20 やっぱりそうなりますよね
バコンッ!!
学園長室の扉が、蝶番ごと外れそうな勢いで開いた。さすがの俺も、いきなりだったので、びくっと肩を跳ねさせてしまった。
「ハスト様ッ……!! はぁっ、はぁっ……ご無事で、よかった……!! やっぱり、幻術だったんですね……!!」
最初に飛び込んできたのは、フィアットだった。肩で息をしている。競技場から、全力で走ってきたのだろう。サイドテールが、汗で少しだけ額に張りついていた。
その後ろから、二人目。
「……ハスト君」
アイシャ・リズベット生徒会長だった。さっき競技場で見た、青ざめた顔のままだ。でも、その目は、まっすぐに俺を捉えていた。
そして、三人目。
「お、やっぱりはっす〜、元気だったか」
約一名ほど、平然とした――いや、満面の笑みを浮かべた馬鹿がいるが、気にしないでおこう。
俺は、学園長室のソファに足を組んで座ったまま、三人を見上げた。さっきまでの流血も打撲痕も、もう跡形もない。
フィアットは、それを見て、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
「……わかってました。わかってたんです。入学順位戦のときと、同じだって。でも、あんなに血が出て、壁まで吹っ飛んで……っ」
「悪い。心配かけた」
「……約束、覚えてますか」
「覚えてる。完璧に負けて、それから見に行く、だろ」
フィアットは、しゃがんだまま、じとっとした目で俺を見上げた。
「……完璧すぎます。もう少し、手加減して負けてください」
「手加減して負けるって、どういう日本語だよ」
それから、俺は、二人目のほうに目を向けた。
生徒会長は、扉の前に立ったまま、動かなかった。両手を、身体の横で固く握りしめている。
「……あの拳は、届いていなかった」
生徒会長が、低い声で言った。
「私には、わかっていた。透明な壁に止められたことも、あの風が君の作ったものだったことも。でも、それでも、君が壁に叩きつけられて、血を流して倒れているのを見たら……わからなくなった。本当に、私の拳は、届いていなかったのか、と」
生徒会長の拳が、かすかに震えていた。
「だから、確かめに来た。答え合わせを、しに来たんだ」
……なるほど。
この人は、自分の拳が人を壊したかもしれないと怯えて来たのではない。自分の拳が、本当に何も壊せなかったのかを、確かめに来たのだ。
「届いてないですよ」
俺は、正直に答えた。
「皮膚の、紙一枚手前で止めました。あの風も、血も、全部俺の仕込みです。生徒会長の拳は、俺の身体には、一度も触れてません」
生徒会長の肩から、すうっと力が抜けた。安堵なのか、落胆なのか、自分でもわからないような顔をしていた。
それから、俺は、ずっと気になっていたことを訊いた。
「……あの、生徒会長。俺が試合の頭に、無詠唱でいろいろやってたの、最初から気づいてましたよね?」
「……身体強化のことかい? あぁ、すぐにわかった」
「ですよね。だって、あのとき――」
俺は、自分の右目の前に、人差し指を立ててみせた。
「|目線が、右斜め下に、三十八・一二度、逸れていた《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》」
生徒会長が、絶句した。
「強化を流し込んだ瞬間、生徒会長は、反射的に自分の右手を見たんです。ほんの一瞬、俺から目を離して。三年間、誰にも崩されなかった構えが、あのときだけ、ほんの少しだけ崩れた」
