33 封印に、ひびが入る音
フィアットの第三回戦は、あっけなく終わった。
相手は二年の槍使いで、序列は四十位台。フィアットは開始の合図と同時に分身を三体だけ出し、相手が一体目に槍を突き出した瞬間には、もう背後に回り込んでいた。剣の腹で、ぽん、と肩を叩く。審判が手を挙げるまで、十秒もかからなかった。
観客席が、もう驚きもせずに拍手を送っていた。エスピノーザの嫡男を破った一年生。その名前は、もう、会場中に知れ渡っていた。
「……あいつ、エスピノーザ戦で一皮むけたな」
柵の内側で俺が呟くと、隣のシュベルトが頷いた。
「型を一つ、自分のものにしたからね。剣筋が、昨日までとはもう違う」
それから、シュベルトは、試合場の脇の掲示板を見上げた。準々決勝の組み合わせの札が、ちょうど掛けられたところだった。
『準々決勝・第二試合 一年、フィアット・セルジーネ 対 三年、レイアーヌ・フォン・フラハイト』
シュベルトの笑顔が、すっと消えた。
俺も、たぶん、同じ顔をしていたと思う。
「……第一王女、か」
◇
第一王女、レイアーヌ様。
三年A組の剣術首席。剣一筋で、魔術はほとんど使わない。全体の序列は、二位。アイシャ先輩に次ぐ、この学園の二番手だ。
そして、俺が、記憶を封印した人。
何十枚もの忘却術の陣を重ねて、夜道で俺を見た記憶も、屋上の記憶も、競技場で俺を「覇王様」と呼んだ記憶も、全部、二度と掘り返せない深さまで沈めた。陛下の頼みで。俺の正体を守るために。
封印は、完璧なはずだった。
でも、あのとき、エトワールは言っていた。
――何かが鍵になって蓋が外れれば、記憶は戻る。
記憶封印は、その蓋を何十枚にも重ねたものだ。一枚や二枚の鍵では、びくともしない。……はずだ。
「はっす〜」
シュベルトが、小声で言った。
「レイアーヌ殿下の腰の剣。……あれ、君が打ち直したやつだよね」
俺は、試合場の反対側から歩いてくる第一王女を見た。
艶やかな髪を、後ろでひとつに束ねている。三年生の制服の上に、軽い革の胸当て。そして、腰には、宝石のない、刃と柄が一体になった剣。
三年A組の特別講義の日。俺が覇権で修復して、最後のひと押しで強化した、あの剣だ。
記憶は消した。でも、剣は、残った。
あの人は、自分の剣が、いつ、誰の手で、どうして生まれ変わったのかを、覚えていない。それでも、毎日、あの剣を振り続けてきたのだ。
「……まずいかもな」
俺は、小さく呟いた。
◇
試合場の中央で、二人が向き合った。
フィアットが、深く一礼した。第一王女は、静かにそれを受けて、同じように頭を下げた。
「セルジーネさん。あなたの試合、全部見ていました。エスピノーザの型を、あの場で自分のものにした一年生。……楽しみにしていたの」
「光栄です、殿下」
「学園では、殿下はやめて。ここではただの三年生よ」
第一王女は、腰の剣を抜いた。
陽の光を受けて、刃が、白く輝いた。
――いや。
白じゃない。
フィアットの目が、わずかに細くなったのが、ここからでも見えた。
あいつの目には、見えているのだ。刃の奥の、ほんのかすかな、碧い光が。俺が最後のひと押しで刃に残した、覇権の残り香が。
フィアットは、一瞬だけ、柵の内側の俺のほうを見た。
俺は、小さく首を横に振った。
何も言うな。何も気づかなかったことにしろ。
フィアットは、ほんの少しだけ唇を噛んで、それから、剣を構えた。
「――準々決勝第二試合!! 始めッ!!」
◇
第一王女の剣は、まっすぐだった。
ディエゴ・エスピノーザのような、完璧な型ではない。アイシャ先輩のような、見えない拳でもない。ただ、まっすぐに踏み込んで、まっすぐに斬る。一撃一撃に、迷いがなかった。
フィアットが、受ける。かわす。受ける。
