39 鉄の音が鳴っているあいだに
放課後の教室で、俺は、ひとつの疑問に直面していた。
フィアットの機嫌が、悪い。
いや、正確に言うと、悪いのかどうかすら、よくわからない。顔は笑っている。声も明るい。返事もちゃんとする。ただ、昼休みが終わって屋上から戻ってきてから、ずっと、背後にうっすらと黒い靄みたいなものが漂っている。
あれは、まずい。
前にあの靄を見たのは、順位戦の日だ。セルカを連れて戻ってきた俺に、フィアットが三行での弁明を要求してきたとき。
「……ハスト様。準備、できました」
フィアットが、鞄を肩にかけて、俺の机の前に立った。にっこり。目は、ちゃんと笑っている。……笑っている、よな?
「お、おう。じゃあ、行くか」
今日は、約束の日だ。フィアットの剣を打つために、ラークの工房へ行く。
立ち上がろうとしたところで、袖を、くいっと引かれた。
隣の席のセルカだった。
「……ハストさま」
「ん。セルカも来るか? ラークの奴、お前のこと『姐さん』って呼んでたし、喜ぶと思うぞ」
セルカは、ふるふると首を横に振った。
「……今日は、フィアットの剣の日。わたしは、先に、森の家に帰る」
意外だった。てっきり、ついてくるものだと思っていた。
「サリナさまに、読み書きの宿題、出されてるから」
「あぁ、そっか。……偉いな」
頭を撫でてやると、セルカは、少しだけ目を細めた。それから、俺の袖を離して、フィアットのほうを見た。
二人の視線が、ぶつかった。
ほんの一瞬だった。でも、教室の空気が、ほんの少しだけ、冷えた気がした。
「……フィアット」
「……なんでしょう、セルカさん」
「……屋上の、花。見た?」
フィアットの肩が、ぴくりと跳ねた。背後の黒い靄が、ぶわっと一回り大きくなった。
「……ええ。見ましたとも。とってもきれいでしたね。手すりの根元の、ハスト様がいつも寝転がっている、すぐ横に。ええ。五分くらい、見てましたとも」
「……そう」
セルカは、それだけ言って、鞄を持って立ち上がった。教室の扉の前で、一度だけ、振り返る。
「……ハストさま。気をつけて、いってらっしゃい」
「おう。お前も、気をつけて帰れよ」
セルカは、こくりと頷いて、廊下へ消えていった。
……今の会話、何だったんだ。
フィアットのほうを見ると、黒い靄は、いつの間にか、すっと消えていた。代わりに、何かを考え込むような顔で、セルカが出ていった扉を見つめていた。
「……フィアット?」
「いえ。……行きましょう、ハスト様」
◇
鍛冶通りは、相変わらず、鉄の音で満ちていた。
石造りの工房が、ずらりと並ぶ。どの扉の奥からも、炉の熱気と、規則正しい槌の音。夕方の通りには、仕事帰りの職人や、剣を引き取りに来た冒険者たちが行き交っている。
フィアットは、学園の制服の上から、腰に一振りの剣を下げていた。父親のルキウスから譲り受けた、セルジーネ家の剣だ。
「……ハスト様」
並んで歩きながら、フィアットが、ぽつりと言った。
「屋上の、あのお花」
「ん? あぁ、セルカの氷の花か。きれいだろ、あれ」
「……ええ。きれいでした」
フィアットは、前を向いたまま、言葉を続けた。
「ハスト様が、ご自分の一番好きな場所に、誰かのものを置くの。……初めて、見ました」
俺は、少しだけ返事に困った。
「……悪かったか?」
「いいえ」
フィアットは、首を横に振った。その横顔は、思っていたより、ずっと穏やかだった。
「悔しいです。すっごく悔しいです。昼休みに、五分くらい、あの花の前で、溶かしてやろうかと本気で考えました」
「物騒だな!?」
「でも、溶けませんでした。……たぶん、溶かそうとしても、溶けなかったと思います」
フィアットは、胸元に手を当てた。制服の内ポケットのあたり。そこには、たぶん、この前、俺があげたラベンダーの匂い袋が入っている。