しばらく、生徒会長は口を開けたまま固まっていた。それから、ようやく、震える声で言った。
「……わ、私が……目を、逸らしていた、だって……? しかも、そんな正確な数値まで……。私自身、逸らしたことにすら、気づいていなかったよ……!!」
たぶん、感覚的に、身体が勝手にやっていたことなのだろう。三年間無敗の人間の身体が、知らない魔力を流し込まれて、思わず確かめずにはいられなかった。それだけ、あの強化は、この人にとって異質なものだったのだ。
「そうかぁ……」
俺は、それで納得して、頷いた。
そこへ、また馬鹿が口を挟んできた。
「ま、今回も全部、はっす〜の手のひらの上ってことだね」
シュベルトは、勝手にエトワールの机の端に腰かけて、にへら〜っと笑った。
「僕もさ、そろそろ同じ盤の上で勝負してみたいんだけど、なかなか上手くいかなくてね。クレハもそうだけど、はっす〜と打ち合うときは、いっつも覇権の殺傷性能をゼロにしてもらってるし」
何気なく放たれたその一言に、学園長室の空気が、再び凍りついた。
生徒会長の目が、ゆっくりと見開かれていく。
「剣聖様でさえ……彼と、対等に戦えない……?」
生徒会長は、震える声で呟いた。
「私は、一体、どんな相手と戦って……」
そこで、はっと何かに気づいたように、言葉を切った。
「って、待ってくれ!! 私は、まだ、彼の『覇権』というものを、見てすらいないじゃないか!!」
生徒会長の目が、ぎゅん、とこちらを向いた。
俺は、さっと目を逸らした。
エトワールは「あちゃ〜……」と言って、右手で額を押さえて天井を仰いだ。フィアットとレイラさんは、無言のにこにこ笑顔。もちろん、二人とも目線は明後日の方向だ。
「あぁっ、ぁあぁっ!! どうして、どうして私だけぇ……!!」
生徒会長が、頭を抱えて、その場で地団駄を踏み始めた。
「私も、あの碧い炎で、|たくさん吹っ飛ばされたいのにぃ〜《・・・・・・・・・・・・・・・・》……!!」
……ちょっと待ってくれ。
今、聞き捨てならない発言が聞こえたような気がするんだが。
今、確かに「吹っ飛ばされたい」って言ったよな!?
さっきまでの、あの真剣な「答え合わせ」の顔はどこへ行ったんだ。いや、たぶん、どっちも本物なのだ。この人の中では、ちゃんと繋がっているのだ。俺には、まったく理解できないけど。
俺は少し引きながら、周囲を見渡した。
フィアットと、目が合った。
俺は、必死に「助けて」という視線を送った。
フィアットは、「はぁ〜……」とため息をついた。それから、渋々といった感じで、小さく頷いた。任せた。
フィアットは、しゃがんでいた床から立ち上がり、スカートの裾を払って、生徒会長に向き直った。
「あの、アイシャ先輩……?」
「……なんだい、セルジーネさん」
「ハスト様は、相手が本気で、真正面から向き合わない限り、覇権を見せてくださらないんです」
フィアットは、少しだけ目を伏せた。
「私だって、ちゃんと見たのは、一度だけです。魔物に襲われて、もう駄目だと思ったとき。……あの夜だけ」
学園長室が、少しだけ静かになった。
それから、フィアットは、ぱっと顔を上げて、にっこりと笑った。
「ですから。この後、私と一緒に、ハスト様の特訓を受けてみませんか? 私、順位戦に向けて、今日から特訓なんです。ハスト様が直々に見てくださるなら、きっと、先輩も、覇権を見られるかもしれません」
――え?
何? 何、その目線。俺?
今日のフィアットの特訓って、クレハおば……お姉さんとの銃撃回避じゃなかったっけ?
