28 セルカ
勢いのままパートナーにしてしまったが、今の俺は非常に焦っていた。
フィアットへの弁明方法が、いまだに一ミリも定まっていないからだ。
脳裏に、にっこりと笑うフィアットの顔が浮かぶ。目だけが笑っていない、あの顔だ。背後に黒い靄みたいなものが渦巻いていて、口元だけがきれいな弧を描いている。前にあの顔を見たのは、俺が彼女との特訓の約束をすっぽかして屋上で昼寝していたときだった。あの日の夕飯、俺の皿にだけピーマンが山盛りになっていた。
身の毛がよだってきた。本当にどうしよう。
……いや、そんなことよりもだ。
俺は、俺のローブの裾をちょこんとつまんで後ろをついてくる存在に目をやった。
さっきまで俺たちを殺そうとしていた女だ。見た目は相変わらず、黒革の外套に銀の毛皮の襟巻き、ごつい指輪に跳ね上げた化粧と、悪の組織の幹部そのものの豪快な格好をしている。
なのに、だ。
折れたヒールの代わりに、錬成術でぺたんこの靴に作り変えてやったら、その背丈は本当に小さかった。俺の肩にも届かない。その小さな身体で、俺のローブを両手できゅっと握って、置いていかれないように一生懸命ちょこちょこ歩いている。
小動物感が、あふれていた。さっきまでの冷酷な女ボスのイメージが、跡形もなく崩れ去っている。
「はっす〜。この子、さっきまでは完全にヤンキーみたいだったけど……なんだろう、すっごいおとなしい子になってない?」
「それに関しては激しく同意するわ」
俺は振り返って、女に声をかけた。
「なぁ、元幹部さんや」
……ものすごく嫌な顔をされた。眉間にしわを寄せて、唇をへの字に曲げて、全力で「不服です」と主張している。
「えっ、なんで? 俺なんもしてないよね!?」
「……セルカ」
「おん? なんて?」
女は、ローブの裾をぎゅっと握り直した。
「……元幹部なんて呼び方は、いや。わたしは、ハストさまの女なんだから。セルカって、呼んで」
「女ぁ!?」
そう言って、セルカはうるうるとしたつぶらな瞳で俺を見上げてきた。化粧が涙で崩れたせいで、跳ね上げたアイラインがすっかり消えている。素顔は、驚くほど幼かった。
その顔で見上げられると、なぜか俺が悪いみたいな罪悪感に襲われる。何もしてないのに。本当に何もしてないのに。
視界の端で、シュベルトがにやにやしていた。ネタを見つけたときの顔だ。とてもきもい。
「いや〜、はっす〜が小さな女の子を泣かせた挙句、『俺の女』にしたってフィアットちゃんが知ったら、どんな顔するだろうな〜」
「言ってねぇよ!? 俺はそんなこと一言も――」
「フィアットちゃん、きっとあの笑顔だよね〜。目だけ笑ってないやつ〜。あ、ピーマン山盛りかな〜」
俺の指先から、碧い炎が漏れた。
「あぁぁぁあ、嘘嘘!! ごめんって! 覇権しまって!」
「この男……ハストさま、怒らせた……コロス……」
セルカの指先からも、白い冷気が漏れた。俺のローブを握っていない方の手に、ちいさな氷のナイフがぱきぱきと生まれていく。
「だぁぁぁッ!! なんでキミにまで恨み買われてんの!? はっす〜からもなんか言ってやってよ!」
俺はシュベルトを見た。それからセルカを見た。セルカの目は真剣だった。
何となく、真似してみたくなった。
「……セルカ困らせた……コロス……」
「僕の味方が消えたァァァァ!!」
シュベルトが、湿った石畳に膝から崩れ落ちた。
セルカが、ほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
◇
階段を上りながら、俺たちは後始末の段取りをつけた。
最下層に転がっている連中のことは、シュベルトが剣聖の名前で騎士団に通報する。「順位戦の警備中に、西区銀行強盗の一味と遭遇し、これを制圧」。いつも通りの、功績の押しつけだ。シュベルトは「また僕の武勇伝が増えるよ……」と遠い目をしていた。
