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48 にわか司祭と、チビの聖歌隊

徴税司祭ボニファティウスは、中環で一番高い宿の、一番高い部屋に泊まっていた。


宿の名前は「白百合の館」。三階建ての、白い漆喰の建物。窓という窓に、金の格子がはめ込まれている。一泊、金貨五枚。外環の家族が、一年食べていける額だ。


その三階の窓の外。雨樋の上に、俺は、しゃがみ込んでいた。


夜風が、フードの裾を揺らしていた。眼下の大通りには、まだ、巡礼者たちの松明の灯りが行き交っている。


窓の内側から、甲高い笑い声と、杯を打ち合わせる音が聞こえてきた。


覗き込むと、部屋の中では、ボニファティウスが、絹の寝衣に着替えて、長椅子にふんぞり返っていた。テーブルの上には、葡萄酒の瓶が四本。そのうち三本は、もう空だった。八本の指の宝石が、燭台の灯りを受けて、ぎらぎらと光っている。


そして、部屋の隅の書き物机の上に、革の書類入れが、無造作に置かれていた。


――あれだ。


俺は、懐から小さな紙切れを取り出して、指先で弾いた。


紙切れは、音もなく、宿の一階の窓へと舞い降りていった。


合図だ。


◇


一階の玄関で、扉が、乱暴に開かれた。


「――司祭様ァァァァァ!!!!」


アルスの声だった。


宿中に響き渡るような、腹の底からの大声。階段を駆け上がってくる、どたどたという足音。


「ボニファティウス司祭様はどちらですかァァ!! 俺は!! 俺は罪深い人間なんですゥゥ!! 懺悔を!! 今すぐ懺悔をさせてくださいィィィ!!!!」


部屋の中で、ボニファティウスが、葡萄酒を噴き出した。


「な、何事だ!?」


扉が、外から激しく叩かれる。


「司祭様ァ!! 俺はァ!! 昨日ィ!! 隣の家の鶏の卵をォ!! 三つも盗んでしまったんですゥゥ!! いや四つ!! 四つだったかもしれません!! どうしましょう!! 地獄に落ちますかァァ!!」

「し、知るか!! 帰れ!! 宿の者は何をしておる!!」

「帰れません!! 罪を赦していただくまではァ!! あ、あと、一昨日は、教会の前で唾を吐きました!! その前の日は、光の神様の像を見て『ちょっと鼻がでかいな』って思いましたァ!!」

