26 シマ
「潰しに行くよ」
そう言ったシュベルトの顔は、周囲に冷気を撒き散らすような表情をしていた。
何層にも重なった、この薄暗い舞台裏。そこが今日の、俺たちの仕事場だった。
今いるのは、最下層へと続く階段だ。古代の剣闘士たちが何百年も踏みしめてきた石段は、一段一段がすり減って中央がくぼみ、湿気を吸って黒ずんでいる。手すりは錆びた鉄製で、握るとざらりと赤い粉が手のひらにつく。
俺は一段、また一段と降りていく。そのたびに、腹の底がじわじわと熱くなっていくのがわかった。
久しぶりの全解放ができる。そう思うと、心が躍り出す。
毎晩の組織潰しは、正直言ってストレスが溜まる仕事だった。相手は所詮チンピラの寄せ集め。本気を出せば王都の一区画ごと吹き飛ばしてしまうから、いつも覇権を指先ほどに絞って、ちまちまと片付けていた。満腹になる前に皿を下げられ続けるみたいな日々だ。
でも、今日は違う。最下層の連中は、そこらのチンピラとは格が違う。
対してシュベルトの方を見上げると、さっきまでの怒り心頭な顔はすっかり消えていた。いつものハンサムスマイルに戻っている。切り替えが早いのは剣聖の素質なのかもしれないが、見ていて腹が立つ。
俺は錆びた手すりにぐにゃりと歪んで映る自分の顔と、隣のイケメンを見比べた。
片や、寝不足でクマの浮いた陰キャ。片や、どの角度から見ても絵になる顔面国宝。
今すぐこのイケメンをグチャグチャにしたくなってきた。
「なんだい、その恨めしい目線は。今回に関しては僕は何もしてないじゃないか。無罪だよね!? ねぇ!?」
「お前、どんな表情でもイケメンだからムカつくんだよ。だからお前も一緒に消そうかと」
「なんで!? 僕の顔なんて昔から見てるのに、なんで今さらそんなこと――って、ちょちょちょっと! 覇権しまってってば!!」
気づけば、俺の指先から碧い炎がちろちろと漏れ出していた。
「おっと、これは無意識に出ちゃったわ。すまんすまん」
「無意識で出していいものじゃないでしょそれ!」
俺は覇権を引っ込めた。全解放への期待で、ちょっと蓋が緩んでいたらしい。危ない危ない。
シュベルトにたかる口実ができたので、今日のジュース代をせしめるために「ジュース一本で許してやろう」と言いかけた、そのときだった。
ドンッ。
肩に衝撃が走った。
「いって。いやぁ、すんません」
反射的に頭を下げる。陰キャの悲しい習性だ。ぶつかったら、相手が悪くてもとりあえず謝る。
「あぁ? どこ見て歩いてんだボケ! お前、ウチのシマにヌケヌケと入り込んどいて何様のつもりだ?」
「シマ……?」
俺が頭にハテナを浮かべるように首をかしげると、シュベルトがすっと耳打ちしてきた。
「ナワバリのことさ。要するに、ここは――」
「なんだおメェら、他のシマのもんか? 自分とことよそのとこの区別くらいつけろよな」
男は鼻を鳴らした。
頬に古い刀傷。腰には刃の厚いナイフが二本。肩幅の割に足音が驚くほど静かだ。ぶつかってくる直前まで、俺は気配に気づかなかった。……いや、気づいていたけど、寝不足で反応するのが面倒だったというのが正しい。
「せいぜい、上のクライアントに迷惑かけんなよ。……それと」
男の目つきが変わった。さっきまでのチンピラじみた濁った目ではない。獲物の喉笛を測るような、刺すような目だ。
「間違ってもウチのオーダーを妨害するようなマネはするな。さもなくば、お前のアタマは胴体とお別れだ」
男はヒラヒラと手を振り、通路の闇へと溶けるように消えていった。足音が三歩目で途切れる。気配を自在に消せるということは、かなりの手練れということだ。
