42 二枚目の、ひび
その朝、一年の教室は、異様な静けさに包まれていた。
いつもなら、始業前の教室は、ラインハルトの陰謀論と、それにツッコむレオンの声で騒がしい。なのに今日は、誰も口を開かない。全員が、背筋を伸ばして、教室の入口のほうを見つめていた。
俺は、窓際の一番後ろの席で、机に突っ伏したまま、片目だけ開けた。
……なんだ?
教室の入口に、一人の女子生徒が立っていた。
三年生の制服。艶やかな髪を、後ろでひとつに束ねている。整った、お淑やかな顔立ち。そして、腰に下げた一振りの剣。
第一王女、レイアーヌ・フォン・フラハイト。
……げ。
俺は、すぐに片目を閉じた。寝たふりだ。俺は空気だ。俺は机の木目だ。
「おはよう。突然ごめんなさいね」
王女様の声は、よく通る、澄んだ声だった。
「フィアット・セルジーネさんは、いるかしら」
教室中の視線が、一斉に、フィアットの席に集まった。
「は、はいっ……! わ、私です、殿下……!」
フィアットが、がたんと椅子を鳴らして立ち上がった。
「学園では、殿下はやめてって言ったでしょう?」
王女様は、くすりと笑って、フィアットの席まで歩いてきた。それから、フィアットの腰の剣に、まっすぐ視線を向けた。
「――それが、噂の剣ね」
「う、噂……ですか?」
「ええ。昨日から、王宮の鍛冶場がその話で持ちきりなの。錬成帝が三日三晩、炉の前から離れずに鍛えた剣。白鋼を使った、一年生の女の子の剣。……最後の一打ちは、持ち主が自分で打ったって」
ラーク。お前、本当にどこまで言いふらしてんだ。
「見せてもらっても、いいかしら」
フィアットは、少しだけためらってから、剣を鞘ごと外して、両手で差し出した。
王女様は、それを受け取って、ほんの少しだけ、鞘から刃を覗かせた。
白鋼の淡い銀色が、朝日を受けて光る。
王女様の目が、きらきらと輝いた。
……あ、これ、駄目なやつだ。
俺は知っている。陛下から、さんざん聞かされている。この王女様は、お淑やかな見た目に反して、剣のことになると、完全に頭のネジが飛ぶ。いわゆる、姫騎士脳だ。
「――素敵」
王女様は、うっとりと呟いた。
「刃の奥で、光がまっすぐに通ってる。こんな剣、見たことないわ。……ねぇ、セルジーネさん」
「は、はい」
「今日の放課後、一本だけ、手合わせしてくれないかしら。この剣と、私の剣で」
教室が、ざわっと揺れた。
「じゅ、順位戦の再戦……!?」
「いや、ただの手合わせだろ……!?」
「第一王女殿下と、優勝者の……!?」
フィアットが、困ったように、ちらりとこちらを見た。
俺は、机に突っ伏したまま、ほんの少しだけ、首を横に振った。
――やめとけ。
王女様の剣は、俺が打ち直した剣だ。刃の奥に、俺の覇権の碧い残り香が残っている。そして、その剣と鍔迫り合いをした順位戦の準々決勝で、王女様の記憶の封印に、ひびが一枚入った。
もう一度、あの剣とフィアットの剣が、正面からぶつかったら。
フィアットは、俺の首振りを見た。
そして、少しだけ考えて、王女様に向き直った。
「……光栄です。お受けします」
おい。
「ありがとう! じゃあ、放課後、競技場でね」
王女様は、嬉しそうにフィアットの手を両手で握った。それから、くるりと振り返って、教室を出ていこうとして――
ふと、足を止めた。
その視線が、教室の一番後ろ。窓際の隅の席に、向いていた。
俺の席だった。
「……あなた」
王女様が、首を傾げた。
「前に、どこかで、会ったかしら」
教室中の視線が、今度は、俺に集まった。
ラインハルトが「は? ハストが? 殿下と?」と、目を剥いている。
俺は、ゆっくりと顔を上げて、全力で寝ぼけた顔を作った。
「……ふぁ……え? 俺っすか? いや、たぶん、人違いじゃないっすかね……。俺、万年最下位なんで……王女様とお会いするような機会、ないっす……」
王女様は、しばらく、じっと俺の顔を見つめていた。
まっすぐな、剣みたいな目だった。
「……そう。ごめんなさい。気のせいね」
王女様は、小さく微笑んで、今度こそ教室を出ていった。
扉が閉まった瞬間、教室中が、爆発したみたいに騒がしくなった。
俺は、もう一度、机に突っ伏した。
隣の席から、ひんやりとした指が、俺の袖を、きゅっと掴んでいた。
◇
「――なんで受けたんだよ」
昼休みの屋上。俺は、フィアットに詰め寄っていた。
手すりの根元では、セルカの氷の花が、昼の日差しを受けてきらきらと光っている。
「ハスト様が、やめとけって首を振ったのは、わかってました」
フィアットは、自分の剣の柄に、そっと手を当てた。
