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41 父の剣、娘の剣

「――ぐすっ……ひぐっ……うおおおおおおん……!!」


セルジーネ家の食堂に、大の男の号泣が響き渡っていた。


王国屈指の名門、セルジーネ家の当主。貴族界でその名を知らぬ者はいないと言われる剣士、ルキウス・セルジーネ。


その人が、布に包まれた一振りの剣を胸に抱きしめて、テーブルに突っ伏して泣いていた。


「お、お父様……そんなに泣かなくても……」

「泣くに決まっているだろうフィアットォ……!! お前が、お前が、この剣を返しに来たということは……!! もう、父の剣はいらないということだろう……!! お前が、父の手を離れて、一人で歩き出してしまうということだろう……!!」

「ち、違います! いや、違わないですけど! 言い方!」

「うおおおおおん……!!」


俺は、斜め向かいの席で、黙ってスープを啜っていた。


……予想通りすぎる。


フィアットが「今夜お返しします」と言ったとき、俺は「泣くだろうな。確実に」と答えた。その結果がこれだ。確実どころの騒ぎじゃない。


「あらあら。あなた、お客様の前ですよ」


上座の隣で、フィアットの母、エレオノーラさんが、困ったように頬に手を当てていた。フィアットとよく似た、蒼い髪の、穏やかな人だ。順位戦の前の二週間、俺や頂天者たちを毎晩のように夕飯に招いてくれた人でもある。