「だから、決めました。私は、私のやり方で、ハスト様の一番近くに立ちます。……今日、剣を打ってもらうのも、その一歩です」
そう言って、フィアットは、俺のほうを見上げて、にっこりと笑った。今度こそ、目も、ちゃんと笑っていた。
……こいつは、本当に、強くなったな。
順位戦の前の、震える手で剣を握っていた子と、同じ人間とは思えない。
「……あぁ。いい剣にしような」
「はいっ!」
通りの一番奥。他のどの工房よりも大きな煙突から、真っ白な煙が、まっすぐ空へ昇っていた。
その工房の扉が、俺たちが近づくより先に、内側から、ものすごい勢いで開いた。
「親父ィィィィィィィ!!!!」
来た。
褐色の肌。作業着。丸太みたいな腕。短い黒髪に、くっきりした目鼻立ち。錬成帝、ラーク・ドルクが、両腕を広げて、地響きを立てながら、こちらへ突進してきた。
俺は、半歩だけ横にずれた。
ラークは、そのまま俺の横を通り過ぎて、向かいの工房の壁に、顔から突っ込んだ。
ゴシャァッ!!
「……ハ、ハスト様。今の、大丈夫なんですか……?」
「大丈夫。あいつ、鉄より硬いから」
壁から顔を引き剥がしたラークは、鼻血ひとつ出していなかった。むしろ、壁のほうがへこんでいた。向かいの工房の親方が、無言で、壁の修理代の請求書を書き始めていた。
「親父!! 昨日はなんで逃げたんスか!! オレ、一晩中、王都中を探し回ったんスよ!!」
「お前が地響き立てて追っかけてくるからだよ」
「愛ッス!!」
「重いんだよ」
ラークは、俺の言葉なんて一切聞いていない顔で、ばっとフィアットのほうへ向き直った。
「で!! こちらが!! 親父のパートナーの!!」
「は、はい。フィアット・セルジーネです。よろしくお願いします」
フィアットが、ぺこりと頭を下げた。
ラークは、フィアットの顔をじっと見つめた。それから、はっとしたように目を見開いた。
「……もしかして。姐さんが言ってた、『一番目』の……!!」
「……一番目」
フィアットの動きが、止まった。
「姐さんから聞いてるッス!! 『一番目は、フィアット。剣がまっすぐで、ちょっとうるさい』って!!」
「……ちょっとうるさい」
フィアットの口元が、ぴくぴくと引きつった。でも、その目は、ちょっとだけ、嬉しそうだった。『一番目』の部分が効いたらしい。
「じゃあ、お嬢ッスね!! 親父の一番目のパートナーなら、オレにとってはお嬢ッス!! お嬢の剣、オレの全身全霊で炉を焚かせてもらうッス!!」
「お、お嬢……」
フィアットは、困ったように俺のほうを見た。俺は、黙って肩をすくめた。諦めろ。こいつは、そういう奴だ。
◇
工房の中は、外よりもさらに熱かった。
奥の壁一面を占める、巨大な炉。その中で、白に近い橙色の炎が、ごうごうと唸っている。壁には、無数の槌と鉄ばさみ。棚には、色も質感も違う鉄の塊が、ずらりと並べられていた。
「すごい……」
フィアットが、目を丸くして、工房の中を見回していた。
「さて。始めるか」
俺は、作業台の上に、一枚の大きな紙を広げた。
「フィアット。まず、今の剣で、素振りを十本。いつも通りでいい」
「はいっ」
フィアットは、工房の真ん中の、少し開けた場所に立った。セルジーネ家の剣を抜く。構える。
一本。二本。三本。
俺は、その振りを、じっと見つめた。
剣の軌道。足の踏み込み。手首の返し。肩の高さ。振り終わりの、ほんのわずかな揺れ。
……やっぱりだ。
剣が、ほんの少しだけ、重心より先に走っている。だから、振り終わりで、フィアットは無意識に手首で剣を止めている。父親の手に合わせて作られた剣だ。柄が、ほんの少しだけ太い。重心が、ほんの少しだけ先にある。
「……十本、終わりました」
「よし。手、見せてみろ」
フィアットが差し出した手のひらを、俺は、指でなぞった。マメの位置。指の長さ。握ったときの、指の関節の曲がり方。
「ハ、ハスト様……くすぐったい、です……」