「でも、殿下の剣が、ハスト様の打ち直した剣だってことも、私には見えてます。準々決勝のとき、殿下の様子がおかしくなったのも。……それが、ハスト様の秘密と関係してることも、なんとなく、わかってます」
俺は、言葉に詰まった。
この子は、本当に、よく見ている。
「だからこそ、です」
フィアットは、まっすぐに俺を見た。
「断ったら、殿下は、きっと、別の誰かに頼みます。もっと強い人に。もっと、思いきり剣をぶつけてくる人に。……それなら、私がやります。私なら、ぶつかる前に、止められます。この剣は、止まる剣ですから」
……ああ、そうか。
こいつは、俺の秘密を守るために、受けたんだ。
「……無茶すんなよ」
「はい。……無茶しないように、無茶します」
「それ、無茶って言うんだよ」
フィアットは、くすっと笑った。
その横で、セルカが、何も言わずに、手すりの向こうの空を見つめていた。
◇
放課後の競技場には、思っていたより、ずっと多くの生徒が集まっていた。
第一王女と、順位戦の優勝者。噂は、昼休みのうちに学園中に広がっていたらしい。観客席の半分近くが埋まっている。
生徒会席には、アイシャ会長の姿まであった。目が合うと、ぶんぶんと手を振ってきた。……あの人も来たのか。
俺とセルカは、観客席の一番後ろの、一番目立たない隅に座っていた。
「――始めましょうか」
白砂の上で、王女様が、剣を抜いた。
刃の奥に、碧い残り香。俺の色だ。フィアットの目には、たぶん、はっきりと見えている。
フィアットも、白鋼の剣を抜いた。
二人が、構える。
王女様は、正眼。フィアットは、右肩の上に担ぐ構え。
審判役の上級生が、手を挙げた。
「――始めッ!」
王女様が、踏み込んだ。
速い。順位戦の準々決勝よりも、さらに一段速い。白砂が、踏み込んだ足の形に、くっきりと沈んだ。
フィアットの輪郭が、ふっと揺らいだ。幻術。剣の軌道だけを三本に分けて見せる、薄い幻。
王女様の剣は、幻を見なかった。
三本のうちの、本物の一本へ。迷いもなく、まっすぐに。まるで、剣そのものが、本物の在り処を知っているかのように。
フィアットは、それを受けなかった。
刃が触れる寸前、手首をわずかに返す。白鋼の刃が、王女様の剣の腹に、斜めに滑り込む。触れたのは、ほんの一瞬。王女様の剣は、自分の勢いのまま、フィアットの肩の横を素通りしていった。
振り終わりで、フィアットの剣が止まる。止まった場所から、もう半歩、横へ。
王女様が、即座に剣を返す。切り上げ。フィアットは、また流す。突き。流す。横薙ぎ。剣先を下げて、その下をくぐる。
観客席が、どよめいた。
フィアットは、一度も、王女様の剣と正面からぶつかっていなかった。触れるのは、いつも一瞬。刃の側面同士を、羽根でも撫でるように擦らせて、すぐに離れる。鍔迫り合いには、絶対に持ち込まない。
……上手い。
俺は、思わず拳を握っていた。
フィアットはわかっている。正面からぶつからなければ、刃の奥の碧は、目を覚まさない。
王女様の顔に、笑みが浮かんでいた。追っても追っても届かない相手を前にした、心の底から楽しそうな、剣士の顔だった。
「――すごい。全部、流される」
息を弾ませながら、王女様が言った。
「でも、セルジーネさん。それじゃあ、いつまでも勝てないわよ」
「……っ」
「次は、受けて」
王女様の剣が、すっと上段に上がった。
構えが、変わった。重心が、前足に乗り切っている。これまでの、相手を探る剣ではない。一太刀で決めに来る剣だ。
真っ向からの、振り下ろし。
横にも、下にも、逃がす隙間のない、まっすぐな一撃。
フィアットなら、避けられた。後ろへ一歩跳べば、届かない距離だった。
でも、フィアットは、跳ばなかった。
――その一歩後ろに、審判役の上級生が立っていたからだ。
フィアットが退けば、王女様の剣は、そのまま審判の頭上へ落ちる。王女様なら、寸前で止めるだろう。たぶん。けれど、フィアットは、その「たぶん」を許さなかった。
フィアットが、剣を横一文字に掲げた。
真正面から、受けた。
衝撃が、フィアットの膝を沈ませた。白砂が、足元で、波紋のように弾ける。
刃と刃が、噛み合っていた。
鍔迫り合い。
その瞬間だった。
フィアットの剣が、鳴った。
工房の裏の庭で聞いた、鈴を振ったような、細く澄んだ音。白鋼の奥に沈んでいた光の線が、刃の表面に浮かび上がる。
そして――噛み合った王女様の剣の奥で、碧い残り香が、応えるように、脈を打った。
一度。
俺の背筋を、冷たいものが走った。
二度。三度。心臓の鼓動みたいに、規則正しく。