今夜も、フィアットが剣を返すついでに、「ハスト君とセルカちゃんもぜひ」と招待してくれたのだった。


「……ハストさま」


隣の席のセルカが、俺の袖をくいっと引いた。


「……あの人、いつも、ああなの?」

「フィアットが絡むと、だいたいああなる」

「……ふうん」


セルカは、少しだけ首を傾げて、泣きじゃくるルキウスさんを見つめていた。それから、ぽつりと言った。


「……いいな」

「ん?」

「……なんでもない」


セルカは、スープの皿に視線を落とした。エレオノーラさんのスープ。順位戦の打ち上げの夜、セルカが「あったかい」と言った、あのスープだ。


……そうか。


こいつには、自分のために泣いてくれる父親なんて、いなかったんだよな。


俺は、何も言わずに、自分の皿のパンを一つ、セルカの皿に乗せた。セルカは、ちらりと俺を見て、それから、パンを両手で持って、小さく齧った。


◇


「――フィアット」


ひとしきり泣いたあと、ルキウスさんは、ようやく顔を上げた。


目は真っ赤に腫れていた。でも、その奥にある光は、さっきまでの泣き虫の父親のものじゃなかった。


剣士の目だった。


「その剣を、見せてくれるか」


フィアットの背筋が、すっと伸びた。


「……はい」


フィアットは、腰の剣を、鞘ごと外して、両手でルキウスさんに差し出した。


ルキウスさんは、受け取った剣を、ゆっくりと鞘から抜いた。


白鋼の刃が、食堂の燭台の光を受けて、淡い銀色に光った。その奥で、青白い光が、静かに沈んでいる。


ルキウスさんは、しばらく、何も言わなかった。


刃を、ゆっくりと傾ける。光の当たり方が変わるたびに、鋼の奥の光の線が、かすかに揺れた。それから、柄を握り直して、切っ先を天井に向けて、重心を確かめる。


「……軽いな」

「重心を、鍔から指三本ぶん先にしてもらったんです。振り終わりで、剣のほうから止まってくれて」

「いや。重さのことではない」


ルキウスさんは、刃から目を離さないまま、言った。


「迷いがない、という意味だ。……この剣は、自分がどこを向けばいいのか、もう知っている」


フィアットが、息を呑んだ。


ルキウスさんは、剣を鞘に納めて、フィアットに返した。それから、ゆっくりと立ち上がった。


「庭に出なさい、フィアット」

「え……?」

「父の剣と、娘の剣。一度だけ、合わせてみたい」


食堂が、しんと静まり返った。


エレオノーラさんが、小さく息をついて、微笑んだ。止める気は、最初からないらしい。


フィアットは、しばらく父親の顔を見つめていた。


それから、ゆっくりと立ち上がって、剣の柄を握った。


「……はい。お願いします、お父様」


◇


セルジーネ家の中庭は、月の光で白く照らされていた。


刈り込まれた芝生。噴水の水音。夜の空気は、少しひんやりとしている。


芝生の真ん中に、二人が向かい合って立っていた。


ルキウスさんの手には、さっきフィアットが返したばかりの、セルジーネ家の剣。フィアットの手には、白鋼の剣。


俺とセルカとエレオノーラさんは、回廊の柱の陰から、それを見ていた。


「……ハストさま」

「ん」

「……フィアット、勝てる?」

「さぁな」


俺は、正直に答えた。


「ルキウスさんは、強いぞ。貴族の剣士の中じゃ、たぶん、上から数えたほうが早い。フィアットが順位戦で戦った誰よりも、経験がある」

「……でも、フィアットの剣は、新しい」

「あぁ。だから、わからない」


ルキウスさんが、剣を構えた。


正眼。切っ先は、フィアットの喉元にぴたりと向いている。揺れない。さっきまで娘の前で号泣していた人と、同じ人とは思えない構えだった。


重心は、わずかに後ろ足。肩の力は抜けているのに、肘から先だけが、鉄で固めたみたいに動かない。何十年も、同じ構えを、同じ角度で取り続けてきた人の構えだ。隙を探そうとすると、目のほうが先に疲れる。


フィアットも、構えた。右肩の上に担ぐように。工房の裏の庭で、セルカの氷の柱を斬ったときと、同じ構え。


二人のあいだの芝生を、夜風が撫でていった。噴水の水が、月の光を砕きながら落ちていく。


先に動いたのは、フィアットだった。


右足が芝を噛む。担いだ剣が、肩から斜めに滑り落ちる。踏み込みと振り下ろしが、ひとつの動きになっていた。


ルキウスさんは、下がらなかった。


正眼の切っ先を、ほんの拳ひとつぶん持ち上げる。それだけで、フィアットの刃はルキウスさんの剣の鎬の上を滑り、月光の中に細い火花を引いて、外へ流れた。受けたのではない。逸らしたのだ。力ではなく、角度で。


流された勢いのまま、フィアットの身体が半身に開く。


そこへ、返しが来た。


セルジーネ流の返し。逸らした刃をそのまま手首で返し、開いた胴を横一文字に薙ぐ。教本の一頁目に載っている、誰でも知っている技。それを、誰にも真似できない速さで。


フィアットは、下がって避けた。


――いや。


俺の目には、見えた。フィアットの剣は、最初の振り下ろしが終わった位置で、ぴたりと止まっていた。手首で止めたのではない。剣のほうから止まった。だから、フィアットは止めるために力を使っていない。その余った分だけ、足が先に動いた。


手首で止めて、構え直して、次へ。普通なら三拍かかるものが、一拍で済んでいる。


ルキウスさんの薙ぎが、フィアットの裾を、紙一枚ぶんで掠めていった。


二の太刀、三の太刀。


ルキウスさんは、手を休めなかった。袈裟、逆袈裟、突き。どれもが、相手の次の一歩を読み切ったうえで、その一歩が着く場所へ、先に置かれている。


フィアットは、それをひとつずつ外していった。弾かない。受けない。剣の腹を相手の剣の側面にそっと添えて、軌道をほんの指一本ぶんだけずらす。ずらした先で、剣が止まる。止まった場所から、もう次の構えが始まっている。


