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49 地下牢の姫と、木切れの剣

大聖堂の地下は、死者の街だった。


ミリエルが手燭を掲げて、狭い石段を降りていく。俺は、その半歩後ろをついていった。


一層目は、歴代の教皇と枢機卿たちの墓所だった。壁一面に、白い大理石の棺が並び、ひとつひとつに、金の文字で名前と功績が刻まれている。床は磨き上げられ、手燭の灯りを、鏡みたいに映していた。


二層目に降りると、空気が変わった。


壁は、もう大理石ではなかった。むき出しの、湿った灰色の岩。そこに、横穴がびっしりと掘られていて、穴の一つ一つに、骨が、無造作に積み上げられていた。


頭蓋骨。肋骨。手の骨。子どもの大きさの、骨。


「……異端者の方々です」


ミリエルが、俺の視線に気づいて、小さく言った。


「浄めの火で焼かれた方々の骨は、墓に入ることを許されません。ここに積まれて、二度と、光の当たらない場所で眠るのです」


横穴の上には、名前の代わりに、焼き印が押されていた。光の神の聖印と、その上に、斜めに引かれた一本の線。


――名を消された者。


二百年前、ある神の名前が、すべての本から削り取られたように。


「……ここに、何人いる」

「数えた方は、いないと思います」


俺は、黙って、歩き続けた。


拳を、固く握りしめながら。


◇


三層目へ続く石段の手前で、ミリエルが、足を止めた。


「ここから先は、審問の結界が張られています」


石段の入口の、天井と床と左右の壁に、銀色の細い線が、網の目みたいに走っていた。目を凝らさないと見えないくらい、薄い。


「魔術を使う者が通れば、審問官の方々に、すぐに知られてしまいます。……私は、心臓と繋がっているので、結界には引っかかりません。でも、あなたは」

「使わなきゃいいんだろ」


俺は、自分の中の碧を、胸の奥の、さらに奥へと押し込んだ。蓋をして、鍵をかけて、その上に、重しを乗せる。ロリババアの修行部屋で、何百回もやらされた。魔素を、髪の毛一本ぶんも漏らさない歩き方。


それから、結界の網の目を、ただの人間として、くぐり抜けた。


銀色の線は、何の反応もしなかった。


ミリエルが、目を丸くしていた。


「……本当に、聖歌隊の方ですか?」

「にわかの、な」


◇


三層目は、牢獄だった。


左右に、鉄格子の嵌まった石の独房が、ずらりと並んでいる。ほとんどが、空だった。いくつかの独房の中では、人影がうずくまっていたが、誰も、顔を上げなかった。


その一つに、見覚えのある顔があった。


中環の広場で、娘に熱冷ましのおまじないをかけたというだけで引きずられていった、外環の母親だった。首に、金属の輪が嵌まっている。輪から伸びた光の糸が、ミリエルのものと同じように、床の下へと吸い込まれていた。


母親は、虚ろな目で、壁を見つめていた。


俺は、足を止めかけて、それから、歩き続けた。


――今は、まだだ。


一番奥の独房から、かすかな音が聞こえてきた。


空気を切る音。


一定の間隔で。乱れることなく。まっすぐに。


「……レイアーヌ様です」


ミリエルが、囁いた。


俺は、手燭の灯りの届かない、独房の手前の暗がりで、足を止めた。


鉄格子の向こうに、ひとりの少女がいた。


年は、俺と同じくらいだった。汚れた絹の服。肩までの髪は、もつれて、埃にまみれている。首には、重たい金属の輪。手首には、鎖の擦れた赤い痕。


その少女が、木切れを、構えていた。


古い椅子の脚だろう。長さは、子ども用の剣くらい。それを、両手で握って、正眼に構えている。


切っ先が、揺れていなかった。


首輪の重さで、肩が下がっていてもおかしくないのに。何日も固いパンしか食べていなくて、腕が震えていてもおかしくないのに。木切れの先は、闇の一点に、ぴたりと据えられたまま、微動だにしなかった。


