43 月の下の、ふたりだけの秘密
その夜、ハストさまは、居間のソファで眠ってしまった。
お姫さまのことで、たくさん考えて、たくさん疲れたんだと思う。夕ごはんのあと、「ちょっとだけ横になる」と言って、そのまま、すうすうと寝息を立て始めた。
わたしは、ハストさまに毛布を掛けた。それから、少しだけ、寝顔を見ていた。
眉間に、小さなしわが寄っていた。夢の中でも、何か考えているみたいだった。
指で、そっと、そのしわを伸ばしてみる。
ハストさまは、「ん」と小さく唸って、少しだけ、顔を緩めた。
……かわいい。
ハストさまの寝顔は、学園の誰も知らない。フィアットだって、たぶん、こんなに近くでは見たことがない。
わたしだけの、ハストさま。
ソファの肘掛けから、ハストさまの手が、だらんと落ちていた。
わたしは、その手を、そっと持ち上げて、自分の頭の上に乗せてみた。重たい。あったかい。でも、撫でてはくれない。眠っているから。
……それでも、いい。これは、数えない。数えるのは、ハストさまが、自分から撫でてくれたときだけ。それが、わたしの決まり。
わたしは、ハストさまの手を、そっと毛布の中に戻した。
しばらくそうしてから、わたしは、離れの自分の部屋へ戻ろうと、母屋の裏口を出た。
月が、きれいな夜だった。
森の家の庭は、銀色の光に満ちていた。夜露に濡れた草が、きらきらと光っている。遠くで、夜の鳥が、ほう、ほう、と鳴いていた。
離れへと続く、石畳の小道。
その途中にある、古い切り株の上に。
小さな人影が、腰掛けていた。
「――遅かったのう、セルカ」
サリナさまだった。
銀色の長い髪が、月の光を受けて、白く光っていた。十歳くらいにしか見えない、小さな身体。小さな足を、切り株の上でぶらぶらさせている。
でも、その目は、笑っていなかった。
「……サリナさま」
「座れ」
サリナさまは、自分の隣の、もう一つの小さな切り株を、顎で示した。
わたしは、少しだけ迷って、それから、言われた通りに座った。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
夜の鳥が、また、ほう、と鳴いた。
「――西区の、旧倉庫街」
サリナさまが、月を見上げたまま、言った。
わたしの心臓が、どくん、と跳ねた。
「今日の昼、見てきた。ルキウスの家で、ハストが新聞を見たと聞いての。……扉が一枚、なくなっておるだけの、空っぽの倉庫じゃった」
「…………」
「騎士団は、何も見つけられぬじゃろう。霜の粉は、もう風が全部さらっていった。血の一滴も、骨のかけらも、何も残っておらん。……見事な、片付けじゃった」
サリナさまは、ゆっくりと、わたしのほうを向いた。
「じゃがな、セルカ。儂には、わかる」
「…………」
「あの倉庫の真ん中に、ほんの一瞬だけ、時間が止まった跡があった。針の先ほどの、小さな小さな跡じゃ。……あれは、儂の修行部屋の扉と、同じ編み方じゃった」
わたしは、膝の上で、両手を、ぎゅっと握りしめた。
指先が、冷たかった。いつもより、ずっと。
「……ハストさまに、言う?」
自分でも、驚くくらい、冷たい声が出た。
サリナさまは、少しだけ目を細めた。
「言うたら、どうする」
「……サリナさまでも、止める」
言ってしまってから、自分で、びっくりした。
わたしの指先から、白い冷気が、ゆらゆらと立ち昇っていた。足元の草に、霜が、さあっと広がっていく。
サリナさまに、勝てるわけがない。初代『覇王』。ハストさまのお師匠さま。わたしの冷気なんて、サリナさまにとっては、そよ風みたいなもの。
それでも。
ハストさまに知られるくらいなら。ハストさまの目に、汚いわたしが映るくらいなら。
「……ふ」
サリナさまが、小さく、笑った。
「ふふ。……ははっ。そうか。儂でも、止めるか」
サリナさまは、声を上げて笑っていた。月の下で、小さな肩を、震わせて。
それから、ふっと、笑うのをやめた。
「――よい目じゃ。昔の、儂とよう似ておる」
サリナさまの手が、伸びてきた。
わたしの頭の上に、ぽん、と乗った。
小さな手だった。でも、あたたかかった。
「言わぬよ。儂からは、言わぬ」
足元の霜が、すうっと消えていった。
◇
「殺したことを、儂は責めぬ」
サリナさまは、わたしの頭に手を乗せたまま、静かに言った。
