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38 二番目の、とっておき

結局、昨夜は森の家に逃げ込んだ。

鍛冶通りから王都の外れまで、ラークの「親父ィィィ!!」は、ずっと背後から追いかけてきた。最後は転移で撒いた。頂天者の追跡を振り切るのに、覇権まで使う羽目になるとは思わなかった。

森の家の居間のソファで、俺は、そのまま眠りこけていたらしい。


「……ハストさま」


誰かが、俺の頬を、つんつんとつついていた。

冷たい指だった。でも、前みたいに、氷みたいな冷たさじゃない。朝の湧き水くらいの、ひんやりとした、気持ちのいい冷たさだった。

目を開けると、目の前に、セルカの顔があった。

近い。ものすごく近い。


「……おはよ」

「……おう。近い」

「起こしてた」

「起こし方が近いんだよ」


セルカは、少しだけ身体を引いた。それから、ソファの横に、ちょこんと正座した。

今日のセルカは、紺色の、飾り気の少ないエプロンドレスを着ていた。たぶん、ロリババアの着せ替えの中では、一番マシなやつだ。髪は、両側の一房だけ、いつもの水色のリボンで結んでいる。


「……ハストさま」

「ん」

「修行、一段落した」


セルカは、膝の上で、両手をぎゅっと握った。


「……約束」


あぁ。順位戦の日の、あの約束か。

――修行が一段落したらな。

確かに、俺は、そう言った。


「……今日、か?」


セルカは、こくこくと頷いた。目が、期待で、きらきらしていた。断れる空気じゃなかった。いや、断る気も、別になかったけど。


「わかった。今日な」


セルカの顔が、ふわっと緩んだ。

――その瞬間だった。


バァンッ!!


森の家の玄関の扉が、蝶番ごと吹き飛びそうな勢いで開いた。


「親父ィィィィィ!! 見つけたァァァァ!!」


入ってきたのは、背の高い男だった。

日に焼けた褐色の肌。袖をまくった作業着から覗く、鍛え上げられた太い腕。短く刈り込んだ黒髪に、くっきりとした目鼻立ち。黙って立っていれば、王都の女性が全員振り返りそうな、色男。

錬成帝、ラーク・ドルク。

額に汗を光らせて、肩で息をしている。どうやら、一晩中、王都中を探し回っていたらしい。


「親父!! 昨日は逃げなくてもいいじゃねぇか!! オレ、親父に頼られて嬉しくて嬉しくて、一睡もしてねぇんだ!! 炉も一晩中温めっぱなしだ!! さぁ、今すぐ工房に――」


