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51 聖火祭――にわか司祭の説法

聖火祭、最終日。正午。


大聖堂前の大広場は、人で埋め尽くされていた。


何万人いるのか、見当もつかなかった。広場の石畳が見えないほど、人と人とが肩を寄せ合っている。広場に入りきれない人々が、周りの建物の窓から、屋根の上から、身を乗り出していた。誰もが、白い服を着ていた。巡礼者の白。中環の商人の、上等な白。外環の民の、洗いざらしの、灰色に近い白。


広場の中央には、白い大理石の祭壇があった。


その前に、薪の山。何万本もの薪が、人の背丈の五倍ほどの高さに積み上げられて、その頂上に、一本の太い柱が立っている。薪の一本一本につけられた名札が、春の風に、はたはたと揺れていた。


大聖堂の正面の大階段の上には、白い天蓋が張られていた。天蓋の下に、金の玉座。そこに、三重の冠をかぶった教皇が座っている。座っている、というより、置かれている、と言ったほうが正しかった。教皇は、首を傾けて、口を半開きにしたまま、ぼんやりと空を見上げていた。


その右隣に、深紅の法衣の、銀髪の男。筆頭枢機卿ガブリエル。


さらにその隣の、少し下がった貴賓席に、黒い外套の男が座っていた。胸元の銀の紋章が、陽の光を受けて、きらりと光った。


黒い狼。三本の茨。


俺は、そいつから、目を逸らした。


祭壇の脇には、聖歌隊の席が設けられていた。白い短衣を着た子どもたちが、三十人ほど、三列に並んでいる。


その最前列の、一番端に、俺は立っていた。


祭壇まで、十歩。


薪の山の頂上の柱まで、二十歩と少し。


◇


鐘が、鳴った。


広場の喧騒が、ぴたりと止んだ。


大聖堂の右手の門が開いて、行列が現れた。


先頭に、黒い法衣の異端審問官たち。その後ろに、白い鎧の聖騎士が、二列になって続く。そして、その真ん中に、ひとりの少女がいた。


白い、粗末な麻の衣。罪人が着せられる、贖罪の衣だ。裸足。両手は前で鎖に繋がれ、首には、あの重たい金属の輪。


レイアーヌだった。


少女が姿を現した瞬間、広場が、爆発した。


「魔女だ!!」

「偽りの神の娘め!!」

「焼け!! 焼いてしまえ!!」


罵声が、四方八方から降り注いだ。誰かが、石を投げた。石は、少女の肩に当たって、白い衣に、小さな赤い染みを作った。続けて、二つ、三つ。腐った果物。泥の塊。


聖騎士たちは、それを、止めようともしなかった。


少女は、歩き続けた。


裸足の足で、石畳を、一歩ずつ。顔を上げて。前を見て。肩に石が当たっても、頬に泥が飛んできても、一度も、俯かなかった。


構えを、崩していなかった。


行列の最後尾を、ひとりの大男が歩いていた。黒い法衣。顔の左半分の火傷。腰の長槍。


ラザロ・クロイツは、少女の背中を、じっと見つめていた。その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。ただ、槍を握る手の甲に、太い血管が浮き出ていた。


行列が、薪の山の前で止まった。


聖騎士たちが、少女の鎖を引いて、薪の山に立てかけられた梯子へと追い立てる。少女は、自分の足で、梯子を上った。頂上の柱の前に立つと、聖騎士が、少女の身体を柱に押しつけて、鎖を、柱の金具に繋いだ。


少女の視線が、広場を見下ろした。


何万人もの、白い服の群衆。罵声。石。憎しみと、それよりもっとひどい、喜び。


その視線が、ゆっくりと、祭壇の脇へ移った。


聖歌隊の席。その最前列の、一番端。


少女の目が、俺の目と、合った。


少女の唇が、ほんのわずかに、動いた気がした。


――遅い。


そう言ったように、見えた。


◇


「――信徒たちよ」


大階段の上で、ガブリエルが、両手を広げた。


声は、決して大きくなかった。なのに、広場の隅々にまで、不思議なほどはっきりと響き渡った。拡声の魔術だ。もちろん、この国では「神の声を運ぶ奇跡」と呼ばれているのだろう。