シュベルトの方へ向き直ると、こいつはもう、懐から出した黒いローブを羽織り、フードを深くかぶっていた。剣聖の顔は、この下層ではあまりにも有名すぎる。
俺もローブに腕を通しながら、この薄暗い世界に足を踏み入れてしまったことを、改めて自覚した。
◇
俺たちは再び歩き出した。
さっきの一件で目が慣れたのか、視界が一気に広がった気がした。最下層の通路は、まるで地下に埋もれた一つの街だった。
通路の端では、壁にもたれた男がナイフを研いでいる。砥石を滑る刃の音が、しゃりん、しゃりん、と一定の拍で響く。その向かいでは、木箱を机代わりにして、片目に眼帯をした女が銃の手入れをしていた。分解された部品が、油の染みた布の上に几帳面に並べられている。
天井から吊られたランタンの下では、男たちがカードを囲んでいた。賭けられているのは金貨ではなく、紙切れだ。よく見ると、それは今日の順位戦の出場者名簿だった。名前の横に、赤いインクで印がつけられている。
ここにいる全員が、今日の順位戦で「誰か」を潰すために雇われている。
それぞれのシマには、壁に塗料で目印が描かれていた。蛇、鴉、折れた剣。俺たちはそのたびにローブの裾を翻して、目を合わせないように、でも足早になりすぎないように通り抜けた。急ぐ足音は、この場所では「後ろめたいことがある」と叫んでいるのと同じだ。
いくつかのシマを抜けて、しばらく歩いたころだった。
足元に、冷気が漏れていた。
石畳の継ぎ目に沿って、白い霜が細い川のように這っている。湿った空気が、その上だけ凍って、きらきらと光の粒になって漂っていた。
俺の感覚が告げる。このシマは、違うと。
それに、さっき観客席の男につけておいた碧い目印。あの糸くずほどの印から伸びる見えない糸が、まっすぐこの霜の先を指している。合図役の行き着く先が、ここだ。
シュベルトへ目配せすると、こいつも小さく頷いた。
これは、ビンゴかもしれない。
「西区銀行強盗殺人事件。謎の魔術師集団による計画的犯行、ってね」
「ほんと、なんでアイツの読んでる新聞の出来事は、毎回僕たちの前に降ってくるんだろうね。キミってトラブル体質? 見た感じ、この冷気も銀行の現場にあったやつだよね」
「まったくだ。俺なんか、お前と組んでないときも市街地にランク18オーバーの魔獣が出現したし。それも俺の目の前に二回だぞ」
シュベルトがふふっと笑うと、俺もなんだかそんな気がしてきて、少しだけ笑いが漏れた。
「まぁ、俺たちが組み始めてもう五年。ここまで来ると、アイツの新聞の精度って意外と高いのかもな」
「高いんじゃなくて、ほぼ的中でしょうに。キミが表舞台に出られないからって、僕が何度功績を押しつけられてきたか。ホント、国民とか世間にどう説明するか、毎回困ってたんだからね」
もう嫌だと言わんばかりに、シュベルトは両手を上げてお手上げのポーズをした。
剣聖シュベルト・ロード。魔獣の群れを単騎で殲滅し、盗賊団を一夜で壊滅させ、国の危機を幾度も救った英雄。……その武勇伝の半分くらいは、俺の仕事の後始末だ。こいつはそれを全部、文句を言いながらも引き受けてくれている。
絶対に本人には言わないけどな。
俺たちはもう怖いものなしだと、霜の川を辿ってずけずけと進んでいった。冷気はどんどん強くなる。吐く息が白い。ローブの裾に霜が降りて、歩くたびにしゃり、しゃりと音を立てた。
ボスはもう、すぐそばらしい。
……おっと。向こうのほうから来てくれるっぽい?