剣と剣がぶつかるたびに、乾いた音が、アリーナに響く。
観客席が、静まり返っていた。誰も、声を出さなかった。華やかな魔術も、幻術もない。ただ、二人の剣士が、正面から斬り結んでいる。それだけなのに、目が離せなかった。
「……強いね、殿下」
シュベルトが、ぽつりと言った。
「剣が、素直だ。誰かの型をなぞってるんじゃない。自分で考えて、自分で振ってる。……あの剣、殿下の手に、よく馴染んでる」
当たり前だ、と思った。
あの剣は、俺が、あの人のために打ち直したのだから。宝石を外して、刃と柄を一体にして。あの人の構えに、あの人の踏み込みに、一番よく応えるように。
――宝石は、要らない。あなたの剣は、そういう剣じゃない。
講義の日に、俺は、確かそう言った。あの人は、その言葉を覚えていない。
でも、あの人の剣は、覚えている。
試合場の真ん中で、フィアットが、分身を三体出した。第一王女は、迷わなかった。幻には目もくれず、本物のフィアットにだけ、まっすぐに踏み込んでいく。
――見えている?
いや、違う。見えているんじゃない。あの人は、幻を見分ける目なんて持っていない。ただ、自分の剣が向かう先を、信じているだけだ。剣が、迷わずに、本物のほうへ引き寄せられていく。
フィアットが、目を見開いた。
剣と剣が、ぶつかった。
鍔迫り合い。二人の顔が、間近に迫る。
そのとき、第一王女の剣の、刃の奥の碧い光が、ほんの一瞬だけ、強く脈打った。
第一王女の動きが、止まった。
◇
――まただ。
この剣を振るたびに、ときどき、胸の奥が、きしむ。
何かを、忘れている気がする。とても大切な何かを。
この剣は、いつからこうだっただろう。昔は、柄に大きな宝石がついていた気がする。それが、いつの間にか、刃と柄が一体になって、前よりずっと軽くて、ずっと手に馴染むようになっていた。誰が打ち直してくれたのか、思い出せない。父上に訊いても、「腕のいい職人に頼んだのだよ」としか言わない。
鍔迫り合いの向こうで、一年生の少女が、私を見ていた。
真剣な目。それから、ほんの一瞬だけ、私の剣を見て、何かを悟ったような、悲しそうな目。
この子は、何かを知っている。
剣の奥で、何かが、脈打った。
――碧い、炎。
夜道。月明かり。巨大な熊の魔物が、真っ二つに裂けて崩れ落ちる。その向こうで、ローブを纏った小さな背中が、碧く燃える何かを、ゆっくりと下ろしていく。
『……覇王』
誰かの、呟き。
――頭が、割れるように痛んだ。
◇
第一王女の身体が、ぐらりと揺れた。
フィアットは、その一瞬を見逃さなかった。いや、見逃さなかったのではない。たぶん、見逃したくなかったのだ。それでも、剣は、身体が勝手に動いた。この二週間、何千回も繰り返した動きだった。
剣を絡め取る。弾く。切っ先を、喉元へ。
第一王女の剣が、白砂の上に落ちた。
「……勝者ッ!! 一年、フィアット・セルジーネ!!」
観客席が、一拍遅れて、爆発した。
でも、フィアットは、笑っていなかった。
剣を下ろして、すぐに、膝をついた第一王女のそばに駆け寄っていた。
「殿下……!! 大丈夫ですか……!?」
第一王女は、額を押さえていた。顔色が、少し悪い。それでも、ゆっくりと顔を上げて、フィアットを見た。
「……ごめんなさい。少し、立ちくらみがしただけ。……負けは、負けよ。おめでとう、セルジーネさん」
「でも……」
「本当に、強かった。最後まで、あなたの剣は、まっすぐだった」
第一王女は、フィアットの手を借りて立ち上がった。それから、白砂の上に落ちた自分の剣を拾い上げて、じっと見つめた。
そして。
その目が、柵の内側に向いた。
俺と、目が合った。
第一王女の唇が、かすかに動いた。声は、聞こえなかった。でも、その形は、はっきりと読めた。
――はおう、さま?
