44 白い都と、鐘の音
夢を、見ていた。
白い都だった。
どこまでも続く、白い大理石の街並み。白い石畳。白い尖塔。空に突き刺さるように伸びた、巨大な白い大聖堂。その屋根の上で、金色の鐘が、絶え間なく鳴り続けている。
美しい都だった。美しすぎて、息が詰まるほどに。
私は、その都の真ん中にいた。
両手が、動かない。冷たい鎖が、手首に食い込んでいる。首には、重たい金属の輪。足元には、薪が、うず高く積み上げられていた。
広場を、数えきれないほどの人が埋め尽くしている。白い服を着た人たちが、口々に何かを叫んでいる。私には、その言葉の意味がわからない。わからないのに、その声に満ちているものが何なのかだけは、はっきりとわかった。
憎しみ。
違う。もっと、ひどいもの。
――喜び、だった。
広場の正面。大聖堂の階段の上に、白と金の法衣をまとった男が立っていた。両手を空に掲げて、朗々と、何かを唱えている。その言葉に合わせて、群衆が、同じ言葉を繰り返す。
『――浄めよ。浄めよ。魔女の血を、浄めよ』
意味のわからなかった言葉が、そのときだけ、はっきりと聞き取れた。
魔女。
私のことだ。
違う、と叫びたかった。私は魔女なんかじゃない。私はただ、本を読んだだけ。古い王女さまの書いた、古い手帳を、読んだだけなのに。
誰かが、松明を、薪に放った。
炎が、足元から這い上がってくる。熱い。息ができない。煙が目に沁みて、何も見えない。
怖い。
怖い、怖い、怖い。
叫ぼうとした。でも、声が出なかった。
そのとき。
炎の向こう側に、色が見えた。
赤でも、橙でもない。白い都にも、炎の中にもあるはずのない色。
碧い、炎。
その碧の中から、小さな手が、伸びてきた。
『――大丈夫だ、姫さん』
声が、聞こえた。
『……ちょっと、寝てろ』
◇
「――っ!」
レイアーヌ・フォン・フラハイトは、寝台の上で跳ね起きた。
心臓が、壊れそうなほど早く打っていた。寝間着が、汗でぐっしょりと背中に貼りついている。
王城の、自分の寝室だった。窓の外は、まだ暗い。夜明けまで、たぶん、一刻ほど。
「……また」
レイアーヌは、震える手で、額の汗を拭った。
あの手合わせの日から、三日。
毎晩、同じ夢を見る。白い都。鐘の音。足元の炎。そして、碧い光と、小さな手。
ただの夢だと思いたかった。でも、夢にしては、細部が鮮明すぎた。首にかけられた輪の冷たさ。鎖が擦れた手首の痛み。煙の匂い。
そして、あの声。
「……大丈夫だ、姫さん」
口に出してみる。
知らない声のはずだった。なのに、胸の奥の、どこか深いところが、きゅっと締めつけられる。
レイアーヌは、寝台の脇に立てかけてある自分の剣に、手を伸ばした。
宝石のない、飾り気のない剣。少し前に刃こぼれしたのを、父が「腕のいい職人」に打ち直させたものだ。その職人が誰なのか、父は何度訊いても教えてくれない。
柄を握ると、不思議と、心が落ち着いた。
刃を、少しだけ鞘から抜いてみる。
月明かりの下で、刃の奥に、何かが揺らいだ気がした。
――碧い、何かが。
「……あなたは、誰なの」
答える者は、いなかった。
◇
その日の昼休み。レイアーヌは、王立図書室の、さらに奥にいた。
禁書庫。
王族と、許可を得た一部の学者しか立ち入ることを許されない、地下の書庫だ。
石の階段を降りると、空気が変わる。ひんやりと乾いた、古い紙と革の匂い。天井まで届く書棚が、迷路のように並んでいる。魔術の灯りが、レイアーヌの足音に合わせて、ひとつ、またひとつと灯っていく。
ここに来るのは、四年ぶりだった。
四年前。十三歳だった自分は、剣の稽古の合間に、よくここへ忍び込んでいた。剣のことばかり考えている王女が、なぜ禁書庫に、と人は笑うかもしれない。でも、レイアーヌが探していたのは、魔術の本ではなかった。
剣の本だった。
建国以前の、伝説の剣士たちの記録。初代剣聖シャロンの逸話。そういうものが、この書庫のどこかに眠っていると聞いて、夢中で書棚を漁った。
そして、ある日、見つけたのだ。
書棚の一番奥。前の日に、端から端まで調べたはずの棚だった。そのときには、確かに何もなかった場所に、一冊の、古びた革表紙の手帳が、まるでずっと前からそこにあったような顔をして、収まっていた。
表紙には、掠れた金文字で、こう記されていた。