月光の下で、二本の剣が、触れては離れ、離れては触れた。鋼と鋼が擦れる、かすかな吐息のようなものだけが、噴水の水音にまぎれていた。


ルキウスさんの目が、わずかに見開かれた。


「……その剣」


刃を交えたまま、ルキウスさんが低く言った。


「止まる場所が、お前の次の一歩の場所になっているのか」

「はいっ……!」

「誰が考えた」

「線を引いたのは、ハスト様です! でも――」


フィアットが、半歩、深く踏み込んだ。


ルキウスさんの間合いの、さらに内側。剣士なら誰もが嫌う、近すぎる距離。


「――振っているのは、私です!」


剣が、下から跳ね上がった。


狙ったのは、ルキウスさんの身体ではなかった。鍔元。剣を握る拳の、指一本上。


ルキウスさんの剣が、手の中で小さく跳ねた。


ほんの一瞬。瞬きよりも短い、握り直しのための空白。


その空白が閉じるより先に、フィアットの切っ先は、ルキウスさんの喉元の、指一本手前に、ぴたりと届いていた。


剣が、自分から止まった位置だった。


噴水の水音だけが、中庭に響いていた。


「…………」


ルキウスさんは、喉元の切っ先を、しばらく見下ろしていた。


それから、ゆっくりと、剣を下ろした。


「……参った」


フィアットの肩が、大きく上下していた。それから、剣を下ろして、深く、深く、頭を下げた。


「……ありがとう、ございました」


ルキウスさんは、何も言わずに、フィアットの頭に手を置いた。


大きな手だった。剣ダコだらけの、ごつごつした手。


「……その剣は、もう、お前の手だな」


ルキウスさんの声は、少しだけ、震えていた。


「父の剣では、お前の道の先には、届かなかった。……それでいい。それが、正しい」


フィアットが、顔を上げた。目に、涙がいっぱいに溜まっていた。


「お父様……」

「――ただし!!」


ルキウスさんが、くわっと目を見開いた。


さっきまでの感動的な空気が、一瞬で吹き飛んだ。


「父は!! まだ!! お前を嫁にやる気は!! これっぽっちもないからな!!」

「誰もそんな話してません!!」

「この剣を打ったのは誰だ!? 線を引いたのは誰だと言った!? ハスト君だろう!? 娘の手に合わせて!! 娘の指をなぞって!! 図面を引いたと聞いたぞ!!」

「なんで知ってるんですか!?」

「ラーク殿が、ここ数日、鍛冶ギルドで泣きながら言いふらしていたそうだ!! 『親父がお嬢の手を、あんなに優しく……!!』と!!」


あの野郎。


俺は、回廊の柱の陰で、静かに天を仰いだ。


「ハスト君ッ!!」


ルキウスさんが、ぐりんっとこちらを向いた。


「娘の手を握ったのか!? 握ったのかね!?」

「握ってないです。手のひらを見ただけです」

「見ただけ!? なぞったと聞いたが!?」

「……マメの位置を確認しただけです」

「マメの位置ッ!! 父ですら、娘のマメの位置など知らんというのにッ!!」

「あなた」


エレオノーラさんの、穏やかな、でも有無を言わせない声が響いた。


「お客様に、失礼ですよ」


ルキウスさんは、ぴたりと止まった。


それから、しゅんと肩を落として、「……はい」と小さく答えた。


……この家の本当の最強は、たぶん、この人だ。


セルカが、俺の袖を、くいくいっと引いていた。


「……ハストさま」

「ん」

「……フィアットの手、なぞったの?」

「マメの位置を見ただけだって」

「……ふうん」


セルカの指先から、ほんの少しだけ、白い冷気が漏れていた。回廊の柱に、小さな霜の花が、ひとつ咲いた。


……なんで俺の周りは、こうなんだ。


◇


食後。


食堂の暖炉の前で、ルキウスさんが、毎日王都新聞を広げていた。俺は、エレオノーラさんが淹れてくれた紅茶を飲みながら、ぼんやりと暖炉の火を眺めていた。


