32 その剣は、誰がために
試合場の反対側から歩いてきたその人を見た瞬間、私は、息を呑んだ。
ディエゴ・エスピノーザ先輩。
黒に近い深紅の髪を短く刈り込み、仕立てのいい白い剣術着に身を包んでいる。背筋は、定規を当てたようにまっすぐだった。歩幅も、腕の振りも、視線の高さも、何ひとつぶれない。歩いているだけで、もう型になっている。
腰には、二つのものを下げていた。
ひとつは、使い込まれた鋼の長剣。もうひとつは、鞘だった。
剣の入っていない、空っぽの鞘。白い革に、色褪せた銀の装飾。ひどく古いものだと、ひと目でわかった。
――聖剣の、鞘。
シュベルトさんの話が、頭をよぎった。十年前、聖剣は台座を離れて、辺境の若者を選んだ。そのとき、聖剣を納めていた鞘だけが、エスピノーザ家に残された。
鞘だけが残った家。
先輩は、試合場の中央で足を止めた。そして、礼もせずに、私を見下ろした。
「フィアット・セルジーネ。君の試合は見た。霧刃のヴァルドランを、幻術と魔術で破った」
低い、よく通る声だった。
「見事だった。……だが、私に、ああいう小細工は通じない」
「小細工、ですか」
「剣士の戦いに、幻も魔術も要らない。剣は、型だ。エスピノーザが四百年かけて磨き上げた、七つの型。それをどれだけ正確に振るえるか。剣の強さとは、それだけだ」
先輩は、腰の長剣を、すらりと抜いた。
「私は、この順位戦で、学園の頂点に立つ。そして十年後の選定の儀で、聖剣を取り戻す。エスピノーザの名誉を、兄が失ったものを、この手で取り戻す」
先輩の目は、私を見ていなかった。私の向こう側、観客席の、どこか遠くを見ていた。
たぶん、来賓席のどこかにいる、あの人を。
「――始めッ!!」
◇
速い。
合図と同時に、先輩の姿が、目の前にあった。
「一の型、『礎』」
まっすぐな、上段からの振り下ろし。教本の一頁目に載っている、一番基本の型。なのに、速すぎる。重すぎる。剣で受けた瞬間、腕から肩まで、骨が軋んだ。
「二の型、『流』」
受けた剣を、滑らせるように絡め取られる。手首が持っていかれそうになる。私は無理やり後ろに跳んで、距離を取った。
「三の型、『穿』」
跳んだ先に、もう、切っ先があった。突き。頬のすぐ横を、鋼の刃が通り抜けていく。さっきの試合でついた浅い傷が、また開いて、血が首筋を伝った。
見えている。霧も幻もない。先輩の剣筋は、全部、はっきりと見えている。
なのに、身体が、追いつかない。
見えない相手を見つける目は、ここでは何の役にも立たなかった。先輩は、隠れていないのだ。隠れる必要がないほど、ただ、速くて、正確で、重い。
「どうした。さっきの幻術は使わないのか」
先輩の声は、少しも乱れていなかった。
私は、左手を開いた。
「――『幻術、サクリファイス・カウンターフィット』」
二十人の私が、試合場に散らばった。
観客席が沸く。でも、先輩は、眉ひとつ動かさなかった。
「四の型、『環』」
先輩が、その場で、円を描くように剣を振った。
一閃。二閃。三閃。剣の届く範囲を、隙間なく、等間隔に、ぐるりと薙ぎ払っていく。どれが本物かなど、最初から見分けようともしていない。ただ、型の届く範囲の全部を、斬る。
幻の私たちが、次々と、霧のように裂けて消えていった。
五人。十人。十五人。
二十人目の幻が消えたとき、私の剣は、先輩の剣に、真上から叩き落とされていた。
膝が、白砂についた。
◇
「……わかっただろう」
先輩の切っ先が、私の喉元に、ぴたりと向けられていた。
「幻術も、魔術も、小手先の技だ。本物の型の前では、何の意味もない。……降参しろ。君の剣には、名誉がない。背負うべき家も、取り戻すべきものもない。そんな剣に、私が負ける理由はない」
名誉がない。
背負うべき家もない。取り戻すべきものもない。
――そうかもしれない。
私の剣は、セルジーネ家の名誉のために振っているわけじゃない。剣聖の座を取り戻したいわけでもない。
じゃあ、私は、何のために。
通路で、シュベルトさんに訊かれた。私は、答えなかった。答えは、あった。でも、口にするのが、怖かった。言葉にしてしまったら、それはもう、取り消せない気がして。
「……先輩」
私は、喉元の切っ先を見つめたまま、言った。
「先輩は、何のために、剣を振っているんですか」