カツン、カツン。
通路の奥から、ヒールの音が鳴った。
「何者だ」
闇の中から現れたのは、女だった。
黒い革の外套に、襟元をぐるりと覆う銀色の毛皮。指には大ぶりの指輪がいくつも嵌まり、目元には鋭く跳ね上げた化粧が施されている。いかにも悪の組織の幹部、といった豪快な出で立ちだ。
……ただ、妙に小さい。
俺は女の足元に目をやった。踵が、ありえない高さだった。あれを脱いだら、たぶん俺と目線がほとんど変わらない。いや、もしかしたら俺より――いや、その先を考えるのはやめておこう。自分にも刺さる。
「貴様ら、わたしのシマの人間ではないな。言え。どこのシマの人間だ。場合によっては……」
女の周囲の空気が、ぴしりと音を立てて凍りついた。
女が右手を軽く振る。その手の中に、透き通った氷のナイフが生まれた。刃の縁から白い冷気が細くたなびき、切っ先がまっすぐ俺たちのほうを向く。
ナイフを握る指の関節が、赤く割れていた。あかぎれだ。自分の生み出す冷気に、自分の手が焼かれている。それでもこの女は、きっと毎日あのナイフを握り続けてきたのだろう。
俺は口論があまり得意ではないので、ここは社会慣れしているシュベルトに任せることにした。フードの下から肘でつつくと、シュベルトは小さくため息をついて一歩前に出た。
「まぁまぁお嬢さん、そんな物騒なことおっしゃらずに。僕たちはちょっと、交渉に来ただけです」
「何? 交渉だと?」
「そうです。譲歩というか、お願いです」
女は氷のナイフの切っ先を下ろさないまま、しばらくシュベルトのフードの奥を睨んでいた。
「……相応の対価を払えるのであれば、聞ける範囲で聞こう」
あら、意外といけちゃったり?
俺が交渉を始めると、毎回なぜか相手がキレて、結局潰すハメになる。なのにこいつがやると、なぜかうまくいくことが多い気がするんだが。なんか無性に腹が立ってきたな。
まぁ、今回の目当ては、もう定まってるんだけどな。
「では、ありがたく。単刀直入に言います」
シュベルトの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「あなたは――いえ、あなた方には、本日第八試合のフィアット・セルジーネの暗殺を、やめていただきたい」
女の目が、見開かれた。
「なぜ、それを……」
言いかけて、女は唇を噛んだ。それから、何事もなかったように顎を上げる。
「……まぁいい。残念だが、その依頼は今回の最重要事項だ。変更はできない」
「そこをなんとか、いきませんかね……? 僕たちも、さすがに手ぶらじゃ帰れないんですよ」
「何度も言わせるな。オーダーは絶対だ」
「お姉さん、そこを何とか! 報酬にも色つけますからさぁ!」
「不可能だ」
「ホント、頼みますよ姉御〜! マジで困ってるんですってば〜!」
……なんだかこいつ、さっきまでフレッシュなエリートだったのに、今は両手をすり合わせて頼み込んでいる。その姿は完全に、取引先に土下座寸前の社畜のそれだった。剣聖の威厳、どこ行った。
こりゃダメだ。とりあえず一回引き上げて、別の手を考えるか。そう思って踵を返しかけた、そのときだった。
「そんなこと、知ったことか」
女の声が、氷のように冷えた。
「さてまぁ。最重要機密を知られてしまったのだから……生きては帰せない」
女が、ゆっくりと左手を挙げた。
合図だった。
通路の闇という闇から、人影が滲み出してきた。天井の梁の上から。崩れた壁の裂け目から。積まれた木箱の陰から。ナイフを研いでいた男も、銃を磨いていた眼帯の女も、カードに興じていた連中も、いつの間にか全員がそこにいた。
ものの数秒で、俺たちは大勢の殺し屋に囲まれていた。四方八方から、刃と銃口と、凍てつくような殺気が向けられている。
シュベルトが、小さく「あーあ」と呟いた。
俺はフードの下で、ゆっくりと首を鳴らした。
この数週間、毎晩毎晩、溜まりに溜まっていたもの。指先ほどに絞り続けてきたもの。フィアットが今日のために積み上げてきた鍛錬の日々。それを、金で雇われた連中が、上の天幕でふんぞり返ってる連中の都合で、踏みにじろうとしている。
俺は知っている。フィアットがこの日のために、どれだけ積み上げてきたかを。
夜明け前の訓練場で、レイラに組んでもらった魔術の式を、何百回も何千回も描き直していたこと。シュベルトの剣を見せてもらった日の夜、自分の剣筋がどれだけ感覚頼りだったかに気づいて、悔し泣きしながら素振りを続けていたこと。手のひらのマメが潰れて、包帯に血が滲んでも、「平気です」と笑っていたこと。
それを、こいつらは、銭金で終わらせようとしている。
もう我慢できなかった。
俺はここで初めて、口を開いた。
「あのさぁ。お前らマジ面倒クセェから、消すわ」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
「俺の努力がパーになるの、一番腹立つんだよな」




