30 嘘じゃない親指
試合場の白砂を踏んだ瞬間、音が遠のいた。
三層の観客席から降ってくる歓声も、拡声の魔道具から響く審判の声も、薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるみたいだった。聞こえているのに、届かない。代わりに、自分の心臓の音と、腰の剣が鞘の中でかすかに鳴る音だけが、やけに大きく聞こえた。
――大丈夫。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
朝の、あの緊張とは違う。指先は冷たくない。肩も上がっていない。剣の柄に添えた左手は、一度しか握り直していない。
試合場の向こう側から、対戦相手が歩いてきた。
ミレーユ・ヴァルドラン先輩。二年生。序列は、全体の二十八位。
背の高い人だった。鈍い銀色の髪を、首の後ろできっちりと結い上げている。装備は、軽装の胸当てと、腰に下げた細身の長剣が一本。派手さはない。でも、立ち姿に隙がなかった。
先輩は、試合場の中央で足を止めると、私をまっすぐに見て、深く一礼した。
「ミレーユ・ヴァルドランです。よろしくお願いします、セルジーネさん」
凛とした声だった。
――あの子の剣は、本物だって、下層でも評判だった。
セルカさんの言葉が、頭をよぎった。
この人は、何も知らない。自分の父親が、何をしようとしていたのか。この試合の裏で、何が動いていたのか。この人はただ、自分の剣で、正々堂々と、ここに立っている。
だったら、私も。
「フィアット・セルジーネです。……全力で、お相手させていただきます」
私も、深く頭を下げた。
顔を上げると、先輩が、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
「――第八試合!! 一年、フィアット・セルジーネ!! 対、二年、ミレーユ・ヴァルドラン!!」
審判の先生が、手を振り上げた。
「――始めッ!!」
◇
先に動いたのは、先輩だった。
「――霧よ」
短い詠唱。先輩の足元から、白い霧がふわりと湧き上がった。
霧は、あっという間に先輩の身体を包み込み、試合場の半分を覆い尽くしていく。観客席から、どよめきが上がった。
「出たぞ、ヴァルドランの霧刃だ!!」
「あの霧の中から斬られたら、剣筋なんて見えないぞ!!」
霧の中で、先輩の姿が、ふっと溶けて消えた。
――見えない。
普通なら、そう思うところだった。
でも、私は知っている。
見えないだけで、消えているわけじゃない。
アイシャ先輩との試合で、ハスト様が教えてくれたこと。踏み込めば土は沈む。動けば風は渦を巻く。魔素の流れは、歪む。
私は、剣を抜いて、正眼に構えた。それから、ほんの少しだけ、目を細めた。
陛下の幻術を見破ったときと、同じように。アイシャ先輩の動きを、うっすらと捉えたときと、同じように。この二週間、毎晩、演習場に残って、何もない空間を見つめ続けた、あのときと同じように。
霧の中の、一点。
空気が、ほんのわずかに、ゆらりと歪んだ。
――左。
私は、身体を半歩、右に開いた。
次の瞬間、霧の中から、銀色の刃が、私のいた場所を切り裂いていった。
観客席が、どっと沸いた。
刃の主は、すぐにまた霧の中に溶けた。でも、その直前。霧の切れ間から、先輩の目が、驚きに見開かれているのが見えた。
――次。
背後。風が、渦を巻いた。
振り返らずに、剣を背中に回す。シュベルトさんに、何度も何度も叩き込まれた受けの型。感覚じゃない。型だ。身体が、勝手に動く。
甲高い金属音。背中越しに、先輩の剣を受け止めた。
衝撃で、腕が痺れる。重い。細身の剣なのに、一撃が、ものすごく重い。この人は、本当に、ずっと剣を振ってきた人なんだ。
受け止めた勢いのまま、私は前に転がって距離を取った。白砂が、制服にまとわりつく。
霧の中から、先輩の声がした。
「……見えているんですね。私の霧の中が」
「少しだけ、です」
「少しだけで、二度も防がれたのは、初めてです」
霧が、さらに濃くなった。試合場の全体が、白く塗りつぶされていく。
先輩は、本気になったのだ。
◇
霧の中で、気配が増えた。
一つ、二つ、三つ。四方八方から、空気の歪みが、同時に迫ってくる。
――幻?