「我慢しろ。大事なところだから」
フィアットの顔が、みるみる赤くなっていった。後ろで、ラークが「親父、さすがッス……!!」と、なぜか涙ぐんでいた。
俺は、紙の上に、さらさらと線を引き始めた。
刃の長さ。身幅。反りの有無。柄の太さ。鍔の形。重心の位置。
線を一本引くたびに、頭の中で、フィアットの振りが再生される。この剣を、この子が振ったら、どうなるか。どこで止まって、どこで走って、どこで、この子の道を、まっすぐに指すか。
ふと気づくと、工房の中の音が、遠くなっていた。
炉の唸る音。ラークが鉄の塊を選ぶ音。フィアットの息遣い。全部、どこか遠くで鳴っている。
いつものことだ。台所で包丁を握っているときと、同じ。何かを作り始めると、俺の耳は、作っているもの以外の音を、勝手に閉じてしまう。
ロリババアには、昔からよく言われた。「お前は、手を動かしているあいだだけは、本当に隙だらけだ」と。
――その日、王都の、ほんの数区画先で、何が起きていたのか。
俺は、知らない。
◇
ハストさまは、鉄の音が鳴っているあいだは、他の音が、聞こえなくなる。
森の家の台所で、知った。
ハストさまが、パンを切っているとき。わたしが、後ろから、どれだけ近づいても、気づかない。背中に、ぴとりとくっついても、「ん」としか言わない。サリナさまに聞いたら、「あの子は、昔からそうなのよ。何かを作り始めると、この世の全部が、作っているものだけになるの」と、笑っていた。
ハストさまの背中は、パンの匂いがする。
わたしは、それを、ちゃんと覚えている。……覚えているものは、ほかにも、たくさんある。
ハストさまが、わたしの頭を撫でてくれた回数。最下層で、手を差し出してくれた日から、今日の教室まで、四十七回。今日のは、四十七回目。指が、二本だけ、髪の分け目に触れた。いつもより、ほんの少しだけ、短かった。たぶん、フィアットの剣のことを、考えていたから。
それでも、いい。四十七回目も、ちゃんと、ここに残ってる。
わたしは、制服の胸ポケットに、そっと指を当てた。
そこには、あの日のハンカチが入っている。最下層で、泣いていたわたしに、ハストさまが差し出してくれた、ちょっとしわくちゃのハンカチ。返してない。返すつもりも、ない。サリナさまに洗濯物を出しなさいって言われたときも、これだけは、自分で、氷の水で洗った。ハストさまの匂いが、ぜんぶ消えてしまわないように、ほんの少しだけ。
屋上で、二人で食べたサンドイッチの、包み紙。森の家の離れの、わたしの枕元。小さな氷の箱の中で、あの日のまま、凍っている。溶けないように、した。
……こういうの、たぶん、普通じゃない。サリナさまの本で、読んだ。でも、普通なんて、わたしは、最初から持っていなかったから。
ハストさまに撫でてもらうと、胸の奥が、きゅうっと縮む。それから、じわじわと、あったかくなる。冷気しか出せなかったわたしの身体の中に、ハストさまの手のぶんだけ、熱が残る。その熱が消えるまで、わたしは、何もしないで、じっとしている。消えてしまったら、また、次が欲しくなる。四十八回目が。
もっと、撫でてほしい。もっと、褒めてほしい。もっと、「偉いな」って、言ってほしい。
――そのためなら、わたしは、何回でも、汚れていい。
ハストさまの知らないところで、ハストさまのために汚れたぶんだけ、ハストさまは、きれいなままでいられる。
それって、すごく、すてき。
だから、今日だと思った。
ハストさまが、フィアットの剣のことで、頭をいっぱいにしている、今日。
わたしは、森の家には、帰らなかった。
学園の裏門を出て、そのまま、王都の、下へ下へと降りていった。
――朝、学園の裏門の、石の柱に、印がついていた。
白墨で引いた、三本の短い線。それを横切る、一本の斜めの線。
普通の人が見たら、子どものいたずら書きにしか見えない。でも、わたしには、わかる。わたしが、教えた印だから。