『旧サロバニア王国第二王女 アリアーヌ 書記』
――その先が、思い出せない。
レイアーヌは、書棚の一番奥の前で、立ち尽くしていた。
あの手帳があったはずの場所。そこには、今は、何もなかった。ぽっかりと、本一冊分の隙間が空いているだけだった。誰かが持ち出したような跡もない。まるで、手帳のほうが、自分の足でどこかへ出ていったみたいに。
「……ない」
手帳を開いた記憶は、ある。古い言葉で書かれていて、読むのに苦労したことも覚えている。ページをめくるたびに、胸が高鳴ったことも。
でも、そこに何が書かれていたのか。
それを読んだあと、自分が何をしたのか。
そこから先が、まるで分厚い霧の向こうにあるみたいに、何も見えない。
いや。
霧ではない。
蓋だ。
誰かが、そこに、蓋をしている。
◇
放課後。レイアーヌは、気がつくと、本校舎の屋上へと続く階段を上っていた。
理由は、自分でもよくわからなかった。
ただ、三日前の手合わせの最後。保健室で目を覚ます直前の、霞んだ記憶の中に、ひとつだけ引っかかっているものがあった。
観客席の、一番後ろ。一番目立たない隅。
そこに、誰かがいた気がする。
その「誰か」の名前も顔も思い出せないのに、目が合った瞬間の感覚だけが、指先に刺さった棘みたいに、ずっと抜けない。
屋上の扉を開けると、夕方の風が、髪をさらった。
そこには、三人の生徒がいた。
手すりの根元に、寝転がっている男子生徒。その隣で、膝を抱えて座っている、銀がかった淡い髪の小柄な女子生徒。そして、少し離れたところで、剣の手入れをしている、蒼い髪の女子生徒。
フィアット・セルジーネだった。
「――殿下!?」
フィアットが、慌てて立ち上がった。
「ご、ごきげんよう……! お身体は、もう大丈夫なのですか……!?」
「ええ。もう平気よ。あの日は、迷惑をかけてしまってごめんなさい」
レイアーヌは微笑んで、それから、手すりの根元に視線を移した。
寝転がっている男子生徒は、起き上がる気配すらなかった。腕を枕にして、目を閉じて、すうすうと寝息を立てている。
――この人。
三日前の朝、一年の教室で、「どこかで会ったかしら」と声をかけた生徒だった。万年最下位だと名乗った、寝ぼけた顔の。
「……セルジーネさん。そちらの方は」
「あ、えっと、ハスト様……じゃなくて、ハスト君です。同じクラスの。いつもここで寝ていて……」
「ハスト、君」
レイアーヌは、その名前を、舌の上で転がしてみた。
知らない名前だった。なのに、口にした瞬間、胸の奥で、何かが、かすかに軋んだ。
男子生徒の隣で、銀髪の女子生徒が、ゆっくりと顔を上げた。
淡い水色の瞳が、レイアーヌを、まっすぐに見ていた。
表情は、なかった。怒っているわけでも、警戒しているわけでもない。ただ、静かに、じっと見ていた。湖の底から、水面を見上げているような目だった。
なぜか、背筋が、ほんの少しだけ冷えた。
「……ねぇ、ハスト君」
レイアーヌは、寝転がっている男子生徒の傍らに、膝をついた。
「あなた、碧い炎を、見たことはある?」
寝息が、ほんの一瞬だけ、止まった気がした。
男子生徒は、片目だけを、薄く開けた。
「……碧い、炎っすか」
眠そうな、間延びした声だった。
「ガスの火なら、青いっすけど。……あ、あと、理科の実験で、銅を燃やしたら緑っぽくなったっす。あれのことっすか?」
「…………」
「すんません、俺、成績最下位なんで。難しい話は、ちょっと……」
そう言って、男子生徒は、また目を閉じた。
レイアーヌは、しばらく、その寝顔を見つめていた。
嘘をついている。
根拠はなかった。剣士の勘としか言いようがなかった。この人の寝息は、深すぎる。わざと深くしている。まるで、目を開けたら、何かが溢れてしまうのを堪えているみたいに。
「……そう。ごめんなさい、変なことを訊いて」
レイアーヌは、立ち上がった。
それから、手すりの根元に咲く、透き通った氷の花に、ふと目を留めた。
夕日を受けて、花びらの一枚一枚が、きらきらと輝いている。こんな季節に、溶けもせずに。
「きれいな花ね」
「……わたしの」
銀髪の女子生徒が、ぽつりと言った。
「……ハストさまに、あげたの」
その声は、穏やかだった。穏やかなのに、言葉の端に、薄い氷の膜が張っているような響きがあった。
