52 聖火祭――碧が、白を喰らう
聖歌隊の席を蹴った。
一歩目で、石畳が砕けた。二歩目で、祭壇の脇を抜けた。三歩目で、薪の山の麓に燃え広がる白い炎の、真上を跳び越えていた。
背後で、聖歌隊の子どもたちの悲鳴が上がった。誰かが「聖歌隊の子が」と叫んだ。その声は、すぐに、炎の唸りにかき消された。
薪の山を、駆け上がる。
足元で、名札のついた薪が、次々と白い炎を噴き上げる。熱が、下から顔を焼く。煙が、目を刺す。
俺の全身から噴き上がる碧い炎が、白い炎と、ぶつかった。
白い炎は、心臓の光から生まれた火だ。何百人分もの命を吸い上げて、燃えている火。
その火に、俺の碧が、喰らいついた。
濁った碧だった。半年前の冬から、ずっと、底の見えない沼みたいに濁ったままの碧。その碧が、白い炎を、端から呑み込んでいく。白い炎は、碧に触れた瞬間、色を失って、ただの煙になって消えた。
頂上の柱まで、あと三歩。
柱に繋がれた少女の足元まで、白い炎の舌が、這い上がっていた。贖罪の衣の裾に、火が移りかけている。
少女が、俺を見た。
煙と炎の向こうで、その目が、大きく見開かれていた。
俺は、右手を、横に伸ばした。
「――『覇権ソルバート』」
手の中に、碧い炎が凝縮していく。燃え盛る炎を、そのまま刃の形に押し固めたような、実体のない一本の剣。
「フォルムスライサー」
権を、振るった。
少女の足元で燃え上がっていた白い炎が、一閃で、根元から刈り取られた。炎の消えた跡に、焦げた薪と、白い煙だけが残る。
二閃目で、少女の両手を柱に繋いでいた鎖を断ち切った。
三閃目は、振らなかった。
少女の首輪から伸びる、一本の太い光の糸。四日前に地下で見たときは、心臓へと繋がって、無数の棘を生やしていた糸。
今、その糸は、祭壇へと繋がっていた。
棘は、なかった。
浄めの儀のために、糸は、心臓から祭壇へと移される。祭壇の上で、魔女を確実に焼き殺すために。逃げる心配のない、儀式の場では、棘は必要ない。
――だから、今だけは、斬れる。
俺は、権の切っ先で、糸を、そっと撫でた。
糸が、音もなく、ほどけた。
少女の首から、重たい金属の輪が、外れた。輪は、薪の山の斜面を転がり落ちて、白い煙の中に消えていった。
少女の身体が、ぐらりと傾いた。
俺は、その身体を、片腕で抱きとめた。
軽かった。ひどく、軽かった。
「――待たせたな、姫さん」
少女は、俺の腕の中で、俺の顔を見上げていた。煙で汚れた頬に、涙の筋が、一本だけ、白く残っていた。
「……遅い」
かすれた声で、少女は言った。
「遅いよ、聖歌隊の、チビ」
「チビって言うな」
少女は、泣きながら、笑った。
◇
薪の山の麓に、影が差した。
見下ろすと、黒い法衣の大男が、燃える薪を踏み越えて、斜面を上ってくるところだった。
顔の左半分の、古い火傷。手には、白い布をほどいた、一本の長槍。
槍の穂先が、白く輝いていた。
穂先の根元から、一本の太い光の糸が伸びて、地面の下へ、地下の心臓へと、まっすぐに繋がっていた。
「――聖槍」
ラザロ・クロイツが、低く言った。
「光神の心臓より、直に力を賜る、聖騎士団長の槍だ」
ラザロは、薪の山の中腹で足を止めて、穂先を、俺に向けた。
「その娘を、置いていけ」
「断る」
「ならば、お前も、浄めの火に焼かれろ」
ラザロが、踏み込んだ。
速かった。