『標的、確認済み。決行は、日が沈む前』
あの日、最下層で、ハストさまに、全部、消してもらったはずだった。でも、あの日、別の仕事で外に出ていた子たちが、何人か、いた。わたしの、シマの子たちが。
鍛冶通りから、三区画、西。もう使われていない、古い倉庫。
錆びた鉄の扉の前に立つと、中から、低い話し声が、聞こえてきた。
「……ヴァルドランの伯爵は捕まった。けどな、前金はもう受け取ってる。半分だけな」
「なら、半分の仕事はしなきゃならねぇ。オーダーは絶対だ。あの人が、いつも言ってたことだろ」
「あの人、か。……その『あの人』が裏切ったせいで、シマはこのザマだ」
「だから、なおさらだ。セルジーネの娘の首を、あの人の目の前に転がしてやる。それが、オレたちのけじめだ」
九人。
声の数と、息の数と、床の軋みで、わかる。九人。全員、知っている声だった。
――あぁ。
わたしは、少しだけ、笑った。
あの子たちは、知らないんだ。
フィアットが死んだら、ハストさまが、どんな顔をするのか。
フィアットは、ハストさまの、一番目。ハストさまの、大事なもの。ハストさまが、毎朝、屋上で寝転びながら、空を見て、ちょっとだけ口の端を上げるのは、たぶん、フィアットのことを考えているとき。わたしは、ちゃんと、知っている。
それが、壊されたら。
ハストさまは、きっと、泣かない。泣かないで、また、あの碧い炎を、全部、燃やす。最下層で見た、あの、冷たくて、きれいで、寂しい炎を。
――そんなの、だめ。
ハストさまの炎は、もう、あんなふうに燃えなくていい。ハストさまは、パンを切って、バターを塗って、屋上で寝て、フィアットの剣の線を引いていれば、それでいい。
ハストさまの目に、汚いものは、もう、見せない。
わたしが、ぜんぶ、片づける。
わたしは、錆びた扉に、そっと手のひらを当てた。
朝の湧き水くらいの、ひんやりとした手。サリナさまが、半年かけて、手を焼かない流れに、組み直してくれた手。
――ごめんね、サリナさま。
この手で、また、こういうことをするの。
扉の蝶番が、音もなく、白く凍りついた。それから、扉そのものが、さらさらと、霜の粉になって、崩れ落ちた。
倉庫の中の九つの顔が、いっせいに、こちらを向いた。
「……あ、姐御……?」
一番手前にいた、背の高い男が、呆然と呟いた。ガロ。わたしのシマで、二番目に古い子。ナイフの研ぎ方を、わたしが教えた子。
「……久しぶり、ガロ」
「なんで、あんたが、ここに……」
ガロの目が、わたしの服を見た。学園の制服。サリナさまが付け足した、襟と袖のレース。水色のリボン。
その目が、ゆっくりと、軽蔑の色に変わっていった。
「……はっ。なんだよ、その格好。お貴族様の学校ごっこか? オレたちを売って、自分だけ、日の当たる場所でよろしくやってるってわけか」
「……うん」
わたしは、頷いた。
「わたし、いま、すごく幸せ」
ガロの顔が、ひきつった。後ろの子たちが、それぞれの得物に手をかける。ナイフ。短剣。吹き矢。鉤爪。全部、わたしが、使い方を教えたもの。
「……なら、ちょうどいい。邪魔しに来たってんなら、あんたから先に――」
「ガロ」
わたしは、ガロの言葉を、遮った。
「オーダーは、絶対。……わたしが、教えたね」
「……あぁ」
「だから、新しいオーダー、出す」
わたしは、右手を、軽く振った。
手の中に、透き通った氷のナイフが、ぱきり、と生まれた。前みたいに、手のひらが割れる痛みは、もう、ない。冷気は、手を焼かずに、まっすぐ外へ流れていく。サリナさまの修行のおかげ。
「ハストさまの大事なものに、触ろうとするものは、ぜんぶ、消す」
わたしは、首を、こてんと傾けた。
「――これは、わたしが、わたしに出した、オーダー」
ガロが、一歩、後ずさった。
「……姐御。あんた、なんで……笑って……」
笑ってた?