「今日、我らは、光の神の御前に、ひとりの魔女を捧げる」


群衆が、静まり返った。


「この娘は、隣国サロバニアの、王家の血を引く者。二百年前、偽りの神に与した魔女を匿い、我らの聖なる教えを拒み続けてきた、呪われた血筋の娘である」


ガブリエルの声は、穏やかだった。慈悲深い司祭が、迷える羊に語りかけるように。


「この娘は、禁じられた書を読み、偽りの神を讃えた。そして、その穢れた言葉を、聖なる都に持ち込もうとした。……光の神は、お怒りである。去年の冬、北部の村々が飢えたのは、なぜか。疫病が南部の町を襲ったのは、なぜか。すべては、この呪われた血が、隣国にのさばっているからなのだ」


群衆の中から、すすり泣く声が聞こえた。怒りの声が上がった。


――北部の村が飢えたのは、教会が麦を根こそぎ持っていったからだ。


俺は、拳を握りしめた。


「だが、恐れることはない」


ガブリエルは、天を仰いだ。


「浄めの火が、すべてを焼き清める。今日、この薪に名を記した者は皆、その火の粉ひとつひとつによって、罪をひとつずつ焼かれる。……そして、この魔女の血を焼いたあと、我らは、光の神の御名において、呪われた隣国そのものを、浄めねばならぬ」


広場が、どよめいた。


「聖戦だ!!」


誰かが、叫んだ。その声が、波紋のように広がっていった。


「聖戦だ!!」

「サロバニアを浄めよ!!」


貴賓席で、黒い外套の男が、薄く笑っていた。


ガブリエルは、満足げに両手を下ろして、祭壇の脇へ、ゆっくりと視線を移した。


「――聖女ミリエルよ。浄めの祈りを」


◇


祭壇の前に、ミリエルが進み出た。


白い衣。白い面紗。昨日よりも、ほんの少しだけ、足取りがしっかりしていた。


ミリエルが、祭壇の上に、両手を置いた。


祈りの言葉が、紡がれ始める。


その瞬間、俺の目に、見えた。


地下から、太い光の管が、祭壇の真下へと伸び上がってくるのが。心臓と、祭壇を繋ぐ道。そして、その管の中を、レイアーヌの首輪から伸びる糸が、地下の心臓から切り離されて、祭壇のほうへと、ゆっくりと移ってくるのが。