違う。全部、本物の踏み込みだ。先輩は、霧の中を、信じられない速さで移動しながら、角度を変えて斬り込んできている。どれが本命の一撃なのか、見分けがつかない。
右から。受ける。左から。かわす。正面から。剣の腹で逸らす。頬を、刃がかすめた。熱い線が走る。
背後。
間に合わない。
――銃弾は、魔術より速い。詠唱を待ってくれる相手ばかりだと思うなよ。
クレハさんの声が、頭の中で弾けた。
考えるより先に、身体が動いた。剣を捨てるように手放して、前へ跳ぶ。地面に手をついて、一回転。背後を切り裂いた刃が、私の髪の先を、ほんの数本だけさらっていった。
転がりながら、手放した剣の柄を掴み直す。
立ち上がる。
息が、上がっていた。肩が、大きく上下している。
霧の中から、先輩の声がした。今度は、少しだけ息が弾んでいた。
「……すごい。本当に、一年生ですか」
「一年生、です」
私は、剣を構え直した。
このままじゃ、駄目だ。受けているだけじゃ、いつか捉えられる。見えているのは、ほんの一瞬だけ。先輩の速さに、私の目が、追いつききれていない。
だったら。
――見えない相手を、見つけるだけじゃ足りない。
ハスト様の総合演習で、何度も言われた言葉。
――見つけたら、こっちも消えろ。相手の目を、奪え。
私は、剣を構えたまま、左手を、そっと開いた。
詠唱は、要らない。
陛下が、何日も王城を抜け出して、軽くしてくださった術式。レイラさんが、最初に骨組みを組んでくださった術式。今はもう、札もなしで、私の中から、そのまま出てくる。
「――『幻術、サクリファイス・カウンターフィット』」
光の糸が、手のひらからほどけた。
霧の中に、私が、増えていく。
一人、二人、三人。十、二十。白い霧の中に、剣を構えたサイドテールの人影が、次々と生まれていく。それぞれが、少しずつ違う方向を向いて、少しずつ違う構えで。
霧の中の、先輩の気配が、ぴたりと止まった。
観客席が、一瞬、静まり返った。それから、割れんばかりのどよめきが、アリーナ全体を揺らした。
「なっ……幻術!? 一年が、無詠唱で、あの数を!?」
「どれが本物だ!?」
霧の中で、先輩の目が、二十人の私の間を、忙しなく彷徨っているのがわかった。
――今、先輩は、私が見えていない。
でも、私には、先輩が見えている。
霧が、先輩を隠しているはずだった。でも今は、その霧の中に、私の幻が二十人、立っている。先輩が、どの幻に目を向けて、どの幻から身を引いて、どの方向に足を踏み出そうとしているのか。全部、霧の揺らぎになって、私の目に映っていた。
先輩の霧が、今は、先輩自身の居場所を、私に教えてくれていた。
◇
私は、幻の陰から、一歩、踏み出した。
剣を、腰の鞘に納める。
そして、両手を、前に突き出した。
あの日から、毎日、練習した。夜明け前の訓練場で。誰もいない演習場で。何百回も、何千回も。
入学順位戦の日。杖の先で、全然違うものに変わってしまった、あの魔術。私の力じゃなかった、あの威力。あの日の金色の奔流には、たぶん、今も届かない。
でも、これは。
「――天を裂く雷よ、地を焦がす火よ」
詠唱は、短く。レイラさんに教わった、魔素循環の短縮式で。
「我が手に集い、交わり、ひとつの牙となれ」
両手の間に、赤い光と、黄色い光が、渦を巻いた。
繋ぎ目の、漏れはない。毎晩、確かめた。火と雷の比率も、偏っていない。何千回も、描き直した。
あの日みたいな、空を裂くような金色じゃない。
小さくて、細くて、でも、まっすぐな。赤と黄色が、きれいに編み込まれた、一本の光の槍。
私の、光。
霧の中で、先輩が、こちらを振り返った。二十人の幻の中から、ただ一人、魔力を練り上げている私に、ようやく気づいたのだ。
先輩が、剣を構え直す。
でも、もう遅い。
「――雷火を受けよ。混合魔術、ファイヤーライガン」
光の槍が、放たれた。
轟音はなかった。爆風もなかった。ただ、まっすぐに、白い霧を貫いて、一筋の赤金色の線が、試合場を横切った。
先輩の、剣の、鍔元。
光の槍は、そこだけを、正確に撃ち抜いた。
先輩の手から、長剣が弾き飛ばされた。くるくると宙を舞って、白砂の上に、深々と突き刺さる。
霧が、ゆっくりと晴れていった。
