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45 国境の街道、二人旅

――四年前。春。


サロバニア王国と、ジセリア神国との国境。


鬱蒼とした針葉樹の森を、一本の街道が貫いていた。街道と言っても、石畳が敷かれていたのは百年以上も前の話らしい。今では石の半分が土に埋もれて、残りの半分は木の根に持ち上げられて傾いている。馬車が通れば車輪が外れ、人が歩けば三歩に一度は足首を捻る。そういう道だった。


その道を、二人の旅人が歩いていた。


一人は、背の高い青年だった。年は十八。くたびれた灰色の外套に、伸び放題の髪。剣も杖も、魔術師なら誰でも一冊は持っている魔導書すら、持っていない。荷袋ひとつを肩に引っかけて、何か考えごとをするたびに顎へ手を当て、そのたびに小さく舌打ちをしていた。


もう一人は、少年だった。年は十三。青年の肩にも届かない、小柄な体。子ども用の外套のフードを目深にかぶって、俯きがちに、青年の半歩後ろを黙々と歩いている。


青年の名前は、アルス・ノヴァ。


少年の名前は、ハスト・アーネット。


――つまり、俺だ。


◇


「なぁ、ハスト」

「…………」

「なぁってば」

「……なに」

「腹、減らねぇ?」

「減った」

「だよな。よし、今日は俺が飯を作ってやろう」

「やめろ」


即答した。


アルスは、心外だという顔で振り返った。


「なんでだよ。たまには年上らしいことさせろよ」

「お前が作った飯で、三日前、俺は半日動けなかった」

「あれは、キノコが悪かった」

「キノコを選んだのはお前だ」

「……あれは、キノコが悪かった」

「二回言っても変わらねぇよ」


アルスは、ぶつぶつと文句を言いながら、街道脇の少し開けた場所に荷物を下ろした。俺は黙って、枯れ枝を集め始めた。


あの頃の俺は、今よりもずっと口数が少なかった。


というより、口を開くのが億劫だった。


二年前の冬。サロバニアの辺境の村で、俺は、ひとりの女の子を失った。俺が、この世界で一番大事にしていた子だった。その子を奪った連中の顔も、そいつらの胸に光っていた紋章も、今でも全部、瞼の裏に焼きついている。


その夜、俺の中で、何かが壊れて、何かが生まれた。


ロリババアから受け継いだ、覇権。


あの人のものは、紅い。俺のものは、碧かった。それも、透き通った碧じゃない。底の見えない沼みたいに、深く濁った碧だった。


あの冬が明けてから、俺は、アルスと二人で、国の外を歩くようになった。


『世界を見て回りたい』


七つのとき、ギルドに入ったばかりの俺がそう言ったのを、アルスは覚えていた。だから、あの冬が明けた日、何も言わずに、俺の手を引いて国境を越えたのだ。


今思えば、あれは、アルスなりの優しさだったんだと思う。あのまま国にいたら、俺はたぶん、あの紋章の家を、一軒残らず燃やしに行っていた。


アルス自身が、かつてそうしたように。


それからの二年、俺は、アルスに連れられて、何度も国境を越えた。


砂の海に半分沈みかけた、南の王国。一年の半分を氷に閉ざされる、北の港町。竜の骨を祀る、山の上の部族の村。旅から戻ってはギルドで次の依頼を受け、少し休んでは、また国の外へ出る。行く先々で魔物を狩り、ついでに、見過ごせない理不尽をいくつか潰した。数えるのも面倒になるくらいの、たくさんの旅だった。