「冒涜ではないかァ!!」


ボニファティウスが、真っ赤な顔で長椅子から立ち上がって、扉のほうへ詰め寄っていく。


その背中が、扉の前に張りついた瞬間。


俺は、窓の金格子に、そっと指を触れた。


錬成術。


金属の格子が、飴細工みたいに、音もなく、ぐにゃりと曲がった。俺の身体がちょうど通れるくらいの隙間が開く。


窓を、内側に押す。


鍵は、かかっていなかった。こういう奴は、だいたい、自分の部屋の窓に鍵をかける習慣がない。外の格子が守ってくれると、信じきっているからだ。


床に降り立つ。足音は、立てない。


扉の向こうでは、アルスの懺悔が、さらに熱を帯びていた。


「それから!! それからァ!! 俺は!! 子どもの頃!! おねしょを!! 十二歳までしておりましたァァ!!」


それは、懺悔なのか。


というか、それ、本当なのか。


俺は、聞かなかったことにして、書き物机の上の書類入れを開けた。


羊皮紙が、何枚か入っていた。一番上に、金の縁取りの一枚。


『北部ヴェルナ教区 巡回司祭 ボニファティウス 右の者を、聖火祭大聖堂詰めに任ずる』


その下に、赤い蝋の封印。教区の印章だ。


俺は、その任命状と、机の隅に置かれていた予備の印章の指輪を、懐に滑り込ませた。それから、壁の衣装掛けにかかっていた、予備の白い法衣を一着、丸めて抱えた。


最後に、書類入れを、元の位置に、寸分違わず戻す。


窓から出る。錬成術で、格子を元の形に戻す。


扉の向こうで、ボニファティウスの怒鳴り声と、アルスの泣き声と、駆けつけた宿の者たちの悲鳴が、混ざり合っていた。


「司祭様ァァ!! まだ半分も懺悔しておりませんんん!!」


……あいつ、楽しんでやがる。


◇


外環の屋根裏部屋に戻ったのは、夜半を過ぎてからだった。


「――いや、ちょっと待て。小さくねぇか、これ」

「小さいんじゃなくて、太いんだよ。あの司祭が」


白い法衣は、アルスの身体には、横幅が三人分あった。そのくせ、丈は脛の半ばまでしかない。


アルスは、腰の紐を、三重に巻いて、ぎゅうぎゅうに縛った。余った布が、腰回りで、提灯みたいに膨らんでいる。


「……どうだ」

「田舎の、太った司祭が、急に痩せたように見える」

「褒めてんのか、それ」

「設定としては、悪くない。『長旅で痩せた敬虔な司祭』だ」


俺は、机の上に任命状を広げて、指先を、羊皮紙の上に滑らせた。


錬成術は、金属や石だけのものじゃない。ロリババアに叩き込まれた錬成術は、紙の繊維の並びも、インクの粒の並びも、組み替えられる。


『ボニファティウス』の文字の、インクの粒をほどく。並べ直す。


『ノヴァーリス』。


それから、年齢の欄を、五十二から、二十八に。……十八は、さすがに若すぎる。二十八でも、ぎりぎりだ。


「ノヴァーリス、ねぇ」


アルスが、横から覗き込んで、鼻を鳴らした。


「俺の家名からか」

「覚えやすいだろ。呼ばれて返事しなかったら、一発でばれる」

「……お前、本当に、十三か?」

「その質問、もう飽きた」


そのとき、屋根裏部屋の小さな窓が、こつん、と鳴った。


見ると、窓の外に、紙の鳥が一羽、張りついていた。


伝言の術式。


俺は、窓を開けて、鳥を中に入れた。鳥は、俺の手のひらの上で、ぱらりとほどけて、一枚の紙に戻った。


見覚えのある、細くて、やけに達筆な字だった。


『ハストへ。


ジセリアの件、聞いた。お主らが聖都におることも、知っておる。


好きにやれ。


ただし、王女は、傷ひとつつけずに陛下のもとへ返すこと。


それと、死ぬな。


――サリナ


追伸。陛下から伝言じゃ。「頼む」と。それだけ、言うておった』


俺は、しばらく、その紙を見つめていた。


「……知ってたのかよ」

「クソババアか?」

「あぁ。……全部、お見通しだ」


アルスは、法衣の腰紐を締め直しながら、ふっと笑った。


「なら、遠慮はいらねぇってことだな」


◇


翌朝。内環の門の前。


白い大理石の城壁の真下に、巨大な門がそびえていた。門の両脇には、白い鎧の聖騎士が、十人ずつ並んでいる。


その前に、地方から上ってきた巡回司祭たちが、列を作っていた。