セルカは、依頼主の名前を知っていた。上層の来賓席に座っている、とある伯爵家の当主だそうだ。娘が第八試合でフィアットと当たる予定だったらしい。
「その名前は、毎日王都新聞に渡しとけ。あいつが一番、楽しそうに料理するから」
「料理って……」
「墓荒らしまでやる鬼畜だぞ、あいつ。明日の一面が楽しみだな」
観客席に残っていた見張り役の男には、外套の裾につけておいた碧い目印越しに、覇気をほんのひとつまみだけ流しておいた。今ごろ、日差しの中で気持ちよく居眠りしているはずだ。目が覚めたら、今日のことは何ひとつ覚えていない。忘却術はこういうとき便利だ。
通路の上のほうから、地鳴りのような歓声が降ってきた。試合はもう、何戦か進んでいるらしい。
「……第八試合まで、あとどれくらいだ」
「たぶん、二試合くらい? 間に合うよ」
俺はローブを脱いで丸め、小脇に抱えた。セルカが、俺の制服の裾をつまみ直した。
階段の途中で、セルカがぽつりと口を開いた。
「……あの靴。ずっと、高いのを履いてたの」
「ん?」
「下層では、小さいと舐められるから。舐められたら、仕事がもらえない。仕事がもらえなかったら、冬を越せない」
セルカは自分の足元を見下ろした。俺が作り変えた、何の飾りもない、ぺたんこの靴。
「冷気の魔術も、そう。最初は、寒くて寒くてどうしようもない夜に、勝手に出てきたの。凍えるくらいなら、いっそ自分が冷たくなっちゃえばいいって。……そしたら、誰もわたしに触れなくなった」
だから、あの手だったのか。誰にも触れられない、冷たい手。
俺は何も言わずに、セルカの頭にぽんと手を置いた。ロリババアが昔、俺にそうしたみたいに。
セルカは一瞬だけびくっと肩を跳ねさせて、それから、俺の手のひらにそっと頭を押しつけてきた。
「……この靴、歩きやすい」
「だろ。もう背伸びしなくていいんだよ」
「でもハストさまも、ちょっと背伸びしたほうがいいと思う」
「誰がチビだコラ」
後ろでシュベルトが、腹を抱えて笑いを噛み殺していた。
◇
一方、アリーナの方では。
「クレハさん、これは一体どういうことですか!!」
第八試合の控え場所。試合場を囲む柵のすぐ内側で、私は思わず声を荒らげていた。
目の前で腕を組んでいるのは、銃王クレハさん。肩に担いだ機関銃は、今日は観客を怖がらせないよう布で包まれている。私の特訓に付き合ってくれている人の一人で、ハスト様が「おば……お姉さん」と呼ぶ人だ。
「どうもこうもないさ。ちょっと目を離した隙に、ハス坊がいなくなっちまった。あの馬鹿シュベルトもな」
「探しに行かなくては! ハスト様が心配です!」
「それはやめておけ」
クレハさんの声は、静かだった。いつもハスト様の前で見せる、甘ったるくて騒がしい声とはまるで違う。
「あの二人が一緒に動いてるってことは、相当な厄介ごとだ。アタシですら対処が難しい案件の可能性が高い。お前はハス坊に自分の成果を見せるために、ここまで来たんだ。お前がわざわざ行く必要はない」
「でも!」
「大丈夫だ。彼らならすぐに戻ってくるさ。お前は次の試合の準備でもしておけ」
私は、言い返そうとして口を閉じた。
何かがおかしい。
クレハさんは、ハスト様がいなくなったと言った。ハスト様のことなら、地の果てまで追いかけていく人なのに。この人がハスト様を探しに行かず、ここに立っている。私の、すぐ隣に。
開会式が終わってから、ずっとそうだった。私が水を飲みに行けばついてきた。控え室で着替えるときは扉の前に立っていた。私が何気なく観客席を見上げるたびに、クレハさんも同じ方向を見ていた。
クレハさんは、私の身の安全を確保しようとしている?