ラークの言葉が、途中で止まった。

その目が、ソファの横に正座しているセルカに、ぴたりと止まっていた。

セルカは、ラークを見上げていた。それから、ゆっくりと立ち上がって、俺の腕に、ぴとりとくっついた。


「……だれ」

「お、親父……? そ、その子は……?」


セルカが、俺より先に答えた。


「……セルカ。ハストさまの女」


森の家が、静まり返った。

ラークの顔から、さあっと血の気が引いていった。それから、みるみるうちに、真っ赤になった。


「お、お、親父に……お、お、女ァァァァ!?」

「違う。誤解だ」

「誤解じゃない」

「お前は黙ってろ」


ラークは、その場に、がくりと膝をついた。そして。

床に両手をついて、深々と頭を下げた。


「――し、失礼しましたァァァ!! 親父の女ってことは、オレにとっては姐さんだ!! 姐さん、今まで挨拶もせずに、大変申し訳ありませんでしたァァァ!!」

「……あねさん」


セルカが、きょとんとした。


「待て。待てラーク。そいつは俺の――」

「パートナー」

「二番目の、な」

「……二番目でも、パートナー」


ラークは、床に額をこすりつけたまま、さらに深く頭を下げた。


「親父のパートナーの姐さんッ!! このラーク・ドルク、姐さんの剣でも鍋でも包丁でも、何でも打たせていただきますッ!!」


セルカは、しばらく、床に這いつくばる色男を見下ろしていた。

それから、俺の袖を、くいっと引いた。


「……ハストさま。この人、変」

「知ってる」

「……でも、悪い人じゃない」

「それも、知ってる」


俺は、ため息をついた。それから、ラークの肩を、ぽんと叩いた。


「ラーク。剣の話は、明日だ。明日、パートナーを連れて、工房に行く。だから、今日は帰れ」

「えっ!? で、でも親父、炉が……!!」

「今日は、こいつとの約束がある」


俺は、セルカのほうを、顎でしゃくった。

ラークは、俺の顔と、セルカの顔を、交互に見た。それから、何かを悟ったように、大きく目を見開いた。


「……親父が、女のために、オレの仕事を後回しに……」

「言い方」

「……わかったぜ、親父!! 男の約束に、口を挟むほど野暮じゃねぇ!! 姐さん、親父を頼みます!! 明日、待ってるからな、親父ィィィ!!」


ラークは、来たときと同じ勢いで、扉から飛び出していった。森の木々の間を、地響きを立てて遠ざかっていく。

……扉、閉めていけよ。


◇


「……で。どこ、行きたいんだ」


ラークがいなくなった居間で、俺は、セルカに訊いた。

中央市場か、王都の大通りか、それとも、もっと別のどこかか。フィアットのときと同じように、どこへでも連れていくつもりだった。

でも、セルカは、首を横に振った。


「……どこにも、行かなくていい」

「は?」

「……ハストさまの、好きなもの。知りたい」


セルカは、俺の目を、まっすぐに見た。


「フィアットは、ハストさまに、いろんなところに連れていってもらった。……でも、わたしは、ハストさまのことを、まだ、なにも知らない。ハストさまが、何が好きで、どこにいて、何を見てるのか。……それが、知りたい」


俺は、しばらく、何も言えなかった。

それから、頭を掻いた。


「……俺の好きなもの、ねぇ」


考えるまでもなかった。


「じゃあ、まず、台所だな」


◇


森の家の台所は、俺が七歳の頃から使っている場所だ。

ロリババアは、料理をしない。というか、できない。何百年も生きているくせに、卵ひとつまともに焼けない。だから、この台所は、ずっと、俺の城だった。


「……サンドイッチ?」

「サンドイッチ」


俺は、パン切り包丁を手に取った。昨日、中央市場で買ってきた、硬めの丸パン。山羊のチーズ。それから、森の家の畑で採れたレタスと、トマト。燻製小屋に吊るしてあったハム。