列の真ん中あたりに、提灯みたいな腰回りの白い法衣を着た、背の高い若い司祭がいた。その後ろに、聖歌隊の白い短衣を着た、小柄な少年がひとり。


――俺たちだ。


「次」


門番の聖騎士が、アルスの前に立った。


アルスは、任命状を、うやうやしく差し出した。


聖騎士は、羊皮紙を広げて、封印を確かめた。それから、顔を上げて、アルスの全身を、上から下まで眺めた。


「……北部ヴェルナ教区、巡回司祭、ノヴァーリス」

「は、はいッ!」


声が、裏返っていた。


「二十八、とあるが」

「わ、若く見られます! 光の神の、ご加護で!」

「…………」

「あと、長旅で痩せました! ご覧の通り!」


アルスは、腰回りの余った布を、ぱんぱんと叩いてみせた。


聖騎士の眉間に、深い皺が寄った。


まずい。


「ヴェルナ教区といえば、聖ベルナデッタの殉教の地。司祭殿、聖ベルナデッタの最期の祈りを、唱えられるか」


アルスの顔から、血の気が引いた。


知るわけがない。


アルスが、口を開いた。開いたまま、固まった。顎に伸ばしかけた手が、宙で止まっている。全知の書は、魔術なら何でも教えてくれるが、聖典の暗唱までは面倒を見てくれないらしい。


俺は、一歩、前に出た。


そして、歌った。


『光よ 我が骨を焼け されど 我が祈りは焼くな


光よ 我が名を消せ されど 我が子らの名は消すな


我は灰となりて この地を肥やさん


我が子らよ その灰の上に 麦を蒔け』


聖ベルナデッタの、最期の祈り。


ロリババアの書斎には、大陸中のありとあらゆる本があった。ジセリアの聖典も、その注釈書も、殉教者伝も。七つの頃、退屈しのぎに、全部読んだ。読んだものは、全部覚えている。


歌い終えると、門の前が、しんと静まり返っていた。


聖騎士が、目を見開いて、俺を見下ろしていた。周りの巡回司祭たちまで、こちらを振り返っている。何人かは、目に涙を浮かべていた。


「……見事だ」


聖騎士が、低く呟いた。


「ヴェルナの聖歌隊は、さすがだな。司祭殿、よい子を連れてこられた」

「は、はい! 自慢の、子です!」


アルスが、ぶんぶんと首を縦に振った。


聖騎士は、任命状を丸めてアルスに返すと、それから、俺のほうに身をかがめて、大きな手で、俺の頭をぽんぽんと撫でた。


「いい声だったぞ。――チビすけ」


空気が、凍った。


俺の右手の指先から、碧い炎が、ちろりと漏れた。


チビ。


その言葉を、俺に向かって、言ったか。


聖騎士の手が、まだ、俺の頭の上にあった。俺は、ゆっくりと、顔を上げた。


「――あ、あーっと!!」


アルスの手が、俺の口を、背後から鷲掴みにした。


そのまま、俺の身体を、ひょいと小脇に抱え上げる。


「す、すみません!! この子、感極まると、発作が出るんです!! 光の神への愛が溢れすぎて!! では、お先に失礼しますッ!!」


アルスは、俺を小脇に抱えたまま、内環の門を、全速力で駆け抜けた。


背後で、聖騎士たちが、ぽかんと口を開けていた。


門をくぐって、角を二つ曲がって、人気のない路地に入ったところで、アルスは、俺を地面に下ろした。


それから、膝に手をついて、ぜえぜえと肩で息をした。


「……お前なぁ……!!」

「言われた」

「言われたのは知ってる!! 俺も聞いた!! でも、今のはダメだろ!! 内環の門の真ん前で、聖騎士二十人の前で、覇権を出しかけるのは!!」

「……ちょっとだけだ」

「ちょっとでも、ダメ!!」


アルスは、俺の頭を、乱暴にがしがしと撫で回した。さっきの聖騎士の手の感触を、上から消すみたいに。


「――でも、歌は、助かった。ありがとな」


俺は、ぷいと顔を背けた。


頬が、少しだけ、熱かった。


◇


その夜。大聖堂の、巡回司祭用の宿舎。


石造りの、窓の小さな部屋で、アルスは、寝台の上に胡坐をかいて、目を閉じていた。


片手は、顎に当てられている。


指先から、細い紅い光が、床へ、壁へ、さらにその下へと、根を張るように伸びていく。探査の魔術だ。どの術式を使えばいいかは、考えるより先に、全知の書が、アルスの頭へ放り込んでくれる。