「言っただろう。エスピノーザの名誉のためだ」
「それは、先輩の家のための理由ですよね。お兄さんのための理由ですよね」
先輩の眉が、わずかに動いた。
「……先輩自身の理由は、どこにあるんですか」
切っ先が、ほんの少しだけ、揺れた。
私は、その隙に、白砂の上の自分の剣を掴んだ。
◇
私には、家の名誉なんてわからない。
でも、私には、私の理由がある。
入学したての頃、学園の中庭に、魔物が出た。逃げ遅れた下級生たちの前に、私はひとりで立った。足が震えて、剣を落としそうで、それでも、後ろにいる子たちを守りたかった。そして、もう駄目だと思ったとき、あの人が来てくれた。
あの夜から、私は、決めていた。
守られるだけじゃなくて、あの人の隣に立てる人になる。あの人が背中を預けてくれるような、強い人になる。そして、私の後ろにいる誰かを、今度こそ、自分の手で守れる人になる。
それが、私の道。
誰に褒められなくてもいい。名誉なんて、なくてもいい。
「――私は」
剣を握って、立ち上がる。
「私が信じた人の隣に、立つために。私の後ろにいる人を、守るために。……そのために、昨日の私より、少しでも強くなるために。剣を振っています」
先輩の目が、見開かれた。
――絶対の向上心をもって。
通路で聞いた、シャロンの誓いの言葉が、胸の奥で鳴った。
◇
先輩が、剣を構え直した。
「……戯言だ。五の型、『翔』」
踏み込み。斬り上げ。
私は、それを、見ていた。
一の型。二の型。三の型。四の型。この試合の中で、先輩は、自分の型を四つ、私に見せてくれた。そのどれもが、教本どおり、寸分違わず、完璧だった。
完璧だから、わかる。
次の一歩が、どこに来るか。肘が、どの角度で曲がるか。剣先が、どの高さを通るか。四百年かけて磨き上げられた型は、あまりにも正確すぎて、だからこそ、読める。
――大切なのは、見て、感じて、それを自分のものにすることだ。
今朝、口にサンドイッチを突っ込まれながら言われた言葉。
私は、先輩の『翔』の斬り上げに合わせて、剣を振り下ろした。
一の型、『礎』。
先輩が、最初に私に見せた型。まっすぐな、上段からの振り下ろし。
ただし、先輩の型と、少しだけ違う。シュベルトさんに教わった受けの重心を、ほんの半歩、後ろに残して。クレハさんに叩き込まれた、撃たれる前に動く反応で、振り下ろす一瞬を、ほんのわずかに早めて。
先輩の剣と、私の剣が、真正面からぶつかった。
火花が散った。
先輩の剣が、弾かれた。
「――なっ」
先輩の顔に、初めて、驚きが浮かんだ。
自分の家の型で。自分が最初に見せた、一番基本の型で。四百年、守り続けてきた型で。
一年生に、押し返された。
私は、止まらなかった。弾いた勢いのまま、二の型『流』。先輩の剣を絡め取る。三の型『穿』。先輩が教えてくれた突きを、先輩の喉元へ。
切っ先が、先輩の喉の、髪の毛一本分手前で、止まった。
先輩の剣は、私の肩の上で、止まっていた。
ほんの、一瞬。
私の切っ先のほうが、先に届いていた。
◇
「……勝者ッ!! 一年、フィアット・セルジーネ!!」
審判の声が、遠くに聞こえた。
観客席が、どよめいていた。拍手よりも先に、ざわめきが広がっていた。序列四位の、エスピノーザの嫡男が、一年生に負けた。それも、エスピノーザの型で。
先輩は、剣を下ろしたまま、動かなかった。
「……私の、型だ」
先輩が、かすれた声で言った。
「今のは、私の、一の型だった。……でも、違った。私の型より、速かった」
「先輩の型を、少しだけ、変えました」
私は、剣を鞘に納めながら、言った。
「先輩の型が、完璧だったからです。完璧だったから、読めて、真似できて……そこから、私の道に、合うように、変えられたんです」
先輩は、しばらく、私の顔を見ていた。
それから、腰に下げた、空っぽの鞘を見下ろした。
「……型は、守るものだと、教わってきた。一分の狂いもなく、先祖の振るった通りに、受け継ぐものだと」
先輩の手が、白い鞘を、そっと撫でた。
「……違ったのか。型は、超えるものだったのか」
先輩は、それきり、何も言わなかった。私に一礼して、試合場を去っていった。
その背中は、来たときよりも、少しだけ、曲がって見えた。
◇
選手用の通路の、薄暗い一角。
俺は、石柱の陰に立って、それを見ていた。
