47 白い法衣の、黒い腹
聖都ジセリオン、内環。教皇宮の最奥。
「光の間」と呼ばれるその部屋には、窓がひとつもなかった。
壁も、床も、天井も、白い大理石。部屋の中央に置かれた長い円卓も、白い大理石。灯りは、天井から吊るされた、乳白色の石のシャンデリアだけ。石の奥で光が脈打つたびに、部屋全体が、ゆっくりと明るくなったり、暗くなったりした。
まるで、部屋そのものが、呼吸をしているみたいに。
円卓を囲んで、五つの椅子があった。
上座に座っているのは、皺だらけの老人だった。白と金の法衣。頭には、三重の冠。背中は大きく曲がり、口の端からは、細い涎が糸を引いている。焦点の合わない目が、天井のシャンデリアを、ぼんやりと見上げていた。
ジセリア神国、第八十七代教皇、セレスティオ八世。九十二歳。
「……ひかり……ひかりが……」
教皇は、誰に言うでもなく、そう呟き続けていた。
その右隣に座る男が、穏やかな笑みを浮かべて、教皇の口元を、白い絹の布で拭った。
「ええ、聖下。光は、いつも聖下と共にございます」
男の年は、五十を少し過ぎたあたりだろうか。銀色に整えられた髪。皺ひとつない、深紅の枢機卿の法衣。物腰は柔らかく、声は低く、耳に心地よい。神学校の教師か、田舎の教区の、慈悲深い司祭のように見えた。
筆頭枢機卿、ガブリエル・ヴァルトハイム。
この国の、本当の支配者だった。
「――さて」
ガブリエルは、絹の布を畳んで、円卓を見回した。
「聖火祭まで、あと五日。準備のほどを、伺いましょうか」
◇
最初に口を開いたのは、円卓の左側に座る、肥えた男だった。
財務卿、枢機卿ベネディクト。椅子からはみ出しそうなほどの巨体を、金糸の法衣に押し込んでいる。
「免罪符の売れ行きは、上々ですぞ」
ベネディクトは、分厚い帳簿をめくりながら、満足げに言った。
「『魔女の浄め』の触れが効きましたな。聖火祭特別免罪符だけで、例年の三倍。地方からの特別献金も、去年の倍は見込めます。……ただ、まぁ、北部の教区では、払えずに逃散する村が出始めておりますが」
「逃げた村は、異端の巣ということにすればよろしい」
ガブリエルは、微笑んだまま言った。
「異端の村の土地は、教会が没収する。没収した土地は、敬虔な信徒に、安く貸し出す。地代は、もちろん、教会へ。……羊が一匹逃げたところで、柵の中の羊が太れば、それでよいのです」
「さすがは、ガブリエル卿」
ベネディクトが、太い指で帳簿を叩いて笑った。
円卓の右端で、ひとりの男が、黙って腕を組んでいた。
黒い法衣。胸元に、銀の天秤の刺繍。顔の左半分を、古い火傷の痕が覆っている。腰には、白い布で巻かれた、一本の長槍。
異端審問卿にして、聖騎士団長。ラザロ・クロイツ。
ラザロは、ベネディクトの笑い声を聞きながら、眉ひとつ動かさなかった。ただ、その火傷の痕の奥の目が、わずかに細められていた。
「ラザロ卿」
ガブリエルが、穏やかに呼びかけた。
「魔女の様子は」
「……地下第三層の、浄めの牢に。贖罪の首輪は、正しく嵌まっております。首輪は、光神の心臓と繋がっている。浄火の儀の祭壇以外の場所で外そうとすれば、心臓の光が、首輪ごと、娘の命を焼き切る」
ラザロの声は、低く、乾いていた。
「逃げる術は、ありません」
「結構」
「……ひとつ、伺ってもよろしいか、ガブリエル卿」
「何なりと」
ラザロは、組んでいた腕をほどいた。
「あの娘は、十三です」
光の間に、一瞬、沈黙が落ちた。
「私は、異端審問官として、二十年、異端者を裁いてまいりました。光の神の名において、焼くべき者を焼いてきた。そのことに、一片の悔いもない。……だが」
ラザロの手が、腰の槍の柄に、無意識のように触れた。
「あの娘は、牢の中で、一度も泣いておりません。祈りもしない。命乞いもしない。ただ、毎日、拾った木切れを握って、剣の型を繰り返している。……私には、あれが、魔女には見えぬのです」
ガブリエルは、しばらく、ラザロの顔を見つめていた。
それから、慈愛に満ちた、司祭の微笑みを浮かべた。
「ラザロ卿。あなたの信仰の篤さは、誰よりも私が知っております」
「…………」
「あの娘は、禁じられた書を読んだ。偽りの神を讃える言葉を、その目に入れた。そして、その言葉を、我が国の大図書院の司書に、手紙で問い合わせてきた。『創成神の断罪の記録を、見せていただけませんか』と。……親善訪問の折には、その禁書そのものを、こっそり荷物に忍ばせて持ち込んできた」