にやにやしながら、「してやったり!!」とでも言うような目線を向けてくるフィアットを横目に、俺は慌てて制服のポケットから予定表を取り出した。
一日目。クレハ・エヴァンス。銃撃回避訓練。
うん。やっぱり、クレハおば……お姉さんの日だ。
俺は、顔を上げた。
フィアットの「してやったり」な目線は、まだ健在だった。というか、なんか一人、目線が増えてないか? 生徒会長が、フィアットの隣で、同じ顔をしてこっちを見ている。きらきらと、期待に満ちた目で。
「……あのさ、今日、クレハさんの日だろ」
「あぁ、それなんだけどね」
シュベルトが、机の端に座ったまま、ひらひらと手を振った。
「クレハ、今、陛下に王城まで呼び出されて、大目玉くらってるんだよね。校門の柱、半分吹っ飛ばした件で。たぶん、今日は帰ってこられないんじゃないかなぁ」
「……は?」
「で、さっきエトワールが、予定を差し替えたんだって。今日の特訓、代わりに誰が見るのかなぁって思ってたら……」
シュベルトは、にっこりと笑って、俺を指さした。
「はっす〜の名前、書いてあったよ?」
俺は、エトワールの机の上を見た。
清書し直された予定表が、一枚、置いてあった。一日目の欄の、クレハおば……お姉さんの名前が二重線で消され、その横に、達筆な字で、こう書き足されていた。
『ハスト(覇権使用可)』
シュベルトのほうを見る。
シュベルトは、ははっと笑って、親指をぐっと立てた。
――クッッソ。
あいつが、なんで学園長室に、フィアットと生徒会長と一緒に入ってきたのか、わかったぞ。廊下で二人を捕まえて、ここまで連れてきたのは、あいつだ。全部、仕組まれていた。
あの馬鹿野郎、俺をハメやがったのか!! 畜生めぇ……。
俺は、ソファの背もたれに頭を預けて、天井を仰いだ。
……折れた。
「……はっ、ははッ……。ま、まぁいいや」
俺は、乾いた笑いを漏らしながら、身体を起こした。
「この後、学園裏の演習場を貸し切りでやるから。来たいなら、来ればいいよ」
生徒会長の顔が、ぱぁっと輝いた。
「ただし」
俺は、人差し指を一本立てた。
「俺は、フィアットを勝たせるために、特訓するからな。生徒会長は、順位戦でフィアットが当たるかもしれない相手として、手伝ってもらう。それだけは、理解してほしい」
「もちろんだ!! むしろ望むところだ!!」
即答だった。生徒会長は、フィアットの手を取って、ぶんぶんと振り回し始めた。
「セルジーネさん、ありがとう!! 君は本当にいい子だ!! 今日から私と君は同志だ!!」
「は、はい、よろしくお願いします、先輩……」
フィアットは、されるがままに手を振られながら、にこにこと笑っていた。
……ただ、その笑顔を、少しだけ横から見ていて、気づいた。
フィアットの目が、ほんの少しだけ、笑っていなかった。生徒会長の手が、俺のほうに向かって「覇権見せてね!!」と振られるたびに、ほんの一瞬だけ、フィアットの口角が、ぴくりと引きつっていた。
……気のせいか?
俺は、虚ろな目で、シュベルトのほうを見た。
ッ!! あの顔ッ!!
あぁぁぁぁぁ、なんだあのゲス顔!! うぜぇぇぇぇぇッ!! あっ、今あいつ、確かに「ぷっ」って笑ったよなぁ!? 笑ったなぁ!! おい!!
助けてくれ、という目で、俺は最後の望みをかけて、エトワールのほうに視線をスライドさせた。
エトワールは、いつの間にか、机の上に今日の王都新聞を広げていた。
「……? 何だい、はっす〜? 僕は今、今日の王都新聞を読んでいるんだけど?」
それから、新聞から目を離さずに、言った。
「あぁ、そうだ。紅茶のパック、キミの後ろの棚にあるから、取ってくれないかい?」
俺は、大人しく後ろの棚から紅茶のパックを取り出して、エトワールの机の上に置いた。
「ありがとう」
エトワールは、新聞の頁をめくった。
「……ほぅ。西区で、銀行強盗ねぇ。犯人は、まだ捕まっていない、と。現場には、季節外れの霜が降りていた……。ふむ」
エトワールの眼鏡の奥で、目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
でも、そのときの俺には、もうそれに気づく余裕はなかった。
かくして俺は、完全に沈没したのだった。