「俺が、たぶん、一番好きなもんだ。剣も魔術も体術も、全部、ロリババアに負けたくなくて覚えた。でも、料理だけは、違う。……俺が、俺のために覚えたもんなんだよ」


セルカは、俺の手元を、じっと見つめていた。


「……教えて」

「ん?」

「作り方。……わたしも、作りたい」


俺は、少しだけ笑った。それから、セルカの後ろに回って、パン切り包丁を、セルカの手に握らせた。


「パンは、刃を押し込むんじゃなくて、引いて切る。力を入れると、潰れる」


セルカの手の上から、俺の手を添えて、一緒に包丁を引く。さく、さく、と、パンが、きれいな断面を見せて切れていく。

セルカの耳の先が、少しだけ、赤くなっていた。


「……ハストさまの手、あったかい」

「お前の手が、冷たいんだよ」

「……前より、あったかくなった。サリナさまのおかげ」

「知ってる」


次は、バターだ。

冷蔵の魔道具から出したばかりのバターは、硬くて、そのままではパンに塗れない。かといって、温めすぎると、溶けて、パンに染み込んで、べちゃべちゃになる。


「バターは、塗りやすい柔らかさと、溶けない冷たさの、ちょうど真ん中が大事なんだ。……これが、意外と難しい」

「……真ん中」


セルカは、バターの塊を、そっと両手で包んだ。

その手のひらから、ほんのかすかな冷気が、ゆらりと立ち昇った。

バターの表面が、ふわりと、柔らかくなった。でも、溶けてはいない。指で押すと、すっと沈むのに、形は崩れない。

まさに、ちょうど、真ん中。


「……おい」


俺は、思わず、目を見開いた。


「お前、それ、どうやった」

「……サリナさまに、習った。冷気は、凍らせるだけじゃない。温度を、ちょうどいいところに、合わせることもできるって」


セルカは、少しだけ得意げに、胸を張った。


「……わたしの冷気、もう、わたしの手を、焼かない。だから、こういうことも、できる」


俺は、しばらく、バターの塊を見つめていた。

手を焼いていた冷気が。誰にも触れさせないための冷気が。今は、バターを、ちょうどいい柔らかさにするために使われている。


「……お前、天才だな」

「……ほんと?」

「サンドイッチ職人の、天才だ」

セルカは、ぱっと顔を輝かせた。それから、少しだけ考えて、首を傾げた。

「……それ、褒めてる?」

「最上級に褒めてる」


◇


サンドイッチが、六つできた。

俺が三つ。セルカが三つ。セルカのほうは、パンの切り口が少しだけ斜めで、レタスが少しだけはみ出していた。でも、バターの塗り具合は、俺のより、完璧だった。


「……次は、どこ」

「次は、俺の、一番好きな場所」


俺は、サンドイッチを紙で包んで、籠に詰めた。それから、セルカの手を取った。


「掴まってろ」

「……ん」


転移。

景色が、ふっと切り替わった。


◇


王立学園の、本校舎の屋上。

休日の学園には、誰もいない。風が、屋上の手すりを、ひゅうと鳴らしていた。空は、どこまでも青くて、雲がひとつ、ゆっくりと流れていた。


「……ここ」


セルカが、ぽつりと言った。


「本来は、立ち入り禁止。でも、俺は、入学したときから、毎日ここにいる。授業をサボって、昼寝して、サンドイッチ食って。……一番、落ち着く場所なんだ」


フィアットに、何度も連れ戻された場所だ。シュベルトやレイラさんや、陛下まで、勝手に押しかけてくるようになった場所だ。でも、本当は、俺ひとりの場所だった。

誰かを、自分から連れてきたのは、たぶん、初めてだった。

セルカは、屋上の真ん中まで、とことこと歩いていった。それから、そこで立ち止まって、空を見上げた。

ずっと、見上げていた。


「……空、広い」


セルカの声が、少しだけ、震えていた。


「下層の、穴ぐらには、空がなかった。上を見ても、石の天井しかなかった。……空って、こんなに、広かったんだ」


俺は、黙って、セルカの隣に立った。

それから、屋上の床に、ごろりと寝転んだ。


「寝っ転がって見ると、もっと広いぞ」


セルカは、しばらく迷っていた。それから、エプロンドレスの裾を気にしながら、俺の隣に、そっと寝転んだ。

二人で、並んで、空を見上げた。

雲が、ひとつ、ゆっくりと流れていく。


「……ほんとだ。もっと、広い」


◇


サンドイッチを、二人で食べた。

セルカは、俺の作ったサンドイッチを、一口ずつ、ゆっくりと噛みしめるように食べた。俺は、セルカの作ったサンドイッチを食べた。レタスがはみ出して、少し食べにくかった。でも、バターが、完璧だった。


「……うまい」

「……ほんと?」

「嘘言ってどうすんだよ」


セルカは、膝を抱えて、顔を半分、膝に埋めた。それから、ぼそりと言った。


「……ハストさま」

「ん」

「……二番目でいい、って言ったの」


セルカは、膝の上から、ちらりと俺を見た。


「……ほんとは、ちょっとだけ、嘘」


俺は、サンドイッチを持ったまま、固まった。


「一番が、いいに決まってる。……でも、フィアットは、強い。まっすぐで、優しくて、ハストさまのこと、ずっと見てる。……わたしより、ずっと前から」


セルカは、空を見上げた。


「だから、二番目でいい。……一番になれなくても、ハストさまの隣に、いられれば、それでいい。……いても、いい?」


風が、屋上を吹き抜けていった。

俺は、しばらく、何も言えなかった。

こういうのは、苦手だ。本当に、苦手だ。一番とか二番とか、そういうのを、ちゃんと考えたことなんて、一度もない。

でも、ひとつだけ、わかることがあった。


「……セルカ」

「……ん」

「お前、最下層で、高いヒール履いてたって言ってたよな。小さいと舐められるから、背伸びしてたって」

セルカが、こくりと頷いた。

「もう、背伸びしなくていいって、言っただろ」


俺は、空を見たまま、言った。


「一番とか二番とか、そういうのも、同じだ。……お前は、お前のまんま、ここにいていい。順番なんか、関係ない。お前の居場所は、もう、ちゃんとある。森の家にも、学園にも。……この屋上にも」