頬に、指を当てる。口の端が、上がっていた。
……だって、これが終わったら、ハストさまのところに、帰れるから。
最初に動いたのは、右奥の吹き矢の子だった。
わたしが教えた通りの、いい速さ。いい角度。でも、わたしが教えた通りだから、どこに来るのか、全部、わかる。
針は、わたしの頬の、指一本ぶん手前で、凍って、落ちた。
吹き矢の子の喉に、氷のナイフが、すとんと生えた。
二人目と三人目が、左右から同時に来た。短剣の子と、鉤爪の子。挟み撃ち。これも、わたしが教えた。二人で同時に来ると、相手は、どちらか一方にしか対応できないって。
だから、わたしは、どちらにも対応しなかった。
床に、手のひらをついた。
倉庫の床一面に、白い霜が、一瞬で広がった。最下層で見せた、細い川みたいな霜じゃない。屋上で、氷の花を咲かせたときと、同じ。くるりと渦を巻いて、形を変えて。
ただ、今度は、花じゃなかった。
床から、何十本もの、細い氷の茎が、まっすぐ上へ伸びた。茎の先には、花びらの代わりに、鋭い棘がついていた。
二人の足が、止まった。止まった、まま、動かなくなった。
「――ッ、化け物がァ!!」
四人目と五人目が、倉庫の奥へ逃げようとした。
逃がさない。
奥の窓が、内側から、真っ白に凍りついた。扉のなくなった入口も、天井の明かり取りも。倉庫の中の、外へ通じる全部の隙間が、氷で塞がれていく。
音も、外には漏れない。氷は、音も、閉じ込める。
サリナさまに、教わったこと。冷気は、誰かを遠ざけるためだけのものじゃない。誰かに、何かを、あげるためにも使える。
――うん。だから、あげる。
ハストさまに、静かな夕方を。
フィアットに、明日を。
この子たちには、終わりを。
六人目は、泣いていた。七人目は、わたしの名前を呼んでいた。八人目は、最後まで、武器を構えたままだった。
わたしは、全員の顔を、ちゃんと見た。目を逸らさなかった。それが、この子たちに、わたしがしてあげられる、最後のことだったから。
そして、最後に、ガロが残った。
ガロは、壁際に背中をつけて、震える手で、ナイフを握っていた。最下層で、ハストさまの前に立っていた、あの日のわたしと、同じ顔で。
「……なんで、だよ。姐御……。オレたちは、あんたの……家族、だったじゃねぇか……」
「……うん」
わたしは、ガロの前に、しゃがんだ。
「家族、だった。だから、わたしが来た」
ハストさまが来たら、ガロは、ハストさまの炎で燃える。ハストさまは、ガロの顔を見て、きっと、また、少しだけ自分を嫌いになる。ハストさまは、そういう人だから。
それなら、わたしがやる。
わたしの手で。わたしの、知っている顔のうちに。
「……ガロ。最後に、ひとつだけ、教えてあげる」
「……な、にを……」
わたしは、ガロの耳元に、唇を寄せた。
「わたしのハストさまはね。パンを切るのが、すごく、じょうず」
ガロが、何かを言おうとして、口を開いた。
その言葉は、最後まで、出てこなかった。
――ほんの、一瞬。
ガロの身体から、色が抜けたように見えた。落ちかけた汗の粒が、空中で、ぴたりと止まって、動かなくなった。
瞬きを、ひとつ。
汗の粒は、もう、床に落ちていた。
……まだ、指先だけ。
わたしは、立ち上がって、倉庫の中を見回した。