この春の旅も、その、何度目かもわからない旅のひとつのはずだった。行き先は、隣国、ジセリア神国。


――結果から言えば、それが、俺とアルスの、最後の旅になった。


◇


結局、その日の夕飯は、俺が作った。


罠にかかっていた野兎を捌いて、骨ごと煮込む。森で摘んだ香草と、荷物の底に残っていた干し芋を刻んで入れる。塩は、最後にひとつまみだけ。


鍋の中で、肉の脂が、ゆっくりと溶けていく。香草の匂いが、夕暮れの森に広がった。


「……ちっ」


焚き火の向かいで、アルスが舌打ちをした。


「なんだよ」

「ガキのくせに料理うまいの、ムカつくな」

「ロリババアのとこじゃ、台所は俺の担当だったから。あの人、卵ひとつまともに焼けねぇし」

「知ってる。前に一回、あのクソババアの作った飯を食わされたことがある。三日寝込んだ」

「お前もかよ」

「あれは毒だ。魔術で解析したら、存在しない元素が検出された」


俺は、思わず、少しだけ笑った。


笑ってから、自分で驚いた。ずいぶん久しぶりに、笑った気がした。


アルスは、何も言わなかった。ただ、木の器に注いだ兎の煮込みを、黙って啜っていた。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのを、俺は見ないふりをした。


◇


異変は、翌朝に起きた。


国境の関所を越えて、ジセリア神国の領内に入って、半刻ほど歩いたときだった。


街道の両脇の茂みが、がさりと揺れた。


「――止まれ!!」


飛び出してきたのは、七人の男たちだった。


手には、錆びた鎌、先を尖らせた木の棒、薪割り用の斧。服はつぎはぎだらけで、頬はこけている。盗賊と呼ぶには、あまりにも、みすぼらしかった。


「に、荷物を置いていけ!! そうすりゃ、命までは取らねぇ!!」


先頭の男が、鎌を突き出して叫んだ。声が、裏返っていた。鎌を握る手が、小刻みに震えている。


アルスが、深いため息をついた。


「……おいおい。朝から勘弁してくれよ」

「う、うるせぇ!! さっさと――」

「お前ら、農民だろ」


男たちの動きが、ぴたりと止まった。


アルスは、顎に手をやることすらしなかった。ただ、のんびりと首を回して、男たちの手元を順番に眺めていく。


「鎌の握り方が、草を刈る握り方だ。人を斬る握り方じゃねぇ。そっちの斧も、薪割りの癖が抜けてねぇ。振りかぶる角度が、高すぎる。……それに、全員、指の付け根に、鍬ダコがある」

「…………っ」

「どうした。畑はどうしたんだよ。春だぞ。今が一番、忙しい時期だろ」


先頭の男の顔が、くしゃりと歪んだ。


鎌が、だらりと下がった。


「……畑なんて、もう、ねぇよ」


男は、絞り出すように言った。


「去年の秋、教会の十分の一税が、十分の四に上がった。冬を越すための麦まで、全部持っていかれた。払えねぇ家は、免罪符を買わされる。免罪符を買う金がねぇ家は……子どもを、差し出すんだ」

「子どもを?」

「『聖都への献身』だとよ。聖歌隊だの、修道院の下働きだの、そういう名目で、連れていかれる。……俺の娘も、去年、連れていかれた。まだ、九つだった」


男の後ろで、他の男たちが、俯いていた。誰も、何も言わなかった。


俺は、隣のアルスを見上げた。


アルスの顔から、表情が消えていた。


そして、その足元から、ゆらりと、紅いものが立ち昇り始めていた。


炎ではない。霧でもない。空気そのものが、怒りで焼け焦げていくような、紅。


アルスの手が、いつの間にか、顎に当てられていた。探しているのだ。本人が望んでもいないのに。この場にいる全員を、一番確実に黙らせる魔術を。


――デビル・ハンター。


この世に存在するすべての魔術と魔法を知る、『全知の書』。書とは名ばかりで、形はない。頁も表紙も、どこにもない。ただ、望めば――時には望まなくても――必要な知識が、アルスの頭の中へ、ぴんと飛び込んでくる。それが、アルスの、もうひとつの名前。かつて、貴族を一年間殺し続けた、紅い悪魔の名前。