大男とは思えない、低く鋭い踏み込み。燃える薪の斜面を、まるで平地のように蹴って、一息で間合いを詰めてくる。槍の穂先が、俺の胸元めがけて、一直線に伸びた。
俺は、レイアーヌを抱えたまま、横に跳んだ。
穂先が、さっきまで俺がいた場所の柱を、貫いた。太い木の柱が、穂先の触れたところから、白い光に焼かれて、粉々に砕け散った。
――まともに受けたら、権ごと持っていかれる。
俺は、薪の山の頂上から、飛び降りた。
着地と同時に、レイアーヌを、祭壇の陰に下ろす。
「ここにいろ」
「でも……!」
「いいから」
振り返る。
ラザロが、薪の山の斜面を、滑り降りてくるところだった。
◇
二合目は、広場の石畳の上だった。
ラザロの槍が、横薙ぎに来た。俺の身長の三倍はある長槍。間合いが、まるで違う。俺の権の届く距離の、はるか外側から、穂先が、空気ごと俺を刈り取りにくる。
上体を沈めて、穂先の下を潜る。
潜った先に、石突きが来ていた。
横薙ぎは、囮だった。槍を半回転させて、穂先と反対側の石突きで、潜り込んだ相手の顎を、下からかち上げる。槍術の、基本の返し。ただし、この速さで、この重さで、それをやれる奴は、そうはいない。
権の腹で、石突きを受けた。
衝撃が、腕から肩へ、肩から背骨へと突き抜けた。足が、石畳から浮いた。俺の小さな身体は、紙切れみたいに、後ろへ吹き飛ばされた。
背中から、祭壇の脇の石畳に叩きつけられる前に、空中で身体を捻って、足から着地した。石畳を、両足で削りながら、五歩分、後ろへ滑る。
ラザロは、追ってこなかった。
槍を構え直して、俺を、じっと見ていた。
「……小さいな」
ラザロが、言った。
「その小さな身体で、聖槍の一撃を受けて、立っているか。……何者だ、小僧」
小さい。
その言葉に、こめかみが、ぴくりと動いた。
チビ、とは言っていない。言っていないから、セーフだ。セーフだが、ギリギリだ。
「――あんたも、見ただろ」
俺は、権を構え直しながら、言った。
「アルスの、奇跡を。お前らが神様の御業だって信じてきたもんが、全部、ただの魔術だったってことを」
ラザロの顔が、わずかに、強張った。
「あんたの槍も、同じだ。その穂先が光ってるのは、神様の力じゃない。地下の心臓が、聖女と、牢屋の人間たちから吸い上げた命だ。……あんたは、その命を、穂先に乗せて、人を突いてる」
「黙れ」
「あんたは、四日前、地下の牢で、あの子に訊いたよな。怖くはないのかって」
ラザロの槍の穂先が、ほんのわずかに、揺れた。
「あの子は、怖いって答えた。怖くても、構えを崩さないって。……あんたは、それを聞いて、何も言えずに帰った」
「黙れ……!!」
「疑えよ、審問卿」
俺は、ラザロの目を、まっすぐに見た。
「自分の目じゃなくて。教義のほうを」
◇
ラザロが、吼えた。
言葉ではなかった。獣のような、喉の奥から絞り出す叫び。
聖槍の穂先が、まばゆく輝いた。穂先から伸びる光の糸が、太く膨れ上がる。地下の心臓から、さらに多くの力が、槍へと流れ込んでいく。
ラザロの全身が、白金色の光に包まれた。
神威。
それも、さっきアルスが群衆の前で再現してみせた、聖騎士たちの神威とは、桁が違った。心臓から直接引き出された、何百人分もの命の光。
ラザロが、踏み込んだ。
今度は、見えなかった。
踏み込みの起こりも、槍の軌道も。気づいたときには、穂先が、俺の喉元の、指一本手前にあった。
俺は、首を傾けた。
穂先が、首筋の皮一枚を裂いて、通り過ぎていった。熱い。血が、首筋を伝う。