まだだ。


まだ、移りきっていない。


糸が、完全に祭壇に移るまで、あと、祈りの一節。いや、二節。


俺は、聖歌隊の短衣の下で、指先に、碧を、ほんの少しだけ集めた。


――そのとき。


大聖堂の大階段の、一番下の段で。


ひとりの司祭が、立ち上がった。


提灯みたいに膨らんだ、白い法衣の腰回り。脛の半ばまでしかない丈。


アルスだった。


「――ちょっと待ったァァァァァ!!!!」


広場に、間の抜けた大声が響き渡った。


何万人もの視線が、一斉に、大階段の下に集まった。


ミリエルの祈りが、止まった。ガブリエルが、ゆっくりと、眉をひそめた。


アルスは、大階段の一番下の段に、仁王立ちになった。それから、腰の紐をほどいて、ぶかぶかの白い法衣を、ばさりと脱ぎ捨てた。


下から現れたのは、くたびれた灰色の外套だった。剣も、杖も、聖印も、何ひとつ持っていない。手ぶらの男が一人、何万人の前に立っていた。


「いやぁ、すまねぇな、皆の衆! 俺は、北部ヴェルナ教区の巡回司祭、ノヴァーリス――ってのは、真っ赤な嘘だ! ただの、通りすがりの、無職だ!」


広場が、ざわついた。


「でな! さっきから、そこの偉そうな枢機卿様のありがてぇお話を聞いてたんだが! ちょっと、聞き捨てならねぇことがあったんで、口を挟ませてもらう!」


アルスは、大階段の上のガブリエルを、まっすぐに指差した。


「――お前らの神様の奇跡ってのはな! 銀貨一枚の、魔術だ!!」


◇


広場が、凍りついた。


一瞬の、完全な静寂。


それから、怒号が、爆発した。


「冒涜だ!!」

「異端者だ!!」

「あいつも焼け!!」


ガブリエルが、片手を上げた。大階段の両脇に控えていた聖騎士たちが、一斉に槍を構えて、アルスに向かって駆け下りてくる。


アルスは、顎に、手を当てた。


それだけだった。


次の瞬間、アルスの身体から、紅い光が溢れ出した。風もないのに外套がはためき、溢れた光が、アルスの周りを、渦のように取り巻いていく。今、アルスの頭の中には、この広場を制するための魔術が、何十、何百と、一度に飛び込んでいるはずだった。


――デビル・ハンター。


この世のすべての魔術と魔法を知る、形のない、紅い悪魔の書。


「見てろよ、ジセリアの皆の衆」


アルスは、顎から手を離して、その手を、空に掲げた。


「これが、お前らの言う、奇跡だ」


アルスの手のひらから、柔らかな白い光が、溢れ出した。


光は、空へと昇っていった。それから、雪のように、ふわりと、広場全体に降り注いだ。


最初に声を上げたのは、広場の端にいた、杖をついた老人だった。


「……足が。足が、痛くない」


それから、あちこちで。


「目が……見える……! 右目が、見える……!」

「咳が、止まった……」

「この子の熱が、引いてる……!」


何万人もの群衆の中の、病を抱えた者、傷を負った者。そのすべてに、白い光が、同時に降り注いでいた。中環の広場で、司教が、金貨の袋と引き換えに、たったひとりの少年に施した光と、まったく同じ光。


それが、何万人に。一度に。金貨一枚も、受け取らずに。


「第三階梯治癒魔術、『ライト・ヒール』! サロバニアじゃ、魔術学校の三年生が習うやつだ!」


アルスが、叫んだ。


「次! 聖騎士様方の『神威』!」


アルスの全身が、白金色の光の膜に包まれた。駆け下りてきた聖騎士たちの鎧を包んでいるのと、寸分違わない光。


「身体強化と、防護結界の重ねがけ! 第五階梯! ちょっと手間はかかるが、俺みたいな無職でもできる!」

「それから! 浄めの火!」


アルスの掲げた手のひらの上に、白い炎が、ぽっと灯った。祭壇の上で、心臓の光から呼び出されるはずだった、聖なる浄めの炎と、同じ色の炎。


「ただの、火属性の第四階梯に、光属性を混ぜただけだ! 色が白いのは、そのせいだ! 神様は、関係ねぇ!」


アルスは、白い炎を、ぎゅっと握りつぶした。


「法衣も! 金も! 地下の心臓も! 何にもいらねぇ! お前らが今まで、免罪符を買って、子どもを差し出して、ありがたがってきた奇跡は――全部、ただの、魔術だ!!」


◇


広場が、揺れていた。


怒号ではなかった。


戸惑いだった。


足の痛みが消えた老人が、自分の足と、大階段の上の教皇とを、何度も見比べていた。熱の引いた子どもを抱いた母親が、呆然と、アルスを見上げていた。


――あの母親は、中環の広場で、熱冷ましのおまじないをかけたというだけで引きずられていった女と、同じ顔をしていた。


「惑わされるな!!」


ガブリエルの声が、初めて、わずかに上ずった。


「あれは、偽りの神の手先!! 悪魔の術で、お前たちの目を欺いているのだ!! 聖騎士団!! あの悪魔を、討て!!」


大階段の両脇から。広場の四方から。白い鎧の聖騎士たちが、何百人も、アルスに向かって殺到した。


アルスは、指先で、ちょん、と顎に触れた。


最初の十人が、アルスの間合いに踏み込んだ瞬間、石畳が、隆起した。


アルスの足元から、放射状に、石の柱が何十本も突き上がる。柱は、聖騎士たちの足元をすくい、鎧の隙間に噛み込み、槍の柄を弾き飛ばした。十人が、一斉に宙に浮いて、背中から石畳に叩きつけられる。


