないよう気をつけながら、「申し訳ありませんが、お見かけしていませんよ」と、当たり障りのない返事をしておきました。
フィアットさんは、ぺこりと頭を下げて、またどこかへ走っていってしまいました。
「これはまた、ハストという方の謎は、深まるばかりですね」
私はため息をついて、次の授業へと向かいました。
その日の午前の授業は、まったく頭に入りませんでした。
教本の頁をめくりながら、私は頭の中で、わかっていることを並べていました。
ハストさんは『覇王』という名を知っている。碧い剣を出せる。ランク18以上の魔物を一太刀で斬れる。生徒名簿の頁は空白で、学園長の承認印だけがある。そして、名門セルジーネ家のご長女が、彼を「様」と呼んでいる。
並べれば並べるほど、答えはひとつしかないように思えました。でも、それを認めてしまうのが、少し怖かった。禁書庫の資料にあった九人目は、御伽噺の住人のはずでした。教室の隅で窓の外ばかり見ている同い年くらいの男の子と、同じ人物だなんて。
それに、もしそうだとしたら。私は、この国の最重要機密に、自分から首を突っ込もうとしていることになります。お父様に知られたら、お説教どころでは済まないでしょう。
それでも、知りたいと思いました。
あの構えを、もう一度見たい。剣を握る者として、どうしても。
◇
時間は進み、昼休み。
私はもう一度、ハストさんの教室に立ち寄りました。やはり、ハストさんはいらっしゃいませんでした。
クラスの方に伺うと、昼休みが始まるなり、すぐに教室を飛び出していかれたとのこと。何人かの男子生徒から「王女様、お昼をご一緒にいかがですか」とお誘いいただきましたが、全部面倒なので、丁重にお断りさせていただきました。
そのとき、再び、轟音が聞こえました。
今度の音の出どころは、上。本来なら誰も入れないはずの、屋上です。
先日、屋上の扉には、宮廷魔術師でも解けない結界が張られていました。今日もそうなのか、確かめなければ。私は階段を駆け上がりました。
「なっ……開いている……?」
扉は、開いていました。鍵も、結界もありませんでした。
私は好奇心に突き動かされるまま、扉を押し開けました。
「……剣聖様……?」
そこにいたのは、今代の剣聖、シュベルト・ロード様でした。数日前から、この学園の剣術講師として赴任していらっしゃった方です。
そして、剣聖様と剣を交えていたのは、黒いローブを羽織った、正体不明の誰かでした。
あの剣聖様が、押されている。いえ、互角に打ち合っている。そんな相手が、この国にいるなんて。
敵だ。私はとっさに、腰の剣の柄に手をかけました。
「なぁっ……!? なぜ……!?」
剣が、抜けませんでした。
鞘が固いのではありません。私の手が、震えて、力が入らないのです。脚が竦んで、一歩も前に出られない。息が、うまく吸えない。本能が、あのローブの人物を「恐ろしいもの」だと叫んでいる。
そんな私を見て、剣聖様が、からからと笑いました。
「あはは〜。やっぱり、コイツの覇気には勝てないか〜。まぁ、相手が相手だし? 剣を抜こうとできるだけで上出来かな」
剣聖様は、ローブの人物のほうへ顔を向けました。
「はっす〜も、そろそろ解いてあげないと。この子、死んじゃうかもよ?」
その言葉と同時に、ローブの人物が、ふっと何かを緩めました。
途端に、肺に空気が流れ込んできました。私はようやく、息ができるようになったのです。
私がよろめきながら立ち上がると、ローブの人物が、剣聖様に何かを耳打ちしていました。剣聖様の顔が、たちまち驚きに染まります。
「エッ!? この子、はっす〜のパートナーじゃないの!? 僕はてっきり、キミが連れてきたのかと……。あちゃ〜、僕の仕返しが過激になりすぎちゃったか……ゴメンネ」
剣聖様は、困ったように頭を掻いて、私に向き直りました。
「……っと、申し訳ないけど、第一王女様。貴女の記憶を、一部書き換えさせてもらうね」
それから、ローブの人物のほうを振り返って。
「まぁ、どっちにしろ記憶はなくなるんだから、キミもローブくらい取ってやったらどうだい?」
私は恐怖のあまり、王女という立場も忘れて、その場にへたり込んでしまいました。
ローブの人物が、ゆっくりとフードを下ろしました。
「……!? ハスト……さん……?」
全力を振り絞って、私はそれだけを口にしました。
ハストさんは、昨日の夜道で見たのと同じ、少し眠たげな目で私を見下ろしていました。
「申し訳ないが、ここで第一王女様の記憶はなくなる。けど、形式的に、挨拶くらいはしておくよ」
ハストさんは、胸に手を当てて、軽く頭を下げました。
「どうも。頂天者がひとり、二代目銘『覇王』の、ハスト・アーネットです。……ま、言えるのはこれくらいかな」
「……は、『覇王』……」
気がつけば、私はその言葉を、口の中で繰り返していました。昨夜からずっと、頭の中を回り続けていた言葉を。
「じゃあね、第一王女様」
ハストさんの指先に、淡い碧の光が灯りました。
その光が、私の額に触れる、ほんの直前。
私の右手は、まだ、剣の柄を握りしめたままでした。
そして私は、深い闇の中へと落ちていきました。