二撃目。三撃目。四撃目。
突き。薙ぎ。払い。石突きの打ち下ろし。
ラザロの槍は、もう、ひとつの武器ではなかった。白い光の嵐だった。穂先と石突きが、交互に、絶え間なく、四方八方から俺を襲う。俺の権が届く間合いに、一歩も入らせてもらえない。
俺は、躱し続けた。
躱しながら、見ていた。
槍の軌道ではない。ラザロの身体でもない。
穂先の根元から伸びる、一本の、光の糸。
槍がどこへ動こうと、糸は、地下の心臓へと、まっすぐに繋がっている。槍が大きく振られれば、糸も大きく揺れる。槍が突き出されれば、糸も、その分だけ伸びる。
――そして、槍が、一番大きく振りかぶられる、その一瞬だけ。
糸が、ラザロの背中側に、たわむ。
五撃目。
ラザロが、槍を、大きく頭上に振りかぶった。全身の神威を、穂先の一点に集めて、真上から、俺を、石畳ごと叩き潰すための一撃。
糸が、ラザロの背中で、たわんだ。
俺は、前に出た。
振り下ろされる穂先の、内側へ。槍の間合いの、さらに内側。長槍が、一番、力を発揮できない、近すぎる距離へ。
ラザロの目が、見開かれた。
俺は、ラザロの脇の下を潜り抜けた。
背中に、回り込む。
権を、振るった。
ラザロの身体ではない。ラザロの背中で、たわんでいた、一本の光の糸を。
糸が、断ち切れた。
聖槍の穂先から、白い光が、嘘みたいに、すうっと消えていった。
ラザロの全身を包んでいた神威が、剥がれ落ちる。振り下ろされた槍は、もう、ただの鉄の槍だった。穂先は、石畳に鈍く食い込んで、止まった。
ラザロは、自分の手の中の槍を、呆然と見下ろした。
◇
それでも、ラザロは、槍を引き抜いた。
光を失った、ただの鉄の槍を、構え直した。
神威も、心臓の力もない。二十年、異端審問官として鍛え上げてきた、ただの腕と、ただの槍だけで。
「……まだ、やるのか」
「私は、聖騎士団長だ」
ラザロの声は、かすれていた。
「光の神の御名において、槍を取った。……その神が、偽りだったとしても。私が、二十年、槍を振るってきたことまでが、偽りになるわけではない」
ラザロが、踏み込んできた。
さっきまでよりも、ずっと遅い。ずっと、重い。それでも、まっすぐな突きだった。何の飾りもない。何の迷いもない。ただ、ここに、こう突くのだと、身体が知っている槍だった。
――あの子の、木切れの剣と、同じだった。
俺は、その突きを、権で、正面から受けた。
穂先と権が、噛み合う。
ラザロの腕に、全身の重さが乗っていた。俺の小さな身体が、石畳の上を、じりじりと後ろへ押されていく。
俺は、権に、碧を、注ぎ込んだ。
権が、鉄の穂先を、根元から、断ち割った。
折れた穂先が、くるくると回転しながら宙を舞って、石畳に突き刺さった。
俺の権の切っ先が、ラザロの喉元の、指一本手前で、止まっていた。
ラザロは、長いあいだ、動かなかった。
それから、穂先を失った槍の柄を、ゆっくりと、石畳に置いた。
膝をついた。
「……私は」
火傷の顔が、俯いた。
「二十年……何を、焼いてきたのだ……」
その声は、広場の喧騒の中で、ひどく小さく聞こえた。
◇
「――あ……ぁ……っ」
祭壇のほうから、苦しげな声が聞こえた。
振り返ると、ミリエルが、祭壇にすがりつくようにして、崩れ落ちていた。
胸から伸びる何十本もの糸が、張り裂けそうなほど、ぴんと張りつめている。