セルカは、何も言わなかった。

膝に、顔を、全部埋めていた。肩が、小さく震えていた。

しばらくして、くぐもった声が聞こえた。


「……ずるい」

「何がだよ」

「……フィアットも、言ってた。ハストさまは、急にそういうこと言うから、ずるいって」

「あいつ、お前にそんなこと言ってたのか」

「……教室で、毎日、言ってる」


知らなかった。


◇


日が、傾き始めていた。

サンドイッチの包み紙を籠にしまって、帰る支度をしようとしたとき、セルカが、俺の袖を、くいっと引いた。


「……ハストさま。最後に、ひとつ」

「ん?」

「……見てて」


セルカは、屋上の床に、そっと右手を置いた。

手のひらから、冷気が、ゆらりと立ち昇る。

白い霜が、床の上に、ゆっくりと広がっていった。でも、それは、最下層で見た、細い川のような霜じゃなかった。

霜は、床の上で、くるりと渦を巻いた。それから、少しずつ、少しずつ、形を変えていく。細い茎。薄い葉。そして、幾重にも重なる、透き通った花びら。

手のひらほどの大きさの、氷の花が、屋上の床の上に、咲いていた。

夕日を受けて、花びらの一枚一枚が、きらきらと、橙色に輝いていた。


「……サリナさまと、修行部屋で、半年、練習した」


セルカは、氷の花の前に、膝をついた。


「冷気は、誰かを遠ざけるためだけのものじゃないって。……誰かに、何かを、あげるためにも、使えるって」


セルカは、俺のほうを見上げた。


「……ハストさまに、あげる。今日の、お礼」


俺は、しばらく、その氷の花を見つめていた。

指で、そっと触れてみる。冷たかった。でも、痛くない冷たさだった。


「……溶けちまうだろ、これ」

「……溶けない。わたしが、溶けないように、した」


俺は、花びらの縁に、もう一度だけ指を当てた。

……おかしい。

氷を溶かさずにおくなら、普通は冷気を流し続ける。花の芯に魔素を溜めて、周りの熱を奪い続ける。でも、この花からは、何も流れていなかった。冷気の脈も、魔素の糸も。夕日の熱を浴びているのに、浴びたことに、なっていない。

まるで、この花のまわりだけ、時間が止まっているみたいに。

それに、この魔素の編み方には、覚えがあった。森の家の奥、ロリババアの修行部屋。あの扉の向こうに満ちている、ひやりとした、ねじれた空気と、同じ匂いがした。


「……セルカ。これ、どうやった?」

「……サリナさまの、修行部屋。外と、中で、時間の流れかたが、ちがうでしょ。……ずっと、ふしぎだったから。氷で、まねしてみた」


俺は、思わず、セルカの顔を見た。

氷の魔術は、熱を奪う魔術だ。熱を奪い続けた先で、ものは動かなくなる。動かなくなった、その先で――時間にまで、指がかかる。理屈の上では、そうなる。そうなるけど、それは、ロリババアくらいしか立っていない場所だ。

こいつは、そこに、半年で、指先を引っかけた。


「……半年、がんばったから」


セルカは、少しだけ、得意げに笑った。

今まで見た中で、一番の顔だった。

最下層で、泣きじゃくっていた顔じゃない。森の家で、着せ替えに疲れ果てていた顔でもない。ちゃんと、自分の力で、自分の道を歩き始めた人の、顔だった。

俺は、氷の花を、そっと手に取った。それから、アイテムボックスにしまう――のは、やめた。

屋上の、手すりの根元。俺がいつも寝転がる場所の、すぐ横。そこに、氷の花を、そっと置いた。


「ここに置いとく。……俺の、一番好きな場所に」


セルカは、目を見開いた。

それから、くしゃりと笑って、俺の腕に、ぴとりとくっついた。


「……やっぱり、ずるい」


夕日の中で、氷の花が、きらきらと光っていた。


◇


――翌日。

昼休みに屋上の扉を開けたフィアットが、手すりの根元に咲く氷の花を見つけて、五分間、無言で立ち尽くしていたことを、俺は、まだ知らない。

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