50 黒い狼と、三本の茨
「――でかかった」
宿舎の狭い部屋に戻ると、アルスは、寝台に腰を下ろすなり、そう言った。
俺が地下第三層に潜っていたのと同じ刻、アルスは、別の道から、さらに下へ降りていた。全知の書から引いた隠形の術で、自分の姿と気配を、石壁の色に溶け込ませて。審問の結界は、デビル・ハンターの術式には反応しなかったらしい。「あの結界、穴だらけだぞ」と、アルスは鼻で笑っていた。
「地下第四層。大聖堂の真下の、そのまた真下だ。天然の洞窟を、まるごと祭殿にしてやがった」
アルスは、指で、宙に大きな円を描いた。
「その真ん中に、浮いてた。……人の背丈の、三倍はある。白く濁った、でかい結晶だ。心臓の形をしてる。ちゃんと、脈を打ってた。ゆっくり、ゆっくり、膨らんでは縮んで」
「光神の心臓、か」
「ああ。で、その心臓から、糸が、何百本も伸びてた」
アルスの声が、低くなった。
「上に向かって。聖女の胸に繋がってる糸。地下牢の連中の首輪に繋がってる糸。それから、国中の司祭どもの石に繋がってる、細い糸。……全部、心臓に向かって、命を流し込んでた。心臓は、それを吸い込んで、光に変えて、また司祭どもの石に配ってる」
「循環、か」
「循環なんて上等なもんじゃねぇ。搾取だ。聖女と、牢の連中から命を吸い上げて、金を払った奴にだけ、奇跡として配る。……それが、この国の神様の、正体だ」
アルスは、顎に手を当てて、じっと床を見下ろした。
「それとな、ハスト。……やっぱり、あの心臓、俺の中の全知の書と、同じ匂いがした」
「昨日も言ってたな」
「近くで見たら、もっとはっきりわかった。あれは、この国の連中が作ったもんじゃねぇ。もっと古い。……誰かが、どこか別の場所から、持ってきたもんだ」
アルスの指が、顎を、無意識のようにさすっていた。
「心臓の台座に、文字が刻んであった。見たこともない、古い文字だ。全知の書を引けば、どんな古代文字だって、読み方が頭に入ってくるはずなんだが。……あの文字だけは、何も入ってこねぇ。まるで、全知の書のほうが、知らないふりをしてるみてぇに」
俺は、地下第三層で、レイアーヌが暗唱した言葉を思い出していた。
――教会が神の心臓と呼ぶものは、神の胸から抉り出されたものである。
どの神の、胸から。
俺は、その言葉を、口には出さなかった。
アルスも、それ以上は、何も言わなかった。
◇
作戦は、その夜のうちに、二人で組み上げた。
浄火の儀は、四日後の正午。大聖堂前の大広場で行われる。広場の中央に、祭壇と、薪を積み上げた火刑台が設けられる。
儀式が始まると、レイアーヌの首輪の繋がりが、地下の心臓から、地上の祭壇へと移される。祭壇は、心臓と、一本の太い管のような魔素の通り道で結ばれている。祭壇の上で、聖女が祈りを捧げ、心臓の光を呼び出して、それで火刑台の薪に火を点ける。
浄めの火、というやつだ。
「首輪の糸が祭壇に移った瞬間、俺が糸を断ち切る。それから、祭壇と心臓を繋ぐ管を伝って、心臓を、叩き割る」
「聖女の糸は、どうする。心臓を割ったら、あの子の命も、一緒に持っていかれるんじゃねぇのか」
「割る前に、聖女の糸だけ、先に切る。……でも、外から切ったら、あの子の命が、切れ口からこぼれる。内側から、あの子自身に、糸を握り返してもらう必要がある」
「握り返す?」
「心臓に吸われてる命を、自分の側に、引っ張り戻す。……今夜、地下で、少しだけ教えた。あの子、筋は悪くない。たぶん、四日あれば、なんとかなる」
アルスは、腕を組んで、うなった。
「で、俺は?」
「お前は、広場だ」
俺は、紙の上に、広場の見取り図を描いた。
「儀式の日、広場には、何万人も集まる。聖騎士団も、その周りを固めてる。俺が祭壇に辿り着くまでに、その全部が、俺に向かってきたら、さすがに手が足りない」
「つまり、俺が、全部、引きつける」
「引きつけるだけじゃない」
俺は、アルスの頭を、指でとん、と突いた。
「この国の連中が信じてる奇跡は、全部、魔術だ。金を払った奴にだけ配られる、安っぽい手品。……それを、何万人の前で、暴いてほしい」
アルスの目が、ぎらりと光った。