「……アルス」


俺は、アルスの外套の裾を掴んだ。


「アルス。落ち着け」


返事は、なかった。


アルスの目は、男たちを見ていなかった。男たちの向こう。街道の先。まだ見えない、白い都の方角を、睨んでいた。


顎に当てた手が、止まった。見つけたのだ。


アルスの指先から、紅い光が、細い糸のように溢れ出した。


「――アルス!!」


俺は、アルスの外套を、思いきり引っ張った。


同時に、自分の中の碧を、ほんの少しだけ解き放った。濁った碧い炎が、俺の手のひらから這い上がって、アルスの手首に、手錠みたいに巻きついた。


紅と碧が、ぶつかった。


空気が、軋んだ。街道脇の木々から、鳥が一斉に飛び立った。男たちが、悲鳴を上げて尻餅をついた。


一秒。


二秒。


アルスの目に、ゆっくりと、焦点が戻ってきた。


紅い光が、アルスの指先へ、すうっと吸い込まれていった。顎に当てられていた手が、力なく、だらりと下がった。


アルスは、自分の手首に巻きついた碧い炎を見下ろして、それから、俺を見た。


「……悪い」

「いい」


俺は、炎を消した。


手のひらが、少しだけ震えていた。


――いつもとは、逆だった。


二年前のあの夜から、アルスはずっと、俺の碧が暴れ出しそうになるたびに、俺の肩を掴んで止めてくれていた。今日は、俺が止める番だった。


それが、少しだけ、誇らしかった。


◇


結局、俺たちは、男たちの村まで付いていった。


村は、街道から少し外れた谷間にあった。家は二十軒ほど。どの家も、屋根の藁が剥がれかけていて、畑には、雑草しか生えていなかった。


アルスは、村長の家で、懐の金貨を全部、机の上に置いた。


「今年の分の税だ。足りるか」


村長の老人は、金貨とアルスの顔を何度も見比べて、それから、床に額をこすりつけて泣き出した。


アルスは、居心地悪そうに頭を掻いていた。


そのときだった。


村の入口のほうから、蹄の音と、車輪の軋む音が近づいてきた。


窓の外を覗くと、白い馬に引かれた、白い馬車が止まるところだった。馬車の扉には、金色の円環――光の神の聖印。その両脇に、白い鎧を着た兵士が四人、槍を手に控えている。


馬車から降りてきたのは、でっぷりと太った中年の男だった。白い法衣の上に、金糸の刺繍をこれでもかと縫い込んだ肩掛け。十本の指のうち八本に、宝石の指輪が光っている。


「徴税司祭様じゃ……」


村長が、青ざめた顔で呟いた。


司祭は、村長の家の戸口に立つと、鼻をひくつかせて、土間の中を見回した。それから、机の上に積まれた金貨を見て、片眉を上げた。


「ほう。この村が、今年の分を納められるとは。……どこから湧いて出た金ですかな」

「た、旅のお方が……」


司祭の視線が、アルスと、俺の上を滑った。値踏みする目だった。家畜の目方を量るような。


「旅人の施しですか。結構、結構。光の神は、施しを喜ばれます」


司祭は、金貨を一枚ずつ、指先で弾くようにして数えながら、白い革袋に落としていった。最後の一枚を落としたあと、司祭は、にこやかに村長を振り返った。


「では、聖火祭の特別献金の分を」

「と、特別……?」

「おや、ご存じない? 今年の聖火祭は、魔女を浄める、百年に一度の大祭。民は皆、その浄めの火に、薪一本分の献金をする習わしですよ。……払えぬなら、まぁ、その分は、免罪符で贖っていただくことになりますが」