一。振り下ろす。


二。返す。


三。踏み込んで、突く。


型だった。サロバニアの、王家の剣術の、基本の型。教本の一頁目に載っているような、誰でも知っている動き。


なのに、その一振り一振りに、俺は、目を奪われていた。


まっすぐだった。


何の飾りもない。何の迷いもない。ただ、ここに、こう振るのだと、身体が知っている剣だった。


この子は、この地下の暗闇の中で、何日も、ずっと、これを振り続けてきたのだ。


止まったら、きっと、折れてしまうから。


◇


「――誰」


少女の声が、鋭く響いた。


木切れの切っ先が、まっすぐに、俺のいる暗がりを向いていた。


気配は、完全に殺していたはずだった。魔素も、足音も、息遣いも。それでも、この子は、気づいた。


「……ミリエル? そこにいるのは、ミリエルよね。……後ろの人は、誰」

「レイアーヌ様、この方は――」


ミリエルが言い終わる前に、俺は、暗がりから一歩、踏み出した。


手燭の灯りが、俺の白い聖歌隊の短衣を照らした。


少女の目が、細められた。


「……聖歌隊の子?」

「まぁ、そんなとこだ」

「嘘」


少女は、木切れを構えたまま、鉄格子に一歩近づいた。


「聖歌隊の子は、そんな歩き方をしない。足音が、全然しなかった。それに、目が」


少女の視線が、俺の目に、まっすぐ突き刺さった。


「目が、剣士の目をしてる。……あなた、審問官の手の者? それとも、私を、牢の中で始末しに来た暗殺者?」


俺が答える前に、少女が動いた。


鉄格子の隙間から、木切れが、突き出された。


速い。


突きの起こりが、見えなかった。肩も、肘も、ほとんど動いていない。手首だけが、まっすぐに前へ出る。鉄格子の幅を、完全に計算に入れた、最短の突き。


俺は、半身になって、それを躱した。木切れの先が、俺の胸元を、紙一枚ぶんで通り過ぎていく。


少女は、突いた木切れを、引かなかった。引くと見せて、手首を返す。木切れが、鉄格子の内側で弧を描いて、今度は横から、俺の首筋を狙ってくる。


俺は、上体を反らして、それも躱した。


三撃目。


少女が、鉄格子に肩を押しつけるようにして、さらに踏み込んだ。格子の隙間から、腕を肘まで突き出して、木切れを振り下ろす。


格子があるせいで、振りの軌道は限られている。でも、その限られた軌道の中で、一番、相手が躱しにくい角度を、この子は迷わずに選んでいた。


俺は、躱さなかった。


振り下ろされた木切れを、素手で、掴んだ。


少女の目が、見開かれた。


木切れを、引き抜こうとする。動かない。押し込もうとする。動かない。俺は、ただ、掴んでいるだけだった。魔素は、一滴も使っていない。ロリババアの修行部屋で、十年かけて叩き込まれた、ただの握力と、ただの体の使い方だけ。


「……っ」


少女の唇が、悔しそうに歪んだ。


その顔を見て、俺は、木切れから、手を離した。


「――いい剣だな」


俺は、言った。


少女が、目を瞬かせた。


「え……?」

「首輪の重さで、重心が前にずれてる。それを、構えのときに後ろ足で補ってる。だから、突きの起こりが見えない。……誰に習った」

「……誰にも。お城の剣術の先生には、王女が剣なんて、って、まともに教えてもらえなかったから。ほとんど、ひとりで」

「そうか」


俺は、鉄格子の前に、しゃがみ込んだ。


目の高さが、少女と、同じになった。


「暗殺者じゃない。審問官の手の者でもない。……迎えに来た」

「迎えに……?」

「サロバニアの、陛下の頼みで」


正確には、陛下から、ロリババアを経由した、たった一言の伝言だった。でも、嘘ではなかった。


少女の手から、木切れが、からん、と落ちた。


少女は、しばらく、何も言わなかった。


ただ、唇を、きつく噛みしめていた。目の縁が、赤くなっていた。でも、涙は、こぼれなかった。こぼすまいと、必死に堪えているのが、わかった。


「……父上、が」

「ああ」

「私のこと……見捨てて、なかった」

「見捨てるわけないだろ。娘を目に入れても痛くないって評判の、変な王様なんだから」


少女は、俯いた。


肩が、小さく震えていた。


ミリエルが、そっと、鉄格子越しに、少女の背中に手を添えた。


◇


「――アリアーヌ様の、書記」


少し落ち着いてから、少女――レイアーヌは、鉄格子に背中を預けて、ぽつりぽつりと話し始めた。


「古い言葉で書かれていて、半分も読めなかった。でも、読めた半分に、書いてあったの」


レイアーヌは、目を閉じて、暗唱するように言った。


「『行き過ぎた魔術は、魔法と区別がつかない。ゆえに、教会は、己が使う魔術を奇跡と呼び、民が使う魔術を罪と呼んだ』」


俺は、中環の広場で見た光景を、思い出していた。


金を払った商人の息子を癒した司教の光。熱を出した娘におまじないをかけて、引きずられていった母親。


同じ魔術。違う名前。


「それから」


レイアーヌは、続けた。


「『創成神は、罪人にあらず。罪を作りしは、神の名を借りし者たちなり』」


地下の空気が、ひやりと冷えた気がした。


「『断罪の日、ただひとり、最後まで叫び続けた者がいた。創成神の姫君と呼ばれし、その人は、刑場の柵を素手で握り、その手が血に染まるまで、神の無実を叫び続けた。……その声は、誰にも届かなかった。私も、ただ、見ていることしかできなかった』」


俺は、何も言わなかった。


何も、言えなかった。


創成神の姫君。


頭の中に、ひとりの人の顔が浮かんでいた。十歳にしか見えない小さな身体で、俺に剣と魔術と、生きる術のすべてを叩き込んだ人。その人の覇権は、紅い。血の色みたいに、紅い。


