29 弁明は三行以内でお願いします
「ハスト様。この子は?」
フィアットが、にっこりと笑っていた。
目だけが、笑っていなかった。
背後に、黒い靄のようなものが渦を巻いている。いや、比喩じゃない。本当に見える。たぶんあれ、無意識に漏れ出した幻術だ。アークさんの手ほどきを受けてから、こいつの幻術は感情に引っ張られて勝手に出るようになった。ありがたくない成長だ。
「一体どういうことなのか、説明していただけると、ありがたいのですが?」
声は穏やかだった。穏やかすぎて、背筋が凍った。さっき最下層で浴びたセルカの冷気より、はるかに冷たかった。
「い、いや、これはだな。その……」
俺は、横を見た。
シュベルトが、いなかった。
正確には、三歩ほど離れた柵の陰で、「僕は関係ありません」という顔で空を見上げていた。あの野郎、さっき武勇伝がどうとか嘆いてたくせに、こういうときだけ剣聖の身のこなしを発揮しやがる。
クレハおば……お姉さんは、拳銃の弾倉を入れ替え終えていた。誰を撃つ気なのかは、考えないことにした。
「……あの、ハスト様」
「は、はい」
「弁明は、三行以内でお願いします」
三行。
三行で、今日の出来事を説明しろと。最下層に潜って、シマを抜けて、殺し屋に囲まれて、覇気を全開にして、氷の女ボスを泣かせて、パートナーに勧誘した、この一連の出来事を。
俺は、深呼吸をひとつした。
「一、お前を狙ってた組織を潰してきた。二、そこのボスがこいつだった。三、なんか、ついてきた」
「……」
「……」
「四行目がありますよね?」
「ないです」
「ありますよね?」
「……もう一人のパートナーとして、スカウトしました……」
フィアットの背後の黒い靄が、ぶわっと膨れ上がった。
その瞬間、俺の制服の裾をつまんでいたセルカが、一歩前に出た。俺の腕にぴとりとくっついたまま、フィアットを、じっと見上げる。
「……あなたが、フィアット・セルジーネ」
「ええ。あなたは?」
「セルカ。ハストさまの女」
空気が、割れた音がした。
「おい、だからそれは――」
「……へぇ」
フィアットの声が、一段、低くなった。
「ハスト様の、パートナーは、私ですけど」
「知ってる。だからわたしは、もう一人のパートナー。……二番目、なら、文句ないでしょ」
「二番目……」
フィアットの笑顔が、ぴきり、と固まった。セルカの指先から、白い冷気がうっすらと立ち昇る。フィアットの背後から、黒い靄が触手のように伸びる。
片や氷。片や幻。二つが俺の目の前で、ばちばちと火花を散らしていた。いや、氷と幻で火花は散らないはずなんだが、散っていた。たぶん、気のせいじゃない。
「ちょ、ちょっと待て二人とも!! ここ試合場の柵の内側!! 観客いっぱいいるから!!」
俺は慌てて、二人の間に割って入った。
◇
それから五分。
俺は、柵の陰の目立たない場所で、改めてフィアットに事情を説明した。三行ではなく、ちゃんと全部。
最下層のこと。今日の第八試合を狙っていた依頼のこと。セルカが、その実行役を任されていたこと。それから、セルカが下層でどうやって生きてきたのか。高すぎるヒールのこと。冷たい手のこと。
フィアットは、黙って聞いていた。
最初は、腕を組んでいた。途中から、腕がほどけた。最後には、黒い靄が、すっかり消えていた。
フィアットは、セルカのほうを見た。
セルカは、俺の背中に半分隠れたまま、フィアットを睨み返していた。でも、その睨み方は、さっきの値踏みするような目とは少し違った。叱られるのを待っている子どもの目だった。
「……セルカさん」
フィアットが、静かに言った。
「手を、見せてもらってもいいですか」
セルカが、びくっと肩を跳ねさせた。それから、ためらうように、そっと右手を差し出した。
フィアットは、その手を両手で取った。
あかぎれは、もうない。さっき俺が覇権で繋いだ。でも、指の関節のあたりに、うっすらと白い痕が残っていた。何年も、何年も割れ続けた皮膚の痕。
フィアットは、その痕を、親指でそっと撫でた。
「……私の手にも、あるんです」
フィアットは、自分の右手を開いて見せた。手のひらに、潰れたマメの痕がいくつも並んでいた。この二週間、剣を振り続けてできた痕だ。
「理由は、全然違いますけど。……でも、ちょっとだけ、わかります」
セルカが、目を見開いた。
それから、ぷいっと顔を逸らした。
「……わかったような顔、しないで」
「はい。しません」
フィアットは、にこりと笑った。今度は、目も笑っていた。