ガブリエルは、円卓の上に、一冊の古びた手帳を置いた。
革の表紙。掠れた金文字。
『旧サロバニア王国第二王女 アリアーヌ 書記』
「教義は、こう申しております。偽りの神を讃える者は、魔女である、と」
ガブリエルは、手帳の表紙を、指先で、そっと撫でた。
「教義がそう言うなら、そうなのです。ラザロ卿。我らが疑うべきは、教義ではない。己の目のほうです」
ラザロは、長いあいだ、何も言わなかった。
やがて、静かに、頭を垂れた。
「……御意」
◇
「ところで、ガブリエル卿」
ベネディクトが、帳簿を閉じて、身を乗り出した。
「サロバニアからの、例のお客人は」
「ええ。今宵、お越しいただいております」
ガブリエルが、軽く手を叩いた。
光の間の、白い扉が開いた。
入ってきたのは、四十がらみの男だった。黒い外套に、黒い手袋。痩せぎすで、頬骨が高い。その目は、蛇のように細く、冷たかった。
外套の胸元に、銀の紋章が光っていた。
黒い狼。その首に巻きつく、三本の茨。
「サロバニア王国、グラウ伯爵家当主。ヴェルナー・フォン・グラウ殿です」
ガブリエルが、にこやかに紹介した。
「先の王位継承戦で、第三皇子殿下を支持なさった、志ある貴族のおひとり。……今の、あのふざけた国王を、玉座から引きずり下ろそうとしておられる」
「挨拶は、結構」
ヴェルナーは、勧められた椅子にも座らずに、円卓の端に立ったまま言った。
「確認したいことは、ひとつだけだ。……浄火の儀は、予定通り行われるのだな」
「もちろんですとも」
「サロバニアには、何と」
「我が国の法に則り、異端の疑いある者を、保護している、と。……あの国王は、慌てて使者を寄越してきましたよ。娘を返せ、さもなくば、と」
ガブリエルは、楽しそうに笑った。
「さもなくば、何でしょうね。兵を挙げますか? それとも、頂天者とやらを差し向けますか? どちらでも構いません。どちらにしても、それは、光の神の聖都への、宣戦布告です」
「そして、国王が兵を国外に向けた隙に」
ヴェルナーが、続けた。
「我ら第三皇子派が、王都で立つ。国王は、娘を見殺しにした愚王として、民の支持を失う。我らは、新たな王を立て、ジセリアとの講和を結ぶ。……講和の条件は」
「国境の三つの州を、教会領として、我らに。それと、光の神の教えを、サロバニアの国教に」
ガブリエルは、指を三本立てて、微笑んだ。
「そして、もうひとつ。……この手帳の存在を、知る者は、誰もいなくなる」
ガブリエルの指が、アリアーヌの書記の表紙を、とん、と叩いた。
「二百年前に、すべて焼いたはずだったのですがね。サロバニアの王家が、こんなものを、地下の書庫に隠し持っていたとは。……まったく、迷惑な姫君です。二百年前の王女も、今の王女も」
ラザロが、わずかに顔を上げた。
「……ガブリエル卿。その書には、何が書かれているのです」
「偽りです」
ガブリエルは、即答した。
「偽りの神を讃える、偽りの言葉。それ以上、知る必要はありません。……知れば、あなたの信仰が、穢れます」
ラザロは、それ以上、何も訊かなかった。
上座で、教皇が、また小さく呟いていた。
「……ひかり……あの、ひかりは……ほんとうに……」
ガブリエルは、立ち上がって、教皇の口元を、もう一度、優しく拭った。
天井のシャンデリアの石が、ゆっくりと明るくなり、また、暗くなった。
その光の脈動が、遠い地下の、どこか別の場所で、誰かの鼓動を削り取って生まれているのだということを、この部屋で知っているのは、ガブリエルひとりだけだった。
◇
――地下第三層。浄めの牢。
私は、冷たい石の床の上で、木切れを握っていました。
牢の隅に落ちていた、古い椅子の脚。長さは、ちょうど、私の剣と同じくらい。重さは、ずっと軽いけれど。
構える。
正眼。切っ先を、鉄格子の向こうの、闇の一点に合わせる。
一。振り下ろす。
二。返す。
三。踏み込んで、突く。
首に嵌められた金属の輪が、動くたびに、ずしりと重く鎖骨に食い込みます。贖罪の首輪、と、あの火傷の顔の人は呼んでいました。外そうとすれば、死ぬのだと。
それでも、私は、木切れを振り続けました。
止まったら、怖くなるから。
止まったら、泣いてしまうから。