ディエゴ・エスピノーザが、ひとりで、壁にもたれていた。剣を握ったまま、俯いている。肩が、小さく震えていた。
そこへ、足音がひとつ、近づいていった。
「……やぁ、ディエゴくん」
シュベルトだった。
ディエゴが、弾かれたように顔を上げた。その目に、一瞬で、憎しみの色が宿った。
「……剣聖。笑いに来たのか」
「まさか」
シュベルトは、ディエゴから少し離れた石柱に、背を預けた。
「ひとつだけ、訊きたいことがあってね。……その鞘。内側、見たことある?」
「……何?」
「聖剣が抜かれる前は、ずっと台座の上で、剣が納まってたでしょ。だから、たぶん、何百年も、誰も内側を覗いたことがないと思うんだ」
ディエゴは、怪訝な顔をした。それから、ゆっくりと、腰の白い鞘を外した。
鞘の口を、通路の照明の魔石のほうへ傾ける。
薄暗い光が、鞘の内側に、細く差し込んだ。
ディエゴの手が、止まった。
鞘の内側に、文字が刻まれていた。
何百年も、剣に覆われて、誰の目にも触れなかった文字。かすれて、ところどころ欠けて、それでも、確かに読める文字。
『|その剣は、己が信じる道のために《・・・・・・・・・・・・・・・》。|絶対の向上心をもって振ること《・・・・・・・・・・・・・・》。|聖剣は、そのとき応えるだろう《・・・・・・・・・・・・・・》』
『道』の字には、小さなルビが振られていた。今では誰も読めない、古い古い文字で。
「シャロンの、最後の誓いだよ」
シュベルトが、静かに言った。
「君の家は、四百年、聖剣と、型と、シャロンの血を守ってきた。でも、シャロンが本当に残したかったものは、ずっと、その鞘の中にあったんだ。……誰も、覗かなかっただけで」
ディエゴは、鞘の内側を見つめたまま、動かなかった。
「己が信じる道……」
かすれた声で、ディエゴが繰り返した。
「名誉のため、ではなく……。家のため、でも、兄のため、でもなく……」
「さっき、フィアットちゃんが言ってたでしょ」
シュベルトは、少しだけ笑った。
「信じた人の隣に立つため。後ろにいる人を守るため。昨日の自分より、強くなるため。……あれが、あの子の道。誰かに与えられた理由じゃなくて、自分で選んだ道」
シュベルトは、石柱から背を離した。
「ディエゴくん。君の型は、本当に完璧だった。四百年分の努力が、全部、君の剣に詰まってた。……あとは、君が、君自身の道を見つけるだけだよ」
「……なぜ」
ディエゴが、顔を上げた。
「なぜ、それを、私に教える。あなたは、エスピノーザから、聖剣を奪った人間だ」
シュベルトは、困ったように頭を掻いた。
「奪ったつもりは、ないんだけどなぁ。……聖剣は、僕のものじゃないよ。たまたま、今、僕に応えてくれてるだけ」
シュベルトは、ディエゴに背を向けて、歩き出した。
「十年後の選定の儀。楽しみにしてるよ。……そのとき、聖剣が誰に応えるかは、僕にもわからないけどね」
足音が、遠ざかっていった。
ディエゴは、白い鞘を、胸に抱きしめるようにして、その場に座り込んだ。
肩が、震えていた。
でも、それは、さっきまでの震えとは、少しだけ違って見えた。
◇
通路を戻ってきたシュベルトが、石柱の陰の俺に気づいて、足を止めた。
「……見てたの、はっす〜」
「たまたまな」
「悪趣味だなぁ」
シュベルトは、肩をすくめて、俺の隣の壁にもたれた。
「……鞘の内側に誓いが刻まれてるって、なんで知ってた」
「アーネットに教えてもらったときに、言われたんだよ。『あの誓いは、聖剣と一緒に、ずっとそばにある。気づく者がいないだけだ』って。……最初は意味がわからなかったけど、選定の儀の日、聖剣を抜いたとき、一瞬だけ、鞘の内側が光って見えたんだ」
シュベルトは、天井を見上げた。
「十年間、誰にも言わなかった。言ったら、エスピノーザ家に返さなきゃいけない気がして。……僕も、案外、ずるいよね」
「今、返しただろ」
俺は言った。
「聖剣じゃなくて、もっと大事なほうを」
シュベルトは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと、いつもの笑顔に戻った。
「……ジュース、三本にしていいよ」
「最初からそのつもりだ」
通路の上から、フィアットの勝利を称える歓声が、まだ地鳴りのように響いていた。




