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34 決勝前夜

セルジーネ家の食堂は、今夜、やけに賑やかだった。


長いテーブルの上座には、当主のルキウスさん。その隣に、奥方のエレオノーラさん。フィアットとよく似た蒼い髪を、ゆるく結い上げた、穏やかな人だ。この二週間、俺たちを毎晩のように夕飯に招いてくれたのは、この人だった。


それから、フィアット。その向かいに、俺。俺の隣に、なぜかシュベルト。シュベルトの隣に、レイラさん。レイラさんの隣に、クレハおば……お姉さん。そして、俺の反対側の隣に、セルカ。


さらに、テーブルの一番端。


「うむ。この鴨の焼き加減は悪くない。エレオノーラ、腕を上げたな」

「まぁ、姉様にそう言っていただけると嬉しいですわ」


ロリババアが、いた。


見た目は十歳かそこらの少女。銀色の髪を床につきそうなほど長く伸ばし、子ども用の椅子に、偉そうに足を組んで座っている。ナイフとフォークの扱いは、この場の誰よりも優雅だった。


「……なんでいんだよ、ロリババア」

「誰がロリババアじゃ。ルキウスに招かれたのじゃ。可愛い弟子の、初めての弟子の晴れ舞台の打ち上げとあらば、顔を出さぬわけにはいくまい」

「初めての弟子の、って……」

「フィアットのことじゃよ。お主が育てたのじゃろう? ならば、儂にとっては孫弟子じゃ」


ロリババアは、ちらりとフィアットを見た。フィアットは、緊張でがちがちに固まっていた。


「さ、サリナ様……!! お、お久しぶりです……!! あの、その節は、大変お世話に……!!」

「よいよい、固くなるな。今日の試合、見ておったぞ。エスピノーザの型を、その場で自分のものにした一年生。……悪くない剣じゃった」


フィアットの顔が、ぱぁっと赤くなった。


「来てたのかよ」

「最上層の天幕の下でな。お主の三回転も、ばっちり見ておったぞ」

「見なくていい」

「あれは無いの。重心の移し方が雑じゃ。三回転目で軸がぶれておった。明日から、受け身の稽古をやり直しじゃな」

「負けるための稽古をやり直してどうすんだよ」


テーブルのあちこちから、くすくすと笑い声が漏れた。


◇


セルカは、ずっと、黙っていた。


大きな皿に盛られた鴨のロースト。湯気の立つスープ。焼きたてのパン。色とりどりの野菜。それらを、どう扱っていいのかわからない、という顔で見つめていた。ナイフとフォークを握ったまま、固まっている。


「……セルカさん」


エレオノーラさんが、優しく声をかけた。


「お口に合わないものがあったら、遠慮なく言ってくださいね」


セルカは、びくっと肩を跳ねさせた。それから、小さく首を振った。


「……ちがう。こんなの、食べたこと、ないから。どれから食べたら、いいのか、わからない」


食堂が、少しだけ静かになった。


エレオノーラさんは、何も訊かなかった。ただ、にっこり笑って、セルカの皿に、スープの器をそっと寄せた。


「じゃあ、まずは温かいものから。今日は、たくさん頑張った日でしょう?」


セルカは、スープの器を両手で包んだ。湯気が、セルカの顔をふわりと包む。


ひとくち、すすった。


それから、セルカは、もう一口、すすった。そして、もう一口。器を傾けて、最後の一滴まで飲み干した。


「……あったかい」


小さな声だった。


フィアットが、テーブルの向こうから、パンの籠をセルカのほうへ押しやった。


「このパン、スープにつけて食べると美味しいですよ。……ハスト様は、いつも三個は食べます」

「四個だ」

「昨日は五個でした」


セルカは、パンを一つ取って、スープの残りにつけて、かじった。


「……おいしい」


それから、フィアットのほうを見て、ぷいっと目を逸らしながら、ぼそりと言った。


「……ありがと」


フィアットは、目を丸くして、それから、ふっと笑った。


ロリババアが、その様子を、テーブルの端から、黙って見ていた。


◇


食事の終わり際に、ロリババアが、俺のほうを向いた。


「ハスト。その娘の住まいの件じゃが」

「あぁ。森の家の離れ、空いてるだろ。しばらく、そこに置いてやってくれないか」

「構わぬ。……ただし、条件がある」


ロリババアは、セルカのほうを見た。


「娘。お主、冷気の魔術を使うそうじゃな」


セルカは、身体を強張らせて、頷いた。


「その魔術は、お主の手を焼く。寒さから身を守るために生まれた魔術が、お主自身を凍えさせておる。……儂の家に住むなら、その魔術の使い方を、一から叩き直してやる。お主の手が、二度と割れぬようにな」


セルカは、目を見開いた。


「……それ、条件?」

「条件じゃ。厳しいぞ。ハストも、七歳の頃から毎朝泣いておった」

「泣いてねぇよ」

「泣いておった」


セルカは、しばらく、ロリババアを見つめていた。それから、自分の右手を見下ろした。関節に残る、白い痕。


「……やる」

「よろしい」


ロリババアは、満足げに頷いた。それから、思い出したように付け加えた。「それと、修行が一段落したら、学園に通わせてやる。順位戦が終わったら、エトワールに編入の話を通しておこう。……娘、お主、文字は読めるか?」セルカは、小さく首を横に振った。ロリババアは、ふむ、と顎に手を当てた。「では、それも一から叩き込むかの。忙しくなるぞ」