村長が、膝から崩れ落ちた。


アルスの足元から、また、紅いものが滲み出しかけた。


俺は、今度は何も言わずに、アルスの外套の裾を、軽く引いた。それだけで、紅は、すっと引っ込んだ。


代わりに、俺は、司祭の手元を見ていた。


金貨を数える、太い指。その中指に嵌まった、乳白色の石の指輪。石の奥で、かすかに、光が脈打っていた。


――魔素だ。


それも、ただの装飾品じゃない。誰かの魔素を、溜め込んで、少しずつ吸い上げている光り方だった。


司祭は、俺の視線に気づくと、指輪を撫でながら、目を細めた。


「光の神の、ご加護の石です。坊やも、良い子にしていれば、いつか、神の奇跡に触れられるかもしれませんよ」


俺は、黙って、目を伏せた。


司祭の馬車が去ったあと、アルスは、もう一枚だけ懐の奥に隠していた金貨を、村長の手に握らせた。


「……あの指輪、見たか」


アルスが、小声で言った。


「見た。誰かの魔素を、吸ってた」

「あぁ。……どうやら、この国の『奇跡』ってやつは、ずいぶんと安っぽい手品らしい」


その夜、俺たちは、村長の家の土間に泊めてもらった。


藁の上に寝転がって、隙間だらけの屋根から、星を見上げていた。


「……なぁ、アルス」

「ん」

「全部払って、よかったのか。俺たち、明日から無一文だぞ」

「稼げばいい。お前なら、魔物の一匹や二匹、朝飯前だろ」

「……まぁな」


しばらく、二人とも黙っていた。


外で、虫が鳴いていた。


「なぁ、ハスト」


今度は、アルスが口を開いた。


「村長が言ってたこと、聞いたか」

「七日後の、聖火祭のことか」

「あぁ」


聖火祭。ジセリア神国で、年に一度、聖都で行われる、一番大きな祭りだと、村長は言っていた。光の神の降臨を祝って、国中から巡礼者が集まる。そして、祭りの最後には、決まって、異端者が火刑に処される。


『今年は、特別だそうですじゃ』


村長は、震える声で、そう言っていた。


『今年は、隣の国から、魔女の血を引く娘を捕まえたのだと。司祭様が、そう触れ回っておりました。サロバニアの……王族の、娘だとか』

「……サロバニアの、王族」


俺は、星を見上げたまま、呟いた。


「うちの国じゃねぇか」

「あぁ」

「王族の娘ってことは、王女か。……陛下の娘?」

「さぁな。でも、本当なら、とんでもねぇ話だ。隣国の王女を、魔女扱いして、祭りで焼く。戦争になる」

「戦争になるのが、目的なんじゃねぇの」


アルスが、ちらりとこちらを見た。


「……お前、たまに、ぞっとするようなこと言うよな」

「ロリババアに鍛えられたから」

「関係あるか、それ」


アルスは、ふっと笑った。それから、藁の上で、ごろりと寝返りを打った。


「――どうせ、見に行くつもりだったろ。聖都」

「……あぁ」

「なら、ちょうどいい」


アルスの声は、眠たげだった。でも、その奥に、さっき街道で見た紅が、まだ、静かに燻っているのがわかった。


「理不尽ってのはな、ハスト。見ちまったら、もう、見なかったことにはできねぇんだよ」


俺は、答えなかった。


ただ、屋根の隙間から見える星を、じっと見つめていた。


その星の下のどこかで、俺と同じくらいの年の女の子が、冷たい牢屋の中で、同じ星を見上げているのかもしれなかった。


――翌朝。


谷を抜けて、丘を越えたところで、俺たちは、それを見た。


地平線の向こう。春霞の中に、白いものが、ぼんやりと浮かんでいた。


白い城壁。白い尖塔。そして、そのすべての中心に、空を突き刺すようにそびえる、巨大な白い大聖堂。


風に乗って、かすかに、鐘の音が聞こえた。


聖都、ジセリオン。


光の神の都。


――あの日の俺はまだ、知らなかった。


あの白い都が、この世で一番、汚い場所だということを。


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