35 見えない拳と、見えないものを見る目
順位戦、二日目。
準決勝の第一試合で、フィアットは、ガルド・ベイカー先輩を破った。昨日の第七試合で勝ち上がってきた、大剣使いの三年生だ。重い一撃を真正面から受けずに、エスピノーザの二の型『流』で受け流し、そのまま懐に潜り込んで、喉元に切っ先を止めた。昨日の夕方に覚えたばかりの型を、一晩で、もう自分の剣に馴染ませていた。
準決勝の第二試合で、アイシャ先輩は、また三秒で勝った。
掲示板に、最後の札が掛けられた。
『決勝 一年、フィアット・セルジーネ 対 三年、アイシャ・リズベット』
アリーナが、揺れた。
入学して半年の一年生が、三年間無敗の序列一位と、決勝で当たる。そんなことは、この学園の歴史で、一度もなかったらしい。三層の観客席は、立ち見の客で通路まで埋まっていた。最上層の来賓席の天幕の下には、昨日はいなかった顔ぶれまで並んでいる。
その中に、ジャージ姿の、妙に見覚えのある男が、扇子で顔を隠して座っていた。
……陛下。また仕事を抜け出してきたのか。
◇
決勝の前に、フィアットは、選手用の通路で俺を待っていた。
「ハスト様」
「ん」
「アイシャ先輩の、昨日の試合。足元の砂、沈んでませんでした。風も、渦を巻いてませんでした」
「……気づいてたか」
「ハスト様が、教えたんですよね」
「教えた。あの人が、俺に負けた日にな」
フィアットは、少しだけ唇を尖らせた。
「……敵に塩を送りすぎです」
「送ったときは、敵になるなんて思ってなかったんだよ」
フィアットは、ふう、と息を吐いた。それから、俺の顔を見上げた。
「砂も、風も、もう読めません。私の目でも、先輩の動きは、たぶん、ほとんど見えないと思います」
「だろうな」
「……でも」
フィアットは、自分の手のひらを、じっと見つめた。
「見えないなら、見えるようにすればいいんですよね」
俺は、少しだけ目を見開いた。
「……何か、思いついたのか」
「はい。陛下に教わったことと、ハスト様に教わったことを、混ぜてみようと思います」
フィアットは、にっと笑った。
「うまくいくかどうかは、わかりません。……だから、面白いんですよね?」
昨日、俺がセルカに言った言葉だった。聞いていたのか。
「……あぁ。盛大に楽しんでこい」
「はいっ!!」
◇
試合場の中央で、二人が向き合った。
アイシャ先輩は、両手に何も持っていなかった。いつものように、拳を軽く握り、踵をわずかに浮かせている。
フィアットは、腰の剣を抜いて、正眼に構えた。
「セルジーネさん」
アイシャ先輩が、口を開いた。その声は、震えていた。怯えではなかった。たぶん、嬉しさで。
「昨日、君がエスピノーザの型を盗むのを見た。ヴァルドランの霧を見破るのを見た。……君は、私の拳も、見つけてくれるのかな」
「見つけます」
フィアットは、迷わずに答えた。
「先輩が、どこにいても」
アイシャ先輩の目が、大きく見開かれた。それから、くしゃりと笑った。
「……同志。全力で行くよ」
「はい。全力で、お受けします」
「――決勝!! 始めッ!!」
◇
アイシャ先輩の姿が、消えた。
影踏み。影渡り。それから、俺が教えた改良。踏み込みの圧を散らし、風の渦を幻で上塗りする。足元の砂は、ぴくりとも沈まない。空気は、少しも揺らがない。
完全な、透明。
観客席が、息を呑んだ。
フィアットは、動かなかった。
剣を正眼に構えたまま、目を閉じた。
――え?