「あの者らは、フィアットを殺しに来ておった。お主が行かねば、明日の新聞の一面には、別の記事が載っておったじゃろう。……責める資格も、儂にはない。儂の手は、お主の手より、ずっと、ずっと、汚れておる」
「……サリナさまも?」
「昔の話じゃ」
サリナさまは、月を見上げた。
「儂にもな、大事な人がおった。……守れなんだ。守ろうとして、国中を敵に回して、叫んで、叫んで、それでも届かなんだ。最後に目に焼きついたのは、その人の、血の色じゃった」
サリナさまの横顔は、いつもの、ハストさまをからかうときの顔じゃなかった。
ずっと、ずっと、遠くを見ている顔だった。
「それで、儂は、国をひとつ、捨てた。……儂の覇権が紅いのは、そのときの色じゃ」
わたしは、何も言えなかった。
サリナさまは、少しだけ、こちらを見て、微笑んだ。
「じゃからの。お主の気持ちは、ようわかる。大事なものを守るためなら、何でもする。何にでもなる。……ハストの目に汚いものを見せたくない。ハストの手を汚させたくない。その一心じゃったのじゃろう」
「……うん」
「じゃが、ひとつだけ、教えておいてやる」
サリナさまの手が、わたしの頭から、頬に下りてきた。
「ハストはな、いつか、必ず気づく」
わたしの身体が、こわばった。
「あやつは、何かを作っておるあいだは隙だらけじゃが、阿呆ではない。いつか、どこかで、必ず気づく。お主の手が、自分のために汚れておったことに」
「…………」
「そのとき、あやつは、お主を責めはせん。……自分を、責める。自分が気づかなかったせいで、お主に背負わせたと。自分が弱かったせいで、お主の手を汚させたと。そうやって、また、ひとつ、あの碧い炎を、冷たくする」
サリナさまの声は、静かだった。
「あやつの碧はの、守れなかった者の色じゃ。……お主は、その色を、これ以上、濃くしたいか?」
わたしは、首を横に振った。
何度も、何度も、振った。
目の奥が、熱かった。
「……じゃあ、どうしたら、いいの」
声が、震えていた。
「わたし、ほかのやり方、知らない。……消すことしか、知らない。下層で、それしか、教わってこなかった」
「知っておる」
サリナさまは、わたしの頬を、親指で、そっと拭った。いつの間にか、濡れていた。
「じゃから、教えてやる。……今度は、ちゃんとな」
◇
「お主が倉庫で使ったのは、時空魔術のまねごとじゃ」
サリナさまは、切り株から、ぴょんと飛び降りた。
月の光の中で、小さな手のひらを、上に向ける。
その上に、夜露がひとしずく、ふわりと浮かんだ。
浮かんだまま、止まった。
月の光を受けて、まんまるに光る、小さな水の玉。落ちもしない。揺れもしない。まるで、そこだけ、世界から切り取られたみたいに。
「氷の魔術を極めた先で、時間に指がかかる。……理屈としては、正しい。お主は、半年で、そこに指先を引っかけた。大したものじゃ。儂でも、そこに辿り着くのに、もっとかかった」
サリナさまは、水の玉を、指でちょんとつついた。
ぽちゃん、と、水の玉は、草の上に落ちた。
「じゃがな。今のお主のやり方は、危ない」
「……危ない?」
「時間を止めるには、代わりに、何かを払わねばならん。儂の修行部屋は、森の魔素を長い年月かけて溜め込んで、それを払っておる。……じゃが、お主は、何も溜めておらぬ。何も持たぬまま、無理やり、時間を止めた」
サリナさまは、わたしの胸のあたりを、指でとん、と突いた。
「あの倉庫で、汗の粒を止めた、ほんの一瞬。……お主の心の臓も、一拍、止まっておったぞ」
わたしは、息を呑んだ。
覚えていなかった。気づいてもいなかった。
あのとき、わたしは、ガロの顔だけを見ていた。自分の心臓の音なんて、聞いていなかった。……聞く必要なんて、ないと思っていた。わたしの時間なんて、ハストさまのためなら、いくら使っても、よかったから。
「……それでも、いい」
言いかけたわたしの唇に、サリナさまが、小さな指を当てた。
「よくない。お主が倒れたら、誰がハストの周りを見張るのじゃ」
「払ったのは、お主自身の時間じゃ。……あと何度か、同じことをしておったら、お主は、ハストの隣に立つ前に、どこかで、ぱたりと倒れておったじゃろうな」
背中が、ぞくりと冷えた。
ハストさまの隣に、立てなくなる。