「でも、ハスト様のパートナーは、私が一番目ですからね」
「……二番目でも、ハストさまの隣にいる時間は、わたしが長くなるかもしれない」
「なっ……!?」
「住む場所、ハストさまが面倒見てくれるって言った」
「ハスト様!?」
フィアットの首が、ぐるんとこっちを向いた。黒い靄が、また少しだけ戻ってきた。
「いや、言ったけど!! それは、ほら、下層から引っ張り出す以上、住む場所がないと困るだろって意味で!! 俺の家じゃない!! ロリババアの森の家の離れとか、そういう!!」
「……本当ですか?」
「本当です!!」
フィアットは、しばらく俺をじっと見つめていた。それから、ふう、と息を吐いた。
「……わかりました。今日のところは、信じます」
今日のところは、ってなんだ。
「それと、ハスト様」
「は、はい」
「今夜、うちで夕飯を食べていってくださいね。母が、順位戦の打ち上げをするって張り切っていたので」
――あぁ。そうだった。
この二週間、特訓が終わったあとは、毎晩のようにセルジーネ家で夕飯をご馳走になっていた。フィアットの母上が「娘がお世話になっている先生方に」と言い出して、気づけばシュベルトやレイラさんまで、交代で食卓に招かれるようになっていたのだ。
そして、その食卓で、俺の皿にだけピーマンが山盛りになった日が、一度だけあった。俺が特訓の約束をすっぽかして、屋上で昼寝をしていた日の夜だ。盛りつけをしていたのは、フィアット本人だった。
「……今夜の献立は?」
恐る恐る訊くと、フィアットはにっこりと笑った。
「ピーマンの肉詰めです」
「……」
「冗談ですよ」
冗談に聞こえなかった。
「セルカさんも、よかったら一緒に」
フィアットが、セルカのほうを見た。
セルカは、ぽかんと口を開けていた。それから、俺の顔を見上げた。俺は、頷いてやった。
「……行く」
セルカは、小さな声で、そう答えた。
◇
そのとき、アリーナの歓声が、ひときわ大きく沸き上がった。
『――第七試合、終了!! 勝者、三年、ガルド・ベイカー!!』
拡声の魔道具から、審判の声が響き渡る。
『続きまして、第八試合!! 一年、フィアット・セルジーネ!! 二年、ミレーユ・ヴァルドラン!! 両者、入場の準備をしてください!!』
フィアットの背筋が、すっと伸びた。
セルカが、俺の制服の裾を握る手に、ぎゅっと力を込めた。
「……ヴァルドラン」
セルカが、小さく呟いた。
「わたしに依頼してきた伯爵家。……その、娘」
フィアットが、セルカを見た。セルカは、目を伏せていた。
「たぶん、あの子は、何も知らない。父親が、勝手にやったことだと思う。……あの子の剣は、本物だって、下層でも評判だったから。父親は、それでも、確実に勝たせたかったんだと思う」
フィアットは、しばらく黙っていた。
それから、剣の柄に、そっと手を添えた。
「……なら、なおさら、正々堂々と戦わないといけませんね」
フィアットは、俺のほうを振り返った。
さっきまでの黒い靄は、どこにもなかった。今朝の、緊張で強張った顔でもなかった。この二週間で、何度も見た顔だった。演習場の赤土の上で、何度転んでも立ち上がってきた、あの顔。
「ハスト様」
「ん」
「見ててくださいね。……今度は、私の、本物の力ですから」
入学順位戦の、あの日。杖の先に仕込まれた、俺の強化。それに吹き飛ばされて、泣いていた、あの日の自分に。
こいつは今日、本当の意味で、勝ちに行くのだ。
「――あぁ。見てる」
俺は、頷いた。
フィアットは、にっと笑った。それから、くるりと背を向けて、試合場の入口へと歩いていった。サイドテールが、陽の光を受けて揺れた。
その背中を見送っていると、隣で、シュベルトがいつの間にか戻ってきていた。
「……いい顔するようになったね、フィアットちゃん」
「お前、さっきまでどこにいた」
「空を見てた。いい天気だね」
「後でジュース二本な」
「増えた!?」
クレハおば……お姉さんが、拳銃をホルスターに戻しながら、ふっと笑った。
「さぁて。アタシの弟子の晴れ舞台だ。特等席で見させてもらおうか」
「アンタの弟子だけじゃないけどな」
「細かいことは気にするな、ハス坊」
俺たちは、柵のすぐ内側、試合場が一番よく見える場所へと移動した。
セルカは、俺の制服の裾を握ったまま、ついてきた。そして、試合場の真ん中に立つフィアットの背中を、じっと見つめていた。
「……あの子、強いの?」
「強いよ」
俺は、迷わず答えた。
「たぶん、お前が思ってるより、ずっとな」