フィアットは、エレオノーラさんと台所で片付けをしている。セルカは、それを手伝うと言って、ついていった。


「……ふむ」


ルキウスさんが、新聞の隅の小さな記事に目を留めた。


「妙な記事があるな、ハスト君」

「妙な記事?」

「西区の旧倉庫街で、使われていない倉庫の鉄の扉が、一夜にして消えたそうだ。盗まれたのではなく、消えた。現場には、季節外れの霜が残っていたらしい」


俺の手が、ほんの少しだけ止まった。


「……霜、ですか」

「あぁ。王宮騎士団は、先日の西区銀行強盗事件との関連を調べている、とある。あの事件の現場にも、霜が残っていたそうだからな」


西区銀行強盗事件。


順位戦の前に、エトワールの新聞で見た記事だ。そして、その犯人たちは――セルカのシマの連中だった。


あの日、最下層で、俺が、ほとんど消した。


ほとんど、だ。


……残党か?


別の仕事で外に出ていた奴らが、何人か残っていてもおかしくはない。そいつらが、何かの拍子に揉めて、仲間割れでもしたのか。あるいは、どこかへ逃げる前に、アジトを片付けていったのか。


どちらにしても、一度、シュベルトと確認しておいたほうがいいかもしれない。もし、まだフィアットを狙っている奴がいるなら――


「……ハストさま」


いつの間にか、セルカが、俺の椅子の横に立っていた。


手には、焼き菓子の乗った小皿。


「……エレオノーラさまが、ハストさまに、って。……わたしも、ちょっとだけ、手伝った」

「お、おう。ありがとな」


小皿を受け取ると、セルカは、俺の椅子の肘掛けに、ちょこんと腰を下ろした。


「……ハストさま。これ、型抜き、わたしがした」


焼き菓子は、どれも、ちょっといびつな星の形をしていた。一つだけ、妙に丁寧に抜かれた、花の形が混じっている。


「この花のやつ、上手いじゃん」

「……ハストさまの、ぶん」


セルカは、俺の手の上の小皿を、じっと見つめていた。食べるところを見たい、という顔だった。


俺は、花の形の焼き菓子をつまんで、口に放り込んだ。


さくっ、と軽い音。バターの香りと、ほんのりとした甘さ。


「……うまい」


セルカの顔が、ふわっと緩んだ。


それから、俺の肩に、こてんと頭を乗せてきた。


「……ハストさま」

「ん」

「……今日、いっぱい、がんばった。型抜き」

「あぁ。偉い偉い」


頭を撫でてやると、セルカは目を閉じて、満足そうに、小さく息を吐いた。


暖炉の火が、ぱちぱちと鳴っていた。焼き菓子の甘い匂いが、部屋に満ちていた。


ルキウスさんが、新聞の向こうから、なぜか生温かい目でこちらを見ていた。


「……ハスト君。君は、うちの娘だけでなく、そちらのお嬢さんまで……」

「違います」

「まだ何も言っていないが」

「言わなくてもわかります」


――結局、その夜、俺は、新聞の記事のことを、すっかり忘れて帰った。


思い出したのは、ずっと、ずっと後になってからのことだ。


◇


帰りの夜道。森の家へと続く、月明かりの小道。


俺の少し後ろを歩いていたセルカが、ふと立ち止まって、王都のほうを振り返った。


西区の方角。旧倉庫街のある方角。


「……ハストさま」

「ん? どうした」


セルカは、しばらく、その方角を見つめていた。


それから、くるりと振り返って、ちょこちょこと駆け寄ってきて、俺の手を、ぎゅっと握った。


ひんやりとした、朝の湧き水くらいの、いつもの冷たさ。


「……なんでもない。……さっきの、五十回目。忘れないように、してた」

「は? 何の話だ」

「……なんでもない」


セルカは、俺の手を握ったまま、小さく笑った。


その笑顔は、月明かりの下で、妙に、きれいに見えた。

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