◇


食後。


大人たちが応接間でお茶を飲み始めたころ、俺はひとりで、二階のバルコニーに出た。


夜風が、心地よかった。王都の夜景が、眼下に広がっている。遠くに、学園の大アリーナの輪郭が、月明かりに白く浮かんでいた。


「……ハスト様」


背後から、声がした。


フィアットだった。部屋着の上に薄い羽織を引っかけて、髪を下ろしている。サイドテールじゃないフィアットは、なんだか、いつもより少しだけ大人びて見えた。


「何だよ。明日、決勝かもしれないんだぞ。早く寝ろ」

「準決勝が先です」

「わかってるよ」


フィアットは、俺の隣に並んで、手すりに両手を置いた。しばらく、二人で黙って夜景を眺めた。


「……今日、レイアーヌ殿下の剣」


フィアットが、ぽつりと言った。


俺は、黙っていた。


「何も、訊きません。……でも、あの剣、すごく綺麗でした。殿下の手に、すごく馴染んでて。刃の奥に、碧い光があって」


フィアットは、夜景を見たまま、続けた。


「あれを打った人は、きっと、殿下のことを、ちゃんと見てたんだと思います」

「……」

「それだけです」


フィアットは、それ以上、何も言わなかった。


俺は、手すりに頬杖をついた。


「……訊かないんだな」

「訊いてほしいですか?」

「いや」

「じゃあ、訊きません」


フィアットは、少しだけ笑った。


◇


「ハスト様」

「ん」

「今日、エスピノーザ先輩に、訊かれました。何のために剣を振るのかって」


フィアットは、俺のほうを向いた。


「私は、答えました。……ハスト様は?」

「俺?」

「ハスト様は、何のために、覇権を振るうんですか」


俺は、すぐには答えられなかった。


夜風が、フィアットの下ろした髪を、さらさらと揺らしていた。


何のために。


考えたことが、なかったわけじゃない。森の家で、ロリババアに、何度も訊かれた。そのたびに、俺は、違う答えを返していた。強くなりたいから。ロリババアに勝ちたいから。拾ってもらった恩を返したいから。


でも、今は。


「……努力が、ちゃんと報われる世界のため、かな」


口に出してから、少しだけ恥ずかしくなった。


「誰かが、毎日毎日、昨日より強くなろうとして頑張ってる。それを、金とか、家の名前とか、上の都合とかで、横から踏み潰すやつがいる。……そういうのが、一番腹立つんだよ。だから、そういうのを、潰す。潰して、頑張ってるやつが、ちゃんと報われるようにする。……たぶん、それが、俺の道だ」


フィアットは、黙って聞いていた。


「あとは、まぁ」


俺は、夜景から目を逸らして、頭を掻いた。


「お前みたいなやつが、明日、今日よりもっと強くなれるように。……それを、隣で見てたいから、かな」


言ってから、しまった、と思った。


なんで今、そんなことを言った。陰キャが、夜のバルコニーで、言っていいセリフじゃない。


フィアットのほうを、そっと見た。


フィアットは、真っ赤になっていた。耳の先まで。首筋まで。月明かりの下でも、はっきりわかるくらいに。


「……っ」

「い、今のは、その、言葉の綾っていうか」

「……ずるいです」

「何がだよ」

「そういうこと、急に言うの。……ずるいです」


フィアットは、両手で顔を覆って、手すりにもたれかかった。


しばらく、そのまま動かなかった。


それから、指の隙間から、ちらりと俺を見た。


「……ハスト様」

「な、何だよ」

「明日、もし。……もし、私が、決勝で、アイシャ先輩に勝ったら」


フィアットは、ゆっくりと、顔から手を下ろした。


「ひとつだけ、お願いを、聞いてもらえますか」

「……内容による」

「勝ったら、言います」


フィアットは、それだけ言うと、くるりと背を向けた。


「おやすみなさい、ハスト様。……ちゃんと、見ててくださいね。明日も」

「……あぁ。見てる」


フィアットは、小走りに、バルコニーから部屋の中へ戻っていった。下ろした髪が、扉の向こうに消えていく。


俺は、ひとり、手すりにもたれたまま、夜景を見つめた。


顔が、熱かった。たぶん、夜風のせいじゃない。


……お願い、って何だよ。


◇


ふと、背後の窓ガラスに、気配を感じた。


振り返ると、窓ガラスの内側に、白い霜が、びっしりと張りついていた。


その霜の向こうに、小さな人影が、じっとこちらを見ていた。


セルカだった。


窓ガラスに、指で、何か文字が書かれていた。霜を削って、ゆっくりと。


――にばんめ でも まけない


「……」


俺は、そっと目を逸らした。


さらにその奥、応接間の扉の陰から、ロリババアとクレハおば……お姉さんとシュベルトとレイラさんが、四人揃って顔を半分だけ出して、こちらを覗いていた。


全員、にやにやしていた。


「……お前ら」


四つの顔が、一斉に引っ込んだ。


俺は、深く、深くため息をついた。


明日は、順位戦二日目。準決勝と、決勝。


たぶん、今夜も、あんまり眠れそうにない。


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