息が、止まった。
次の瞬間、第一王女は、ふっと目を瞬かせた。それから、不思議そうに首を傾げて、もう一度こちらを見た。今度は、ただの見知らぬ下級生を見る目だった。
第一王女は、剣を鞘に納めて、試合場を去っていった。
◇
「……はっす〜」
シュベルトの声が、低かった。
「今の、見えた?」
「……あぁ」
俺は、自分の右手を見下ろした。
指先が、かすかに冷えていた。
覇権で、封印の状態を探る。第一王女の頭の奥に沈めた、何十枚もの忘却術の陣。それらは、まだ、そこにあった。ほとんど全部、無傷のまま。
でも、一番上の一枚に。
ほんの細い、ひびが、入っていた。
鍵は、剣だった。
俺が打ち直して、俺の覇権の残り香が染みついた、あの剣。あの人は、毎日、それを握り続けていた。毎日、ほんの少しずつ、蓋を揺らし続けていた。そして今日、フィアットとの鍔迫り合いで、剣の奥の碧が強く脈打ったとき、一番上の一枚に、ひびが入ったのだ。
「……俺の、やらかしだな」
俺は、小さく呟いた。
剣を打ち直したのは、俺だ。最後のひと押しで、余計なものまで刃に残したのも、俺だ。記憶を消すなら、剣も元に戻しておくべきだった。でも、そうしなかった。あの人の剣を、元の、宝石だらけの、振りにくい剣に戻したくなかったから。
「どうする? エトワールと陛下に報告する?」
「……する。けど、今日じゃない」
俺は、首を振った。
「ひびは、まだ一枚だけだ。今すぐどうこうなるもんじゃない。……今日は、フィアットの順位戦だ。余計な騒ぎは起こしたくない」
試合場の真ん中で、フィアットが、まだ立ち尽くしていた。第一王女が去っていった通路のほうを、じっと見つめていた。
それから、ゆっくりと、こちらを振り返った。
その目が、訊いていた。
――あの剣は、ハスト様が?
俺は、答えなかった。
フィアットは、しばらく俺を見つめていた。それから、小さく、ひとつ頷いた。何も訊かない、という頷きだった。
あいつは、もう、わかっている。俺が言わないことには、言わない理由があるのだと。
……本当に、いいパートナーを持ったもんだ。
◇
その日の最後の試合、準々決勝第四試合で、アイシャ先輩が勝った。
相手の三年生は、開始の合図から三秒で倒れていた。何が起きたのか、観客の誰にもわからなかった。いつもどおりの、「攻撃が一切見えない、不動の序列一位」だった。
……いや。
一つだけ、いつもと違った。
倒れた相手のそばに、アイシャ先輩が立っていた場所。その足元の白砂が、まったく沈んでいなかった。風も、渦を巻いていなかった。
踏み込みの圧を散らし、風の渦を幻で上塗りする。
俺が、あの日、演習場で教えた改良案を、あの人は、たった数日で、もう自分のものにしていた。
生徒会席に戻る途中、アイシャ先輩が、こちらを見上げた。にっこりと笑って、口の形だけで言った。
――師匠。見ててくださいね。
二日目の組み合わせが、掲示板に掛けられた。
『準決勝・第一試合 一年、フィアット・セルジーネ 対 三年、ガルド・ベイカー』
『準決勝・第二試合 三年、アイシャ・リズベット 対 二年、エリオ・ヴァンス』
たぶん、決勝は、あの二人になる。
見えないものを見る目と、見えない拳。
俺の隣で、セルカが、俺の制服の裾をきゅっと握った。
「……ハストさま。あの生徒会長、強い」
「あぁ。強いよ」
「……あの子、勝てる?」
俺は、少しだけ考えてから、答えた。
「わからない。だから、面白いんだろ」