レイアーヌは、小さく会釈をして、屋上を後にした。
扉を閉める直前。振り返ると、男子生徒は、相変わらず目を閉じたままだった。
ただ、その片手が、手すりの根元の氷の花のそばで、固く握りしめられているのが見えた。
◇
「お父様」
その日の夕刻。レイアーヌは、国王の執務室の扉を、ノックもせずに開けた。
執務机の向こうで、ジャージ姿の国王アーク・フォン・フラハイトが、書類の山に埋もれていた。正確には、書類の山を窓の外の池に投げ捨てようとしていたところだった。
「お、おう、レイアーヌ!? ど、どうした、急に。いや違うぞ、これは投げようとしていたわけでは……」
「四年前」
レイアーヌは、父の言い訳を、一言で遮った。
「四年前の春。私は、ジセリア神国への親善訪問に同行しました。……そうですよね」
アークの手が、止まった。
書類の束を持ったまま、国王は、娘の顔をじっと見つめた。いつもの、のらりくらりとした笑みが、すっと消えていく。
「……ああ。そうだ」
「そこで、私は、病に倒れて、ひと月ほど寝込んで、そのあいだに訪問は切り上げになった。……そう聞かされていました」
「…………」
「本当に、病だったのですか?」
執務室に、沈黙が落ちた。
窓の外で、池の水面が、夕日を受けてきらきらと光っていた。
アークは、ゆっくりと書類を机の上に戻した。それから、深く、長く、息をついた。
「……レイアーヌ。お前、最近、夢を見るか」
レイアーヌの肩が、びくりと跳ねた。
「白い都の夢か」
「……どうして」
「そうか」
アークは、椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
「蓋が、緩んできたんだな」
その声は、どこか、ほっとしているようにも、寂しそうにも聞こえた。四年間、ずっと胸の中にしまってきた何かを、ようやく下ろせる日が近づいてきた人の声だった。
「お父様。答えてください。四年前、ジセリアで、私に何があったのですか」
「それは、俺の口からは言えない」
「どうして!」
「約束だからだ」
アークは、娘の目を、まっすぐに見た。国王の目ではなかった。父親の目だった。
「四年前、お前を俺のところに連れて帰ってきてくれた奴がいる。そいつと、約束した。お前が自分で思い出すまで、誰も、何も言わない。……お前が、怖い夢を見ずに済むように」
「……その人は」
レイアーヌの声が、震えた。
「その人は、碧い炎を、使いますか」
アークは、答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
それが、答えだった。
◇
同じ頃。
王立学園の屋上で、俺は、手すりにもたれて、沈んでいく夕日を眺めていた。
手すりの根元では、セルカの氷の花が、橙色の光を受けて輝いている。
懐の中で、紙の鳥が、かさりと動いた。
伝言の術式。陛下からだ。
広げると、いつもの走り書きの字が、短く三行だけ並んでいた。
『娘が、ジセリアのことを訊きに来た。
蓋は、たぶん、もう長くはもたない。
――四年前の約束、覚えてるか? はっす〜』
俺は、しばらく、その紙を見つめていた。
それから、紙を折りたたんで、懐にしまった。
「……覚えてるに、決まってんだろ」
「……ハストさま」
隣から、袖を引かれた。セルカだった。フィアットは、少し離れたところで、何も言わずにこちらを見ている。
「……さっきのお姫さま。また、来る」
「あぁ。……たぶんな」
「……ハストさまの、むかしのこと?」
俺は、答えなかった。セルカは、それ以上、何も訊かなかった。ただ、袖を握る指に、少しだけ力を込めた。
フィアットが、静かに口を開いた。
「……ハスト様。いつか、話してくださいね。言える日が来たら、で、いいので」
「……あぁ」
夕風が、屋上を吹き抜けていった。
俺は、目を閉じた。
瞼の裏に、白い都が浮かんだ。どこまでも続く白い大理石。空に突き刺さる白い尖塔。絶え間なく鳴り続ける、金色の鐘。
そして、その都に向かって、埃っぽい街道を並んで歩く、二つの影。
一つは、大きな背中。くたびれた外套に、伸び放題の髪。
もう一つは、小さな背中。その頃の俺は、まだ、今よりずっと背が低かった。
――四年前。
俺は、十三歳だった。
そして、あの人の隣を歩くことしか、知らなかった。