九つの、白い彫像。床から伸びた、棘のある氷の茎。全部、きれいに、凍っていた。血の一滴も、床には落ちていない。匂いも、ない。
わたしは、倉庫の真ん中で、もう一度だけ、床に手のひらをついた。
全部が、さらさらと、霜の粉になって、崩れていった。九つの彫像も、氷の茎も、窓を塞いでいた氷も。
夕方の風が、窓から吹き込んで、白い粉を、空へ運んでいった。
倉庫には、何も、残らなかった。
錆びた鉄の扉が、ひとつ、なくなっただけ。
◇
わたしは、倉庫を出て、制服の裾を、ぱんぱんと払った。
レースにも、リボンにも、汚れひとつ、ついていない。よかった。サリナさまに、怒られずに済む。
空を見上げると、もう、日が傾きかけていた。
鍛冶通りのほうから、一番大きな煙突の、白い煙が、まっすぐ空へ昇っているのが見えた。
あの下で、ハストさまが、フィアットの剣の線を引いている。
その線は、きっと、すごく、まっすぐ。
「……ふふ」
自分でも、驚くくらい、やわらかい声が出た。
ハストさまは、知らなくていい。
今日、何があったのか。わたしが、何をしたのか。わたしの手が、また、冷たいことをしたって。
ハストさまは、ずっと、何も知らないまま、わたしの頭を撫でてくれれば、それでいい。
今日のぶんは、まだ、もらってない。……工房に着いたら、四十八回目。
「宿題、終わったから」って言ったら、きっと、「偉いな」って言ってくれる。
嘘だけど、嘘じゃない。今日の宿題は、ちゃんと、終わったから。
想像しただけで、胸の奥が、またきゅうっと縮んだ。指先から、白い冷気が、ふわりと漏れる。制服の袖に、小さな霜の花が、ひとつ、咲いた。
いけない。……まだ、だめ。ちゃんと、撫でてもらうまで、とっておく。
だって、わたしは、ハストさまの女だから。
ハストさまのものは、ぜんぶ、わたしが守る。
ハストさまの一番目も、ハストさまの屋上も、ハストさまの台所も、ハストさまの、まっすぐな線も。
――ハストさまの前に立つものは、ぜんぶ、わたしが、凍らせる。
わたしは、鍛冶通りのほうへ、歩き出した。
宿題は、帰ってから、ちゃんとやる。
◇
「……できた」
俺が顔を上げたとき、工房の窓の外は、すっかり橙色に染まっていた。
作業台の上の紙には、一振りの剣の図面が描き上がっていた。
細身の、まっすぐな片手剣。今の剣より、拳ひとつぶん短い。柄は、フィアットの指に合わせて、ほんの少しだけ細く。重心は、鍔から指三本ぶん先。振り終わりで、手首が無理に止めなくても、剣が、自分から止まる位置。
鍔は、飾りのない、薄い十字。柄頭には、宝石を嵌めない。代わりに、小さな窪みをひとつだけ。
「……ハスト様。この窪みは?」
フィアットが、図面を覗き込んで、首を傾げた。
「それは、最後に、お前が決める場所だ」
「私が……?」
「剣が出来上がって、お前が最後の槌を打ったあとで。何を入れるか、何も入れないか。それは、お前の道が決める」
フィアットは、しばらく、図面の窪みを見つめていた。それから、ぎゅっと、胸元を握った。
「……はい」
「親父ィ……!!」
背後で、ラークが、号泣していた。