大階段の上で、ガブリエルが、胸元の乳白色の石を、両手で握りしめていた。石の奥の光が、狂ったように脈打っている。ガブリエルの顔から、穏やかな司祭の仮面は、完全に剥がれ落ちていた。
「戻せ……!! 心臓に、戻せ……!! 聖女の命は、教会のものだ……!!」
ミリエルの命が、心臓へ、根こそぎ引きずり込まれようとしていた。
「――ミリエル!!」
祭壇の陰から、レイアーヌが飛び出した。
煤だらけの裸足で、石畳を蹴って、祭壇に駆け寄る。崩れ落ちたミリエルの身体を、両腕で抱きとめる。
「ミリエル!! しっかりして!! 約束したでしょう!! ここを出るときは、一緒だって!!」
ミリエルの目が、うっすらと開いた。
「……レイアーヌ、様……」
「握り返せ!!」
俺は、叫んだ。
「四日間、やってきただろ!! 自分の命は、自分の側に、引っ張り戻せ!! あんたの命は、教会のもんじゃない!! あんたのもんだ!!」
ミリエルの唇が、震えた。
それから、ミリエルは、レイアーヌの腕の中で、自分の胸に、両手を当てた。
ぎゅっと、握りしめた。
胸から伸びる何十本もの糸が、震えた。心臓へと吸い込まれていく流れが、止まる。止まって――ゆっくりと、逆向きに、流れ始めた。
ミリエルの胸の灯りが、ほんの少しだけ、明るくなった。
「今だ……!!」
俺は、祭壇に向かって、跳んだ。
祭壇の真下から、地下の心臓へと伸びる、太い光の管。浄めの火を呼び出すための、心臓と祭壇を繋ぐ、一本の道。
ミリエルの糸が、心臓から、離れかけている。
今なら、心臓を割っても、ミリエルの命は、持っていかれない。
俺は、権を、逆手に握った。
全身の碧を、権の一点に、集める。濁った碧。底の見えない、沼の色。半年分の、哀しみと、怒りと、悔しさの色。
その全部を、権に乗せて。
祭壇の上から、光の管の中へ。地下へ。心臓へ。
まっすぐに、突き下ろした。
◇
最初に、音が消えた。
広場の喧騒も、炎の唸りも、ガブリエルの叫び声も。何もかもが、一瞬、消えた。
それから、足元が、揺れた。
広場全体が、大聖堂が、聖都そのものが、地の底から突き上げられるように、大きく揺れた。
地下の、ずっと深いところで、何かが、砕けた。
その瞬間、広場中で、乳白色の光が、一斉に弾けた。
ガブリエルの胸元の、拳ほどの石が、内側から砕け散った。破片が、ガブリエルの手のひらを裂いて、血が飛び散る。群衆の中に紛れていた司祭たちの指輪が、首飾りが、次々と、ひびだらけになって、ただの白い石ころに変わっていく。
ミリエルの胸から伸びていた何十本もの糸が、一本残らず、ぷつりと途切れて、光の粒になって、空に溶けていった。
大聖堂の地下から、遠く、かすかに、何十人もの人々の、驚きの声が聞こえてきた。
地下牢の、首輪が、外れたのだ。
俺は、祭壇の上で、膝をついていた。
権が、手の中から、ほどけて消えた。
息が、上がっていた。全身の碧を、一度に吐き出したせいで、頭が、くらくらする。
「――ハスト!!」
アルスの声がした。
顔を上げると、何百人もの倒れた聖騎士の真ん中で、アルスが、外套の裾に紅い光の残滓をまとわせて、こちらへ駆けてくるのが見えた。
そして、その向こう。
大階段の脇の、貴賓席。
黒い外套の男が、席を蹴って、大聖堂の裏手へと走り出すのが、見えた。
胸元の、銀の紋章が、陽の光を受けて、きらりと光った。
黒い狼。三本の茨。
――逃がすか。
俺は、立ち上がった。
膝が、笑っていた。それでも、走った。