王女様の目が、大きく見開かれた。
「――あ」
王女様の唇から、小さな声が漏れた。
剣を握る手から、力が抜けていく。
「……夜の、道」
王女様が、うわごとのように呟いた。
「……大きな、熊。……碧い、炎。……背の低い、男の子が……」
フィアットが、とっさに剣を引いた。王女様の剣が、白砂の上に落ちた。
「……『覇王』様の、前に……」
王女様が、膝から崩れ落ちた。
「殿下っ!!」
フィアットが、王女様の身体を抱きとめた。
観客席が、騒然となる。審判役の上級生が駆け寄る。生徒会席から、アイシャ会長が飛び降りてくる。
俺は、観客席の隅で、立ち上がりかけていた。
――行くな。
頭の中の、冷静な部分が、そう言っていた。ここで俺が駆け寄れば、万年最下位の生徒が、なぜか第一王女のもとへ真っ先に走ったことになる。
俺は、拳を握りしめて、その場に立ち尽くした。
フィアットの腕の中で、王女様が、うっすらと目を開けた。
その視線が、競技場の中を、ゆっくりと彷徨った。
観客席。生徒会席。審判。アイシャ会長。
そして――観客席の、一番後ろの、一番目立たない隅で。
止まった。
俺と、目が合った。
「……あお、い……」
王女様の唇が、そう動いた。
それから、すうっと、目を閉じた。
◇
王女様は、保健室に運ばれた。
ただの軽い貧血、ということになった。目を覚ました王女様は、手合わせの途中からのことを、何も覚えていなかった。「少し、はしゃぎすぎたみたい」と、恥ずかしそうに笑っていたらしい。
夕方の屋上で、俺は、手すりにもたれて、空を見上げていた。
「……二枚目だね」
隣で、シュベルトが言った。連絡したら、すぐに転移で来た。
「あぁ」
「一枚目は、順位戦の準々決勝。二枚目は、今日。……間隔が、短すぎる」
「わかってる」
「原因は、たぶん、フィアットちゃんの剣だね。あの剣が鳴ったとき、殿下の剣の碧が、応えるように脈打った。……君の色が、君の色じゃない光に、引っ張られてる」
俺は、黙って、空を見ていた。
封印は、何十枚も重ねてある。二枚剥がれたくらいで、全部の記憶が戻るわけじゃない。
でも。
「……『覇王』様の前に出ちゃったら、終了だぜ」
俺は、呟いた。
あの夜、熊を倒したあと、俺が独り言のつもりで口にした言葉だ。物陰で、王女様が聞いていた。二枚目の封印の下に、それがあった。
「次の一枚が剥がれたら、たぶん、俺の名前が出てくる」
「……陛下には?」
「さっき、伝言の術式で送った」
返事は、すぐに来た。
俺は、懐から、一枚の紙を取り出した。陛下の、走り書きの字。
『娘が、自分の剣で思い出そうとしているなら、無理に止めるな。あれは、そういう子だ。……そのときは、はっす〜の口から、ちゃんと話してやってくれ。娘を頼む。――アーク』
シュベルトが、横からそれを覗き込んで、小さく笑った。
「陛下らしいね」
「……面倒くせぇ親子だよ、本当に」
俺は、紙を折りたたんで、懐にしまった。
手すりの根元で、セルカの氷の花が、夕日を受けて、橙色に光っていた。
◇
――見えた。
あのお姫さまが、最後に、ハストさまを見たのが。
わたしは、観客席の一番後ろで、ハストさまの隣に座っていた。だから、見えた。お姫さまの目が、競技場の中をぐるりと回って、ハストさまのところで、ぴたりと止まったのを。
「あおい」って、言った。
ハストさまの、炎の色。
……あのお姫さまは、ハストさまの秘密に、触ろうとしている。
わたしは、自分の指先を見つめた。白い冷気が、ゆらゆらと、立ち昇っていた。
――消せば、いい。
一瞬だけ、そう思った。
倉庫の子たちと、同じように。音も、匂いも、何も残さずに。
でも。
あのお姫さまは、国王さまの、娘。国王さまは、ハストさまのことを「はっす〜」って呼んで、笑ってくれる人。ハストさまは、国王さまのことを、たぶん、好き。
あのお姫さまが消えたら、国王さまは、泣く。国王さまが泣いたら、ハストさまも、きっと、悲しい顔をする。
……だめ。それは、だめ。
わたしは、指先の冷気を、ぎゅっと握りつぶした。
ハストさまの大事なものを守るために、ハストさまの大事なものを、壊したら、意味がない。
じゃあ、どうしたらいい?
わからない。
わからないから――
わたしは、保健室のある校舎のほうを、じっと見つめた。
――見てる。
ずっと、見てる。
あのお姫さまが、ハストさまの秘密に、どこまで近づくのか。ハストさまを、傷つけないかどうか。
ずっと、ずっと、見てる。
ハストさまが、わたしの頭を撫でてくれる、その手が、汚れないように。