観客席がざわめいた。隣で、シュベルトが身を乗り出した。クレハおば……お姉さんが、腕組みを解いた。
目を、閉じた? 見えないものを見る目が、あいつの最大の武器のはずなのに。
フィアットの唇が、小さく動いた。
「――『幻術、ヴェール・オブ・ミラージュ』」
フィアットの身体から、何かが広がった。
目には見えない。でも、確かに、そこにある。薄い、薄い、絹のような幻の膜。それが、フィアットを中心に、試合場の白砂の上を、波紋のように、ゆっくりと広がっていく。
半径五歩。十歩。二十歩。試合場のすべてを、覆い尽くす。
――あ。
俺は、気づいた。
あれは、陛下の幻術だ。娘を守るために廊下全体にかけた、ひとりひとりに違う景色を見せる、あの区画幻術。それを、フィアットは、ものすごく薄く、ものすごく弱く、ただ広げているだけだ。誰にも、何の幻も見せていない。ただ、そこに、膜として、張っているだけ。
そして、その膜は、フィアット自身の魔力でできている。
膜の中を、何かが動けば。たとえそれが、砂を沈ませず、風を揺らさない、完全に透明な何かであっても。そこに「在る」かぎり、膜は、ほんのわずかに、たわむ。
フィアットは、目で見ていない。
自分の幻術の、手触りで、見ているのだ。
「……あいつ」
思わず、声が漏れた。
見えないなら、見えるようにすればいい。陛下に教わった幻術と、俺が教えた「見えないだけで、消えているわけじゃない」という考え方。それを混ぜて、あいつは、試合場そのものを、自分の目に変えたのだ。
フィアットの目が、閉じたまま、わずかに右へ動いた。
――そこ。
フィアットは、剣を、右後方へ振り抜いた。
甲高い音。
何もない空間で、フィアットの剣が、何かに弾かれた。
空気が、揺らいだ。アイシャ先輩の姿が、一瞬だけ、幻の中から浮かび上がった。拳を、剣の腹で受け止められた姿勢のまま。その目が、驚愕に見開かれていた。
アリーナが、爆発したように沸いた。
◇
――見つけられた。
また、見つけられた。
師匠以外に、初めて。
剣の腹に拳を弾かれた衝撃が、骨の奥まで響いてくる。痛い。嬉しい。痛くて、嬉しくて、たまらない。
私は、すぐにまた、幻の中に溶けた。今度は、三段目。影打ち。拳の軌道まで、完全に覆う。
でも、あの子は、見ている。目を閉じたまま、私が踏み出す前から、私のいる場所を、知っている。
――どうして。
わかった。あの薄い膜。試合場いっぱいに張られた、あの子の幻。私の身体が、その中を動くたびに、あの子の魔力に、触れている。
私は、あの子の掌の上で、踊っているのだ。
――なら。
膜ごと、破ればいい。
私は、踏み込んだ。
今度は、隠さなかった。影踏みも、影渡りも、影打ちも、全部捨てた。砂を沈ませ、風を巻き上げ、全身の力を一点に集めて、ただ、まっすぐに。
三年間、一度も使わなかった、隠さない拳。
見えない拳で、三年間、誰にも見つけられなかった。
だから、最後は、見せてやる。全部。
◇
アイシャ先輩が、正面から来た。
姿を隠さず、真正面から。白砂を爆発させるような踏み込みで、一直線に。
フィアットは、目を開けた。
――見えている。今度は、目で。
二人の距離が、一瞬で、ゼロになる。
アイシャ先輩の拳が、フィアットの鳩尾へ。
フィアットの剣が、アイシャ先輩の喉元へ。
そして――
音が、止まった。
観客席の、誰もが、息を止めていた。
アイシャ先輩の拳は、フィアットの鳩尾の、指一本分手前で、止まっていた。
フィアットの剣の切っ先は、アイシャ先輩の喉元に、触れていた。ほんのわずかに、肌に、触れていた。
ほんの、ほんの一瞬。
フィアットの剣のほうが、先だった。
◇
「……しょ、勝者ッ……!!」
審判の先生の声が、裏返っていた。
「一年、フィアット・セルジーネ!! 順位戦、優勝ッ!!」
アリーナが、崩れ落ちるかと思った。
三層の観客席から、悲鳴とも歓声ともつかない声が、雨のように降り注いだ。足を踏み鳴らす音が、地鳴りになって、白砂を震わせた。最上層の来賓席で、ジャージ姿の男が、扇子を放り投げて立ち上がっていた。
試合場の真ん中で、アイシャ先輩が、ゆっくりと拳を下ろした。
それから、その場に、すとんと座り込んだ。
白砂の上に、仰向けに倒れ込む。両手を広げて、空を見上げた。
笑っていた。泣きながら、笑っていた。
「……あぁ」
アイシャ先輩の声が、かすかに聞こえた。
「負けた。……見つけられて、届かされて、負けた。……最高だ」
フィアットが、剣を鞘に納めて、アイシャ先輩のそばに膝をついた。
「先輩……」
「セルジーネさん。……いや、フィアットちゃん」
アイシャ先輩は、仰向けのまま、フィアットを見上げた。
「最後の、あの膜。……あれは、君にしかできない幻術だ。君の目と、君の幻と、君の考え方。全部が、君自身のものだった。……ありがとう。私を、見つけてくれて」
フィアットの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「……こちらこそ。最後、隠さないで来てくれて。……ありがとうございました」
アイシャ先輩は、ふっと笑って、右手を伸ばした。フィアットが、その手を取って、引き起こした。
二人が、並んで立った。
アリーナ中の拍手が、二人を包み込んだ。
◇
柵のすぐ内側で、俺は、ずっと黙っていた。
隣で、シュベルトが、目元を袖で拭っていた。クレハおば……お姉さんは、腕を組んだまま、上を向いていた。涙がこぼれないように、たぶん。
セルカが、俺の制服の裾を、ぎゅっと握っていた。
「……勝った」
「あぁ」
「……あの子、本当に、勝った」
「だから言っただろ。強いって」
セルカは、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「……わたしも、強くなる。修行、がんばる」
「あぁ。頑張れ」
生徒会席の脇、演台の上で、エトワールが、眼鏡を外して、目頭を押さえていた。そのさらに上の来賓席で、陛下が、まだ立ったまま拍手を続けていた。その隣で、扇子で顔を隠したロリババアが、小さく頷いていた。
試合場の真ん中で、フィアットが、こちらを振り返った。
汗と、涙と、白砂で、顔はぐちゃぐちゃだった。
それでも、あいつは、まっすぐに俺を見て、それから、右手を上げた。
親指を、立てた。
――見ててくれましたか。
俺も、右手を上げた。
親指を、立てる。
今日は、二度目の、嘘じゃない親指だった。