全知の書は、この世のすべての魔術を知っている。司教が使った第三階梯の治癒魔術も、聖騎士たちの「神威」も、浄めの火も。アルスなら、それを、全部、同時に、再現できる。
心臓の力も、法衣も、免罪符も、なしで。
「――ガキのくせに、えげつねぇこと考えるな」
アルスは、心底楽しそうに、笑った。
「最高だ」
「ひとつだけ」
俺は、言った。
「聖騎士は、なるべく殺すな。あいつらの大半は、本気で神様を信じてるだけだ。……あの火傷の審問卿も、たぶん、そうだ」
アルスは、少しだけ驚いた顔をした。それから、ふっと、口の端を上げた。
「……お前に言われるとはな。わかってるよ。今の俺は、悪魔狩りじゃねぇ。ただの、通りすがりの、にわか司祭だ」
◇
二日目の昼。
俺は、ひとりで、中環の大通りを歩いていた。
聖火祭まで、あと三日。通りは、昨日よりもさらに人で溢れていた。巡礼者の列。免罪符の屋台。大広場に向かって、薪の束を背負って運んでいく人々。
――薪一本分の献金。
徴税司祭が言っていた。民は皆、浄めの火に、薪を捧げる。その薪は、免罪符を買った証として、一本ずつ、名前を書いた札をつけて、火刑台に積み上げられるのだと。
背中の薪を重そうに担いだ老婆が、俺の横を通り過ぎていった。薪につけられた札には、たどたどしい字で、孫の名前が書かれていた。
俺は、目を逸らして、歩き続けた。
内環の門の前に差しかかったとき、大通りの向こうから、一台の馬車が近づいてきた。
黒い馬車だった。
白い馬車ばかりのこの都で、その黒は、ひどく目立った。四頭立て。御者も、護衛の騎兵も、全員、黒い外套を着ている。
馬車は、内環の門の前で、一度だけ止まった。門番の聖騎士が、恭しく頭を下げる。
そのとき、馬車の扉に描かれた紋章が、昼の日差しを受けて、はっきりと見えた。
黒い狼。
その首に巻きつく、三本の茨。
――世界が、止まった。
◇
雪が降っていた。
サロバニアの、辺境の村。半年前の、冬の夜。
燃える家。悲鳴。雪の上に散った、赤いもの。
馬に乗った男たち。黒い外套。その胸元に、松明の火を受けて光る、銀の紋章。
黒い狼。三本の茨。
男たちのひとりが、笑っていた。雪の上に倒れた小さな身体を、馬の上から見下ろして。
『第三皇子殿下に逆らう村の、末路だ。せいぜい、見せしめになれ』
俺は、間に合わなかった。
走って、走って、走って。雪に足を取られて、何度も転んで。それでも、間に合わなかった。
雪の上に倒れていた、あの子の手は、もう、冷たかった。
――そのとき、俺の中で、何かが壊れた。
◇
気がつくと、俺は、路地裏にいた。
いつ、大通りから外れたのか、覚えていなかった。
石壁が、焦げていた。
俺の足元から、碧い炎が、這い上がっていた。いつもの、濁った碧じゃなかった。もっと、もっと、暗い。底のない沼の、さらに底みたいな、黒に近い碧。
炎は、俺の意思とは関係なく、石壁を舐め、石畳を焦がし、路地の空気を、じりじりと焼いていた。
あの馬車は、内環の門の向こうへ消えていた。
追いかければいい。
内環の城壁なんて、覇権を使えば、紙切れみたいなものだ。あの黒い馬車を見つけて、扉を引き剥がして、中にいる男を引きずり出して――
「――ハスト」
肩を、掴まれた。
振り返ると、アルスがいた。
息を切らしていた。額に、汗が滲んでいた。俺の覇権の気配を感じて、宿舎から全力で走ってきたのだと、わかった。
「離せ」
「離さねぇ」
「離せって言ってんだろ!!」
俺は、アルスの手を振り払おうとした。碧い炎が、アルスの腕に絡みつく。外套の袖が、焦げる。
アルスは、手を離さなかった。
それどころか、もう片方の手で、俺の胸ぐらを掴んで、石壁に押しつけた。
「――見たのか」
アルスの声は、静かだった。
「あの紋章を、見たのか」
「……あいつらだ」
声が、震えていた。
「あいつらが、あの子を……!! あの紋章の奴らが、あの夜、あの村で……!!」
「知ってる」
「なら離せよ!! あいつが、今、すぐそこにいるんだぞ!! 内環の、すぐそこに!!」
「知ってる。だから、離さねぇ」
アルスの手に、力がこもった。
「お前が今から何をしようとしてるか、俺は、知ってる。……俺が、昔、やったことだからな」
俺の動きが、止まった。