……そうでなければ、この人はここにはいないはずだ。ということは――
「敵の狙いは……私、ですか……」
声は、思ってもいないのに震えて、かすれていた。
指先が冷たくなる。喉の奥が詰まる。ハスト様とシュベルトさんが消えたのは、私のせい。私なんかを狙う誰かを、二人が止めに行った。私が、ここに立っているせいで。
次の言葉を口にしようとしたとき、頭にあたたかい感触が伝わってきた。
クレハさんの手だった。大きくて、硬くて、火薬の匂いが染みついた手。
「そこまで思考が回るとは、立派だ。でも、本当に気に病む必要はないんだ」
クレハさんは、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「アタシだってハス坊は心配でたまらないし、なんならこの会場ごと爆破してやってもいいんだがな」
「クレハさんも……?」
冗談に聞こえなかった。この人なら本当にやりかねない。
「ハス坊は、お前を信じてる。だからお前も、ハス坊を信じてやりなさい。……それが、パートナーってものだろう?」
その言葉で、ようやく気づいた。
そうだ。そうだったんだ。
ハスト様は、私に何も言わずに行った。それは、私を信じているからだ。私が自分の試合に集中できると、信じてくれているからだ。今朝、口にサンドイッチを突っ込んで、「盛大に楽しめ」と笑ってくれたのは、そういうことだったんだ。
私は、ハスト様に信頼されている。パートナーなんだ。
胸の中に渦巻いていたもやもやが、すうっと晴れていく。思考が、透き通っていく。
「はいっ!! 私、ハスト様の隣に立つ者として、頑張ります!」
「そう、その意気だ」
クレハさんは、にっと口の端を上げた。
それから私は、すぐそばにいたクレハさんに、最終調整の相手を頼んだ。クレハさんは布で包んだ機関銃をそのまま下ろし、腰の拳銃を一丁だけ抜いた。
「銃弾は魔術より速い。詠唱を待ってくれる相手ばかりだと思うなよ」
乾いた発砲音。私は剣の腹で弾を逸らし、二発目を半歩でかわし、三発目に合わせて幻体を置いた。四発目で頬を掠められ、五発目で剣を弾き飛ばされた。
さすがに、クレハさんに勝つところまでは至らなかった。でも、うまくやれていたと自分でも思う。三発目まで、私は一度も目を閉じなかった。これは大きな成長だ。
レイラさんに魔術を教わってから、世界が変わって見えた。アークさんに幻術を習ってから、自分の愚かさを知った。シュベルトさんに剣術を見せてもらってから、感覚に頼ることをやめた。ハスト様に試合をしてもらうことで、技術の頂点が美しく見えた。
実力を伸ばすことが、楽しいと感じるようになった。
もっと。もっと、先へ。
「もっと、頑張らなきゃ」
「フィアットちゃん、いい感じに仕上がってるじゃん。クレハの訓練についていけてるのは上出来上出来!」
「フィアット、練習お疲れ」
背後から、聞き慣れた二つの声がした。
振り返ると、そこにはシュベルトさんと、ハスト様がいた。二人とも、少しだけ服が汚れている。ハスト様の制服の袖に、白い霜の跡のようなものがついていた。
無事だった。よかった。本当に、よかった。
胸を撫で下ろしかけて――私は、ハスト様の制服の裾をつまんでいる、小さな手に気づいた。
ハスト様の背中に半分隠れるようにして、誰かが立っている。黒い革の外套に、銀色の毛皮の襟巻き。ごつい指輪。そして、私よりも頭ひとつ以上小さな背丈。
……女。
それも、幼い。
その子は、ハスト様の制服の裾をきゅっと握り直すと、私をじっと見上げてきた。値踏みするような目だった。それから、勝ち誇ったように、ハスト様の腕にぴとりとくっついた。
ふ〜ん。
そういう、ご趣味が、おありだったのね?
私の中で、ドス黒い感情が湧き上がってくる。お腹の底のほうから、ふつふつと。私を差し置いて、どこの女を誑かしてきたのかしら?
ハスト様の顔が、みるみる青ざめていくのが見えた。シュベルトさんが、そっと一歩、二歩と後ずさりしていく。クレハさんが、なぜか拳銃の弾倉を入れ替えていた。
私は、にっこりと微笑んだ。
「ハスト様。この子は?」
声は、我ながら驚くほど穏やかだった。
「一体どういうことなのか、説明していただけると、ありがたいのですが?」