「……いた」


アルスが、目を閉じたまま言った。


「地下だ。三層、いや、もっと下。……でかい魔素の塊がある」

「光神の心臓、ってやつか」

「たぶんな。……それと」


アルスの眉間に、皺が寄った。


「妙だ。……こいつ、俺の中の全知の書と、同じ匂いがしやがる」

「同じ?」

「ああ。説明しにくいんだが。……同じ鍛冶屋が打った、別々の剣みたいな。そんな感じだ」


アルスは、目を開けた。顎から手を離すと、床に伸びていた紅い糸が、ぷつりと消えた。


その顔には、珍しく、戸惑いの色が浮かんでいた。


俺が、何か言おうとした、そのときだった。


宿舎の廊下を、誰かが、静かに歩いてくる気配がした。


足音は、ほとんどしない。衣擦れの音だけが、かすかに近づいてくる。


俺は、扉の隙間から、廊下を覗いた。


白い衣。白い面紗。手には、空になった小さな籠。


昼間、中環の大通りで、輿に乗っていた少女だった。


聖女ミリエル。


少女の胸から伸びる、何十本もの細い光の糸が、廊下の闇の中で、ぼんやりと光っていた。糸は、床を突き抜けて、まっすぐ下へ。地下の、さらに奥へと、吸い込まれていた。


少女は、俺の視線に気づいたのか、足を止めた。


面紗の向こうの目が、扉の隙間の、俺の目と、合った。


「……あなた」


少女の唇が、小さく動いた。


「その目……なにが、見えているのですか」


俺は、扉を、少しだけ開けた。


廊下の灯りが、少女の白い衣を、薄く照らしていた。近くで見ると、少女は、昼間よりもさらに細く、さらに白く見えた。面紗の下の唇には、血の気がほとんどなかった。


嘘をつくべきか、迷った。


でも、この子の前で嘘をつくのは、なぜか、ひどく卑怯なことのような気がした。


「……糸が、見える」


俺は、言った。


「あんたの胸から、何十本も。全部、床の下に向かってる。あんたの命が、その糸を通って、下にある何かに吸われてる」


少女の肩が、びくりと震えた。


「その灯りの細さだと。……あんた、あと半年も、もたない」


廊下に、沈黙が落ちた。


背後で、アルスが「おい、ハスト」と小声で咎めた。言い方を考えろ、という意味だ。わかっている。でも、あの頃の俺は、言葉を柔らかく包む方法を、まだ知らなかった。


少女は、長いあいだ、何も言わなかった。


それから、面紗を、ゆっくりと上げた。


疲れきった目が、まっすぐに、俺を見ていた。


「……知っています」


少女は、静かに言った。


「去年の冬から、朝、起き上がるのが、少しずつ、難しくなりました。司祭様方は、光の神のお側に近づいている証だと、喜んでくださいます。……だから、きっと、そうなのだと思っていました」


少女は、空になった籠を、両手でぎゅっと握りしめた。


「でも、今夜、地下の牢で、ある方に言われたんです。ここを出るときは、私も一緒に連れて行く、と」

「……地下の、牢」


俺とアルスは、顔を見合わせた。


少女は、俺の顔を見つめたまま、ほんの少しだけ、首を傾げた。


「あなた方は、あの方を、迎えに来た人たちですか?」


答える前に、アルスが、俺の後ろから、のそりと顔を出した。


提灯みたいな法衣の腰回りを、ぽんと叩いて、にやりと笑う。


「――ご名答。北部ヴェルナ教区の、にわか司祭と、チビじゃない聖歌隊だ」


少女は、きょとんと目を瞬かせた。


それから、口元に手を当てて、小さく、小さく、笑った。


この国に来て、初めて見た、作り物じゃない笑顔だった。


「……明日の夜」


少女は、声をひそめて言った。


「審問官の方々が、聖火祭の準備で、手薄になる刻があります。そのときなら、地下第三層まで、ご案内できます」


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