試合場の真ん中に、空になった両手を見下ろす先輩と、両手を突き出したままの私が、向かい合って立っていた。
二十人の幻の私は、いつの間にか、ひとりもいなくなっていた。
◇
長い、長い沈黙だった。
それから、先輩が、ふっと笑った。
両手を、ゆっくりと上げる。
「……参りました」
審判の先生が、はっと我に返ったように、手を振り上げた。
「しょ、勝者ッ!! 一年、フィアット・セルジーネ!!」
アリーナが、爆発した。
三層の観客席から、歓声と拍手が、雨のように降り注いできた。地鳴りみたいな音が、白砂を震わせる。
私は、両手を下ろした。指先が、震えていた。今さら、震えていた。
先輩が、白砂に突き刺さった自分の剣を引き抜いて、私のところまで歩いてきた。
「最後の魔術。……あれ、わざと、剣だけを狙いましたね」
「……はい」
「どうして、ですか。身体に当てれば、もっと簡単に勝てたのに」
私は、少しだけ考えてから、答えた。
「先輩の剣が、本物だったから、です。……本物の剣に、本物の魔術で、勝ちたかったんです」
先輩は、目を見開いた。
それから、くしゃりと笑って、右手を差し出した。
「次は、負けませんよ。セルジーネさん」
私は、その手を、しっかりと握り返した。
◇
――あぁ。
柵のすぐ内側で、俺は、深く息を吐いた。
見ていた。最初から、最後まで。
霧の中の空気の歪みを、あいつは確かに見ていた。シュベルトの受けの型で背中を守り、クレハ姉の言葉で死角から跳んだ。陛下とレイラさんの幻術で霧の主導権を奪い、そして最後に、自分の魔術を撃った。
あの日の、金色の奔流じゃない。俺の仕込みで膨れ上がった、偽物の殲滅魔術じゃない。
小さくて、細くて、まっすぐな、本物の光だった。
「……やるじゃん」
隣で、シュベルトが、ぽつりと言った。いつもの軽い声じゃなかった。
クレハおば……お姉さんは、腕を組んだまま、黙って頷いていた。目の端が、少しだけ光っていた。
俺の制服の裾を握ったまま、セルカが、小さく呟いた。
「……強い」
「だろ」
「……悔しいけど、強い」
上を見上げると、演台の脇の生徒会席で、アイシャ先輩が、立ち上がって両手を叩いていた。口の形が、「同志!!」と動いていた。
そのさらに上、最上層の来賓席の天幕の下では、騎士団の制服を着た男たちが二人、ひとりの貴族の両脇に、そっと立っていた。扇子を取り落としたその男は、青ざめた顔のまま、静かに席を立たされていった。誰も、気づいていなかった。試合場の真ん中で、勝者と敗者が握手を交わしている今、上の席に目を向ける者は、ひとりもいなかった。
演台の上で、エトワールが、眼鏡を押し上げた。新聞を、ぱたりと畳んだ。
……仕事が早いな、あいつ。
ミレーユ先輩には、たぶん、今夜あたりに知らせが届くのだろう。それを、あの人がどう受け止めるのか。それは、俺が口を出すことじゃない。でも、あの人の剣が本物だったことは、今日、この場の全員が見た。それだけは、誰にも、奪えない。
試合場の真ん中で、フィアットが、こちらを振り返った。
汗で、サイドテールが額に張りついていた。頬には、浅い切り傷が一本。制服は、白砂だらけ。
それでも、あいつは、笑っていた。今まで見た中で、一番の顔で。
フィアットの目が、俺を探して、見つけた。
俺は、右手を上げた。
親指を、立てる。
震えさせない。誤魔化さない。碧い光も、仕込まない。
入学順位戦の日、担架の上で立てた、嘘の親指じゃない。
――よくやった、フィアット。
声には出さなかった。でも、たぶん、届いた。
フィアットの目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。それから、あいつは、両手で顔を覆って、それでも笑いながら、何度も何度も頷いた。
観客席の歓声は、まだ鳴り止まなかった。
……さて。
俺は、右手を下ろして、ポケットに突っ込んだ。
感動しているところ悪いが、俺にはまだ仕事が残っている。
俺の一回戦は、第十二試合。相手は三年の、序列五十位くらいの先輩らしい。
今度こそ、華麗に、完璧に、負けてやる。
「……ハストさま、今、悪い顔してた」
「してない」
「してた」
「……してない」
隣で、シュベルトが、また腹を抱えて笑いを噛み殺していた。