次の二十人が、左右から回り込んだ。


アルスの指が、もう一度、顎に触れた。


アルスの外套の裾が、風もないのに、大きくはためいた。次の瞬間、アルスを中心に、竜巻のような風の渦が巻き起こった。聖騎士たちの白いマントが風を孕んで、帆のように膨らむ。重い鎧を着た大男たちが、凧みたいに、ふわりと浮き上がって、広場の外れの噴水の中へ、まとめて放り込まれた。


三十人目が、背後から、アルスの首筋めがけて、槍を突き出した。


アルスは、振り返りもしなかった。


顎に手をやる暇すらなかった。それでも、術式のほうが、勝手にアルスの頭へ飛び込んできたらしい。アルスの背中の、外套の表面に、紅い光の紋様が浮かび上がる。槍の穂先が、紋様に触れた瞬間、穂先が、まるで飴細工みたいに、ぐにゃりと曲がった。


聖騎士が、曲がった槍を見下ろして、呆然と立ち尽くす。


アルスは、そこで初めて振り返って、その聖騎士の額を、指で、軽く弾いた。


聖騎士は、白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。


「――殺しゃしねぇよ」


アルスは、倒れた聖騎士を見下ろして、ぼそりと言った。


「お前らは、信じてただけだもんな」


四方から、聖騎士が殺到し続けていた。五十人。百人。二百人。


アルスは、紅い光の渦の中心で、顎に手を当てたまま、魔術を紡ぎ続けた。


石の柱が立ち、風が吹き、光の鎖が槍を絡め取り、地面が液体のように波打って鎧を飲み込んだ。何百人もの聖騎士が、アルスの周りで、倒れ、宙を舞い、石畳に縫いつけられていく。


誰も、死んでいなかった。


血の一滴も、流れていなかった。


広場の群衆が、息を呑んで、それを見つめていた。


紅い悪魔。


かつて、そう呼ばれた男が、何百人もの聖騎士を相手に、ひとりも殺さずに、立っていた。


◇


「――もうよい」


ガブリエルの声が、冷たく響いた。


もう、慈悲深い司祭の声ではなかった。


「儀式を急げ。……聖女。浄めの祈りを、最後まで唱えよ」


祭壇の前で、ミリエルが、びくりと身を震わせた。


「で、ですが、ガブリエル様……」

「唱えよ、と言っている」


ガブリエルが、大階段を、一段、降りた。


その手が、自分の胸元の、拳ほどもある乳白色の石を握りしめた。石の奥で、光が、激しく脈打った。


ミリエルの胸から伸びる何十本もの光の糸が、一斉に、ぴんと張りつめた。


「あ……っ」


ミリエルが、胸を押さえて、祭壇に崩れかかった。


糸が、引っ張られていた。ミリエルの命が、心臓へ、さらに激しく吸い上げられていく。ミリエルが、四日間かけて、少しずつ握り返してきたものを、根こそぎ、引きずり戻すように。


心臓から祭壇への管が、白く、まばゆく輝いた。


レイアーヌの首輪の糸が、祭壇へと、完全に移りきった。


そして、祭壇の上から、白い光の柱が立ち昇り、薪の山の麓へと、まっすぐに落ちた。


火が、点いた。


何万本もの、名札のついた薪に。


白い炎が、薪の山の麓から、恐ろしい速さで、頂上の柱に向かって、這い上がっていった。


柱に繋がれた少女の足元に、炎の舌が、届こうとしていた。


少女は、それでも、顔を上げていた。


構えを、崩していなかった。


――待たせたな。


俺は、聖歌隊の白い短衣の胸元を掴んで、それを、一息に引き裂いた。


碧い炎が、俺の全身から、噴き上がった。


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