――まさか、な。


俺は、その考えを、胸の奥に押し込んだ。今、考えることじゃない。


「……それを、確かめたかったの」


レイアーヌは、膝を抱えた。


「ジセリアの大図書院になら、本当のことが書いてある記録が残ってるかもしれないって。……馬鹿みたい。本当のことなんて、この国の人たちが、一番、知られたくないことだったのに」

「馬鹿じゃない」


俺は、言った。


「本当のことを知りたいと思うのは、馬鹿じゃない。……それを、焼いて消そうとする連中のほうが、ずっと、馬鹿だ」


レイアーヌが、顔を上げて、俺を見た。


それから、ほんの少しだけ、口元を緩めた。


◇


鉄格子は、錬成術を使えば、一瞬で飴細工にできた。


問題は、首輪だった。


俺は、鉄格子の隙間から、レイアーヌの首輪を、じっと見つめた。


目を凝らす。魔素の糸が、見える。首輪の内側から、一本の太い糸が伸びて、床を突き抜けて、まっすぐ下へ。その先は、さらに下の層。アルスが、心臓の気配を感じたと言っていた場所へ、繋がっている。


そして、その糸には、細い棘のようなものが、無数に生えていた。


外から無理に引きちぎろうとすれば、棘が、首輪の内側に向かって一斉に伸びる。首輪を嵌めた者の命ごと、焼き切る仕掛けだ。


ラザロとかいう審問卿が、言っていた通りだった。


「……今は、外せない」


俺は、正直に言った。


レイアーヌの顔が、わずかに強張った。


「この首輪は、下にある心臓と繋がってる。外そうとすれば、心臓が、お前の命を焼く。……でも、儀式のときだけは、首輪の繋がりが、心臓から祭壇に移るはずだ。祭壇で浄めるために、な。そのときなら、糸を、断ち切れる」

「……それって」

「ああ。四日後の正午。浄火の儀の、本番だ」


レイアーヌは、しばらく、黙っていた。


それから、床に落ちていた木切れを、もう一度、拾い上げた。


「……わかった」


声は、震えていなかった。


「待ってる。四日後まで、ちゃんと、剣を振って、待ってる」


そのときだった。


石段のほうから、重い足音が聞こえてきた。


金属の擦れる音。槍の石突きが、床を打つ音。


「――審問卿様です!」


ミリエルが、青ざめた顔で囁いた。


予定よりも、ずっと早い見回りだった。


俺は、とっさに、周りを見回した。独房の前の通路は、一本道だった。隠れる場所はない。魔術は使えない。結界に引っかかる。


上を見た。


天井に、太い木の梁が、何本も渡されていた。


俺は、壁を蹴って、梁に飛びついた。指先だけで梁にぶら下がり、それから、身体を引き上げて、梁の上に腹這いになる。息を殺す。魔素を、胸の奥に、さらに深く沈める。


足音が、独房の前で、止まった。


梁の隙間から見下ろすと、黒い法衣の大男が、鉄格子の前に立っていた。顔の左半分を覆う、古い火傷の痕。腰には、白い布で巻かれた長槍。


ラザロ・クロイツ。


ラザロは、ミリエルを一瞥した。


「……聖女様。このような刻に、なぜ、ここに」

「わ、私は……魔女の、魂の救済のために、祈りを」

「…………」


ラザロは、それ以上、ミリエルを問い詰めなかった。ただ、鉄格子の向こうの、木切れを握ったままのレイアーヌを、じっと見下ろした。


長い、沈黙だった。


「……娘」


ラザロが、低い声で言った。


「四日後、お前は、浄めの火に焼かれる。……怖くは、ないのか」


レイアーヌは、木切れを握りしめたまま、ラザロを見上げた。


「怖いです」


はっきりと、言った。


「すごく、怖いです。夜も、あまり眠れません。……でも」


レイアーヌは、木切れを、正眼に構えた。


「剣士は、怖くても、構えを崩しません」


ラザロの、火傷の痕のない右半分の顔が、わずかに、歪んだ。


何かを言いかけて、やめた。それから、くるりと背を向けて、来た道を戻っていった。重い足音が、石段の上へ、遠ざかっていく。


梁の上で、俺は、ゆっくりと、息を吐いた。


◇


梁から飛び降りると、レイアーヌが、目を丸くして俺を見ていた。


「……あなた、本当に、何者なの」

「さぁな」


俺は、立ち上がって、短衣の埃を払った。


「四日後の正午。必ず、迎えに行く」

「……あなたの、名前は?」


俺は、少しだけ、迷った。


名乗れば、この子の記憶に、俺が残る。それが、この子のためになるのかどうか、わからなかった。


「……名乗るほどのもんじゃない」

「じゃあ、あなたのこと、何て呼べばいいの」


俺は、少し考えてから、言った。


「『聖歌隊のチビ』以外なら、なんでもいい」


レイアーヌは、きょとんとした顔をした。


それから、口元を手で覆って、肩を震わせて、笑い出した。


声を殺して、でも、心の底から。


地下の暗闇の中で、その笑い声は、どんな鐘の音よりも、澄んで聞こえた。


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