それは、消されるより、ずっと、ずっと、怖いことだった。
「じゃから、教えてやる」
サリナさまは、わたしの前に、しゃがみ込んだ。目の高さが、同じになった。
「時空魔術は、止めるための魔術ではない」
「……止めるため、じゃ、ない?」
「届くための魔術じゃ」
サリナさまは、そう言って、わたしの胸に、そっと手を当てた。
「遠くにいる大事な者のところへ。間に合わぬはずの一瞬へ。……届くための魔術じゃ。儂は、それを、間に合わなかったあとで、覚えた」
サリナさまの手が、少しだけ、震えていた。
「お主には、間に合う前に、覚えてほしい」
わたしは、サリナさまの小さな手に、自分の手を重ねた。
「……いつか、ハストさまが、危ないとき」
「うむ」
「……わたし、そこに、届く?」
「届かせてみせる」
サリナさまは、にやりと笑った。いつもの、ハストさまをからかうときの顔だった。
「ただし、条件がある。厳しいぞ」
「……なに」
「ひとつ。次に、誰かを消さねばならぬと思うたときは、先に儂に言え。一人で抱え込むな。……儂は、お主を止めるかもしれん。手伝うかもしれん。それは、そのとき決める」
「……うん」
「ふたつ。あの王女のことは、放っておけ」
わたしの肩が、びくりと跳ねた。
サリナさまは、全部、お見通しだった。
「今日、競技場で、あの娘がハストを見たのじゃろう。……あれは、ハストが自分で片をつけることじゃ。ハストがあの娘の記憶を封じた。ならば、それが解けたときの始末も、ハストがつける。お主の仕事ではない」
「……でも」
「見ておるだけなら、よい」
サリナさまは、わたしの頭を、くしゃくしゃと撫でた。
「見ておるのは、構わん。……お主は、見るのが上手い。下層で、そうやって生き延びてきたのじゃろう。ハストの周りを、よう見ておけ。危ないものが近づいたら、儂に言え。それが、お主の新しい仕事じゃ」
わたしは、しばらく、サリナさまの顔を見つめていた。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「……みっつめは?」
「みっつ」
サリナさまは、少しだけ、意地悪そうに笑った。
「いつか、自分の口で、ハストに言え」
わたしは、固まった。
「今すぐでなくてよい。一年後でも、十年後でもよい。……じゃが、いつか、お主が、汚れた手のままでも、ハストの隣に立てると思えた日が来たら。そのときは、自分の口で、言うのじゃ」
「……ハストさま、きらいに、ならない?」
「ならぬよ」
サリナさまは、即答した。
「あやつはな、儂が拾うてきた子じゃ。……汚れた手の者を、嫌いになるような子には、育てておらん」
◇
月が、少しだけ、西に傾いていた。
サリナさまは、「明日の朝から、修行のやり直しじゃ。早う寝ろ」と言って、母屋のほうへ戻っていった。
その小さな背中が、裏口の扉の向こうに消える直前。
サリナさまは、一度だけ、足を止めて、空を見上げた。
月を見ていた。
何かを、誰かを、思い出しているみたいだった。
唇が、小さく、動いた。何と言ったのかは、聞こえなかった。
それから、サリナさまは、扉の向こうに消えた。
わたしは、一人、切り株の上に残された。
自分の手のひらを、月の光に透かしてみる。
ひんやりとした、朝の湧き水くらいの手。サリナさまが、半年かけて、組み直してくれた手。倉庫で、九人を凍らせた手。ハストさまに、撫でてもらうために、差し出す手。
全部、同じ手。
「……届くための、魔術」
小さく、呟いてみる。
手のひらの上に、夜露がひとしずく、ふわりと浮かんだ。
浮かんで――ほんの一瞬だけ、止まった。
心臓が、どくん、と鳴った。
止まっていない。ちゃんと、動いている。
水の玉が、ぽちゃんと、草の上に落ちた。
「……ふふ」
わたしは、小さく笑った。
ハストさまが、危ないとき。わたしは、そこに届く。
ハストさまが、まだ知らないところで。ハストさまが、まだ気づかないうちに。
ずっと、見てる。
ずっと、そばにいる。
そして、いつか――
母屋の窓から、ハストさまの寝息が、かすかに聞こえた気がした。
わたしは、切り株から立ち上がって、母屋の窓のほうへ、小さく手を振った。
「……おやすみなさい、ハストさま」
月の光の中で、わたしの吐く息が、白く、きらきらと光っていた。