ここに連れてこられて、何日経ったのか、もう、よくわかりません。窓がないので、昼と夜の区別もつかない。ただ、一日に二度、固いパンと水が運ばれてくるのを数えて、たぶん、十日くらい、と思っています。
親善訪問の三日目でした。
聖都の大図書院を見学させていただいた帰り道、馬車が、急に止まりました。窓の外を見ると、護衛の騎士たちが、白い鎧の兵士たちに囲まれていました。
『サロバニア王女、レイアーヌ・フォン・フラハイト。異端の疑いにより、光の神の御名において、汝を保護する』
あの、火傷の顔の人の声でした。
私の荷物の底から、あの手帳が、引きずり出されました。
旧王国の、第二王女。アリアーヌ様の、書記。
禁書庫の奥で見つけて、夢中で読んだ手帳。古い言葉で書かれていて、半分も読めなかったけれど、読めた半分だけでも、胸が震えるようなことが書いてありました。
だから、確かめたかったのです。
ジセリアの大図書院には、大陸で一番古い記録が眠っていると聞いていました。そこへ行けば、アリアーヌ様が書いていたことが本当なのか、わかるかもしれないと思った。
ただ、それだけだったのに。
――四。振り上げる。
――五。
「……剣、お好きなんですね」
鉄格子の向こうから、小さな声がしました。
私は、木切れを構えたまま、振り返りました。
闇の中に、白いものが、ぼんやりと浮かんでいました。
白い衣。白い面紗。手には、小さな籠。
「……あなたは」
「ミリエル、と申します」
少女は、面紗を、そっと上げました。
雪のように白い頬。透き通るように細い首。私より、少しだけ年上に見えました。でも、その目は、私が今まで見た誰の目よりも、ずっと、ずっと、疲れていました。
「この国では、聖女、と呼ばれています」
少女は、籠の中から、柔らかそうな白いパンを一つ取り出して、鉄格子の隙間から、差し入れてくれました。
「内緒、です。……審問官の方々が眠っている時間にしか、来られませんけれど」
私は、パンを受け取りました。
温かかった。
ここに来てから、初めて触れた、温かいものでした。
「……どうして」
「わかりません」
ミリエルは、小さく首を傾げました。
「ただ、毎日、心臓の前で祈っているときに、あなたの剣の音が、聞こえる気がしたんです。……木切れが、空を切る音。とても、まっすぐな音」
ミリエルの指先が、鉄格子に、そっと触れました。
その指は、氷のように冷たくて、骨と皮だけみたいに細かった。
「私、ずっと、何かを聞くのを、やめていたんです。何も聞かなければ、何も考えずに済むから。……でも、あなたの音だけは、なぜか、聞こえてしまって」
私は、パンを両手で握りしめたまま、言いました。
「――ミリエル」
「はい」
「私、ここを出ます」
ミリエルの目が、わずかに見開かれました。
「どうやってかは、まだ、わかりません。でも、出ます。父上は、きっと、私を見捨てたりしない。……それで、ここを出るときは」
私は、鉄格子の隙間から、ミリエルの冷たい指を、そっと握りました。
「あなたも、一緒に連れて行きます」
ミリエルは、しばらく、何も言いませんでした。
それから、面紗の下で、小さく、小さく、笑いました。
泣き出しそうな、笑い方でした。
「……ありがとうございます、レイアーヌ様」
それから、ミリエルは、ふと、鉄格子の向こうの闇を振り返りました。誰も来ないのを確かめるように。
「……ミリエル。あなたが毎日祈っている、心臓、って」
「光神の心臓、です。大聖堂の一番奥の、祭壇に祀られています。私は、毎日、そこに手を当てて、祈るんです。そうすると、心臓が、光る。その光が、国中の司祭様の石に分けられて、奇跡になる。……そう、教わりました」
私は、少しだけ迷ってから、言いました。
「アリアーヌ様の書記に、書いてあったんです。……『教会が神の心臓と呼ぶものは、神の胸から抉り出されたものである』って。それが、どの神さまのことなのか、私には、古い言葉が難しくて、読めなかったけれど」
ミリエルの指が、鉄格子の上で、小さく震えました。
「……言わないで、ください」
ミリエルの声は、かすれていました。
「それ以上、聞いたら……私、明日、祈れなくなってしまう」
私は、それ以上、何も言いませんでした。
その夜、私は、ミリエルのパンを、半分だけ食べました。
もう半分は、明日のために、とっておきました。
明日も、剣を振るために。