アルスは、俺の胸ぐらを掴んだまま、俺の目を、まっすぐに見ていた。その目の奥で、紅いものが、静かに揺れていた。
「十の冬に、親を殺された。貴族にな。……それから一年、俺は、殺し続けた。あの区画の貴族を、一人残らず。夜が来るたびに、一軒ずつ。殺したあとには、必ずカードを一枚、置いていった。『すべての悪魔を狩る』ってな」
アルスの声は、淡々としていた。
「一年経って、気づいた。……何も、戻ってこなかった。親も。家も。俺が、親に笑ってほしくて覚えた、くだらねぇ手品も。何ひとつ、戻ってこなかった。残ったのは、紅く染まった両手と、使いきれなかったカードの束だけだった」
碧い炎が、少しずつ、勢いを失っていった。
「お前が今、あの馬車に飛び込んで、あいつを八つ裂きにしても。あの子は、戻ってこない。……代わりに、お前の碧が、もう二度と、透き通らなくなる」
「…………」
「それにな」
アルスは、俺の胸ぐらから、手を離した。
それから、俺の頭の上に、その手を、どさりと乗せた。
「あいつが、なんでこの国にいるのか、考えろ。サロバニアの、第三皇子派の貴族が、なんで、ジセリアの教皇宮に出入りしてる。……王女を火炙りにする祭りの、三日前に」
俺は、息を呑んだ。
「……繋がってる」
「ああ。たぶんな」
アルスは、内環の白い城壁を、睨み上げた。
「だから、あいつは、殺さねぇ。生かして、縛り上げて、陛下のところに引きずっていく。隣国の神官どもと組んで、自分の国の王女を売ろうとした証拠と一緒にな。……あいつらみたいな連中にとっちゃ、殺されるより、そっちのほうが、ずっと痛ぇ」
アルスの手が、俺の頭を、がしがしと撫で回した。
「お前の碧は、そういうことのために使え。……あの子が、生きてたら、きっと、そう言う」
俺の足元の碧い炎が、ふっと、消えた。
膝から、力が抜けた。
俺は、路地裏の石畳に座り込んで、膝を抱えた。
半年ぶりに、泣いた。
声は、出なかった。ただ、涙だけが、膝に落ちて、石畳に、黒い染みを作っていった。
アルスは、何も言わずに、俺の隣に座った。
それから、俺が泣き止むまで、ずっと、そこにいた。
◇
聖火祭の前夜。
宿舎の部屋に、ミリエルが、そっと訪ねてきた。
「レイアーヌ様から、これを」
ミリエルが差し出したのは、一本の木切れだった。
古い椅子の脚。地下の牢で、レイアーヌが、何日も握り続けていたもの。手が触れる部分だけが、黒く擦り減って、つるつるになっていた。
「『預けておく。明日、本物の剣と、交換して』と」
俺は、木切れを受け取った。
軽かった。でも、手のひらに、ずしりと重かった。
「……聖女様。糸のほうは」
「はい」
ミリエルは、自分の胸に、そっと手を当てた。
「握り返す感覚、少しだけ、わかってきました。……毎日、心臓の前で祈るたびに、ほんの少しずつ、引っ張り返しています。司祭様方には、気づかれていないと思います」
ミリエルの頬に、ほんのわずかに、赤みが差していた。三日前に廊下で会ったときよりも、ずっと。
「明日、祭壇の上で、私は、浄めの祈りを唱えます。その祈りの最後の一節で、心臓の光が、祭壇に降りてきます。……そのとき、ですね」
「ああ。そのときだ」
ミリエルは、深く頭を下げて、部屋を出ていった。
俺は、窓辺に立って、外を見た。
宿舎の窓から、大聖堂前の大広場が見下ろせた。
広場の中央に、それは、もう出来上がっていた。
白い大理石の祭壇。その前に、うず高く積み上げられた、薪の山。何千本、何万本。一本一本に、名前の書かれた札がつけられて、夜風に揺れている。
その薪の山の頂上に、一本の太い柱が、まっすぐに立てられていた。
明日、あの柱に、十三歳の女の子が、縛りつけられる。
「……あの薪、全部、免罪符で買ったんだってさ」
俺は、窓の外を見たまま、言った。
「孫の名前とか、子どもの名前とか、書いてあった。この火で、罪がひとつ焼けますようにって」
背後で、アルスが、寝台から立ち上がる気配がした。
アルスは、俺の隣に並んで、同じように、窓の外の薪の山を見下ろした。
「――明日、全部、燃やしてやるよ」
アルスは、言った。
「別の意味でな」
俺は、手の中の木切れを、強く握りしめた。
大聖堂の鐘が、真夜中を告げていた。
最後の、鐘だった。