「この線……!! この線ッスよ……!! オレが、昔、親父の錬成を見て、一生ついていくって決めた、あの線ッス……!! 鉄が、もう、この形になりたがってるのが、わかるッス……!!」
「泣くな。鼻水が図面に落ちる」
「すんませんッス!!」
ラークは、作業着の袖で、ごしごしと顔を拭いた。それから、棚の一番上から、ひとつの鉄の塊を、大事そうに下ろしてきた。
鈍い銀色の中に、ほんのわずかに、青白い光が揺れている鉄だった。
「お嬢の剣には、これを使うッス。北の鉱山の、一番深いところでしか採れない、『白鋼』。曲がらず、折れず、持ち主の手に、少しずつ馴染んでいく鉄ッス。……オレが、いつか、親父の頼みで剣を打つ日のために、十年、取っておいたやつッス」
「……いいのか、それ」
「親父の頼みで、親父の一番目のパートナーの剣ッスよ!! これ以外、ありえないッス!!」
フィアットが、白鋼の塊を、そっと両手で受け取った。
「……ありがとうございます、ラークさん」
「お嬢の礼はいらないッス!! 鍛え上がるまで、三日!! 四日目に、お嬢に最後の槌を打ってもらうッス!!」
そのときだった。
工房の扉が、こん、こん、と、小さく叩かれた。
「……ハストさま」
扉の隙間から、銀がかった淡い髪と、水色のリボンが、ひょっこりと覗いた。
「セルカ? お前、森の家に帰ったんじゃ」
「……宿題、終わったから。迎えに、来た」
「そっか。偉いな」
頭を撫でてやると、セルカは、目を閉じた。
撫でられるまま、じっと動かない。息まで止めているみたいだった。俺の手が離れても、しばらく、そのまま目を開けなかった。
猫みたいな奴だな、と思った。
……ただ、ほんの一瞬だけ。目を閉じたその顔が、ぞくりとするほど満ち足りて見えた。何かを、ずっと待ち焦がれていたものを、やっと受け取ったみたいな顔。
気のせいだろう。宿題、そんなに大変だったのか。
セルカは、ちょこちょこと工房の中に入ってきて、俺の袖を、きゅっとつまんだ。
「姐さん!!」
ラークが、その場で、びしっと正座した。
「……ラーク。うるさい」
「すんませんッス!!」
セルカは、作業台の上の図面を、ちらりと見た。それから、フィアットの手の中の、白鋼の塊を見た。
「……いい剣に、なりそう」
「……ええ。なりますよ。ハスト様の線ですから」
フィアットが、少しだけ胸を張った。
セルカは、何も言い返さなかった。ただ、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
それが、なんだか、妙に優しい顔に見えた。……気のせいか?
「……ハストさま。帰ろ」
「おう。フィアットも、送ってくよ。もう暗くなるしな」
「……フィアットは、もう、大丈夫だと思う」
「ん? 何がだよ」
「……なんでもない」
セルカの手が、俺の手に、そっと触れた。
ひんやりとしていた。朝の湧き水くらいの、いつもの冷たさ。
「お前、手、冷てぇな。外、寒かったのか?」
「……うん。ちょっとだけ」
セルカは、そう言って、俺の手を、ぎゅっと握った。
工房を出ると、鍛冶通りには、もう、夕暮れの風が吹いていた。
どこか遠くから、白い粉のようなものが、風に乗って、ふわりと流れてきた。季節外れの、小さな霜の粒みたいだった。
俺は、それを、別に気にも留めなかった。




